お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

長沼城

令和元(2019)年の台風19号災害で、長沼城跡の上に作られた堤防が決壊した。

その後、堤防整備事業の一環でココを発掘調査することになったらしい。何しろ堤防が決壊した理由が、長沼城の埋め立てた堀のせいという説があるぐらいだからな…。現在発掘中。

 

壊れた堤防も平成14年度~平成28年度の15年かけて「長沼地区桜づつみ整備事業」という名で幅を広くし強化されていた。住民が桜を植えたり草刈りをしたりと、総出で整備し大事にしてきた堤防のようだ。完成後数年しか経っていない。

 

 

 

元和元(1615)年に成立した長沼藩1万8千石がかつてココにあった。貞享5(1688)年に廃藩された、短命な藩だった。藩主は佐久間氏で、大阪の陣で戦功を挙げた佐久間勝之という人が藩祖である。それから数えて4代目、佐久間勝親は時の将軍・徳川綱吉の小姓に命じられたが、病と偽ってこれを拒否。すぐに仮病とバレたにも関わらず、また懲りずに仮病で休んだ。さすがに綱吉も怒って長沼藩を廃した。当時20歳の本人にサボり癖があったのか、綱吉のことがよほど嫌だったのか…どちらだろ?

 

長沼藩成立以前から、この場所にはお城があった。もちろん名前は長沼城で変わらず。ここを拠点にしていた島津氏長沼家が作った館みたいな素朴なお城だったらしい。信州島津氏(信州家)のうち島津初代忠久の三男・忠直の家系が長沼家と称していた。その島津長沼家が武田に攻められ逃げた後に武田軍が長沼城を接収した。武田信玄の北信濃攻略の拠点として度々大規模改修をされて、かなり立派なお城に変貌したらしい。

武田が滅んだあとに上杉がこの地を支配した。そのとき、上杉家の家臣やってた島津長沼家の当主・島津忠直(←この名前の人多すぎ)が長沼城に復帰した。だが上杉の国替えのときには長野に留まらず、ついていったようだ。

↓お城の全体像。

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立派な城下町ができたので、武田は北信濃における拠点を海津城から長沼城に移したほど。江戸時代に入ると長沼藩の藩庁・城下町として賑わったはず。そんな長沼城だが、今は畑が広がっている静かな場所。

 

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お城の北にあたる場所には現在「守田神社」がある。この神社は古く、延喜式内社という。創建年は分からない。社殿が新しいように感じるが、これは正保年間(1644~1647)に現在地に移転してきたからだという。元は100メートルほど離れた別の場所にあったが、洪水で流されたためという。

ここには、いかにも武田さんのお城っぽい、三日月堀があったらしいのだが。

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なんもないねえ。

ちなみに、守田神社から少し行ったところにお城の大手門があったようだが。

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↓大手門があったらしき場所から、侍屋敷方面。

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単なる住宅地ですなぁ。この反対側には大きな外堀や土塁があったそうだが。

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写真中央付近を横切るようにあったと思われる土塁、奥の突き当りまであった外堀。全く跡形なし。綺麗に平地にされてるー。

なんでここまでお城の気配が完全になくなっているのかというと、千曲川の氾濫で全部流されたからだという。自然の力って恐ろしいねえー。

 

千曲川の堤防道路から見た北三日月跡地、本丸方向。

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現在果樹園が広がっている。

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↑左側は千曲川

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ここを本丸方向へ歩く。

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この辺が本丸かなー? 

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現在、本丸は堤防道路の下にある。堤防道路自体は近年整備されたような印象を受けるものの、建設されるときに発掘調査したような形跡もない。果樹園と住宅地で調査できなくなっていたのかな。

 

東屋の近くにはお城の来歴を書いた案内板があった。これも新しい感じがする。

<長沼城の略歴>

・島津氏が鎌倉時代に作った館が元になっているというが、それは確定した話ではない

・しかし島津氏が長沼城を使っていたのは確かで、武田に追われ島津氏がいなくなった後の長沼城を武田氏が改造し続けた

・武田氏滅亡後、織田→上杉景勝→豊臣(直轄地)→松平忠輝→佐久間(長沼藩)と支配者が代わり元禄元(1988)年廃城

<長沼城の概要>

・廃城になる前(1680年頃)の古地図等を元に現地調査を行い、城の復元図を作った

・城域:南北約650m、東西約500m、面積約34ha

・北端は玅笑寺付近、南端は貞心寺、西端は県道368号線より130mほど西へ、東端は堤防より150m東へ

天守閣はない

・残された遺構は「天王宮の土丘」「北の三日月堀」「西の三日月堀」の一部

・大手門の門扉2枚は玅笑寺にある

 

「北の三日月堀」跡、さっき見たけど遺構あったのかしら? ちょっと窪地になっているから上から見たら三日月の形が浮き上がるとかかな?

「天王宮の土丘」というのは、これである↓

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堤防より低い位置。

本丸方面↓

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下りてみよう。

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春先なので花もなく、春っぽいものは土筆ぐらいだった。しかも、かなーり小さい奴。

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本丸跡に到着! なんもない!

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二の丸到着! なんもない!

