お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

二ノ入館

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以前、荒砥城に行った時に↑を見たのだが。平時の館の話はほとんど聞かないなとずっと引っかかっていた。この図によれば、「二の入館」というらしい。

幸いなのか、弁天池という池は今も存在しているようなので、とりあえず行ってみる。かなりの田舎な場所のようなので、間違いなく開発されていないだろうから、何か見つかるんじゃないかと思う。図も、かなり細かく書かれているので土塁なんかは今もあるんじゃなかろうか。

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これ↑が弁天池らしい。奥の平屋っぽく見える建物が「善光寺大本願別院」「日本歴史館」。意外と標高が高い感じの山の中だった。

弁天池から荒砥城方面を見るとこんな感じ↓

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弁天池の周りはちょっと人工的な感じがした。

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しかし荒砥城内にあった図には弁天池は館の外にあるようだったので、この池と二ノ入館とはあまり関係ないのかもしれない。

 

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弁天池から館側へ下りた辺り。右側が弁天池。林に覆われており、池があるようには見えない。この場所より高い位置にあるし。

なんかこの辺、アップダウンが激しい。家よりも畑が多く人通りもないため道がかなり狭い。弁天池も人工的に作った貯水池のような気がする。図には載っていたが当時には存在せず、実はごく最近作られた池だったりして。

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↑お城のある山。

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左側がおそらく二の入館跡になるのかな。もしかしたら、二の入館跡地内に入り込んでる?

不安になる程度の山道感。

 

ということで、少し先に行った場所で撮影してみた。ここらが一番二の入館跡の近くのはず。

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やっぱりわかんなーい。

館跡に向かっていそうな道があったのだが、その道がかなり狭い&奥の民家に向かっているので不審者通報されるかもということで、断念した。

 

グーグルさんでこの周りを見ると土塁のようなものもあったが、凄くしょぼい感じがしていて、見てもなんか?だったので違うのかも。とにかく起伏が激しい道だったので、図のような広い館があった感じがしない…。

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ただ、農地がこれだけあるってことは昔は人もたくさん住んでいたんだろうな。

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結局何一つ見つけられず、悲しい思いをして帰りました。やっぱり、あの細い道を頑張って走れば良かったのかな。

 

☆☆☆☆☆

リベンジはしないかも。

 

 

<二の入館>

築城年 不明

築城主 山田氏

構造 平城

清野氏館

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クソ暑い毎日だった。しかしどこにも出かけないと辛い。そして出かけると夏の暑さに閉口し、やっぱり家に居たほうが良かったんじゃないかと後悔する、その繰り返しだった。なので、思い切って一番暑い時間帯に外へ出てやったよ。

 

手書きの看板が愛らしい古峯神社はこの辺りを治めた清野氏の屋敷跡だと言われている。元々清野氏の屋敷は現在の松代城にあったそうで、武田さんに屋敷を取られて新しく建てたものらしい。

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入口。狭い。右側はちょっとした崖になっているようだ。

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入口だけが狭いのかと思いきや。

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内部も狭かった。追い出された人がとりあえず建てた屋敷、としてはこんなもんなのか。神社の境内部分が狭いだけで、今住宅地になっている部分も元は清野さんのお屋敷の一部だったのか。

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やっぱり何か不便で困ったのか、また新しい屋敷(海津館)を作って引っ越す。

旧屋敷は倉庫として活用されたそうだ。酉の蔵屋敷と呼ばれる。

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ここには清野氏を偲ぶ石碑があった。地元民に愛された領主かと思ったのだが、そうでもなかったようだ。

側面に清野氏とは。という文章が書いてあるらしい。漢文だったのでよく分からないけど、多分そう。

清野さんは村上→武田→上杉とこの辺りの豪族と同じような流れで主君を変えており、慶長3(1598)年の上杉家の会津転封にも同じくついていきこの地を離れた。その後、この地では不幸が続いたという。

