お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

真田氏本城

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ここまで車で上がってこられた。すぐ近くまで集落があるので舗装路だったんだろうけど、ここ数年で造られたと思われる駐車場もありで楽々。観光客もいて、駐車場がら空きではなく。新しいトイレまで整備されてて力入ってんな、と思った。真田氏館の対になる詰めのお城(の中でもメインのお城。他にも支城がたくさんあり真田氏本城を取り囲むように存在しているようだ)である。

真田氏本城はそれなりに高い場所にあり、元々峠のようだった。

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達磨堂というお寺だかお堂だかがあるらしい(誰も向かう人はいない)。地元の守り神みたいなものかも?

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この峠までは舗装されていたが、この先は砂利道だった。パッと見、古い時代からあるような道。轍があるので軽トラぐらいは行き交ってそう。

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その道の先には学校らしき建物があったので、大きな集落があるのかな?

 

本城の中に入ってみる。

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さっそく竪堀を発見。ここも観光客向けに案内板が散りばめられているようだ。

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駐車場からは普通の公園のように見える(堀も1か所しか見当たらず、公園として整備されたため壊されているのかね?)。

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この辺りはなんだかよく分からない…。更に先へ進む。

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郭か? という感じの場所。

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まさか、あの小山が本郭なのか? あ、これはちょっとガッカリ感あるよ…と思った。

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小山の前にはまた竪堀。

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えええ…本当にこれがそうなのか…俄かに現実味を帯びてくるしょぼさ。ここから見える周囲。

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お花見にはいいかもね…。そして、説明板があった。

・本郭は東西8.6m、南北37mの大きさ

・南側に高さ2mの土塁がある

・北側に二の郭、三の郭と続く馬蹄状の形(3の郭の先は急な崖)

・天白城も同じく馬蹄形状

・お城の周りには天白城・砥石城・矢沢城がある、真田氏館も見下ろせる位置

・各城館の司令塔ともいうべき位置にあるので、おそらく上田城築城以前の本拠城

おや? ここまで見てきたものとはずいぶん違うぞ?

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↓天白城(写真奥)

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↓真田氏館方面

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つまりこれが南側にある土塁なのか…なんか騙されてたぜ。

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上りましょう。

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しょうもないイタズラ。

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土塁というか、単なる山道でした。

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やっと抜けた。↑これが土塁跡だった。

本郭到着。

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本郭・二の郭・三の郭の形状と真田氏本城の全体図。

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駐車場辺りは段郭だったようだ(駐車場側は畑や宅地で随分人の手が入ってる様子)。等高線の間隔からも分かるように、駐車場側はなだらかだが他3方は急峻。しかし段郭もコソコソ造られているっぽい。

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ここから洗馬城・尾引城・根小屋城・砥石城米山城と見渡せる。他にも支城の名前が見え、松尾古城(上州方面)、横尾城(洗馬城・寝小屋城とともに松代方面の押さえ)、伊勢崎城・矢沢城(上田方面)、殿城山城(天白城と同じく真田氏本城の後詰)とあり相当厳重に守られている。さっきのガッカリ感は一気に吹っ飛んだよ。

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二の郭方面へ。

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二の郭と三の郭の間には虎口があった。

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二の郭三の郭に跨る帯郭があるらしく、下りてみた。二の郭の下、敵さんが攻め上がってきそうな雰囲気。そして石積み。

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ドン尻の三の郭へ。

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ドン尻の端。ここでお城はおしまいー。

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このお城は天文年間(1532~1555)に築城されたと言われている。築城主は真田幸隆。天文10(1541)年に海野平の戦いが起こり、真田家を含む滋野一族は信濃を追われた。その前から存在するお城なのか、真田氏が旧領を回復した天文20(1551)年以後のものか、確定する資料はないらしい。が、海野平の戦いで勝った村上氏が支配拠点用として改修し使ったお城が戸石城であり、これは真田氏支城だったことが分かっているらしく。そこから想像すれば海野平の戦い以前から真田氏本城があったんだと思う。ちなみに、真田氏最初の拠点は洗馬城だそう。

初代が幸隆かと思ったけど、その人の父親の真田(海野)頼昌という人が家祖だということになっているらしい。が、「真田」というおうちはずっと前から(1400年ごろには)あったという資料もあり(こちらも滋野氏後裔だが禰津系)もう訳が分からない。当初は禰津支族だったが、海野さんの子が真田家に養子に入った(海野本家は滅んだので海野後裔を名乗った)又は海野さんの娘と結婚した真田出身者によって海野氏後裔を名乗り始めたとかなのかねえ。真田頼昌は海野氏庶流の出身だとされているので前者が真実かしら?