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復元図では土塁・堀・馬出しへ続く橋?があったようだが、見事に平地に。

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この方角へ向かうと、遺構のひとつ「天王宮の土丘」があるらしい。

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↑これが本丸の土塁一部。こじんまりとした…。

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その手前には南三日月堀跡の標識。石碑があったけど、長沼城とあまり関係なさそうな内容のようだ。

 

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ここはほぼ唯一の遺構ということで、記念碑的なものがいくつも集まっている。

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読めません。

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上にのぼってみた。

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五輪塔?とか祠とか、洪水で流されたあとに残った物をここに全部集めてきた感がある。木は相当昔から根付いてそうだけど、これが土塁の跡だよって言われないと分からないかも。

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戻ります。

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何か看板が遠くに見えます。

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堀があったようだ。これもまた、完全消滅か。

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また歩いていくと。

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櫓跡に出くわす。もちろんこれも遺構なし。現在はビニールハウスに。

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跡形もなく消えた遺構を示す看板だけは、やたらある。

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この看板だけが頼り。ただ、大きなお城だったことは分かった。

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まだ他にも「馬出し」「西三日月堀」があるはず、この道をまっすぐ歩くとそれらの看板があるはず…だが、もういいか、という気分になっていた。多分看板しかないし。

 

 

★☆☆☆☆

何もなかった。川ってヤバイ。

 

<長沼城>

築城年 室町時代

築城主 島津氏

構造 平城

妻女山陣場

第4次川中島合戦で、上杉謙信が本陣を置いた場所、と言われている。

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現在は松代妻女山招魂社という神社と見晴らし台がある。招魂社は戊辰戦争の折に従軍し命を落とした松代藩士52名を弔うために明治2(1869)年に第10代藩主真田幸民が建立したもので、日清・日露・太平洋戦争などそれ以後の戦争での戦死者も合祀され、現在は969柱の御霊が祀られているという。ちなみに、幕末の松代藩は勤王(政府軍)に属していたらしい。

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この辺りは平場になっており、標高は低めだが見晴らしはよろしい。

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ここまで車で上がってこられる。フラフラ歩いていたらランニングシャツに短パンのオッサンが現れて、驚いた。

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招魂社の参道らしい。ここを駆け上がってきたのか、なんという元気。ぬっと現れたので恐怖を感じましたわ。

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何かの石碑。有名な戦争の舞台のひとつであるこの場所、偉い人が訪れている。どうやらその記念碑らしい。

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大正天皇御手植えの樹木(枯れている)。

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真田伯爵御手植えの樹木(枯れている)。真田家は伯爵の基準を満たさなかったので当初は子爵だった。が、早い段階で政府軍に参加していたので特例として伯爵に叙された。五爵の第三位で、徳川御三卿や上杉家・伊達家などの有名武家と同じ身分だ(出世してるねえ)。

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ここが展望台付近。妻女山についての案内看板もあり、ここに陣を置いたのか―と思う。わりと低い場所にあり(これ攻撃しやすくないかな?)と心配になることと上杉軍1万3千の収容所としては手狭かなと思った。整備されているせいか、痕跡らしきものは全く見当たらず。

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この山の裾を走る上信越道の更埴ジャンクション~須坂長野東インターは平成5(1993)年開通なので同時期にこちらも整備されたのではないかと思う。

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新しい感じだが明治33(1900)年の建立。大正天皇東宮時代に一度いらしているようだ(2回も来るなんて、よほどこの場所がお気に召したのかしら)。

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上杉謙信はこういう景色を眺め、武田軍の動きを察知し、雨宮の渡しをそっと渡り川中島の武田本陣を攻撃した、のであろうと思っていた。

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実は。

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こっちが本物…。斎場山が訛って妻女山になったのか、ここから山を更に登って20分くらいだと。斎場山という名前の由来はこの山に古墳が点在しているからだという。戦国時代ぐらいでも古墳=お墓の認識があったのか、と少し驚いた。斎場山には「陣場平」「床几塚(謙信本陣)」「千人窪(伏兵千人潜みます)」などの地名が残る。

斎場山まで車でも行けなくはない。

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軽トラなら余裕だろうよ。

 

 

★★☆☆☆

どこが本当の陣場跡なのさー?

 

 

<妻女山陣場

上杉氏本陣跡 永禄4(1561)年第四次川中島合戦の際に使用

 

 

この陣場跡には上杉謙信ゆかりの場所がいくつかある。

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謙信が槍の尻で突いたら湧き出た泉。その名も「槍尻之泉」。喉が渇いた謙信が天に祈りを捧げ、槍の柄の先端で地面を叩いたら水がびゅーっと噴出したとか。

 

会津比売神社。

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こちらは斎場山の山頂に元あった神社という。上杉謙信の庇護下にあったために武田信玄が火付けしちゃったから麓に移転してきたそうだ。御祭神の会津比売さんは出速雄命のお嬢様だという。北信開拓の祖神の子にあたる重要な神様のようだ。どのくらい重要かというと、貞観8(866)年に「従四位下」という位をもらっている。上から八番目の位階、人間だと殿上人・貴族になれる。ちなみに父上の出速雄命は貞観2(860)年に従五位下で娘より低い位(大国主の孫だから仕方ないね)。会津比売さんの夫が神武天皇の曾孫に当たる建五百建命さん(初代科野国造)と婚姻を結んだために位が上になったのかと思う。朝廷と彼らに滅ぼされた出雲系との和合の象徴、ということかねー。