不幸が続いた時期は詳しく分からない。古峰神社は宝永年間(1704~1710)に清野氏と住民のために建立とあるので、いなくなってから100年くらい不幸続いてたのかな? 建立以後も何かあるたび「清野様の祟りじゃ」ということになっていたのかも。宝暦7(1757)年、天保11(1840)年と、この地で大火に見舞われ。清野氏を偲ぶ石碑も松代藩家老に文字を書いてもらい、建てて供養したのが弘化3(1846)年。

清野氏が会津に引っ越して不幸な目に遭ってた訳ではなさそう。残された地元民が恐れるほど清野さんが出身地を祟るとは思えないの。多分、清野さんもこの事実を伝え聞いたら驚くと思うわ。地元民としては「我々はこの地を離れ異郷で暮らす清野様に対して思いやりが欠けていた、ないがしろにしていた」ということだったらしいが、清野さんに対して後ろめたいことがあったんだろう絶対そうだろうとか勘ぐってしまうよ。何か隠してるのー?

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摂社があり、手書き看板の飛石天満宮の他にも祠が2宇。何の祠かは知らない。

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天保10(1839)年8月とあるのでそんなに昔じゃなさそう。

 

飛石天満宮

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神社の奥のほう、変な虫が出てきそうな薄暗い場所にあった。

天満宮というぐらいだから学問の神様? 何故飛石なのか、飛んでいくのは梅だろうよ、などと思ったのだが。看板が出ているぐらいだから、何か凄い神様が宿っているのだと思う。

 

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土塁とかそれっぽいものを探してみた。草ぼうぼうで分からなかった。ないのかも。

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神社の裏手は山のようで、雑草だらけ。この草のせいか暑いせいか、草いきれで窒息しそうなほど境内がムンムンしており、ついでに蚊にも何か所か刺された。退散。

 

一旦神社を出て、周りを散策してみた。

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田舎の風景、特に何も見つからず。

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またもや手書きの看板が。

・高源寺 観音堂

高源寺というお寺さんはもう廃されて存在していないようだ

真田信之次女の見樹院という人が甥の松代藩二代藩主の大学(高源院)の菩提を弔うために承応2(1653)年荒れた寺を再興し、高源寺と名前を改めた

明治元(1868)年に廃止

現在あるのは観音堂のみ

見樹院さんは非常に良い人だったらしい

真田信之供養塔

万治元(1658)年建立、大鋒院(真田信之)供養塔

天保15(1844)年建立、高源院(真田大学)二百回忌供養塔

があるそうだ

和算の額

算額は見たい! と思ったけど、暑いので帰ることにした

これも高源寺跡に残されているようだ(ちなみに複製品らしい)

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神社の東側は蓮の池があった。

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★☆☆☆☆

普通の神社

 

<清野氏館>

築城年 不明

築城主 清野氏

構造 平城

 

 

この後、贅沢してきちゃったよー。

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八王子山砦

冬に登っただけだったので、夏に再度八王子山に登った。その記録。

以前本で読んだ、八王子山のお城らしきものはちょっとだけ分かった。専門家が登れば、もっと多くの跡が見つかるんだろうなと思う。

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スタート。

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てくてく歩いて分岐点到着。

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山の神様こんにちは。

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左に曲がる、八王子山へ。右に曲がると、證城というお城に行けるようだ。

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登ります。登山道が尾根っぽく△の形で続いている。やけに直線的で怪しい。

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 むむー。なんかちょっとあるような…ないような?

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怪しめば怪しむほど、ココはアレなんじゃないかという気の迷いが。自分でも、ココとかアレとか具体的には何も分かってないが、色々と考え続けると難しいことすべて分かっているような気分になってくるから不思議よね。

もう少し進んで行く。

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↑これは? 山の形としてはちょっと不自然じゃないかしら。

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そんな私にも「これは」と思うものを見つけた。

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どうだろう。土塁? 石の載っている辺りが気になるのよ。違うかしら?

