お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

川中島古戦場

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子供の頃に「古戦場(合戦場のほうだったような気もする)付近は掘れば人骨ザックザク」という話を聞いた記憶がある。川中島の戦いで戦死した人々の骨が本当に出てくるのか、一度掘ってみたいもんですなー。

八幡原史跡公園というのは、第4次川中島合戦で武田信玄の本陣があったとされる場所にある。上の陣図だとなんか違うじゃーんと思ってしまったが、そういうことになっている。どうやら第4次川中島合戦は、山本勘助さんという人が武田さんに「キツツキ戦法」というのを提案した時の戦みたい。「鞭声粛々とー」で夜中に川を渡る話も知ってる! 作戦漏れたのって、あれ絶対武田方に上杉のスパイいたんだと思うわ。それから有名な↓もあったらしい。

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ここで一騎打ち。大概の人が知っている「川中島合戦」ってほとんど第4次での内容だったらしい。第1次とか他のは相当地味だったのかね。

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武田さんが信仰していた八幡神社が建っている。嘉保元(1094)年に流刑で信濃国にやって来た源顕清という人が創建した神社。川中島の戦いでこの神社は破壊されてしまった。武田さんが再建し、その後江戸時代を通じて松代藩真田家が代々保護してきたとあった。今は地元の氏子さんたちにより管理されているそうで、とにかく綺麗に整備されていた。

神域には川中島の戦い関係の石碑がいっぱい。

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永禄4(1561)年9月10日、馬に乗った謙信さんが武田本陣に乱入し軍配持ってる信玄さんに切りかかったが、信玄さんは軍配で防御した。身体に3か所も刀傷を負ったものの九死に一生を得た信玄さんが後で軍配見たら、軍配には7か所も傷がついてた。こわーい。という事件があった場所を示している碑だと。上杉さんあとちょっとだったのにね、残念。ちなみにこの石碑の説明板には当日の二人の服装が細かく書いてあった。見てきたかのような詳しさ、本当にそんな格好だったのかよと毒づいた。

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本殿の近くにある「逆さ槐」。ここに本陣をかまえた武田さんは、土塁を築き土止めにその辺に生えていた槐を加工し、杭として打ち込んでいた。その槐が根を張って成長したんだそうで(後世の人間が本当に根を張るのか実験したものが近くに残っているとのこと、ちなみに実験結果は「生える」だった)。

この周りには土塁跡が見られる。

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土塁は元々低いものらしい。土止めに生の木打っちゃうぐらいの急ごしらえだし、本陣周りに家臣たちの陣もあったからそこまで防御力高くなくてもいいのかな。

 

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執念の石。武田本陣に乗り込んできた謙信さんにより、あわや信玄さんが死にかけたそのとき。原虎吉さんが信玄さんの長槍をつかんで咄嗟に応戦した。大将の首取られたらおしまいなので、原さんちょっと慌ててる。長槍を謙信さんに繰り出したが当たらず。2度目も謙信さんに躱されたが、たまたま振り下ろしたのが馬に当たった。馬がびっくりして暴れて逃げ出したので、信玄さんは助かった。が、原さんは「あいつを取り逃がした」と悔しがり、槍で傍らの石を刺しちゃった、というお話。石のお腹に穴が開いている。突き通したそうだ…人様の、それも上司の槍で。槍は使い物にならなくなっただろうが凄い馬鹿力だわ。槍の持ち主も震え上がっただろうな。

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多分一騎打ちの事が書いてあるのかなと思った石碑。

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首塚(屍塚)。海津城主だった高坂昌信さんが6000人余りと言われる一帯の戦死者を集めて葬った塚の一つという。この手の塚は他にもいっぱいあるんですねー。今は大きなものはココと他に1つしか残ってないらしい。小さい塚ならあちこちに残ってるそうだ。敵味方関係なく供養したので、この話を知った上杉謙信さんが感激して塩無くて困ってる武田さんに恩返しで塩を送った(「敵に塩を送る」の元ネタ)。この美談聞いていつも思うんだけど、武田さん塩送られてきて素直に喜んだだろうか…ちょっとこれ毒仕込んであるんじゃないの位は私ですら怪しむよ。

