お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

雨宮坐日吉神社

今年の初詣は近所の神社にお参りしてきたものの、もうちょっと神社行きたいような気分になり出かけてきた。

雨宮坐日吉神社というところ。

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あめのみや・ざ・ひよしじんじゃと読むのかと思っていたのに、あめのみや・にます・ひよしじんじゃが正解らしい。読めなーい。

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ここの神社はこれ↑で有名。

雨宮の御神事というお祭りで、国の重要無形民俗文化財に認定されている奇祭。映像で見たことがある。菰か何かを巻かれた人が橋の上から逆さづりにされた挙句、ベシンベシンと叩かれるやつ…だったような? と動画を探して確認したところ違った。獅子頭をつけた人が橋から宙吊りにされて、川の水面を頭で叩く。というものらしい。

別名「獅子踊り」とも呼ばれるそうで、3年に1度春の例大祭と並行して行われるようだ。最近だと2017年に行われたそうで、それでなんとなく私も覚えていたらしい。橋に宙吊りされるものは「橋懸り」と呼ばれており、雨宮の御神事の一部だそう。雨宮の御神事は500年もの歴史があると言われ、江戸期から知られたお祭りなんだそうだ。嘉永2(1849)年刊行の「善光寺道名所図会」や天保5(1834)年に発表した原稿を元に編集し発行された「信濃奇勝録(明治19(1886)年)」に記事があるらしい。

伝説では、「昔、生仁の豪族が浮気をし、それを恨んで死んだ妻の怨霊の祟りで田畑が荒れ、疫病が流行。祟りを鎮めるため、怨霊を華やかな踊り・お囃子で送り出すために祭りが始まった」とされている。 逆さづりも御霊送りの意味があるとか。とにかく五穀豊穣を願うお祭りである。

 

実は、この辺一帯を治め浮気をした生仁氏、その跡を継いだ雨宮氏の居館(生仁館)が現在の雨宮坐日吉神社という話をどこかで読んだような気がして、調べていたものの見つからず。私の勘違いで、生仁館はこの神社から350メートル南の場所にあったそうな。現在は住宅地になって館跡は消え失せているらしい。

天文22(1554)年の第1次川中島合戦では、雨宮坐日吉神社が武田本陣として使われたことがあるようだ。

 

生仁氏と雨宮氏のルーツは同じで、共に村上氏の支流らしい。「大塔物語」に雨宮孫五郎義正・生身(生仁)大和守義長という名前が出てくる。この人たちは兄弟だとか。兄が雨宮孫五郎だと。

この地域の支配者は生仁氏だったようだ。生仁氏は近所の豪族たちと争っていた記録があるものの、やがてその名前が登場しなくなる。清野氏に滅ぼされたのではないかと言われている。

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↑この山に居城の唐崎城(生仁城)があった。麓の招魂社(唐崎社)から登っていけると聞いて、4~5年ほど前にちょっと行ってみたものの結局登らず仕舞い。そのうち登りたい…。

唐崎城は古いお城。至徳4(1387)年に平柴守護所が襲撃されるという事件があったが、その守護所から逃げてきた武将たちが立てこもったとされるのが唐崎城だと言われている。そして落城してしまったそうな。応永7(1400)年でも戦闘があった。大事なお城だったらしい。雨宮の渡しも近いし。

 

生仁さんは滅んだが、雨宮さんは元気に活躍されていた。

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↑この鳥居、雨宮家国さんの子孫の方々が寄進したものらしい。鳥居に「奉納 雨宮摂津守家国後裔」と彫り込んであった。家国さんは明応年間(1492~1500)以前、信濃から甲斐に移住した人だとか。今も末裔が山梨県に住んでいるらしい。寄進者も山梨在住の方々なんだろうか。

天文17(1548)年の上田原の戦いで雨宮正利さんという方が戦死しているが、この人は清野さんちから養子に来た人のようだ。養父は雨宮昌秀(正法)となっていた。家国さんの子供が昌秀さんなのか分からないが、家国さんの時代に一族の多くが甲斐に移住したという話を読んだ。敵対していた清野さんに追われて家や領地を乗っ取られ、移住を余儀なくされたとかかねー?

雨宮さんは武田家に仕え、途中事情があり武田を辞め北条家で働いていたけど、優秀過ぎて武田に呼び戻されたという逸話があったようだ。

 

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↑本殿

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↑摂社(天満宮だとか)

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 ↑摂社(江の島神社とか姫宮神社、飯縄神社など)

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↑何か怪しかった

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↑宝蔵

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↑寄進されたもの

 

この神社の入り口に由緒書きのような看板があった。ほぼ字が消えている。

・白鳳11年 創建

・御祭神 大山咋命大己貴命、少名彦命、保食命、罔象命、猿田彦命久延毘古命

・旧領主真田家代々からの崇敬、祭祀料の寄進あり

・7か村で神事を行い、五穀豊穣を願う

・始め「天宮」、後に「雨宮」

・山王大権現とも呼ぶ

神道の吉田家の許しを得て「日吉山王宮」に

明治元年、現在の社号になる

・明治6年、郷社

・明治33年、県社に昇格

ということらしい。

 