この神社の境内には謙信ゆかりの史跡がある。

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上杉謙信公槍先之清水。湧水らしい。

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一応「謙信」と名が付いているぐらいだから、こっちも不思議な力で湧き出させたのかと思いきや…そういう伝説もない、ただの湧水らしい。しかも比較的新しいモノらしい。

上杉謙信公鞍掛の松」。いやいや、杉にしか見えないのだが。

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と思ったら、鞍をかけた松は枯れてしまって二代目がスクスク生育中とのこと。

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 正直、陣場跡よりこっちの神社の方が興味深かったです。

真田氏本城

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ここまで車で上がってこられた。すぐ近くまで集落があるので舗装路だったんだろうけど、ここ数年で造られたと思われる駐車場もありで楽々。観光客もいて、駐車場がら空きではなく。新しいトイレまで整備されてて力入ってんな、と思った。真田氏館の対になる詰めのお城(の中でもメインのお城。他にも支城がたくさんあり真田氏本城を取り囲むように存在しているようだ)である。

真田氏本城はそれなりに高い場所にあり、元々峠のようだった。

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達磨堂というお寺だかお堂だかがあるらしい(誰も向かう人はいない)。地元の守り神みたいなものかも?

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この峠までは舗装されていたが、この先は砂利道だった。パッと見、古い時代からあるような道。轍があるので軽トラぐらいは行き交ってそう。

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その道の先には学校らしき建物があったので、大きな集落があるのかな?

 

本城の中に入ってみる。

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さっそく竪堀を発見。ここも観光客向けに案内板が散りばめられているようだ。

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駐車場からは普通の公園のように見える(堀も1か所しか見当たらず、公園として整備されたため壊されているのかね?)。

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この辺りはなんだかよく分からない…。更に先へ進む。

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郭か? という感じの場所。

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まさか、あの小山が本郭なのか? あ、これはちょっとガッカリ感あるよ…と思った。

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小山の前にはまた竪堀。

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えええ…本当にこれがそうなのか…俄かに現実味を帯びてくるしょぼさ。ここから見える周囲。

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お花見にはいいかもね…。そして、説明板があった。

・本郭は東西8.6m、南北37mの大きさ

・南側に高さ2mの土塁がある

・北側に二の郭、三の郭と続く馬蹄状の形(3の郭の先は急な崖)

・天白城も同じく馬蹄形状

・お城の周りには天白城・砥石城・矢沢城がある、真田氏館も見下ろせる位置

・各城館の司令塔ともいうべき位置にあるので、おそらく上田城築城以前の本拠城

おや? ここまで見てきたものとはずいぶん違うぞ?

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↓天白城(写真奥)

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↓真田氏館方面

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つまりこれが南側にある土塁なのか…なんか騙されてたぜ。

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上りましょう。

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しょうもないイタズラ。

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土塁というか、単なる山道でした。

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やっと抜けた。↑これが土塁跡だった。

本郭到着。

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本郭・二の郭・三の郭の形状と真田氏本城の全体図。

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駐車場辺りは段郭だったようだ(駐車場側は畑や宅地で随分人の手が入ってる様子)。等高線の間隔からも分かるように、駐車場側はなだらかだが他3方は急峻。しかし段郭もコソコソ造られているっぽい。

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ここから洗馬城・尾引城・根小屋城・砥石城米山城と見渡せる。他にも支城の名前が見え、松尾古城(上州方面)、横尾城(洗馬城・寝小屋城とともに松代方面の押さえ)、伊勢崎城・矢沢城(上田方面)、殿城山城(天白城と同じく真田氏本城の後詰)とあり相当厳重に守られている。さっきのガッカリ感は一気に吹っ飛んだよ。

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二の郭方面へ。

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二の郭と三の郭の間には虎口があった。

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二の郭三の郭に跨る帯郭があるらしく、下りてみた。二の郭の下、敵さんが攻め上がってきそうな雰囲気。そして石積み。

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ドン尻の三の郭へ。

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ドン尻の端。ここでお城はおしまいー。

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このお城は天文年間(1532~1555)に築城されたと言われている。築城主は真田幸隆。天文10(1541)年に海野平の戦いが起こり、真田家を含む滋野一族は信濃を追われた。その前から存在するお城なのか、真田氏が旧領を回復した天文20(1551)年以後のものか、確定する資料はないらしい。が、海野平の戦いで勝った村上氏が支配拠点用として改修し使ったお城が戸石城であり、これは真田氏支城だったことが分かっているらしく。そこから想像すれば海野平の戦い以前から真田氏本城があったんだと思う。ちなみに、真田氏最初の拠点は洗馬城だそう。

初代が幸隆かと思ったけど、その人の父親の真田(海野)頼昌という人が家祖だということになっているらしい。が、「真田」というおうちはずっと前から(1400年ごろには)あったという資料もあり(こちらも滋野氏後裔だが禰津系)もう訳が分からない。当初は禰津支族だったが、海野さんの子が真田家に養子に入った(海野本家は滅んだので海野後裔を名乗った)又は海野さんの娘と結婚した真田出身者によって海野氏後裔を名乗り始めたとかなのかねえ。真田頼昌は海野氏庶流の出身だとされているので前者が真実かしら?