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↑この辺りまではきっと当時のものかも、と思ったが。

↓八幡社から離れてくると違うような。だけど、他の場所に比べて本陣跡と言われる場所は少しだけ高いようだ。

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★★★☆☆

思ったより遺構があった。

 

<八幡原史跡公園>

戦場跡 永禄4(1561)年 第4次川中島合戦

 

 

 

他の公園内の様子。

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博物館があり、その裏に怪しいものがたくさんあった。

棄てられた五輪塔?らしき石塔たち。

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善光寺建て替え前に使われていた、昔の鬼瓦。

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一般のおうちから寄贈された古い祠(屋敷の隅にあったもの、市に寄贈されたものらしい)。

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博物館の常設展示のものは少なくとも20年以上全く変わっていなかったと思った。こっちは見たことが妙に興奮した。

平林城

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また平地にあるお城を探しに行った。名前は「平林城」。

このあたりから水路を探す。見つかった水路、それに沿って進む。

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急に出てくる石碑。

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この石碑によれば平林城は、東西約120m・南北約102mの規模だったとか。東には本丸、西に二の丸があり。その間には幅約36mの内堀、城の四方には幅約18mの外堀があった。この石碑は本丸の入り口だった部分に建てられているという。城主は原虎胤というらしい。武田さんの重臣で、永禄年間(1558~1570)の間居城としていた、とあった。

原さんは永禄4(1561)年に行われた割ヶ嶽城攻略戦で大怪我をして、これ以後隠居状態になってしまったようだ。猛将として鳴らしていたらしいのに、もったいない。原さんがこの時奪った割ヶ嶽城は上杉謙信さんのお城。当時上杉さんは北条氏康さんとの合戦中で小田原城を包囲していたため、割ヶ嶽城は手薄だった。武田さんは北条さんと同盟を結んでいたので、その支援のために割ヶ嶽城を奇襲しちゃったらしい。上杉さんがお留守の隙に武田さんは海津城作ったり、信濃攻略の下準備をしていた。

上杉さんももうちょいで北条さんを滅ぼせたのかもしれないが、関東では不作が続いて兵糧も足りなくなりつつあり、武田さんの動きも怪しいので引き上げざるを得なくなってしまったようだ。で、越後に帰った。

が、即信濃に出陣し、激戦で有名な第4次川中島合戦が起こった。原さんは結局参加してない。甲斐でお留守番。そして永禄7(1564)年に亡くなったらしい。割ヶ嶽城の攻略戦後から亡くなるまでずーっと甲斐で療養していたみたい。ということは、平林城にいた期間は2~3年くらいになるのかね。武田さんが滅亡した後は廃城となったらしい。

ちょうどここからは地滑りで有名な地附山が見え、そこには武田軍が作ったという伝説が残るお城・桝形城がある(桝形城という名称も誰かが便宜的につけた名前で、本名以下一切の経歴が謎のお城である)。平林城の築城と何か関係あったりしてー? 「出るぞ」でお馴染みの大峰城ももしかしたら見えるかも?

平林城は昭和初期まである程度の名残り、雰囲気が残っていたようだ。昭和18(1943)年と昭和44(1969)年と国鉄に買収されたために遺構は完全消滅。現在城域の半分以上がコレ↓になっている。

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もちろん石碑の向こうへ出入りできない。仕方ないので、本丸から二の丸があった?という方向へ移動してみた。ちなみにJRの工場手前の建物は、モダンなお寺さん。正確には、納骨堂(墓所)らしい。ぱっと寺院には見えない。

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↓このあたりが2の丸跡。

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何もない。確認できず。工場だし、邪魔な土塁や堀はみんな均してしまったんだろう。強いて言えば、工場の敷地だけちょっと高くなってるのが名残なのか。

 

 

 ★☆☆☆☆

遺構なし。石碑だけが物語る。

 

 

<平林城>

築城年 不明

築城主 不明

構造 平城

 

 

 

 

 

和田城

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このあたりに和田城があったという伝承があるらしい。

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(↑ 下が北)

ほぼ完全に破壊されているうえに、位置も分からなくなってしまっている。野球場のだいたい南東ぐらいだろうとされている。

城跡と言われている辺りへ↓

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水路と日本庭園があったが、関係あるのかないのか。それすらも分からず仕舞い。

ここ東和田の運動公園は昭和41(1966)年開園。相当古い公園だが、中学生時代は新人戦だの北信越大会だのここでやっていたので馴染み深い。小さい頃はプールにも通ってたらしいし。

