お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

生島足島神社

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行ってきました↑

ここは生島神・足島神の二柱を祀るとても古い神社である。信州一宮は諏訪大社だそうな。

 

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境内はこんな感じ。本殿がある場所を「神島」、神島が浮かぶ池を「神池」と呼ぶようだ。パッと見、海に浮かぶ島=日本みたいな図式で、長い間二神を国生みの神様と思い込んでいた。生島神=イザナギ、足島神=イザナミかと。実際は全く関係ないらしい。

ここの神々は古事記にも日本書紀にも登場せず、どんな神様かよく分からないらしい。ただ、天皇の即位儀礼のひとつ(現在は廃絶しており、やっていない儀式)で八十島祭というものがあり、それと関係する神様とか。八十島というのは日本のことで、このお祭りの主神が生島神・足島神であったという説がある。この説では日本国土の神である生島神・足島神を祀ることにより、国土の支配者は天皇であるということを示す目的だったんじゃないかとされている。

私のイメージもあながち間違っちゃいなかったのかも…なんか嬉しい。

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境内は朱色。綺麗ね。

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奥の建物が本殿。創建の由来は建御名方が諏訪に行く途中この地に留まり、二柱の大神に奉仕し米粥を煮て献ぜられたことから、という。そのせいか、本殿の向かいに諏訪神社がある。そして御柱も行われているらしい。

皇室に深い関わりのある神社だからか、大同元(806)年の平城天皇に始まり何度か皇室の寄進を受けているようだ。最近もあったようで、平成28(2016)年の日付で「天皇陛下幣帛料御下賜」という看板が立っていた。去年じゃないかー。今の本殿も昭和15(1940)年に国費で建てたという。この本殿、権現造とあったから「なんでだ?」と思ってた。建物は新しいのね。

 

生島足島神社延喜式にも載っている古い神社。主祭神が日本国土(大地)の神であるせいか御神体は地面のようだ。本殿の中には内殿があり、その中には内陣・外陣があるという。ややこしいが、元々の本殿は現在の内殿のことで、18世紀後半~19世紀に内殿を保護・覆うようにして現在の本殿が出来上がったという。内殿は天文年間(1522年~1555年)に作られたらしい。

内殿の中の内陣、外陣ともに床は張られていない。土間になっている。内陣の土間(地面)が御神体であるらしい。同じように自然物を御神体として祀る神社といえば大神神社を思い出すけど、このような神社はかなり初期のタイプらしく、神道が生まれた頃の形態を残しているみたい。ひょっとすると、建御名方がこの地に来たときにはもう何か施設があったのかもね。

古さを証明するものとして、こんなものがあったよ↓

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磐座・磐境。古神道での祭祀場跡地。こういう祭祀場が使われるようになったのは古墳時代(3世紀半ば~7世紀)から。やがて神社(神殿)が造営されるようになったので磐座を作る必要がなくなり、ほとんどの神社にはない。磐座で祭祀を行っていた場合にはその近くに神様のためのお社を建てたのだが、古い祭祀場も神聖視されて壊されず残っているようだ。

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↑御神橋

神島に渡る橋である。やっぱり朱色。華やかでいいわねー。皇族、勅使用の橋なのかと思いきや。向かいの諏訪神社から本殿へ建御名方神がお渡りになる神事があるそうで、その時神様が使う専用の橋だという。

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 このあと諏訪神社にもお参りをした。もちろん朱色の綺麗な建物。

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神社には夫婦杉とか夫婦松とか、夫婦○○という名前の御神木があったりする。こちらにも夫婦欅。木が並んで生えてるとか、根元から二股に分かれて伸びていくとか、そういう様子から名づけられた御神木がほとんどなんだろうけど、ここは違った。古木が1本にょきっとしているだけ。

根元に幕が張られている。洞がある。覗いたら、なんで夫婦欅なのか分かった…さすが原始宗教の面影を残す神社である。手を合わせてきました。

 

 

★★★★☆

古い神社だけど、全体的に朱色なせいか明るく綺麗で。あんまり古さを感じなかった。

 

 