そういえば、真田はなんで海野平の戦い(滋野一族VS村上・諏訪・武田連合軍)から一転武田家の家臣になってるんだろう、と思ってたけど。海野平の戦い時の武田家当主は信虎という人で、海野平の戦い直後にクーデターが起こり信虎追放→当主が晴信(のちの信玄)に代わっていた。一方、海野平の戦いの戦後処理で武田領となった佐久地方(滋野一族の旧領一部)はクーデターのドサクサで滋野一族の亡命先だった山内上杉氏に奪われた。ここには真田氏も身を寄せていたらしいが、真田の本領だった小県までは侵攻せずに終わってしまったので、イライラして武田氏に仕えることにしたらしい。代替わりしてたから、すんなり雇ってもらえたんだろうか。この時の伝手は色んな説があるらしく、誰の紹介かは秘密のようだ。

 

 ★★★★★

最初「しょぼい」と思ったせいなのか、最後には満足した

 

 

<真田氏本城>

築城年 天文年間(1532~1555)

築城主 真田幸隆

構造 山城

 

真田氏館

スギ花粉の最盛期。鼻水とくしゃみが止まらない。くしゃみするたび「誰かが私の悪口言ってる!」と思って嫌な気分になる私は、この時期はそこら中で常に悪しざまに言われている気がしてイライラします。

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真田家の本貫地へ行った。真田氏の館は現在、公園になっている。かなり保存状態が良く、館として使われていたままの完全に近い形で残されているそうだ。真田家初代幸隆の時代に造られたとのことで、三代目の昌幸が上田城に移るまで使われていた。

もう観光客はいないか…と思ったものの、あちこち出歩くのが好きそうな老夫婦とか歴史好きそうなおじ様とか「歴女です」と名乗りそうな女性とか、それぞれに散策していた。

正面入り口(大手門跡)↓

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親切にも門の名前やら看板があった。大手門跡には立派な石垣が残されている。石垣だったのは意外。

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門は大手門の他、搦め手門、東門とある。台形の敷地で、南東にある東門付近だけ少し角がかけたような形になっている。敷地は土塁でぐるりと防御されている。大手門には桝形があるが、搦め手門や東門には桝形がない。ただし、東門には桝形に代わる何か施設があったような気配(ちょっと角が欠けてるから)があるとか。

↓こういう形

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土塁高さは2mくらいかな? 延べ520mの長さで、今はないが外周に堀がめぐらされていたらしい。道路が堀跡ということかも。

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土台も石積みがあり、かなりしっかりしている。数百年経つのに崩れる気配なし。

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こちら側は「西曲輪」という名前で、北西隅には「厩」という施設もあったようだ。10m四方の区画だそうで、文字通りお馬さんのおうちだったんだろう(馬場を兼ねてるなら狭そうだ)。そこも入口以外土塁で防御されているとか。

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本郭だった場所には現在「皇大神社」が。この神社の創建は昌幸が上田に移る際、初代から使用してきた館が荒廃することを恐れ伊勢神宮の御分霊を勧請したことから。

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 神社の鳥居から本殿までは「東曲輪」と呼ばれている。そういえば本殿は少し高くなっている。

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北側の土塁↓ こちら側には大沢川という川が流れている。

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ここから東門方面へ。遊歩道みたいになっている。

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←本郭        (遊歩道)    土塁→

 

 

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東門到着↓

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東側のちょっと欠けてる部分の様子。

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東側の土塁の様子。

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おや、こんなところにマレットゴルフ場が。

 

★★★☆☆

石垣があった、っていうのに一番驚いた

 

<真田氏館>

 築城年 天文22(1553)年以降?

 築城主 真田幸隆

構造 平城

 

 

東側は水道施設?か何かがあった。

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皆神山

その筋の人にはお馴染みの聖地、皆神山に行ってきた。この日も愛好者が県内外から巡礼にきていたっぽい。駐車場には色々な土地のナンバーつけた車が数台。

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↑こんな場所である。

 

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山頂付近には皆神神社がある。ここは自在山自在神社で出てきた3兄弟の次兄が修行した場所らしい。修験道の拠点である。神社の通称は「皆神神社」だが、正式には「熊野出速雄神社」という。この神社は現存する数少ない修験道の遺構ということで、貴重な建物だそうな。鳥居はごく最近になって作られ、当初は山門しかなかったという。

鳥居の奥に見える神社は「侍従神社」。

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↑山門。

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↑侍従神社本殿。

最初ここ本殿かと思った。違うらしい。ややこしい。

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↑熊野出速雄神社の本殿。侍従神社の裏にある。

 

「熊野」は天台宗系の修験道一派の本山派が拠点としていた熊野三山からきているらしい(本山派に属していたようだ)。「出速雄」は諏訪大社の神様・健御名方神の御子様にあたる神様らしい。この方は北信地方の開拓祖神という。養老2(718)年にまず、出速雄神社が創建される。中世に修験道が盛んとなり熊野権現が勧請されて熊野出速雄神社となった。社殿は康応元/元中6(1389)年に再建され、当時は修験道の道場として建てたためか建築様式(撞木造り)に修験道要素が色濃く残っていると。ちなみに、撞木造りは善光寺本殿と同じ様式である(善光寺修験道がどう関係あるかは知らないが)。

大規模な道場だったようで最盛期には信濃全域の本山派山伏の支配権が皆神山にあった。

 

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侍従神社本殿の脇から「侍従大神」のお墓に抜ける小道があった。この神様は佐久の内山城主の子で、密教修験道を修めるべく各地で修行していた内山満顕が内山氏滅亡の後こちらに入山し、侍従天狗坊と名乗り皆神山の修験を完成させたという。その人のお墓。彼は厳しい修行を長らくしてきた行者さんで、「吾を念ずれば諸々の願いを叶える」と言い入定という究極の修行(即身仏になる)をしている。子育てから長寿、火防などの御利益があり、特に子供を侍従大神の弟子にすると無病息災に育つんだとか。奥の方の古墳みたいなのが入定所になるのかな。

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最奥には浅間神社もあった。

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他にも色々な祠があちらこちらに。

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自然豊かな場所でサンショウウオの仲間まで住んでいる。近年まで小さなゴルフ場があったようだが、今は失われた。代わりにソーラーパネルが並べられていた。とはいえまだ自然がかなり残る小さな山だ。