この運動公園ができる前は、まだ遺構が残っていたらしい。日本庭園は公園の開園より後で、昭和56(1981)年完成と書いてあった。それなら和田城跡とは関係なさそうだ。

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小堀遠州の流れを云々…のお庭。小堀遠州は人名で、豊臣家→徳川家に仕えた大名兼文化人だそうな。備中松山城の城主をやってたこともあった武将だが、古田織部の弟子であって茶道等文化活動のほうで有名になった人らしい。

 

和田城はこの地を支配していた宮下周防守という人が築いたと言われている。その後宮下さんは村上さんの家来になった。天文22(1553)年に村上義清さんの越後亡命のあと、宮下さんは(たぶん和田城を廃城にし)帰農したそうな。宮下さんの居館である中越館も現在遺構はない。場所は北長野駅で、線路引くために遺構は全部壊したそうだ。

 

★☆☆☆☆

ただの運動公園。

 

<和田城>

築城年 不明

築城主 宮下氏

構造 山城

矢筒城

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矢筒城。標高566.7mという低い山の頂上にある。

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お城入口。お城の来歴などが書かれた説明板があった。それによると

・矢筒城、黒川城、牟礼城などの名前を持つ

・内堀は山の中に今も存在しており、外堀は埋められて舗装路になっている

・ただの山城ではない、お城と館が一体化

・大手口はここ

天正の頃の城主は島津権六郎、彼の所領は牟礼村の他三水村まで及んでいた

 

島津というと大体の人間が薩摩の島津氏を思い出すだろうが、このお城の島津権六郎さんと薩摩の島津さんは親戚なんだそうな。本家はもちろん薩摩だが、たまたま島津氏初代が仕えていた五摂家のひとつ・近衛家の荘園である信濃国太田荘の地頭職になったことから、ここに島津氏が土着することになったらしい。しかし本家のいる薩摩国は遠すぎた。徐々に本家との関係が切れていったようで、戦国時代には交流がなくなっていたみたい。

信州島津氏(信州家)は島津初代忠久の三男・忠直の家系が長沼家、初代忠久の次男(越前家)の曾孫にあたる忠秀が信濃に土着してその子孫が赤沼家と称する。この二つの家は仲良く共闘し、最終的には上杉家に士官している。

で、島津権六郎という人はどちらの家の系統なのか分からないが、天文22(1553)年に武田さんに攻められ、滅ぼされてしまったという。何かで見たけど武田は信濃侵攻時、1日5個くらいのお城を落としながら行軍していったとか。なんだそれ凄いなと思ってたけど、こんな小ぶりなお城なら1日5個行けるかも? と思った。

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入口すぐの林の中には祠が。ここのお城で命を落とした人たちを慰めるものか。

地図上では、このあたりが内堀らしいが。よく分からない。内堀は空堀、深さ4メートル、V字型だという。登山道から外れた場所は藪だらけ、歩きたくない。

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見た目は急な感じだけど、道は上りやすい。

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何かあるぞー? 郭か?

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すぐ上は、なんか平らな雰囲気。

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あっという間に到着ー。

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ここが本郭跡地だそうな。変な像が建っていた。

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麓の説明板に載っていた、平和のシンボル・平和観音というやつか。その近くにひっそりと。

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島津と書いてあった、城関係のものはコレだけ。

本郭は意外と広かった。

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そこら中に銀杏落ちてるー。

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本郭周りにも郭跡。見た感じ、郭は東西の2か所あるみたい。

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こっちが二ノ郭かしら? 北側は川と谷で守られ、南側には五条の帯郭があると書いてあった。回ってきた様子だと、北側には郭なし。北側以外は郭作って守ってるみたい。小さい山だけど、防御にはかなり力入れてる風。

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三角点があったーちょっとびっくりした。

では下りよう。

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あっという間に麓到着。

ついでに館跡地を見に行った。

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現在は飯縄病院という病院になっていた。館跡を示す、なんだか新しめの石碑があった。病院の建物自体は古く、昭和55(1980)年にこの地に移転してきたらしい。館跡の発掘調査はその前年の昭和54年とあった。この石碑だけはごく最近作ったんだな。

 

 