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そろそろドン詰まりかしらね。

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おしまい来た? 下りよう。

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帰りはあっという間で、分岐点の山の神様の祠まで着いた。

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更に山を下りる。

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山道はお城とは関係ないらしい。山の神の祠というのも新しくこの場所に置かれたようだし、登山道もさほど古い時代のものという訳でもないようだ(多分ここのお城より新しい道なんじゃないか?)。

とすると、お城に向かう道は別にあったんじゃないかという気もするが。場所が氾濫しがちな川のすぐ脇だし、古い道は流されちゃっているのだろうか。八王子山にお城があったというのもほぼ忘れ去られているようで、このお城の事が載っていた本には「詳細不明」となっていた。道も同じく忘れ去られてしまったのかも。

元の道は中腹の神社から崖みたいなところを登っていくのかしら。そうすれば、すぐ着きそう。どうやら、このルートは岩を踏ん張りながら登るものらしい。一応踏み跡はあるらしいが。神社の辺りをちょっと見た感じでは分からなかったな。というか、登れるとは思わなかった。

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後で色々とぐぐって知ったけれども、頂上に山の名前が書かれた木の杭が打ちつけられているらしい。そんなの見かけなかったよ? それじゃあのドン詰まりだと思った地点より先に進めるのだろうか。道も踏み跡も分からなかったなー。

 

 

★★☆☆☆

登るのは楽、ただし山の上からの見晴しはイマイチ。

 

 

<八王子山砦>

築城主 不明

築城年 不明

構造 山城

小柴見城

小柴見城は現在、大部分が浄水場となっている。

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その為お城までの道路状況はかなりよく、車でサクサク上れる好立地。

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こんな感じの山道を上ったところにある。切通風の道だが、実は本郭と2の郭との間にあった堀切を流用した道路らしい。

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右側が2の郭だった場所らしい。しかし、2の郭は浄水場化しており立ち入れないし跡もなくなってそう。では本郭はどうかというと、こちらはそのまま手つかずで残っているらしく。

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↑コレが入口。

ちょっと行ってみる。コンクリで覆われた部分は土塁の名残であるらしい。

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入ってすぐに、何やら急斜面が出てくる。実は現在道路になっている堀切跡の他にもうひとつ堀切があり、手つかずでそのまま残っていた。

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道は細い。ごく普通の山道に見える。

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しかし歩きやすく整備されているような? 知名度も低めで地味なお城だけど、もしかして展望台なんかに整備されてるとか? 入口も綺麗になっていたしな。

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↑奥の高くなっている部分が本郭の土塁。

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うーん、お城っぽいものもあるけど、なにか普通の里山の風景に見えるー。土塁・堀切にしても自然に還りつつある感じ。などと思いながら歩いていたら突如。

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建物だぁ。

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この場所が本郭跡地じゃなかったかな…人気はない。見た感じ私有地のようだ。人に出くわしたら嫌なので、早々に引き揚げる。にんげんこわい。

 

小柴見城の来歴はよく分からないらしい。

戦国時代にこの辺の豪族に「小柴見氏」がいてその居城だったとか、小田切氏に属するお城だったとか、いやいや起源はもっと古くて南北朝時代信濃守護所の詰城として造られたとか。どの説も確定的ではない。吹けば飛んでいくようなちっぽけな豪族だったらしい小柴見氏は、小田切氏の配下だった、栗田氏の配下だった、とアレコレ言われている。

田切氏配下説。弘治3(1557)年に小田切氏と共に葛山城で戦い、武田軍に敗れて滅ぶ?

栗田氏配下説。栗田氏は武田方に属した→第4次川中島合戦で上杉のスパイやってたと言われる→永禄5(1562)年に武田軍に滅ぼされ小柴見氏・小柴見城消える。

という感じで、どちらにしろ結局は武田に滅ぼされてしまっている。時系列から考えると、小田切氏家来→栗田氏家来→滅亡という順序なのかなー?