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ごく普通の、田舎に昔からある古い神社に見えたのはここまで。問題はこの先である。

 

まずは熊野出速雄本殿向かって左の天地カゴメ之宮。碑文があり、それによると

・昭和49年に私に「国常立大神お立ち上がり」の神示があった

・「皆神山に行け、そこにお立ち上がりとなる、神の御出現じゃ」

・「神の州と書いて、神州。信州へ」

・出かけた皆神神社の前で神がかり状態

・そして日本の八百万の神様の他、龍神眷族、モーゼ、キリスト、ギリシャ神話の神々など皆がココに集まった

・このたび、神の御許しを得て宮を建立しました

だそうな…。お宮自体は木の祠という感じで、碑文より小さいサイズ。てっきり熊野出速雄神社本殿の近くにあった(本殿のような大きな建物が二つもあるし、侍従神社本殿を皆神神社だと勘違いする人は絶対いると思うような雰囲気だった)ので、碑文中の「お宮」=熊野出速雄神社本殿、と思っちゃったよ。

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細かい、怪しいものも多々。正面の木の杭の文字がさっぱり分からなかったが、空の融合だとか興味ある内容が四面に並ぶ。杭の根元の石にも消えかかった文字(もう読む気が起こらない)。奥の白杭はいつものアレ(世界人類が平和云々)。

トンデモ本によく登場、某宗教の教祖・出口王仁三郎さんの歌碑?もあったよー出口さん、皆神山を聖地認定していたようだ。

カゴメ之宮と並ぶ愛好者の礼拝スポットがこの看板↓

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今回はこの看板を見に来たようなもの。人気過ぎて文字が消えかかってる!! 内容は大変興味深い。

 

世界最大最古の皆神山ピラミッド

◎皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東・南信の氷解水による)となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。

(したがって現在でも皆神山山塊だけが非常に軽く負の重力異常塊となっています)

◎この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じこの磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる《天の羅摩船》等がこの飛行体です。

謎の皆神山ピラミッド物語

◎皆神山は、古い古墳時代弥生時代さらに遡っての縄文時代やエジプト・インダス・黄河シュメール各文明よりもずっと古い、今から約2~3万年前浅間山・焼岳ができたころ。飯縄・妙高・富士は約9万年前)の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。(人口造山=ピラミッド、ピラミッドはギリシャ語源で三角形のパンの意)

◎この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命(自然主義的な科学技術者集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力をもつ人類でした。(旧人ネアンデルタール人系)

◎では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航行基地として造られたのです。

皆神山ピラミッドの祭神は知力・体力の神

◎超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関係する次の四神です。

○熊野出速雄命

 宇宙船《天の羅摩船》等の航行の技術・管理を引き継いだ最後の集団で、北信地方の開拓祖神

○少名毘古那神

 宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命の参謀集団

○泉津事解男神

 皆神山航行基地をはじめ…全宇宙基地を管理した集団

○速玉男神

 地球周回軌道の人工衛星(宇宙航行の中継基地)の技術者の集団

◎このように皆神山は、神々が活躍した基地であり、宇宙船で現れたり姿を消したりしたので自然人たちは神聖な山=高天ガ原として崇め、後世に伝えたものです。

 

好きだー!!と叫びだしたくなるような。この手の文章は、そのまま読んで楽しむものだと思う。ツッコミは無粋。中二的な小難しい単語を並べ、分かったような分からんような文章。難解な文章を「フムフム」と理解した気分を楽しむものである、と考える。

今の人類とは異なるヒトビト(数万年前に滅んだとされるネアンデルタール人)が岩を空中浮遊させて作った、宇宙基地。山自体が電動機だか発電機だかになっており、宇宙船自体も(反重力は現在も実現不可能)超電導リニアっぽい感じで浮かんで飛ぶというのかね? 磁力だけで宇宙に行けた! これはNASAさん・JAXAさん研究したほうがイイネ。

少名毘古那神は大国主の元でその国造りに参加した神様。やってきた時「天の羅摩船」という船(何かの実らしい)に乗ってきたという。イメージとしては一寸法師

泉津事解男神イザナギの子で、神話だと須佐之男命の兄弟に当たる。速玉男神イザナミの子。泉津事解男神と速玉男神はセットで扱われることが多いよう。イザナミが死に、その後を追ってイザナギが黄泉の国へ行ったときのこと。身体が腐りかけたイザナミが自分の姿を見るなと約束させたにも関わらず、イザナギが見てしまい、大喧嘩になる。「お前とは絶交だぁ」などと言い争い、キレたイザナミが唾を吐いた。その唾から生まれたのが速玉男神(唾の神様→古代では約束をするときに唾などを交換した)。この二柱は研究熱心というか、性に貪欲なイメージを私個人的に持っており。神様を出産したいがなかなか上手く出来ないので悩んでいたとき鳥の交尾を見て「我々もアレをやろう」と言い出しマネしたら上手くいったことから、日本古来の体位は後背位ではないか、という話を聞いたほど。その後もやりまくったとはいえさすがに腐った体は見られたくないだろうし、見たくなかっただろうねぇ。イザナギが掃き払った(腐ったイザナミとの関係を清算した)ときに生まれたのが泉津事解男神(絶縁の神様)。この神々は熊野に関係がある。熊野本宮大社主祭神須佐之男命、熊野速玉大社の主祭神は速玉男神(またはイザナギ)とも言われている。泉津事解男神は速玉男神と一緒に祀られていることが多いらしい。熊野の修験道と深い関わりのある神社だから、このような神様を登場させたのだろうか。としたら、教養の深い人物の手による看板だろうな。