★★★★★

思ったより歩きやすいし、良かった。探せば石積みもあるらしい。

 

 

<矢筒城>

築城年 不明

築城主 不明

構造 山城

 

 

 

 

 

 

 

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近くの駅でヤギを見に行った。ユキちゃんみたいな子ヤギにすら怯えていた。ヤギを初めて見た訳でもないのに…。

自在神社(自在山)

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目指す予定はこの山の頂上。自在山といい、天狗3兄弟が元々修行していた山である。この綺麗な三角錐のてっぺんには烽火台があった。

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それじゃ大した遺跡じゃないと思っちゃうが、実は出浦城という名前で、ちゃんとしたお城である。ここから自在神社の参道へ入るのが正しいと思われるが、ちょっと先へ行ってみた。

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別の参道から。

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自在神社神楽殿。最初正しい方の参道から来てもココに出る。この神社の奉納神楽は有名らしい。村上一族の支配下の土地柄、御祭神は大己貴命だけど村上義光さんという方も合祀されているという。

村上義光さんは鎌倉時代末期に活躍した武将で、後醍醐天皇の皇子・護良親王の家来さんなんだそうだ。熊野へ落ち延びる際に護良親王をかばい、その身代わりになって死んだ忠義の人という感じになっている。

村上氏は同じ河内源氏ではあるが鎌倉幕府を作った源氏とは縁遠く、ましてや北条氏なんて赤の他人だったため、鎌倉時代を通じて不遇だったようだ。このころ、後醍醐天皇の討幕運動に参加し、護良親王を守り切った村上義光さんの功績により、その後始まった建武の新政信濃国の権益などを認めてもらうことができた。つまり、村上氏中興の祖ということらしい。

また、この神社は村上一族の出身である出浦氏の産土神でもあるという。出浦氏はここの山城の主で忍者らしい。そして修験者が修行していた山でもある。修験者も忍者も変な技?使うし似たようなもんじゃないの? 共存しているのはなんか分かる気がした。

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神楽殿スタートで、今のところは自在山往復(2、3時間くらいか)の予定…今回一人なので制約なし、余裕があるよー。

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石段の先にはこんなものが。

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イノシシよけらしい。かなり大がかりにフェンスで柵を作っているようで、フェンス設置の地図も貼り付けてあった。

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フェンス壊されないよう堀まで。そして長い長い石段。

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ようやく見えてきた鳥居。しかしその先にも。

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石段地獄!

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けっこう上ってきた。

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見た感じ石段古そう。人力のみなら数年かかるくらい?

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石段の途中、向こうの茂みの中に朱色がはげた鳥居が見えた。

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お参りする人も絶えてしまったのか、正式な参道じゃないのか、草をかき分けないと進めない感じ。お稲荷さんらしい。元の道に戻る。

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クッソ長い石段の向こうに何か見えてきた。

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自在神社の奥社だという。

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なかなかの見晴し。ちょうど孤落城・三水城と向かいあう格好だ。

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自在神社奥社。

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天狗さんが修行してそうな崖。なんか子供の守護神にもなってしまったようだ。

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裏の岩山にも石碑とか何かあるという。お参りもほどほどに、先へ進む。

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まずい、松茸山だったかー。捕まったらすんごい額のお金取られそう(松茸山トラブルは半端ないからなぁ)。ただでさえこんな山の中で人間に出くわすの嫌なのに、罰金寄越せと迫るような屈強な男たちに取り囲まれるとか想像したらぞっとする。

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でもちょっとだけ…。

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やっぱり怖くなって逃げた。松茸シーズンが終わると狩猟シーズンが始まり、どこからか鉄砲の音が聞こえてくる、これまた恐ろしい山になってしまうそうだ。入るなら4月5月がいいのかしら?