生島足島神社

創建年 不明

御祭神 生島大神 足島大神

中御所守護館

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この神社、鳥居の扁額には「八幡宮」と書かれているが、どちらかというと御所天満宮と呼ばれている方が多いと思う。天満宮は学問の神様・菅原道真さんを祀る神社。受験シーズン、幟がたくさんたっている。ちなみに、ただの日本人から神様になったのは菅原道真さんが初めてらしい。近場で「学問の神様」を祀っているの、ここぐらいしか思い出せない。で、だいたい受験時はここにお参りに来る感じ。

「御所」とついているのは、この場所に信濃国守護所「中御所(なかのごしょ)」があったからだと言われている。この辺一帯は今でも「中御所」という地名。単に御所と呼んでいないのは、同時期に豊御所(とよごしょ)が近隣にあったからかもしれない。豊御所のあった場所は、問御所(豊御所が訛っちゃったらしい)付近、つまりトイーゴとかいう建物がある昔の繁華街あたり。

中御所と豊御所は、鎌倉時代初期に善光寺中興の祖であり鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝善光寺参りで寝泊まりする館として建てられたと伝わる。彼は折に触れて善光寺に来ていたらしい。噂では松代の尼飾城の娘に手を付けて鎌倉に連れ帰ったけど、嫁(正妻)にキレられて娘を里に返してしまったとか。

この時期は全国各地に鎌倉幕府が「守護」を置いていた。ここは守護の館跡とも言われている。当時は朝廷の置いた役所「国衙」の近くに守護所を建てることが多かったらしい、この二つの守護所も信濃国国衙のあった場所に近い。信濃国国衙は後庁と呼ばれていて、今の地名でいうと後町にあったようだ。

3つともかなり古い時代の役所跡なので、現在は跡形もなし。

御所天満宮付近はこんな感じの住宅街↓

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新しい家が並ぶ。オリンピック前に開発し始めたが、私の感覚だとスローペースな開発進度。元は(綺麗とは言い難いような)古い家がゴチャゴチャしていた訳わかんない地区だったよ。その不思議さに魅かれて高校ぐらいから時々見に来てたが、あの頃はまだ襤褸家が多少残っていたのにな。ここ数年で一気に変わってしまったらしい。見渡してもみんな新しく立派な家ばかり。でも、昔見に来てた時からお城の名残的なものはなかったような気がする

 

社務所らしき建物に、守護所跡のことが掲示されていた。それによると、

源頼朝が建久8(1198)年、善光寺に参詣したときの宿跡(領主の漆田氏がおもてなしのため建てた)

・この辺を領地としていた豪族漆田氏の館跡

信濃守護職小笠原氏の守護所または関連施設

という説があり、明治初年編纂の資料にも「御所跡」と紹介されているとあった。

館の規模は、東西66m、南北56mで中央が一段高く周囲に空堀があったらしい。平成5(1993)年からこの辺りの区画整理事業が始まったそうで、翌年の平成6(1994)年には「御所遺跡」という古墳時代から平安時代にかけての集落跡とされる場所の発掘調査がされていた。「御所遺跡」は「御所跡」をすっぽり覆う広さだ。元々この場所に集落があったから館を作る気になったのかな。

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それから10年以上あとの平成16(2004)年にようやく「御所跡」の調査が始まる。その結果は。

空堀 幅12m前後 深さ2m以上

・土塁 堀の底から測ると高さ5m以上

何それでかいじゃん。目と鼻の先の近さで栗田城があるけども、どっちもでかいお城だったんだな。

 

御所天満宮のある位置は、中御所守護館の北辺の中央ぐらい。じゃあ、すぐ後ろにでも堀あるんかなーと見たが、何もなし。御所跡の調査では建物跡の他、出土品も多数見つかっているようだ。古瀬戸などの国産品から青磁・白磁の舶来品、銅銭が出てきたのでそれらの解析から館は鎌倉時代に造営、戦国時代まで使われたと確定したようだ。