熊野や修験道に関係ない少名毘古那神や大国主が出てきたのは「天の羅摩船」って言ってみたかっただけなのかもしれない。

真面目な方の看板↓。

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温度差がある二つの看板は、並んでいた。

 

皆神山は溶岩ドームらしい。この山だけ独立しており、見た目もちょっと変わっている。溶岩ドームだと言われれば納得できる。そして松代群発地震震源地はココである(だけど噴火したりはしなかったらしい)。山全体がプルプル震えてた感じ。そして群発地震の時、山が光ったという目撃談をよく聞く。あれれ…これって発電中のスパークだよね!

特徴的な山だからか、修験道の霊山になったり信仰の対象になっている。皆神神社付近には井戸のあとらしき結界張られている何かが点在していた。

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麓に「大日堂」というお堂があり、そこに水が湧いている。元々この辺りの水は綺麗だが、特に有名らしく2リットルペットボトル数十本を携えて汲みに来るような迷惑な輩も出ちゃうとか。で、この池、大日堂近くの大日池まで繋がってるらしい。名水が湧くような場所と繋がってれば、そりゃサンショウウオも棲みつくよね。

 

ここはまだまだ見どころがある。車で通っただけだが、岩戸神社というピラミッド入口を見つけた。正直、古墳とむき出しになった石室にしか見えなかった。他にも、山の上に「小丸山古墳」という古墳があり、これは大正時代に「天照大神の御陵だ」と話題になって大いに賑わった。この名残は大日堂にあるそうだ。

信州→神州というのは、太平洋戦争中に軍部が思いついたのと一緒で、皆神山という名前も縁起いいじゃん! と最初はこの山の下に大本営を造り始めた、その跡地入口もある。ここは溶岩ドーム、ものすごく脆いし軽い岩質で出来ている。掘ってみたけど役立たずで、象山の地下に改めて大本営を掘り始めた(あっちは堅い)。

大本営のトンネルとは別に、もともと皆神山内部には空間があったとも言われている。あるとき重みに耐えかねたのか、潰れてしまった。で、あんな形のお山になったとされる。潰れる前は綺麗なピラミッド型だったのだ!

 

★★★★★

竹内文書」ファンなら満足のお山。今回同行した大人も「竹内文書」関連本を何冊か持っていた記憶があり、「今日一番笑った」と大変喜んでいた。

 

 

<皆神山>

30~35万年前にできたとされる

雨宮の渡し

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第4次川中島合戦で有名な雨宮の渡しに行った。

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ここの場所については↑の写真の通り。

元々この場所は街道の要衝にある渡し場だったらしい。案内板には「川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でもあった」と仰々しく書いてあった。

横田河原の戦い大塔合戦などが対岸で行われ、近くのお城(生仁城)でも戦闘が何度かあったようだ。確かに重要な場所であるらしい。ただそんな大事な渡し場なのに、武田軍は抑えるどころか合戦中にも偵察とか出さなかったのかなーと疑問に思った。挟み撃ちをする予定だったので、戦闘予想地域から離れている場所に兵を置く気分はなかったのかしらね。一応、この当時の生仁城主の雨宮氏は武田支配下に入っていた模様。名字が「雨宮」というぐらいだから、この家が渡し場を管理してたんじゃないかな。川を渡る上杉軍に気づかなかった訳じゃないだろうし、黙って見過ごしていたとすれば…上杉のスパイだったのかも。

 

一応、千曲川のそばではあるものの。今は川筋が変わり、この場所の周りは工場・住宅・田畑となっている。

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申し訳程度に、碑の傍には川だか用水路が。

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石碑の周りはちょっとした公園になっている。桜の木もあるものの、まだ芽がかたそうだった。

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雨宮の渡しと言えば、この言葉↓

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べんせーしゅくしゅくー。

なんと頼山陽直筆の石碑で、いたるところに「拓本とるな」の看板。

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どうしても欲しければ、某所で1枚3500円で売ってるからそこへ行け、とも書いてあった。碑文の拓本マニアの人って意外といるのかしら。会ったことない。

碑文は、以下の通り。

 

鞭聲粛粛夜過河(鞭聲粛粛夜河を過る)

暁見千兵擁大牙(暁に見る千兵の大牙を擁するを)

遺恨十年磨一剣(遺恨なり十年一剣を磨き)

流星光底逸長蛇(流星光底に長蛇を逸す)

 

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どんぐりころころ。

 

 

★☆☆☆☆

目ぼしいものはなし。

 

 

<雨宮の渡し>

開通年 不明(平安時代?)