 

★★☆☆☆

あの崖の上に行ってみたかった…。

 

 

<自在神社>

創建年 南北朝時代

御祭神 大己貴命 村上義光

 

一旦下りて。

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別ルートで頑張れないだろうか、とちょっと思った(そもそも、どこから入っても止め山だからダメなんだがね)。

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自在山沿いを走る。

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青麻神社。比較的新しい神社で、大正13(1924)年に宮城県の岩切青麻山・青麻神社から勧請した天照大御神を祀っているという。このあたりの人は中風に苦しむ人が多かったそうで、青麻神社は中風封じにご利益があるんだそうな。

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左手の崖には祠がたくさん。ここから100メートル上ると薬師如来を祀っている大きな祠があるという。見えず。

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更に山に沿ってうろつくと、こんな場所に出た。

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庄内神社。

この神社裏あたりから自在山への登山道があるらしい。登山道というより鉄塔用の作業道だか林道だか。軽トラ程度なら途中までは上がれるようだ。

 

竜王城

名前かっこいい。「竜王城」でググるドラクエの攻略情報ばかりヒットする。このお城がなんで竜王城なのか、由来は謎です(地名とは全く関係ないし、現地の説明板にあった水神と雨乞いが関係あるかも?)。

 

竜王城に行く途中の看板↓

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どこにも城名がない。名前が派手めだけど、実際は山の中にひっそりあるみたいだし…観光客がイメージ先行で訪れるとガッカリさせてしまうと考えて、案内・宣伝を自粛しているとかなのかー?

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ここから行きまーす。

「林道」なので山の中を走る1車線幅の道。景色も山しか見えない。

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林道とはいえ舗装路、路面状態は大変よくひび割れもほとんどない。頻繁に整備されている様子だが、すれ違う車はなし…。この先に大きなマレットゴルフ場や集落があるようで、そこまでコミュニティバスが通っているという。それでこんなに綺麗なのかー。

道筋でお城は見つかるようだが、よく見ないと分からないとか。だが、うちの車のナビにはばっちりと「竜王城址」の表示が。迷わずに済んだ。

目印はこの看板のみ↓

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この説明板にはお城の来歴が書かれている。

天正11(1583)年、この地を含め北信濃上杉景勝支配下であった。深志城主の小笠原貞慶は猿ケ馬場峠(聖高原)より攻め込んできた。竜王城の城将清野清寿軒は景勝と自分の息子に急報を送り、小笠原軍相手に奇策を用いわずかな手勢(40人)で迎え撃ち、先鋒を撃破。山頂に多数の旗を立て、兵士もいるように見せかけ「景勝様からの援軍いーっぱい」と偽装し貞慶との戦を回避することに成功。

合戦の歴史はこの戦いのみで、この辺りは古い街道もあり川中島の合戦天正壬午の乱で度々合戦が起こっている。天正11年時点では上杉領と徳川領(小笠原領)の境目ぐらいになっているのかなー?

他には書かれていることは。文禄3(1595)年に清野氏が猿ケ馬場峠の留守役(見張り番)を命じられた記録があり、士卒250人を常駐させたと。そして、お城の遺構はなしと。

250人が寝起きした砦があったわりには遺構がない…? ということで、「竜王城そんなものはなかった」と考える人も出てきているようだ。近くにも佐野山城、小坂城というお城があるから、そっちじゃないかという主張。しかし説明板には「2つのお城で250人じゃ狭くて収容できないの、ここじゃなきゃ無理だと思うの」と書いてあった。

では間を取って、佐野山城・小坂城に80人ずつ、90人を竜王城でどうだろうか。見張り番を3交代制とすれば、大きな施設もいらないかもしれない。まぁひょっとしたら清野さんが「竜王城というお城があり250人で守ってる」と盛った報告をしただけかもしれない。

清野さん率いる250人の猿ケ馬場峠守備隊の本拠地は未だに確定されていない。

 

なんか雰囲気としてはコレ↓っぽいかなと思った。

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養和元(1181)年、横田河原の戦い木曽義仲の家来の楯さんが兵士を隠した場所。こちらは進軍中キャンプした場所ってだけのお話だけど、雰囲気はね…。竜王城も隠すだけなら250人いけそうよ。

 

お城周辺↓

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山の中で、ここだけ広く平らになっている。兵を隠すには最高の場所。説明板のある側は平らだが。

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説明板の反対側は郭?みたいなのがあり、よく見ると切岸らしきものも。

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この上にあるという大田原集落へ向かう。

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こんな道。説明板では搦め手(裏門)側だそうで左は山の急斜面、右は急な崖、道はくねってるみたい。

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ちなみに大手側はこちら↓

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説明板のある場所より大手方向。おそらく城の中心あたりで撮った写真となる。お城は扇形のようだ。

 

★☆☆☆☆

なんだかよく分からず…。

 

 

竜王城>

築城年 天正11(1583)年以前?