文安3(1446)年に「漆田の戦い」とかいう合戦がこの場所であったとも書いてあった。室町時代の小笠原家の家督争いだそう。調べてみたら、南北朝時代の元中4/嘉慶元(1387)年に地元豪族連合軍と守護軍(当時は二宮氏)が戦い、文明9(1477)年に領主の漆田氏が隣の領主栗田氏に攻め込まれて、負けるという合戦もあり。ちょくちょく戦乱に巻き込まれている場所らしい。大変だねぇ。

 

館は江戸時代には廃城となったが、そのあとここに八幡宮が建てられた。なので、鳥居の扁額が「八幡宮」になっているようだ。昭和54(1979)年に亀戸天神社より天神様が勧請され、「御所天満宮」にもなっている。

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建物は火災に遭い、平成4年に再建されていた。

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こんな絵もあったよ↑

 

私は絵馬に書かれた願い事を覗き見るのが好きなのだが。そういう不逞の輩が多いせいで絵馬を奉納する人達も警戒しているのか、願文も当たり障りのないものばかりになってしまった。この御所天満宮も「志望校に受かりますように」ばかりでちょっと物足りない。学問の神様宛てだし学業成就ばかりは仕方ないか。一昔前の、例えば縁結びをウリにする神社だと「○○さんと□□さんが別れて、私と○○さんが早く結婚できますように」なんて、色んな妄想と強い興奮が入り混じる不思議な気持ちになる絵馬があったりしたんだけど…そういうの最近減りましたねー。ちょっと寂しい。

 

★★☆☆☆

この地区変わりすぎ。まったく知らん場所になってるわ。

 

 

<中御所守護館>

築城年 鎌倉時代

築城主 漆田氏?

構造 平城

武水別神社 松田館 その2

あけましておめでとうございます。

 

初詣はココ↓でした。

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長蛇の列。嫌だ。鳥居の近くで柏手を打って、回れ右。帰りました。

 

改めて別の神社に。武水別神社

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三が日を避けたものの、まだなんとなく賑やかで露店も出てた。こちらではきちんとお参りをした。何故かサラリーマンらしき黒服集団が目立ってたかな…。

 

そういえば、アレはどうなっているのだろうか。寒空の下せっかく出てきたんだから、と見に行ってきた。

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通りがかった時またなんかやってるなーとは思ってたものの。まだ何か作っているらしい。出来上がり想像図っぽいものはなかったが、これがあった。

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この通り作るとは思えないわ。

 

工事やってなかったので、ふらふらと近くに寄って行った。

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綺麗になってるー。

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大がかりにやってたんだな、意外。

 

この建物の周囲を散歩。北側、通りに並ぶ住宅の奥にちょっとだけ見えた土塁。けっこう高い。西側も土塁ある。

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こんな感じ。ここもずいぶん手入れされているし、なにやら建物もあり、綺麗にされているようだ。

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なんじゃろなぁ。

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西側の土塁の端っこにお社が。ここも工事が行われている形跡があった。なんか工事長いなぁ…もういいか。

 

★★★☆☆

思ったより残ってた。もう工事は待たないと思う。

 

 

<松田館>

築城年 16世紀前半?

築城主 松田氏?

構造 平城

 

 

川中島古戦場

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子供の頃に「古戦場(合戦場のほうだったような気もする)付近は掘れば人骨ザックザク」という話を聞いた記憶がある。川中島の戦いで戦死した人々の骨が本当に出てくるのか、一度掘ってみたいもんですなー。

八幡原史跡公園というのは、第4次川中島合戦で武田信玄の本陣があったとされる場所にある。上の陣図だとなんか違うじゃーんと思ってしまったが、そういうことになっている。どうやら第4次川中島合戦は、山本勘助さんという人が武田さんに「キツツキ戦法」というのを提案した時の戦みたい。「鞭声粛々とー」で夜中に川を渡る話も知ってる! 作戦漏れたのって、あれ絶対武田方に上杉のスパイいたんだと思うわ。それから有名な↓もあったらしい。

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ここで一騎打ち。大概の人が知っている「川中島合戦」ってほとんど第4次での内容だったらしい。第1次とか他のは相当地味だったのかね。