 

 

今話題のオスプレイ見たー!! 年末年始にもF15みたいなのを何度か見かけて(しかも並んで飛んでるとか)、今年は幸先いいなと考えていたが。まるでオスプレイ祭りかのように、こうも立て続けにあの機体を見かけるとは思いもよらなかった。やっぱり姿も音も独特ね。オスプレイは、ジェット戦闘機みたいに音はすれども姿が見えぬ(速すぎる)…ということがない程度のスピードだから、探しやすいのも良かった。ちなみに本名は「V-22」というそうだ。

原畑城+室賀氷上神社

晴れた日に、室賀峠→原畑城→室賀氷上神社と回ってきました。

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室賀峠というのは、どうも古くから存在する道のよう。その記念として、ちょっとした広場があった。

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見晴らしは…。素朴な峠、といったところか。

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とりあえずコイツ↑が邪魔をしている気がする。

石碑いろいろ。

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秋の七草の歌。山上憶良斉明天皇6(660)年~天平5(733)年)が詠んだために、秋の七草というものができたらしい。春と違って、食べる草ではない。観賞用であるが、これを愛でるなどの行事的なものはない。これが代表作じゃないが、花の名前を羅列するだけなのに長らく残る作品になってるなんて…私にもできそうと傲慢にも思ってしまった。

この歌のような、万葉集などに載っている和歌の碑を昭和61(1986)年に建立、とあった。内訳は万葉集から4首、勅撰和歌集詞花和歌集)から1首。詞花和歌集のものは、長元5(1032)年に信濃守として下向してきた藤原家経が詠んだもの(ただし、この場所ではなく伊那で詠んだもののようだ)。その他にも謎の石碑群があった。

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たぶんタイムカプセルだなー2036年に掘り出すのを忘れられたりして。

 

戦国時代の史跡としても、こんな話が。上田原の戦いで武田に大勝し、意気揚々と本拠に戻る村上義清軍がこの場所で休憩。ニヤニヤしながら合戦を振り返ったそうだ。このとき、着ていた鎧を松にかけたらしい。「鎧かけの松」と呼ばれ、現在2代目の松がスクスク育っているとのこと。

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↑これが2代目かしら?

 

原畑城。

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現在は「原組公民館」があるあたりが主郭部分らしい。ここは居住用の館で、詰めの城(笹洞城)は別の場所にある。

周囲の様子。

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この道の先に、ものすごくちょっとした立体交差があった。それは原畑城の堀切を利用したものらしい。ちょっとしすぎてて、あとで調べて驚きました…ので写真なし。公民館の他は宅地・畑になっており、見る影もなし。昔は「原畑城」を示す碑があったようだけど、今はなくなっている。

城の規模は大きく、公民館の前の道のだいたい端から端までが城域だったみたい。

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八幡社。

この城の主は、この辺りを治めた豪族の室賀氏。村上氏支流の屋代氏支流という村上家の遠い親戚にあたる。とすると氏神も多分八幡神なんだろうし、それでひっそりと八幡社が残されているんだろうか。

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未だに「真田丸」の旗が。ここが室賀氏の居館だと具体的に示すものは一切ないが、唯一この旗が匂わせている。大河ドラマはつまみ食い程度にしか観ていなかったけど、前半の主要キャラだった室賀正武は知ってる。その人の御屋敷だ。さすがに旬は過ぎたので我々の他に見物客はいなかった。

ドラマでは小物臭が酷かったものの、実際の室賀氏は力のある豪族だったようで。当時は真田氏と小県地域を二分する勢力だった(北が真田領、南が室賀領だったようだ)。真田氏は滋野氏末裔の海野氏庶流ということになっていて、元々の領地から村上一族により信濃国外へ追い出された過去を持つ滋野氏末裔の真田氏と村上氏傍系の室賀氏は親しくなかったのかもしれない。

真田氏にとって一番近所かつ親近感もなく邪魔くさかったのと、わりと簡単に滅ぼせそうだったと思われたのだろうということで、当主の室賀正武上田城で誅殺。というのはドラマ通り。そんな程度の存在なら、殺したところで罪悪感持つこともなさそうだねえ。この件で室賀氏は一家離散の憂き目に遭う。真田氏に信濃を追われて、最終的には徳川家臣(旗本)になったようだ。

 

この場所は、室賀峠への往来を監視するような位置にある。今は室賀峠へ続く道が県道として2車線道路になっているが、古い時代の道も遊歩道として一部残っていた。その道は恐らく原畑城のごく近くを通る。詰めの城である笹洞城も、この道を高いところから監視できる。

ここから室賀峠を越えると村上氏の本領になる。前述したが、上田原の戦いに勝利した村上義清さんが室賀領を通り本拠に戻っていて、村上さんと室賀さんは山ひとつ隔ててお隣同士のようだ。

本家の屋代さんは村上一族の中でも地位が高い。室賀家は屋代氏庶流ということになっているものの屋代さんとは同格というか家族に近いようで、頻繁に子供をやりとりしている。室賀家から屋代さんの養子に入ったりその逆もあるようだ。室賀家も村上一族の中で有力な家なんじゃないかと勝手に思った。

村上氏が越後へ亡命することになった大きな理由の一つで真田さんによる屋代さん調略事件があったが、このときに室賀さんも屋代さんに同調したように思われる。室賀氏は分裂せずに信濃に居残ったらしい。村上さんも領地を接している豪族たちが軒並み離反されちゃ、そりゃ居づらくなるわね…。屋代さんは真田さんに誘われて離反したとはいえ、真田さんと距離を取って生活していたようで室賀さんみたいに狙われることなく、こちらも徳川家臣として落ち着いた。

 

居館の原畑城・居城の笹洞城を合わせて「室賀城」と呼ぶそうだ。昔は原畑城から笹洞城へ向かう道があっただろうけど、現在はなし。別の場所から登山道が伸びている。

 

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室賀氷上神社。

この神社の近くにある前松寺は室賀信俊さん(正武さんの祖父らしい)が建てたお寺さんで、室賀氏代々のお墓があるそうだ。しかし殺された室賀正武の御骨は納められてないとか(ご遺体を遺族に引き渡さなかったんじゃないのかねー?)。