そういえば、真田はなんで海野平の戦い(滋野一族VS村上・諏訪・武田連合軍)から一転武田家の家臣になってるんだろう、と思ってたけど。海野平の戦い時の武田家当主は信虎という人で、海野平の戦い直後にクーデターが起こり信虎追放→当主が晴信(のちの信玄)に代わっていた。一方、海野平の戦いの戦後処理で武田領となった佐久地方(滋野一族の旧領一部)はクーデターのドサクサで滋野一族の亡命先だった山内上杉氏に奪われた。ここには真田氏も身を寄せていたらしいが、真田の本領だった小県までは侵攻せずに終わってしまったので、イライラして武田氏に仕えることにしたらしい。代替わりしてたから、すんなり雇ってもらえたんだろうか。この時の伝手は色んな説があるらしく、誰の紹介かは秘密のようだ。

 

 ★★★★★

最初「しょぼい」と思ったせいなのか、最後には満足した

 

 

<真田氏本城>

築城年 天文年間(1532~1555)

築城主 真田幸隆

構造 山城

 

真田氏館

スギ花粉の最盛期。鼻水とくしゃみが止まらない。くしゃみするたび「誰かが私の悪口言ってる!」と思って嫌な気分になる私は、この時期はそこら中で常に悪しざまに言われている気がしてイライラします。

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真田家の本貫地へ行った。真田氏の館は現在、公園になっている。かなり保存状態が良く、館として使われていたままの完全に近い形で残されているそうだ。真田家初代幸隆の時代に造られたとのことで、三代目の昌幸が上田城に移るまで使われていた。

もう観光客はいないか…と思ったものの、あちこち出歩くのが好きそうな老夫婦とか歴史好きそうなおじ様とか「歴女です」と名乗りそうな女性とか、それぞれに散策していた。

正面入り口(大手門跡)↓

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親切にも門の名前やら看板があった。大手門跡には立派な石垣が残されている。石垣だったのは意外。

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門は大手門の他、搦め手門、東門とある。台形の敷地で、南東にある東門付近だけ少し角がかけたような形になっている。敷地は土塁でぐるりと防御されている。大手門には桝形があるが、搦め手門や東門には桝形がない。ただし、東門には桝形に代わる何か施設があったような気配(ちょっと角が欠けてるから)があるとか。

↓こういう形

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土塁高さは2mくらいかな? 延べ520mの長さで、今はないが外周に堀がめぐらされていたらしい。道路が堀跡ということかも。

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土台も石積みがあり、かなりしっかりしている。数百年経つのに崩れる気配なし。

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こちら側は「西曲輪」という名前で、北西隅には「厩」という施設もあったようだ。10m四方の区画だそうで、文字通りお馬さんのおうちだったんだろう(馬場を兼ねてるなら狭そうだ)。そこも入口以外土塁で防御されているとか。

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本郭だった場所には現在「皇大神社」が。この神社の創建は昌幸が上田に移る際、初代から使用してきた館が荒廃することを恐れ伊勢神宮の御分霊を勧請したことから。

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 神社の鳥居から本殿までは「東曲輪」と呼ばれている。そういえば本殿は少し高くなっている。

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北側の土塁↓ こちら側には大沢川という川が流れている。

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ここから東門方面へ。遊歩道みたいになっている。

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←本郭        (遊歩道)    土塁→

 

 

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東門到着↓

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東側のちょっと欠けてる部分の様子。

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東側の土塁の様子。

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おや、こんなところにマレットゴルフ場が。

 

★★★☆☆

石垣があった、っていうのに一番驚いた

 

<真田氏館>

 築城年 天文22(1553)年以降?

 築城主 真田幸隆

構造 平城

 

 

東側は水道施設?か何かがあった。

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皆神山

その筋の人にはお馴染みの聖地、皆神山に行ってきた。この日も愛好者が県内外から巡礼にきていたっぽい。駐車場には色々な土地のナンバーつけた車が数台。

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↑こんな場所である。

 

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山頂付近には皆神神社がある。ここは自在山自在神社で出てきた3兄弟の次兄が修行した場所らしい。修験道の拠点である。神社の通称は「皆神神社」だが、正式には「熊野出速雄神社」という。この神社は現存する数少ない修験道の遺構ということで、貴重な建物だそうな。鳥居はごく最近になって作られ、当初は山門しかなかったという。

鳥居の奥に見える神社は「侍従神社」。

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↑山門。

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↑侍従神社本殿。

最初ここ本殿かと思った。違うらしい。ややこしい。

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↑熊野出速雄神社の本殿。侍従神社の裏にある。

 

「熊野」は天台宗系の修験道一派の本山派が拠点としていた熊野三山からきているらしい(本山派に属していたようだ)。「出速雄」は諏訪大社の神様・健御名方神の御子様にあたる神様らしい。この方は北信地方の開拓祖神という。養老2(718)年にまず、出速雄神社が創建される。中世に修験道が盛んとなり熊野権現が勧請されて熊野出速雄神社となった。社殿は康応元/元中6(1389)年に再建され、当時は修験道の道場として建てたためか建築様式(撞木造り)に修験道要素が色濃く残っていると。ちなみに、撞木造りは善光寺本殿と同じ様式である(善光寺修験道がどう関係あるかは知らないが)。

大規模な道場だったようで最盛期には信濃全域の本山派山伏の支配権が皆神山にあった。

 