お城の戦闘記録はこれといってないらしい。が、南北朝時代の元中4/嘉慶元(1387)年に地元の豪族連合軍が守護所を襲って勝利するという事件が起き、この時襲撃した守護所というのが小柴見城の近くにあったとされている (「平芝守護所」という名前で、今の平柴にあったと思われるが場所は定かではない)。この守護所と小柴見城が関係している(守護所の詰城=小柴見城だったのではないか)ということらしく。ひょっとしたらお城での戦闘があったのではないかと思われる。ちなみに正平24/応安2(1369)年にも守護と地元豪族の間で戦争が起き平柴に守護方が陣を置いたという記録がある。このとき小柴見城があったかは謎だが、もしかしたら原型はあったかもしれない…防御設備もない場所に陣なんか置かないだろうし。

南北朝時代は北信の豪族が信濃守護・幕府に対して反抗的な態度をとっていたそうな。大塔合戦以外にも揉め事はしょっちゅうで、幕府は手を焼いていたらしい。平芝守護所の記録はほとんどないらしく、これは北信平定のために守護が置いた前線基地のようなものだったからかも?

 

その後とりあえず浄水場へ向かう。こんな公園が併設されていた。

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初めてきたのでよく分からないが、これもお城跡地に作られているのでは? とウキウキして入ろうと子供を車から降ろそうとした。

寝ていやがった。先ほどの本郭から車で3分くらいだぞ、寝るの早っ。

 

仕方ないので、入り口付近だけ写真に収めてみた。

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何もなさそうだ…。

 

★★★☆☆

けっきょく公園には行き損ねたが、公園ついでのお城散策に良さそう。

 

 <小柴見城>

築城年 不明

築城主 不明

構造 山城

木曽殿屋敷

朝日将軍といえば木曽義仲である。そしてここは朝日山の近く、木曽殿屋敷と呼ばれるお城跡がある。

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ここに古いお屋敷があったことは間違いないらしい。木曽義仲縁者のお屋敷だとか、守護の小笠原氏の館じゃないかとか、ここから歩いて10分ほどにある朝日城城主の朝日氏居館だとか、色々な説を読んだものの確定的な説は未だになし。だいたいいつ頃に使われたのか具体的な時期も分からない、謎のお城ということになっている。

「木曽殿屋敷」というのは、朝日つながりでとりあえず木曽義仲にしとこう、というノリで生まれた短絡的な伝説なのかもしれない。というか、ほぼ関係ないらしい。だいたい、木曽氏の本拠地からかなり離れてる。現代でも高速使って2時間くらいかかるんじゃないの? 遠いよ。遠すぎてこの場所まで支配権が及んでいたとは思えない。ホラ吹くにしても、もっともらしい根拠も一緒に作ってほしいものだ。

高台にあるせいか、とても景色がいい。眼下に広がる町並み。「人がゴミのようだ」と呟きたい権力者志向を持った人向きのお屋敷かもしれない。

 

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お屋敷跡と言われる場所は現在果樹園になっている。平地・土塁をそのまま利用しているようで、地形がそのまま残っていた。堀はよく分からなかったが、道として埋め立てたのかな。

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あらら違うみたいだな。

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果樹園の奥の一段高い場所。あれはなんなのか。どう見ても人工的すぎて怪しい。

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誰の屋敷だったのやら。

 

 

★★☆☆☆

人工物くささはプンプンするけれども、ここは私有地、立ち入り禁止。あの一段高い場所が気になる。

 

 

<木曽殿屋敷>

築城年 不明

築城主 不明

構造 平山城

 

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近くの神社。「諏訪神社」といい、この地区の住民の氏神様だそうな。創建年は不明だが、天文24(1555)年に焼失、武田氏が神社領を安堵し再建と記録が残っているのでそれ以前からあったらしい。

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探すの面倒くさくなったのでそのままだが、神社の境内に古墳があるそうだ。古代人の住みたい場所の条件が