室賀氷上神社の御祭神だとか由来とか、よく分からない。神社にはそれが書いてある案内板もないし、調べても出てこなかった。まぁまぁ古そうな神社ではある。

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貞亨4(1687)年に寄贈されたという、境内で最も古い灯篭がコレ↑

江戸時代初期にはこの神社が存在していたようだ。

室賀氏のお城「笹洞城」へはこの神社から登る。

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90分くらいで着ける、と小さく書いてあった。今回は上るつもりが全くなかったので行かない、が。

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神社本殿への石段どーん。何か上る気が失せた。ので、笹洞城登山道をちょっとだけ体験してみることにした(本殿への道がこの石段だけじゃなく、どうせ登山道の途中で分岐するだろうと思った)。

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こんなところにも旗が。どうせこの旗を目印に笹洞城へ行けるんだろう、絶対に登らないからねっと思ってしまう。

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やはり分岐があったので、右へ。左は旗が続いている、笹洞城へ連れてかれると思われる。

小春日和の急な山道。地面がぬるぬるしている。霜柱ができる→日差しで溶ける→地面ぬるぬる、だと思う。上のお宮に着くまでに泥だらけになった。

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やっと見えてきた。ぬるぬるしてなきゃすぐ着いただろうに…。

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本殿はまた少し上がった場所にあるようだ。もう少しぬるぬるの坂を上ればよかったのかもしれないが、今日のような日は石段をゆっくり上がった方がマシだったかもしれない。

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ごく普通の、古びた神社に見える。しかしここにも御祭神についてや由緒を書いた看板は見当たらないので、地元民の産土神が祀られててお参りも地元民しか来ないということなのだろうか。

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日陰な分、まぁまぁ歩きやすい…のかも?

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額に何か書いてあったが、読めず。

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覗く勇気も出ず。

お参りしたので、帰ります。

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下りはやはり子供に厳しかったのか、滑って一回転して。しかし微妙に喜んでいた。服と地面との摩擦係数が大きかったようで、ただくるっと回っただけで止まった。本人は喜び、私も安心。下まで転がらなくて良かったわ。

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ゆっくり下りたものの、泥が増し増しになってしまった。

下の境内は広場になっていた。ここはそんなに地面がぬかるんでいなかったが、子供は座り込んで遊び始めやがった。よほど泥遊びがお気に召したらしい。

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喜んでくれたようなので、良しとしよう…。

 

笹洞城↓

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中央の山の頂上らしい。遠目からだが、赤い旗がヒラヒラしているのが見えた。あの旗は頂上まで続いているのかもしれない。親切だな。

 

★★☆☆☆

堀切にしろ、他の遺構にしろ、けっこう目立たなくなっていると思う

 

 

<原畑城>

築城年 不明

築城主 室賀氏

構造 平城

竹山城

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今年初めて山っぽいものに登った。

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あの山。標高500mないらしい。頂上には竹山城というお城があった。

「竹山」というのはあの山の名前らしいが、基本的には象山と呼ばれている。竹山という名前も江戸時代に入って真田家がこの地にやってきたときに、あの山に竹を植えたから「竹山」とも呼ばれるようになったとか…と、その辺の看板に書いてあった。

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スタートはここ↑ 山のそばを川が流れてる、その名前は神田川。どこかで聞いたような名前だね。

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川を渡って、登る。

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まぁまぁ急。マメに整備されているのか、見た感じ岩盤堅そうだし崩れることがないからなのか、歩きやすい感じ。

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あっという間にさっきの橋が小さく、遠くなった。

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何か見えてきた。

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象山配水池。今は施設が2つあるが、聞いた話だと以前は1つしかなかったとか(多分向かって右だな)。広場があり眺めも良かったので学校の授業で写生しにくる場所だったという話だった。今は広場というか…。

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こんな怪しい建物があるだけ。授業で写生に来るような広さもなし。まぁこの場所も普通に考えて郭跡だったのかなと思った。

 

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ちょっと石がごーろごーろしてるのよね。ここは岩山なのかしら? と思ってたら。どうもかなり岩盤強くて、そのせいで大本営作られた場所だと。多分まだ足元には大本営ないと思うが、もう少し先へ進むとありそう。

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目指す場所もこっち。ここからは普通の山道っぽくなってきた。

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雪残ってるー! 今の所、見た感じ堀っぽいのはなかったようだ。

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石柱には「象山神社神苑」とあった。

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おお? 上ってから人が作った防御設備っぽいものを初めて見つけたぞ。道が左右に分かれている。

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でも郭とか見つけられなかった。(実際あるのかないのか分からんが)落ち葉と雪のせいにしておこう。

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周りは急斜面だったー。

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何か見えてきたぞ。

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石垣か?

 

急に広場が。二の郭跡地だ。桜の木がところどころ植えてあり、春には花見やってる人がいそう。

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東屋の周りにはなんか石垣? ここだけちょっと盛り土されているような。石碑のせいかもしれない。石碑は「山崎國次郎翁頌徳碑」とあり、裏も読もうとしたけど字が読めないので分からない。昭和九年だけ分かった(この広場を整備した人かも?)。

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見晴らしは結構いい。

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で、主郭はあっち。

 

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また別の登山道発見。

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西条へ向かうようだ。

「竹山城」の主は、西条氏であったと言われている。この辺りの豪族の清野氏の分家筋で、このお城は鞍骨城(清野さんの居城)の支城であったらしい。「西条」氏と名乗るぐらいだから、領地はきっと西条地区だろうな。一家が寝起きしていた館も西条にあるはずだ。と思って探してみたが、館跡は場所が分からなくなってしまったようだ(2説あった、確定してないらしい)。

西条氏は最初清野氏に従い村上→武田、武田滅亡後は上杉という感じに主家を変えていったが、武田氏時代に海津城改修に伴ってこのお城も新たなお役目(海津城支城)として整備されたようだ。とすると、私が上ってきた道にも何かあったのかな? 堀切とか郭とか、そういうの見つけられなかったよー登山道作るときに壊されたのかしらねー?