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武田さんが信仰していた八幡神社が建っている。嘉保元(1094)年に流刑で信濃国にやって来た源顕清という人が創建した神社。川中島の戦いでこの神社は破壊されてしまった。武田さんが再建し、その後江戸時代を通じて松代藩真田家が代々保護してきたとあった。今は地元の氏子さんたちにより管理されているそうで、とにかく綺麗に整備されていた。

神域には川中島の戦い関係の石碑がいっぱい。

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永禄4(1561)年9月10日、馬に乗った謙信さんが武田本陣に乱入し軍配持ってる信玄さんに切りかかったが、信玄さんは軍配で防御した。身体に3か所も刀傷を負ったものの九死に一生を得た信玄さんが後で軍配見たら、軍配には7か所も傷がついてた。こわーい。という事件があった場所を示している碑だと。上杉さんあとちょっとだったのにね、残念。ちなみにこの石碑の説明板には当日の二人の服装が細かく書いてあった。見てきたかのような詳しさ、本当にそんな格好だったのかよと毒づいた。

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本殿の近くにある「逆さ槐」。ここに本陣をかまえた武田さんは、土塁を築き土止めにその辺に生えていた槐を加工し、杭として打ち込んでいた。その槐が根を張って成長したんだそうで(後世の人間が本当に根を張るのか実験したものが近くに残っているとのこと、ちなみに実験結果は「生える」だった)。

この周りには土塁跡が見られる。

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土塁は元々低いものらしい。土止めに生の木打っちゃうぐらいの急ごしらえだし、本陣周りに家臣たちの陣もあったからそこまで防御力高くなくてもいいのかな。

 

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執念の石。武田本陣に乗り込んできた謙信さんにより、あわや信玄さんが死にかけたそのとき。原虎吉さんが信玄さんの長槍をつかんで咄嗟に応戦した。大将の首取られたらおしまいなので、原さんちょっと慌ててる。長槍を謙信さんに繰り出したが当たらず。2度目も謙信さんに躱されたが、たまたま振り下ろしたのが馬に当たった。馬がびっくりして暴れて逃げ出したので、信玄さんは助かった。が、原さんは「あいつを取り逃がした」と悔しがり、槍で傍らの石を刺しちゃった、というお話。石のお腹に穴が開いている。突き通したそうだ…人様の、それも上司の槍で。槍は使い物にならなくなっただろうが凄い馬鹿力だわ。槍の持ち主も震え上がっただろうな。

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多分一騎打ちの事が書いてあるのかなと思った石碑。

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首塚(屍塚)。海津城主だった高坂昌信さんが6000人余りと言われる一帯の戦死者を集めて葬った塚の一つという。この手の塚は他にもいっぱいあるんですねー。今は大きなものはココと他に1つしか残ってないらしい。小さい塚ならあちこちに残ってるそうだ。敵味方関係なく供養したので、この話を知った上杉謙信さんが感激して塩無くて困ってる武田さんに恩返しで塩を送った(「敵に塩を送る」の元ネタ)。この美談聞いていつも思うんだけど、武田さん塩送られてきて素直に喜んだだろうか…ちょっとこれ毒仕込んであるんじゃないの位は私ですら怪しむよ。

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↑この辺りまではきっと当時のものかも、と思ったが。

↓八幡社から離れてくると違うような。だけど、他の場所に比べて本陣跡と言われる場所は少しだけ高いようだ。

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★★★☆☆

思ったより遺構があった。

 

<八幡原史跡公園>

戦場跡 永禄4(1561)年 第4次川中島合戦

 

 

 

他の公園内の様子。

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博物館があり、その裏に怪しいものがたくさんあった。

棄てられた五輪塔?らしき石塔たち。

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善光寺建て替え前に使われていた、昔の鬼瓦。

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一般のおうちから寄贈された古い祠(屋敷の隅にあったもの、市に寄贈されたものらしい)。

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博物館の常設展示のものは少なくとも20年以上全く変わっていなかったと思った。こっちは見たことが妙に興奮した。