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侍従神社本殿の脇から「侍従大神」のお墓に抜ける小道があった。この神様は佐久の内山城主の子で、密教修験道を修めるべく各地で修行していた内山満顕が内山氏滅亡の後こちらに入山し、侍従天狗坊と名乗り皆神山の修験を完成させたという。その人のお墓。彼は厳しい修行を長らくしてきた行者さんで、「吾を念ずれば諸々の願いを叶える」と言い入定という究極の修行(即身仏になる)をしている。子育てから長寿、火防などの御利益があり、特に子供を侍従大神の弟子にすると無病息災に育つんだとか。奥の方の古墳みたいなのが入定所になるのかな。

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最奥には浅間神社もあった。

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他にも色々な祠があちらこちらに。

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自然豊かな場所でサンショウウオの仲間まで住んでいる。近年まで小さなゴルフ場があったようだが、今は失われた。代わりにソーラーパネルが並べられていた。とはいえまだ自然がかなり残る小さな山だ。

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ごく普通の、田舎に昔からある古い神社に見えたのはここまで。問題はこの先である。

 

まずは熊野出速雄本殿向かって左の天地カゴメ之宮。碑文があり、それによると

・昭和49年に私に「国常立大神お立ち上がり」の神示があった

・「皆神山に行け、そこにお立ち上がりとなる、神の御出現じゃ」

・「神の州と書いて、神州。信州へ」

・出かけた皆神神社の前で神がかり状態

・そして日本の八百万の神様の他、龍神眷族、モーゼ、キリスト、ギリシャ神話の神々など皆がココに集まった

・このたび、神の御許しを得て宮を建立しました

だそうな…。お宮自体は木の祠という感じで、碑文より小さいサイズ。てっきり熊野出速雄神社本殿の近くにあった(本殿のような大きな建物が二つもあるし、侍従神社本殿を皆神神社だと勘違いする人は絶対いると思うような雰囲気だった)ので、碑文中の「お宮」=熊野出速雄神社本殿、と思っちゃったよ。

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細かい、怪しいものも多々。正面の木の杭の文字がさっぱり分からなかったが、空の融合だとか興味ある内容が四面に並ぶ。杭の根元の石にも消えかかった文字(もう読む気が起こらない)。奥の白杭はいつものアレ(世界人類が平和云々)。

トンデモ本によく登場、某宗教の教祖・出口王仁三郎さんの歌碑?もあったよー出口さん、皆神山を聖地認定していたようだ。

カゴメ之宮と並ぶ愛好者の礼拝スポットがこの看板↓

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今回はこの看板を見に来たようなもの。人気過ぎて文字が消えかかってる!! 内容は大変興味深い。

 

世界最大最古の皆神山ピラミッド

◎皆神山の造山方法はエジプトのピラミッドのように人の労力ではなく初歩的な重力制御技法(部分的干渉波動の抑圧)により、当時長野盆地が遊水湖沼(最後のウルム氷期の終末期で東・南信の氷解水による)となっておりその岸のゴロタ石等堆積土砂石を浮遊させ空間移動させるといったダイナミックな方法でした。

(したがって現在でも皆神山山塊だけが非常に軽く負の重力異常塊となっています)

◎この皆神山の盛土的山塊が自重により不均衡凝縮=ねじれ摩擦現象=起電=電流発生といったダイナモ機能山塊となり、電磁波が生じこの磁力と重力制御(反重力)により物体(電磁反発飛昇体)が垂直に離着陸するようになったのです。古文書に出てくる《天の羅摩船》等がこの飛行体です。

謎の皆神山ピラミッド物語

◎皆神山は、古い古墳時代弥生時代さらに遡っての縄文時代やエジプト・インダス・黄河シュメール各文明よりもずっと古い、今から約2~3万年前浅間山・焼岳ができたころ。飯縄・妙高・富士は約9万年前)の超太古ともいうべき遠い旧石器の時代に造られました。(人口造山=ピラミッド、ピラミッドはギリシャ語源で三角形のパンの意)

◎この皆神山を造った人間は、古事記に出てくる須佐之男命(自然主義的な科学技術者集団の総称)で現代科学とは全く異質ではるかに優れた高い知的能力をもつ人類でした。(旧人ネアンデルタール人系)

◎では、何のために造ったかというと、墳墓ではなく地球上の各地や、宇宙空間への航行基地として造られたのです。

皆神山ピラミッドの祭神は知力・体力の神

◎超太古の宇宙航行基地である皆神山の祭神は従って高度の知的能力集団でみんな宇宙航行や宇宙基地に関係する次の四神です。

○熊野出速雄命

 宇宙船《天の羅摩船》等の航行の技術・管理を引き継いだ最後の集団で、北信地方の開拓祖神

○少名毘古那神

 宇宙船で皆神山航行基地を離着した大国主命の参謀集団

○泉津事解男神

 皆神山航行基地をはじめ…全宇宙基地を管理した集団

○速玉男神

 地球周回軌道の人工衛星(宇宙航行の中継基地)の技術者の集団

◎このように皆神山は、神々が活躍した基地であり、宇宙船で現れたり姿を消したりしたので自然人たちは神聖な山=高天ガ原として崇め、後世に伝えたものです。

 