とはいえ、もとは西条さんの城とすると西条登山道が大手なんじゃないの? と思った。きっと何かしらのお城っぽいアレが見つかるかも? しかし道の踏み跡も怪しかったら、下りなかったです。

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ちょっとこの辺りから主郭方面まで石垣がたくさんあるのですが。そこかしこですよ。

二の郭から主郭へ向かう道にも、なにやら怪しげな感じがしますわ。道が二手に。

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そして郭らしきものも発見↓

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何故か急に山城っぽくなってきたぞ。どうしたのか。

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そしてやっぱり石垣も増える増える。こんなに石積みが残っているとは思わなかった。

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 二の郭までの道とは違い、急に険しくなっている様子。雪も残っており、それがところどころ凍っていて足場が悪い。

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どうやらゴール目前のようだ。しかしまた石垣を発見してしまい、寄り道しまくる。

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主郭に到着! 二の郭より狭いです。

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なんの石碑か分からず。

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こちらの眺めも大変良い。

驚いたことがもう一つ。主郭から西条方面へ降りる斜面、郭がいっぱいだったよ。

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竹林から仄かに覗く郭。

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面倒くさくなって下りなかったけど、どうも主郭周りは石垣で囲まれてるくさい。

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足元にある石が気になるから見たいけど、上がってこれなくなるとまずいのでねー。そして、西条側の方が防御厚い。見るべきものはこちら側だったのだ。

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晴れてればね…。

 

 主郭跡地には、何かあったらしい形跡が。象山神社関係の何かかな? と思った。さっき「象山神社神苑」っていうの見たし。

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台座しか残ってない寂しい。

 

後で調べたところ、主郭から更に尾根伝いで山を登っていくと鞍骨城に至る。その道沿いで堀切が2本あるようだ。

 

さぁ山を下るよー。

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下りはそんなに寄り道しないで降りたので、30分位でここに着く。

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壁伝いの向こう側へ、この先も何かありそう…。

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向こうは別の山(離山という名前のようだ)らしい。時間は少し余裕があるので、寄り道。

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配水池。

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更に進む。

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途中で(面倒くさくなって)引き返した。帰宅して調べたところ「離山神社」という神社に出るらしい。

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分岐点から最初の橋へ。

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ちなみに、二の郭と西条を結んでいる道だと象山地下壕の脇に出るようだ。

 

★★★★☆

思ったより石積みが残されていて、個人的には満足した。

 

 

<竹山城>

築城年 不明

築城主 西条氏?

構造 山城

笄の渡し+横吹八丁

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この場所は昔、川の渡し場があったという。「笄の渡し」という名前で、笄とは棒状の装身具。元々は髷を結うときに髪を掻き上げるため使った道具で、結った髪を崩さずに頭皮を掻けるという便利グッズでもあったらしい。それが、江戸期には花魁が頭にこれでもかと挿しまくってた、ああいう簪みたいな髪飾りとしての用途に変化したようだ。

 

なんでその笄が名前に入っているのかというと。

天文22(1553)年に村上氏居城の葛尾城が武田氏に攻められ、落城した。そのときに逃げ出した村上義清の側室(於フ子さんというらしい。オフコと読むのかと思ってたら、実はオフネさん…私には難しい読み方だった)がこの場所にたどり着き、船頭さんに「向こう岸まで渡してくれ」と頼んだそうな。一応戦場なので船頭さんも命かけなきゃならない。無事に向こう岸に着いたお礼に、髪に挿していた笄を船頭に与えた(やっすいなーと思ったけど船頭はそんなお礼で満足できたのだろうか…まあ逃げる時に金目のものを持ち出す余裕はないか)。

という逸話からきているようだ。しかし、笄というものを頭に挿し始めたのは江戸時代中期からという話。この当時、笄を髪に挿してるイカレポンチなんぞいるもんか! というのでこの逸話自体創作じゃないかとも言われている。

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笄の渡し跡より。正面の山に葛尾城があったのかな。現在の渡し場跡地は国道18号が通っているものの、戦国時代は崖であったらしい。それも、けっこう高めな。高崖と呼んでいたとも伝わる。高崖→こうがい→笄で話が生まれたのかも? という説も。

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オフネさんが逃げた方向。正面の山には出浦城跡がある。その先の荒砥城へ向かう予定だったみたい。川を渡った後の足取りは諸説あり、落ち延びた・死んだ(亡くなった場合も様々なバリエーションがあるようだ)とある。有名な説だと村上義清戦死のニセ情報を掴まされて、ショックで自殺したようだ。村上さん脱出して新潟に行ったからねー。

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オフネさん自殺の場所はここ↑

出浦城の麓にある姫宮跡。実は、川を渡ってすぐ位の場所。こんなところで自害じゃただの逃げ損じゃないかね? 憐れに思った人がこの話のオチを色々創作しちゃったのかなー?