平林城

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また平地にあるお城を探しに行った。名前は「平林城」。

このあたりから水路を探す。見つかった水路、それに沿って進む。

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急に出てくる石碑。

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この石碑によれば平林城は、東西約120m・南北約102mの規模だったとか。東には本丸、西に二の丸があり。その間には幅約36mの内堀、城の四方には幅約18mの外堀があった。この石碑は本丸の入り口だった部分に建てられているという。城主は原虎胤というらしい。武田さんの重臣で、永禄年間(1558~1570)の間居城としていた、とあった。

原さんは永禄4(1561)年に行われた割ヶ嶽城攻略戦で大怪我をして、これ以後隠居状態になってしまったようだ。猛将として鳴らしていたらしいのに、もったいない。原さんがこの時奪った割ヶ嶽城は上杉謙信さんのお城。当時上杉さんは北条氏康さんとの合戦中で小田原城を包囲していたため、割ヶ嶽城は手薄だった。武田さんは北条さんと同盟を結んでいたので、その支援のために割ヶ嶽城を奇襲しちゃったらしい。上杉さんがお留守の隙に武田さんは海津城作ったり、信濃攻略の下準備をしていた。

上杉さんももうちょいで北条さんを滅ぼせたのかもしれないが、関東では不作が続いて兵糧も足りなくなりつつあり、武田さんの動きも怪しいので引き上げざるを得なくなってしまったようだ。で、越後に帰った。

が、即信濃に出陣し、激戦で有名な第4次川中島合戦が起こった。原さんは結局参加してない。甲斐でお留守番。そして永禄7(1564)年に亡くなったらしい。割ヶ嶽城の攻略戦後から亡くなるまでずーっと甲斐で療養していたみたい。ということは、平林城にいた期間は2~3年くらいになるのかね。武田さんが滅亡した後は廃城となったらしい。

ちょうどここからは地滑りで有名な地附山が見え、そこには武田軍が作ったという伝説が残るお城・桝形城がある(桝形城という名称も誰かが便宜的につけた名前で、本名以下一切の経歴が謎のお城である)。平林城の築城と何か関係あったりしてー? 「出るぞ」でお馴染みの大峰城ももしかしたら見えるかも?

平林城は昭和初期まである程度の名残り、雰囲気が残っていたようだ。昭和18(1943)年と昭和44(1969)年と国鉄に買収されたために遺構は完全消滅。現在城域の半分以上がコレ↓になっている。

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もちろん石碑の向こうへ出入りできない。仕方ないので、本丸から二の丸があった?という方向へ移動してみた。ちなみにJRの工場手前の建物は、モダンなお寺さん。正確には、納骨堂(墓所)らしい。ぱっと寺院には見えない。

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↓このあたりが2の丸跡。

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何もない。確認できず。工場だし、邪魔な土塁や堀はみんな均してしまったんだろう。強いて言えば、工場の敷地だけちょっと高くなってるのが名残なのか。

 

 

 ★☆☆☆☆

遺構なし。石碑だけが物語る。

 

 

<平林城>

築城年 不明

築城主 不明

構造 平城

 

 

 

 

 

和田城

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このあたりに和田城があったという伝承があるらしい。

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(↑ 下が北)

ほぼ完全に破壊されているうえに、位置も分からなくなってしまっている。野球場のだいたい南東ぐらいだろうとされている。

城跡と言われている辺りへ↓

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水路と日本庭園があったが、関係あるのかないのか。それすらも分からず仕舞い。

ここ東和田の運動公園は昭和41(1966)年開園。相当古い公園だが、中学生時代は新人戦だの北信越大会だのここでやっていたので馴染み深い。小さい頃はプールにも通ってたらしいし。

この運動公園ができる前は、まだ遺構が残っていたらしい。日本庭園は公園の開園より後で、昭和56(1981)年完成と書いてあった。それなら和田城跡とは関係なさそうだ。

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小堀遠州の流れを云々…のお庭。小堀遠州は人名で、豊臣家→徳川家に仕えた大名兼文化人だそうな。備中松山城の城主をやってたこともあった武将だが、古田織部の弟子であって茶道等文化活動のほうで有名になった人らしい。