好きだー!!と叫びだしたくなるような。この手の文章は、そのまま読んで楽しむものだと思う。ツッコミは無粋。中二的な小難しい単語を並べ、分かったような分からんような文章。難解な文章を「フムフム」と理解した気分を楽しむものである、と考える。

今の人類とは異なるヒトビト(数万年前に滅んだとされるネアンデルタール人)が岩を空中浮遊させて作った、宇宙基地。山自体が電動機だか発電機だかになっており、宇宙船自体も(反重力は現在も実現不可能)超電導リニアっぽい感じで浮かんで飛ぶというのかね? 磁力だけで宇宙に行けた! これはNASAさん・JAXAさん研究したほうがイイネ。

少名毘古那神は大国主の元でその国造りに参加した神様。やってきた時「天の羅摩船」という船(何かの実らしい)に乗ってきたという。イメージとしては一寸法師

泉津事解男神イザナギの子で、神話だと須佐之男命の兄弟に当たる。速玉男神イザナミの子。泉津事解男神と速玉男神はセットで扱われることが多いよう。イザナミが死に、その後を追ってイザナギが黄泉の国へ行ったときのこと。身体が腐りかけたイザナミが自分の姿を見るなと約束させたにも関わらず、イザナギが見てしまい、大喧嘩になる。「お前とは絶交だぁ」などと言い争い、キレたイザナミが唾を吐いた。その唾から生まれたのが速玉男神(唾の神様→古代では約束をするときに唾などを交換した)。この二柱は研究熱心というか、性に貪欲なイメージを私個人的に持っており。神様を出産したいがなかなか上手く出来ないので悩んでいたとき鳥の交尾を見て「我々もアレをやろう」と言い出しマネしたら上手くいったことから、日本古来の体位は後背位ではないか、という話を聞いたほど。その後もやりまくったとはいえさすがに腐った体は見られたくないだろうし、見たくなかっただろうねぇ。イザナギが掃き払った(腐ったイザナミとの関係を清算した)ときに生まれたのが泉津事解男神(絶縁の神様)。この神々は熊野に関係がある。熊野本宮大社主祭神須佐之男命、熊野速玉大社の主祭神は速玉男神(またはイザナギ)とも言われている。泉津事解男神は速玉男神と一緒に祀られていることが多いらしい。熊野の修験道と深い関わりのある神社だから、このような神様を登場させたのだろうか。としたら、教養の深い人物の手による看板だろうな。

熊野や修験道に関係ない少名毘古那神や大国主が出てきたのは「天の羅摩船」って言ってみたかっただけなのかもしれない。

真面目な方の看板↓。

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温度差がある二つの看板は、並んでいた。

 

皆神山は溶岩ドームらしい。この山だけ独立しており、見た目もちょっと変わっている。溶岩ドームだと言われれば納得できる。そして松代群発地震震源地はココである(だけど噴火したりはしなかったらしい)。山全体がプルプル震えてた感じ。そして群発地震の時、山が光ったという目撃談をよく聞く。あれれ…これって発電中のスパークだよね!

特徴的な山だからか、修験道の霊山になったり信仰の対象になっている。皆神神社付近には井戸のあとらしき結界張られている何かが点在していた。

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麓に「大日堂」というお堂があり、そこに水が湧いている。元々この辺りの水は綺麗だが、特に有名らしく2リットルペットボトル数十本を携えて汲みに来るような迷惑な輩も出ちゃうとか。で、この池、大日堂近くの大日池まで繋がってるらしい。名水が湧くような場所と繋がってれば、そりゃサンショウウオも棲みつくよね。

 

ここはまだまだ見どころがある。車で通っただけだが、岩戸神社というピラミッド入口を見つけた。正直、古墳とむき出しになった石室にしか見えなかった。他にも、山の上に「小丸山古墳」という古墳があり、これは大正時代に「天照大神の御陵だ」と話題になって大いに賑わった。この名残は大日堂にあるそうだ。

信州→神州というのは、太平洋戦争中に軍部が思いついたのと一緒で、皆神山という名前も縁起いいじゃん! と最初はこの山の下に大本営を造り始めた、その跡地入口もある。ここは溶岩ドーム、ものすごく脆いし軽い岩質で出来ている。掘ってみたけど役立たずで、象山の地下に改めて大本営を掘り始めた(あっちは堅い)。

大本営のトンネルとは別に、もともと皆神山内部には空間があったとも言われている。あるとき重みに耐えかねたのか、潰れてしまった。で、あんな形のお山になったとされる。潰れる前は綺麗なピラミッド型だったのだ!

 

★★★★★

竹内文書」ファンなら満足のお山。今回同行した大人も「竹内文書」関連本を何冊か持っていた記憶があり、「今日一番笑った」と大変喜んでいた。

 

 

<皆神山>

30~35万年前にできたとされる

雨宮の渡し

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第4次川中島合戦で有名な雨宮の渡しに行った。

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ここの場所については↑の写真の通り。

元々この場所は街道の要衝にある渡し場だったらしい。案内板には「川中島平の死命を制するほどの重要な拠点でもあり、戦術戦況を左右する場でもあった」と仰々しく書いてあった。