 

河原に降りてみる。高崖と呼ぶにふさわしいのか、本当にちょっと河原からここまでは高いし急だなぁ。

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人がいない。水かさもなく穏やかだ。たまには洪水を起こしている。洪水の記録では仁和4(888)年が一番古く、現代までたびたび荒れ狂っている。

 

上の国道に戻る。新しめのものからボロボロのものまで、石碑がいくつも並んでいる。これらは最初からこの場所にあったものではないらしい。別の場所にあったものをこちらに移したようだ。

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 これら石碑群は旧北国街道の道沿いにあったものらしい。他にも石碑があったようだが、崖崩れなどで失われてしまったようだ。今は使われていないその箇所を「横吹八丁」と呼ぶ。

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何故か埋まっている水天宮。字面で分かるように水の神様だ。元は高倉平中宮の女官だった按察使局という女性が平家滅亡(寿永4(1185)年、壇ノ浦の戦い)のあと隠遁し、「水天宮」を祀り近隣の住民のために加持祈祷を行っていた。これが大当たりして信者が増え、全国に広まったとか。なので水天宮は天之御中主神天地開闢のときに現れた神)と、安徳天皇平清盛の孫)・高倉平中宮建礼門院平徳子)・二位の尼平時子)と平家にゆかりの人々も御祭神としている。

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でかい真ん中のは「音」の字しか分からない。両サイドはちゃんと「馬頭観音」と読めた。じゃあ真ん中のも馬頭観音かしら? 馬の供養塔である。

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真ん中の、横に仏様が彫ってあるー。

 

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よこふきや駒もいななく雪あらし と書いてあるらしい。吹雪いているのに過酷な道を歩かされた馬が悲しく鳴きながら崖下に落ちていきました。って感じの句? 名所なのでこんな句碑がいくつか。

 

慶長16(1611)年このあたりに道が作られた。それが北国街道らしい。それ以前は道がない。急峻で技術的に難しかったようだ。北国街道全通以前は、ここから上田方面にお出かけの際にはまず山を越えることから始めたようだ(山の向こうには道がある)。

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このあたりからは北国街道→国道になっているらしく、国道18号は江戸時代の道を改良してを走っているとか。江戸当時も国道扱いだっただろうが、ここまで広くなかったのかなあ? わりとなだらかに進む道でカーブもなく走りやすい。

 

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問題は、こちら側である。この道は明治時代に新しく作ったものらしい。江戸時代の道は崖へ上っていくようだ。歩道部分は旧線路だと。

電車用のトンネルが掘ってあるので、もうこんなところ通っていない。歩道にしては広いなとは思っていたが、電車が通るには狭そうだな。

幕末から明治にかけての時期にヨーロッパの蚕が病気で死にかけており、鎖国してた日本の蚕が無事だったために絹糸が良い値段で輸出していた。いつの間にか世界一の生糸生産国に成り上がり、昭和恐慌(世界恐慌)ぐらいまでは日本の主要輸出品だった。生糸主産地だった群馬や長野で早い時期に鉄道が通された理由らしい。

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このトンネルの近くに立派なお地蔵様が安置されていた。立地的に、トンネル掘削時に殉職した人々の供養じゃないかと思った…ただ、それにしてはお地蔵様が新しい。ひょっとして最近になってトンネルに幽霊さんが現れるようになったとか?

 

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横吹八丁は山の中腹あたりの隙間を歩く道だったらしい。道としてはもう残ってないらしい。崩れまくりで道は消え、歩けないっぽい。八丁=八町で約873m。その距離かつ崖の上・下は川というスリルがたまらん道だったんだろうねえ。

 

一応、入り口2か所は分かった。地図に照らし合わせて探さなきゃまず見つかるまい…。

出入口①  看板奥、落石フェンスの始まりあたりより

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ちょっとフェンスの向こう側を見たものの、道らしきものはなし。というか、崖をコンクリで固めてあったので消されたくさい。

出入り口② 案内板の先。向こうは店舗、店舗裏から上る

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書かれている文章の通り、店舗裏をこっそり覗いたら上り口があった。しかし、何人とも入り込めないよう、上り口はコンクリで固めてあった。そんなに危ない道なのか…人が使わないとあっという間にダメになるらしいがね(北国街道の難所としては、岩鼻狭間という場所もあり。切通もあるそうで興味があり、そこは一度歩こうと思って調べたが通行禁止っぽい。さほど崩れていないらしかったが昔はロッククライミングの名所、今は落石監視の機材や鉄塔なんかがあって常に人の手が入っているせいなのかも)。廃道(古道)好きだけど、無駄にキツい道だと関わりたくない感じになるわ。

 

そんな道なので、明治9(1876)年に村人が山肌を削って、新しく道を作った。翌明治10(1877)年開通。漢文の石碑もあって、そこには場所の概要、新しく作った道路の距離、経費と新道の効果、6年間通行人から金取ったなどと書いてあった(多分)。

道普請は許可制だったようで、国からの条件付き(旧道を廃止せず維持)でOKが出た。が、守られなかったのかね…案内板には「通行がなくなった」と書いてあった。

 

★★☆☆☆

渡し場より廃道が気になってしまった。

 

<横吹八丁>

開通年 中世

 

 

 

 

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変な所(道路わきの崖上)に南無阿弥陀仏。見た感じ古そうなものだけど。こういうの、どうやって運ぶんだろう。その場で削りだし&彫るのかね?