・川がある

・洪水などの影響を受けない山が川の近くにある

と聞いたことがあるので、この辺りぴったりじゃないのーと思った。

朝日山観音

受験生の合格祈願で有名な神社。そして正月三が日の初詣でも賑わう。

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ここまでの車道がかなり狭い。1車線幅。↓こんな感じなのよ。すれ違い絶望的な箇所もある。

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なので、お正月だと神社の氏子さんたち総出で交通整理に当たる。受験シーズンはどうだったかな…遠い昔過ぎて覚えてないやー。

ちなみに、車道の他に歩道(登山道)もある↓ 入口の看板に車道より近道、と書いてあったけど急そうな感じだね。

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今はお参りのオフシーズンなので、人っ子一人いない。

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この神社の創建は不詳。本尊は聖観音。現世における様々な苦しみ・災いから救ってくれる神様で、特に学問(受験)の神様というわけではない。そういえば何故受験の神様になったんだろう? 学習内容に興味がわかないような受験勉強は苦しいからねえ、勉強地獄から逃れたい=合格して自由になりたい、ということなのかも?

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神社は元々別の場所にあった。朝日山北面の岩屋に祀られていたそうだが、昭和57(1982)年に現在の場所に遷座。というのも、参道が危険過ぎて死者が出ているからだ。岩屋や旧参道自体は今でも残っているが廃道とされている。が、歩く人がいないわけではないらしい。ぐぐったところ、その旧参道を最近歩いた人のレポートが見つかった。読んでみたが、完全に道が崩れて消えている箇所もあり、岩屋はほぼ潰れていた。個人的には興味がありますわ…某有名廃道サイトの踏破レポートをよく読みにいっているような人間だからね。ちなみに、去年(おそらく廃道ファンの)中学生がその道を歩いて亡くなっている。そんな大層危険な道。

 

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この山は善光寺平を見下ろせる場所にあるせいか、お城跡いっぱい。まず山頂に「朝日山城」、近くの大黒山に「朝日城」、大黒山の途中には「木曽殿屋敷」、朝日山の尾根には「小柴見城」があり、大人が効率的に回れば1日で全部行けそうな範囲。朝日山(朝日山城跡)は小学生の遠足で行くらしいし、朝日城跡は神社になっているのでどこかに車を置いて山道を数分歩けば着くらしいので余裕。他2つは車で。

ここら周辺にやたらお城が集中してるのも、交通の要衝だったとか見晴らしがいいとか、そういう理由の他に。もしかしたら朝日山観音の御利益を分けて欲しいという願いもあったのかなーとちょっと思った。

 

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朝日山観音から朝日山城へ向かう登山道があるはずだが、これかなー? 何故か道はひとつではなく幾つかルートがあるらしい。

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★★☆☆☆

現在の神社も車でこられるとはいえ、ガードレールもない崖の道で危ない箇所もある。何故霊験あらたかな神社は険しい場所にあるのだろうか。多少危険を感じないと有難味がないだろうから、ということなのか。

 

 

<朝日山観音>

創建年 不明

御祭神 聖観音

 

 

 

小田切氏館

田切氏館はこの道の奥にあった。

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周りは畑、宅地、そして小学校。小学校を造った時に結構開発されちゃったとか。

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なので、小田切氏がここに館を作った当時の様子はどうだったのか、分からなくなっているらしい。小学校を建てるずっと以前から「古城跡」という話は知られていたようだが、特に正式な発掘を行ったということもないらしく。

この辺りの歴史をまとめた古い本を読んだところ、東西61.8m、南北58.2m、幅7.2m、高さ2m余の土塁が東西に続いていたという。西側は沢が流れており、これを堀としていたようだ。

小学校の開校が昭和47(1972)年なので、この年より前に土塁は壊されていると思う。昭和51(1976)年には小学校の東側で配水場と付属の道路工事が行われたらしい。そのとき多数の五輪塔が発掘されるとあったが、小田切氏館とどう関係あるかは分かっていないらしい。昔から知られていた割にはアバウトな。