築城主 清野氏?

構造 山城

 

 

下の佐野集落には佐野薬師という古いお寺さんがあった。ちょっと見た目が神社のようだ。

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元は佐野山医王院という寺号で、御本尊は薬師如来。この薬師如来行基上人(668~749)の作と伝えられている。とすると、このお寺さんは奈良時代から存在しているのかと思ったが。この地にある説明板には一言も触れられていなかった。ただ、「西行法師が訪れている」「横田河原の合戦で兵火に巻き込まれ焼失」という記述があるので、平安時代末期にはあったのだろう。

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劣化で文字読めないけど、西行法師来遊の碑↑

 

そして、ここから佐野山城に行ける。

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丸山城

何かで城があるということを知ったものの、ほぼ予備知識なし(大まかな場所しか分からなかった)が、案外簡単にたどり着けた気がする。実際、条件に合う場所がココしかなかった、というだけで本当に目的の城かどうかは自信なし。

安藤氏(青柳一族)の城(下屋敷とのこと)で、名前は丸山城というようだ。川中島の合戦が終わった後に、安藤氏はよそに移ったため廃城。

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入口は神社の参道。社号標に波閉祥神社とある。読み方は「はべしなじんじゃ」というそうで、読めない名前的にも石柱に延喜式内とあることからも相当古そう。ヤマトタケルさんがこの近くにある「はべしなの峠」を無事に越えられたので、当地に天照大神を勧請したのが始まりらしい。はべしなの意味は「曲がりくねった」だそうで。現在の峠名称は四十八曲峠。この名前からもすんごいグネグネしてそうだけど、2005年に開通した四十八曲峠の下に長いトンネルがあるので、旧道はそれ以来通行止め(二度と解除されない、実質廃道)に。現在はグネグネっぷりを体感できなくなっている。

その四十八曲峠へ向かう山道の入り口に社号標がある。しかし。

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なぜか一ノ鳥居は朽ちたまま?再建されていないようだ。

 

この道をしばらく行くと、見えてくるのがここ。

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あら、ミニチュアの山城みたいじゃーん。見た感じはお城。

郭跡のような場所にお墓が立ち並んでいる。本郭じゃないかと思うところには公民館。

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まずは怪しげな神社から。お名前はというと。

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安藤。

鳥居はあっても神社じゃないのかね、これは。お城の主だった安藤氏を示しているのだろうか。

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社殿の周りは草ボーボー。赤い鳥居と社殿にお狐様がいらっしゃったので、お稲荷さんなのかな?

 

社殿横の階段を上る。

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お墓は所狭しと並んでいるわけでなく、余裕がある。比較的新しい墓地でもなく、江戸時代の元号が彫ってあった墓石もあった。郭だろうと思うけど、ちょっと低い位置にあり山城としては防御が低そう。館としては防御高め、という状況か。

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更に上を目指す。

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公民館到着。

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公民館周辺。

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公民館の後ろは崖。このあたりからも下へ降りられるようになっている。ただし、墓地側よりも急(こちら側は本来崖になっていたんじゃないかと思う)。

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崖の上は何かあるかな?

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何もなさそう。一応、上れるか道を探してみる。それっぽいのは、公民館と墓地の間。

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微妙。まあいいかー。ちょっと行ってみよう。

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やっぱり道はなし。バカ(アメリカセンダングサの種)が付いてしまった挙句に蚊に刺された。撤収。

 

★★☆☆☆

名前もないような小さな丘だが街道監視の目的もあるためか、ちょっと山城っぽくてよかった。あとで地図を確認したら、山頂に向かう階段があり何かの施設があったよ…事前準備は大事ね。

 

 

<丸山城>

築城年 不明

築城主 安藤氏

構造 平城

 

 

 

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四十八曲峠の新道を行き、聖高原経由でまたここにきた。

車のナンバーから東京より遠征中と思しきお兄さんが三脚を立て、何かのシャッターチャンスを待っていた。何を狙っていたか不明。というか、狙うようなものがあるのか…? と思ってしまった。この場所には駐車スペースは二台分しかない。ドライブ中の観光客っぽい車が2,3台来たが、諦めたようで冠着山方面へ走り去っていった。ああ、この場所は有名になってしまったのか、なんか残念。