気付くと外は晩秋の景色になってました。ここ最近の記憶がないぞ。
今井神社に行ってきました。
今井兼平という男を祀る神社です。ところが長野県神社庁のサイトでは天照大御神が御祭神になっている。ちなみに勧請は白鳳元年9月とされている。「白鳳元年」は600年代後半に当たるので、平安時代後期の武将である今井兼平( 1152~1184)と全く関係なさそう。
しかし、今井神社という名称は今井兼平に由来する。この神社が白鳳元年に創建されたなら、兼平以前はなんて名前だったのか残っていなさそうなので、本当にそんな大昔からあるのか疑問が残る。
①元々伊勢神社だったが、今井兼平も祀り始めてこっちがメインになってしまった
②兼平を祀ったが物足りない気持ちがあり天照大御神も祀った、創建年は盛った
③今井神社によそから伊勢神社がお移りになったが、創建年は伊勢神社のほうが古いのでこちらのデータを神社庁に報告
ぱっと思いついた3つの説。当たっているかなー?
鳥居から社殿まで、参道の両側には民家が立ち並んでいる。その辺の神社にはなさそうな特徴だと思った。
本殿到着。ここにも神社らしからぬものが。
土塁があるらしいです。
本殿周りを土塁がぐるっと。ここは「今井兼平館跡」という説もあるようだ。その跡地に兼平を祀る神社を建てたというのは妥当と思える。じゃ②③のどちらかの説が正解なのか?
ごく近くにも「兼平山切勝寺」という縁のお寺さんがある。名前の通り兼平開基のお寺だそうな。神社の隣には兼平のお墓もあった。
お墓は人の背丈ほどもある五輪塔。兼平という人は近江国で戦死しているのでこちらで葬られているわけではない。滋賀の戦死した場所にもお墓がある。兼平の菩提を弔う目的で建立されたようだ。案内板の内容は以下の通り。
・諸々あり兵を集めて、横田河原で平家軍と対峙した
・義仲は平家軍を挟み打ちにするため、家臣の今井兼平に平家軍の背後に布陣するよう命じる、そのとき兼平が布陣した場所がココ
・戦勝祈願をしたい兼平は誓いをたて、家来の岩害刑部に切勝寺を建立させた
・その後、兼平は近江国粟津で討死、悲しんだ岩害は兼平のため五輪塔を建立(それが兼平墓)
・昔からこの五輪塔の苔は百日咳の特効薬と言い伝えられており、地元民は五輪塔にお参りをしては塔石を削り持ち帰っていた
最後の特効薬の下り、なんなのかな。五輪塔に縦線の模様が深く刻み込まれていた。相当削り取ったらしき跡。本当に苔が効くのか。今はもう五輪塔には苔が生えていない。現代は予防接種で百日咳のワクチンを打つそうなので、苔なくても心配ないそうだ。良かった。
案内板には「陣跡」とされている。だが土塁があるのでおそらく館跡ではないかともいわれる。兼平館説の他に「小田切館跡」説もあるようだ。小田切さん、ここも含めると館4つになる。が、他の3つの館と違って、こちらは「小田切さんち」という伝承が何故か残っていない。小田切さんちじゃないのかも。では誰のお屋敷だったんだろうなー?
土塁の上には太い欅が生えてた。 樹齢がどのくらいか分からないけど、欅から土塁の造られた年代も逆算できるんじゃないの? 誰かやってくれないだろうか。
今井兼平は本名・中原兼平といい、中原氏は安寧天皇の第3皇子を祖とする名家。朝臣を賜った家ではあるものの実務的な職(主に京都の行政職を担っていたらしい)を世襲していたためか、今井兼平の生きていた頃には昇殿を許されない家格にまで落ちてしまっていたみたい。三男坊だった兼平父の中原兼遠が信濃国に移住し、兼遠一家は信濃国木曽を本拠とする豪族になったようだ。
久寿2(1155)年、兼遠は齋藤さんという人から駒王丸という子供を預かる。駒王丸というのは源頼朝・義経の従兄弟さんで、後の木曽義仲。木曽義仲と今井兼平は乳兄弟という間柄だそうだ。巴御前と今井兼平は兄妹。義仲に最後まで付き添い色々あって、義仲が自殺するのを見届けてから自分も後を追って亡くなった。
全国各地に「今井兼平縁の地」があり、お墓もあちこちにあるらしい。御手付きの女の人もあちこちにいて子孫もたくさん。当時人気の武将さんだったのね。イケメンだったのかしら?
元々この地は「雲井の里」という名前だったそうだが、縁づいたために地名を「今井」に変更。雲井の里の方が綺麗なイメージだよ勿体ない。
★★★☆☆
境内が広く、遊びやすくて良かった
<今井神社>
築城主 不明
築城年 不明
構造 平城
拝殿前の石段には雨粒が穿ったような跡があった。雨垂れさん頑張るなーとしみじみ思った。