横田河原の戦い大塔合戦などが対岸で行われ、近くのお城(生仁城)でも戦闘が何度かあったようだ。確かに重要な場所であるらしい。ただそんな大事な渡し場なのに、武田軍は抑えるどころか合戦中にも偵察とか出さなかったのかなーと疑問に思った。挟み撃ちをする予定だったので、戦闘予想地域から離れている場所に兵を置く気分はなかったのかしらね。一応、この当時の生仁城主の雨宮氏は武田支配下に入っていた模様。名字が「雨宮」というぐらいだから、この家が渡し場を管理してたんじゃないかな。川を渡る上杉軍に気づかなかった訳じゃないだろうし、黙って見過ごしていたとすれば…上杉のスパイだったのかも。

 

一応、千曲川のそばではあるものの。今は川筋が変わり、この場所の周りは工場・住宅・田畑となっている。

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申し訳程度に、碑の傍には川だか用水路が。

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石碑の周りはちょっとした公園になっている。桜の木もあるものの、まだ芽がかたそうだった。

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雨宮の渡しと言えば、この言葉↓

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べんせーしゅくしゅくー。

なんと頼山陽直筆の石碑で、いたるところに「拓本とるな」の看板。

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どうしても欲しければ、某所で1枚3500円で売ってるからそこへ行け、とも書いてあった。碑文の拓本マニアの人って意外といるのかしら。会ったことない。

碑文は、以下の通り。

 

鞭聲粛粛夜過河(鞭聲粛粛夜河を過る)

暁見千兵擁大牙(暁に見る千兵の大牙を擁するを)

遺恨十年磨一剣(遺恨なり十年一剣を磨き)

流星光底逸長蛇(流星光底に長蛇を逸す)

 

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どんぐりころころ。

 

 

★☆☆☆☆

目ぼしいものはなし。

 

 

<雨宮の渡し>

開通年 不明(平安時代?)

 

 

今話題のオスプレイ見たー!! 年末年始にもF15みたいなのを何度か見かけて(しかも並んで飛んでるとか)、今年は幸先いいなと考えていたが。まるでオスプレイ祭りかのように、こうも立て続けにあの機体を見かけるとは思いもよらなかった。やっぱり姿も音も独特ね。オスプレイは、ジェット戦闘機みたいに音はすれども姿が見えぬ(速すぎる)…ということがない程度のスピードだから、探しやすいのも良かった。ちなみに本名は「V-22」というそうだ。

原畑城+室賀氷上神社

晴れた日に、室賀峠→原畑城→室賀氷上神社と回ってきました。

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室賀峠というのは、どうも古くから存在する道のよう。その記念として、ちょっとした広場があった。

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見晴らしは…。素朴な峠、といったところか。

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とりあえずコイツ↑が邪魔をしている気がする。

石碑いろいろ。

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秋の七草の歌。山上憶良斉明天皇6(660)年~天平5(733)年)が詠んだために、秋の七草というものができたらしい。春と違って、食べる草ではない。観賞用であるが、これを愛でるなどの行事的なものはない。これが代表作じゃないが、花の名前を羅列するだけなのに長らく残る作品になってるなんて…私にもできそうと傲慢にも思ってしまった。

この歌のような、万葉集などに載っている和歌の碑を昭和61(1986)年に建立、とあった。内訳は万葉集から4首、勅撰和歌集詞花和歌集)から1首。詞花和歌集のものは、長元5(1032)年に信濃守として下向してきた藤原家経が詠んだもの(ただし、この場所ではなく伊那で詠んだもののようだ)。その他にも謎の石碑群があった。

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たぶんタイムカプセルだなー2036年に掘り出すのを忘れられたりして。

 

戦国時代の史跡としても、こんな話が。上田原の戦いで武田に大勝し、意気揚々と本拠に戻る村上義清軍がこの場所で休憩。ニヤニヤしながら合戦を振り返ったそうだ。このとき、着ていた鎧を松にかけたらしい。「鎧かけの松」と呼ばれ、現在2代目の松がスクスク育っているとのこと。

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↑これが2代目かしら?

 

原畑城。

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現在は「原組公民館」があるあたりが主郭部分らしい。ここは居住用の館で、詰めの城(笹洞城)は別の場所にある。

周囲の様子。

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この道の先に、ものすごくちょっとした立体交差があった。それは原畑城の堀切を利用したものらしい。ちょっとしすぎてて、あとで調べて驚きました…ので写真なし。公民館の他は宅地・畑になっており、見る影もなし。昔は「原畑城」を示す碑があったようだけど、今はなくなっている。

城の規模は大きく、公民館の前の道のだいたい端から端までが城域だったみたい。

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八幡社。

この城の主は、この辺りを治めた豪族の室賀氏。村上氏支流の屋代氏支流という村上家の遠い親戚にあたる。とすると氏神も多分八幡神なんだろうし、それでひっそりと八幡社が残されているんだろうか。

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未だに「真田丸」の旗が。ここが室賀氏の居館だと具体的に示すものは一切ないが、唯一この旗が匂わせている。大河ドラマはつまみ食い程度にしか観ていなかったけど、前半の主要キャラだった室賀正武は知ってる。その人の御屋敷だ。さすがに旬は過ぎたので我々の他に見物客はいなかった。

ドラマでは小物臭が酷かったものの、実際の室賀氏は力のある豪族だったようで。当時は真田氏と小県地域を二分する勢力だった(北が真田領、南が室賀領だったようだ)。真田氏は滋野氏末裔の海野氏庶流ということになっていて、元々の領地から村上一族により信濃国外へ追い出された過去を持つ滋野氏末裔の真田氏と村上氏傍系の室賀氏は親しくなかったのかもしれない。