 

和田城はこの地を支配していた宮下周防守という人が築いたと言われている。その後宮下さんは村上さんの家来になった。天文22(1553)年に村上義清さんの越後亡命のあと、宮下さんは(たぶん和田城を廃城にし)帰農したそうな。宮下さんの居館である中越館も現在遺構はない。場所は北長野駅で、線路引くために遺構は全部壊したそうだ。

 

★☆☆☆☆

ただの運動公園。

 

<和田城>

築城年 不明

築城主 宮下氏

構造 山城

矢筒城

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矢筒城。標高566.7mという低い山の頂上にある。

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お城入口。お城の来歴などが書かれた説明板があった。それによると

・矢筒城、黒川城、牟礼城などの名前を持つ

・内堀は山の中に今も存在しており、外堀は埋められて舗装路になっている

・ただの山城ではない、お城と館が一体化

・大手口はここ

天正の頃の城主は島津権六郎、彼の所領は牟礼村の他三水村まで及んでいた

 

島津というと大体の人間が薩摩の島津氏を思い出すだろうが、このお城の島津権六郎さんと薩摩の島津さんは親戚なんだそうな。本家はもちろん薩摩だが、たまたま島津氏初代が仕えていた五摂家のひとつ・近衛家の荘園である信濃国太田荘の地頭職になったことから、ここに島津氏が土着することになったらしい。しかし本家のいる薩摩国は遠すぎた。徐々に本家との関係が切れていったようで、戦国時代には交流がなくなっていたみたい。

信州島津氏(信州家)は島津初代忠久の三男・忠直の家系が長沼家、初代忠久の次男(越前家)の曾孫にあたる忠秀が信濃に土着してその子孫が赤沼家と称する。この二つの家は仲良く共闘し、最終的には上杉家に士官している。

で、島津権六郎という人はどちらの家の系統なのか分からないが、天文22(1553)年に武田さんに攻められ、滅ぼされてしまったという。何かで見たけど武田は信濃侵攻時、1日5個くらいのお城を落としながら行軍していったとか。なんだそれ凄いなと思ってたけど、こんな小ぶりなお城なら1日5個行けるかも? と思った。

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入口すぐの林の中には祠が。ここのお城で命を落とした人たちを慰めるものか。

地図上では、このあたりが内堀らしいが。よく分からない。内堀は空堀、深さ4メートル、V字型だという。登山道から外れた場所は藪だらけ、歩きたくない。

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見た目は急な感じだけど、道は上りやすい。

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何かあるぞー? 郭か?

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すぐ上は、なんか平らな雰囲気。

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あっという間に到着ー。

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ここが本郭跡地だそうな。変な像が建っていた。

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麓の説明板に載っていた、平和のシンボル・平和観音というやつか。その近くにひっそりと。

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島津と書いてあった、城関係のものはコレだけ。

本郭は意外と広かった。

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そこら中に銀杏落ちてるー。

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本郭周りにも郭跡。見た感じ、郭は東西の2か所あるみたい。

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こっちが二ノ郭かしら? 北側は川と谷で守られ、南側には五条の帯郭があると書いてあった。回ってきた様子だと、北側には郭なし。北側以外は郭作って守ってるみたい。小さい山だけど、防御にはかなり力入れてる風。

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三角点があったーちょっとびっくりした。

では下りよう。

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あっという間に麓到着。

ついでに館跡地を見に行った。

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現在は飯縄病院という病院になっていた。館跡を示す、なんだか新しめの石碑があった。病院の建物自体は古く、昭和55(1980)年にこの地に移転してきたらしい。館跡の発掘調査はその前年の昭和54年とあった。この石碑だけはごく最近作ったんだな。

 

 

★★★★★

思ったより歩きやすいし、良かった。探せば石積みもあるらしい。

 

 

<矢筒城>

築城年 不明

築城主 不明

構造 山城

 

 

 

 

 

 

 

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近くの駅でヤギを見に行った。ユキちゃんみたいな子ヤギにすら怯えていた。ヤギを初めて見た訳でもないのに…。