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坂を上りきると。

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今はこんな↑ものが。このダムはごく新しく、平成22(2010)年竣工とあった。沢が氾濫したんだかで鉄砲水が出て小学校の体育館や近くの住宅が浸水したせいで、このダムが造られた。それまではただの平場だった。小学校辺りもお城に含まれていたんじゃないかと思われるものの、造成時にかなり削っているようなのでよく分からず。

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ダム周りはというと。

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また随分変わってしまったように思う。

ダムが出来る前にこの場所に来たことがあるが写真など撮った覚えもなく、画像なし。あやふやだが野兎のウンコがコロコロ転がっている林だった。なんとなく植林されているような記憶があり、人の手が入っていた印象。ダムがあるあたりが本郭だったかな、すぐに家を建てられるような感じのかなり平らな場所だった。

そうだなぁ、こんな感じの林だったかなぁ?

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とふらふらと木の生えている方へ歩いていった。

なんかあるぞー?

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端っこはなんか残ってたよー! びっくりしたよ。

そして、その端っこから山の方へ登る道も発見。

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真偽不明だが、富士ノ塔山に抜ける古い道があるとか聞いたことがある(富士ノ塔の頂上には小田切氏の砦があったらしい)が、この道か? 富士ノ塔の砦は小田切さんの詰めの城ではなく、物見に使っていたとか。ちなみに富士ノ塔は子供でも簡単に登れるメジャーなお山。私も大昔登ってきのこ抱えて下りてきたことがあったけど、どこから登ったか覚えてない。

 

田切さんの居城は吉窪城という。

田切といえばコレ↓

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田切ダムである。吉窪城はこのすぐ近くの山にある。小田切氏館からは少し離れているかも。ダム周辺は景色が良い。

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↑対岸に見える道は廃道となった旧国道19号線。

 

田切さんというのは、元は佐久の豪族だったようだ。滋野系である。佐久から移ってきた時期など詳細は分からないが、鎌倉時代にこの辺りの地頭職となりそのまま居ついたとか。この辺りの領主様たちは軒並み滋野系らしい。ごっそり移ってきたのかなー?

 

足がかりとしてこの場所に城館を作り、徐々に支配地域を広めていったようだ。館は高台にあるが、ここから見える方向へどんどん侵食していった。

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内後館(上屋敷)、於下館(下屋敷)という二つの館を作ったらしい。支配地域は結構広い。

田切氏館の置かれた辺りは古墳群もあるし東山道支道(北陸道連絡道)が通っていた・亘理駅(読みの通り、川の渡し場)が置かれていたという噂もあり、どうやら古くからの集落があったらしい。小田切さんは近隣の滋野系領主のリーダー格に育っていったようで、戦国時代には春日、朝日、長嶺、久保寺(窪寺)、平林、布施、横山という7つの領主家を傘下に収めていた。当時の小田切さんは村上家に従っており、村上さんが越後に亡命した後も信濃の自分の支配地域に居残っていた。そして当然のごとく武田家と抗争中だった。

越後からの援軍が期待できない冬に武田さんは葛山城というお城を襲う。この葛山城の城主・落合さんも小田切さんと同じ立場(滋野系、近隣の領主を従えている)の親分だった。多分小田切さんと協定を結んでいたんだろうと思う。葛山城大ピンチなので小田切家当主の幸長さんが助けに行ったが、敢え無く戦死。小田切家の嫡男は吉窪城にいたものの逃げて行方知れずに(後に名乗り出て、武田に仕えたり、村上さんとこに復帰して朝鮮出兵に参加したがその地で亡くなったらしい)。その子孫は松代藩主の真田家に召し抱えてもらったものの、最終的にはこの場所を去ったようだ。

 

 

★★☆☆☆

年々破壊される遺構。そのうち無になりそう。

 

 

<小田切氏館>

築城主 小田切

築城年 不明

構造 平山城