真田氏にとって一番近所かつ親近感もなく邪魔くさかったのと、わりと簡単に滅ぼせそうだったと思われたのだろうということで、当主の室賀正武上田城で誅殺。というのはドラマ通り。そんな程度の存在なら、殺したところで罪悪感持つこともなさそうだねえ。この件で室賀氏は一家離散の憂き目に遭う。真田氏に信濃を追われて、最終的には徳川家臣(旗本)になったようだ。

 

この場所は、室賀峠への往来を監視するような位置にある。今は室賀峠へ続く道が県道として2車線道路になっているが、古い時代の道も遊歩道として一部残っていた。その道は恐らく原畑城のごく近くを通る。詰めの城である笹洞城も、この道を高いところから監視できる。

ここから室賀峠を越えると村上氏の本領になる。前述したが、上田原の戦いに勝利した村上義清さんが室賀領を通り本拠に戻っていて、村上さんと室賀さんは山ひとつ隔ててお隣同士のようだ。

本家の屋代さんは村上一族の中でも地位が高い。室賀家は屋代氏庶流ということになっているものの屋代さんとは同格というか家族に近いようで、頻繁に子供をやりとりしている。室賀家から屋代さんの養子に入ったりその逆もあるようだ。室賀家も村上一族の中で有力な家なんじゃないかと勝手に思った。

村上氏が越後へ亡命することになった大きな理由の一つで真田さんによる屋代さん調略事件があったが、このときに室賀さんも屋代さんに同調したように思われる。室賀氏は分裂せずに信濃に居残ったらしい。村上さんも領地を接している豪族たちが軒並み離反されちゃ、そりゃ居づらくなるわね…。屋代さんは真田さんに誘われて離反したとはいえ、真田さんと距離を取って生活していたようで室賀さんみたいに狙われることなく、こちらも徳川家臣として落ち着いた。

 

居館の原畑城・居城の笹洞城を合わせて「室賀城」と呼ぶそうだ。昔は原畑城から笹洞城へ向かう道があっただろうけど、現在はなし。別の場所から登山道が伸びている。

 

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室賀氷上神社。

この神社の近くにある前松寺は室賀信俊さん(正武さんの祖父らしい)が建てたお寺さんで、室賀氏代々のお墓があるそうだ。しかし殺された室賀正武の御骨は納められてないとか(ご遺体を遺族に引き渡さなかったんじゃないのかねー?)。

室賀氷上神社の御祭神だとか由来とか、よく分からない。神社にはそれが書いてある案内板もないし、調べても出てこなかった。まぁまぁ古そうな神社ではある。

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貞亨4(1687)年に寄贈されたという、境内で最も古い灯篭がコレ↑

江戸時代初期にはこの神社が存在していたようだ。

室賀氏のお城「笹洞城」へはこの神社から登る。

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90分くらいで着ける、と小さく書いてあった。今回は上るつもりが全くなかったので行かない、が。

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神社本殿への石段どーん。何か上る気が失せた。ので、笹洞城登山道をちょっとだけ体験してみることにした(本殿への道がこの石段だけじゃなく、どうせ登山道の途中で分岐するだろうと思った)。

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こんなところにも旗が。どうせこの旗を目印に笹洞城へ行けるんだろう、絶対に登らないからねっと思ってしまう。

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やはり分岐があったので、右へ。左は旗が続いている、笹洞城へ連れてかれると思われる。

小春日和の急な山道。地面がぬるぬるしている。霜柱ができる→日差しで溶ける→地面ぬるぬる、だと思う。上のお宮に着くまでに泥だらけになった。

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やっと見えてきた。ぬるぬるしてなきゃすぐ着いただろうに…。

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本殿はまた少し上がった場所にあるようだ。もう少しぬるぬるの坂を上ればよかったのかもしれないが、今日のような日は石段をゆっくり上がった方がマシだったかもしれない。

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ごく普通の、古びた神社に見える。しかしここにも御祭神についてや由緒を書いた看板は見当たらないので、地元民の産土神が祀られててお参りも地元民しか来ないということなのだろうか。

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日陰な分、まぁまぁ歩きやすい…のかも?

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額に何か書いてあったが、読めず。

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覗く勇気も出ず。

お参りしたので、帰ります。

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下りはやはり子供に厳しかったのか、滑って一回転して。しかし微妙に喜んでいた。服と地面との摩擦係数が大きかったようで、ただくるっと回っただけで止まった。本人は喜び、私も安心。下まで転がらなくて良かったわ。

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ゆっくり下りたものの、泥が増し増しになってしまった。

下の境内は広場になっていた。ここはそんなに地面がぬかるんでいなかったが、子供は座り込んで遊び始めやがった。よほど泥遊びがお気に召したらしい。

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喜んでくれたようなので、良しとしよう…。

 

笹洞城↓

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中央の山の頂上らしい。遠目からだが、赤い旗がヒラヒラしているのが見えた。あの旗は頂上まで続いているのかもしれない。親切だな。

 

★★☆☆☆

堀切にしろ、他の遺構にしろ、けっこう目立たなくなっていると思う

 

 

<原畑城>

築城年 不明

築城主 室賀氏

構造 平城