大山咋命=山の地主神、農耕(治水)の神=山王

大己貴命大国主

少名彦命=大国主と国造りをした小さい神

保食命=食べ物の神様

罔象命=水の神様

猿田彦命天孫降臨の際、瓊瓊杵尊の道案内をした神様

久延毘古命=少名彦命のことを知っていた賢い案山子の神様(知恵の神)

 

↓境内の様子。

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★★★☆☆

考えていたより古い神社だった。あと名前は初見じゃ読めない、どういう理由でそんな名前なのか。

 

 

<雨宮坐日吉神社

創建年 白鳳11年

御祭神 大山咋命 

水沢氏屋敷

水沢氏館跡を見に行ってきた。

水沢さんというのがどういう人達で、いつ何をしてきたのかは分からず。館も残っておらず。

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館関連で残っているのは↑この竹藪のみだとか。

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これは土塁跡だそうで、確かに言われればそんな感じかな? とも思える代物。

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竹藪の手前は堀跡なのかねー?

この土塁から公民館・神社付近まで屋敷があったというので、神社まで歩いてみた。

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↑公民館

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↑槌井神社

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この近くに杵渕氏という古い豪族の館跡がある。杵渕さんが出てくる記録は源平合戦にさかのぼる。槌井神社から杵渕氏館跡までは1.3kmほど。その道の途中(槌井神社からは1kmの地点)に荒掘内記屋敷跡というのもあり、こちらは杵渕氏の家来の家。そんな感じで館が並んでたから、きっと水沢さんというのは杵渕氏関係の家の人なんだろうなと勝手に思っている。

典厩寺は槌井神社から徒歩1分くらい。このお寺さんは元々「鶴巣寺」というお名前だったが、承応3(1654)年松代藩主の真田信之武田信繁(典厩)の名前をいただいて「典厩寺」に改名して、武田信繁さん以下川中島合戦の武田・上杉両軍の戦死者を弔った。典厩は日本でいうと左馬頭・右馬頭等馬寮の官職を唐風に言ってみたものらしい。この人は左馬助という役職をだったそうだ。馬寮職は武士憧れの官職だったらしい。

 

重要なお寺さんに古い豪族のお屋敷もいくつか並ぶ。槌井神社も何やら気になる存在に思えてきた。お名前ちょっと変わってるし。

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↑この透かし彫り、凄いと思った。

どうもこの神社は古い街道筋にあったらしい。神社のすぐ横が千曲川。近くに大きな渡し場(寺尾の渡し)があったらしい。松代へ向かう道だったようだ。交通の要衝なので館がいくつかあったということなのですねー。水沢氏館は街道の監視やってたのかしら?

 

 

★★☆☆☆

槌井神社が思いの外、面白かった

 

<水沢氏館>

築城年 不明

築城主 水沢氏?

構造 平城

 

 

 

 

槌井神社にこんな石碑があった↓

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石碑のタイトルは「槌井神社移転記」。しかし槌井神社自体は昔からこの場所にあるらしいし、典厩寺も多分移動していないだろうと思う。

ひょっとしたら、江戸時代以前は別の場所にあったとか? しかし石碑には「昭和五年」とあった。ひょっとしたら水沢氏館のことも書いてるかもしれない。昭和5(1930)年くらいの文章なら私にも読めそうと安易に考えた。

頑張って解読してみたよー。

 

槌井神社移転記

大審院正三位勲一等法学博士横田秀雄題額
槌井神社在長野県更級郡西寺尾村大字杵淵字北村祀事代主神
杵神神域一千五百歩古松老杉翁○敬天盛夏涼風不絶寶村中之別
天地也大正八年官命改千曲之河道以止洪水之恵神域變爲堤防存
者僅二百五十餘歩耳於是村人請官新○○接之地四百八十餘歩移
社殿華表更加修理又建社務所至大正十二年二月八日竣功雖惜無
老樹爽涼之趣亦可以喜有新殿浦灌之観其経営之費鬻彼古松老杉
充之而尚有餘社礎盆固民福○加神徳之所致可謂洵大矣住是村者
安得不厚景仰之念哉

昭和五年六月
学習院教授従四位勲三等文学博士飯島忠夫撰○

 

 細かいところは違ってるかもしれない。

・槌井神社御祭神は事代主神

・大正8年国により治水事業(堤防を造る)を行うことになった

・それに伴い住んでる人たちを移動させた

・槌井神社の社殿を改築、社務所を造る(大正12年竣工)

・改築費用捻出で境内の木々を売ったので、お金は充分に集まった

・槌井神社の神の功徳は隅々まで行きわたり、移住者たちの信仰も篤くなった

 

「槌井神社移転記」題字は横田秀雄(文久2(1862)年ー昭和13(1938)年)さん。松代藩士の家に生まれ、大審院最高裁判所の前身)の一番偉い人になった。

飯島忠夫(明治8(1875)年-昭和29(1954)年)さんは文章を手掛けたらしい。松代町出身の東洋史学者。

2人とも仰々しく肩書きが並んでいる。我が郷土から立身出世した方々のようだ。

 

槌井神社やっぱり移転していないようだ。石碑のタイトルは嘘をついている。千曲川河川事務所のサイトにこの辺りの話が載っていた。

千曲川流域の住民は大正時代まで長らく大洪水に悩まされていた。大正9(1920)年国は護岸工事を始めた。当初の予定では10年で工事終了だったが、第1次世界大戦の資材高騰・日中戦争などで工期が延びてしまう。昭和16(1941)年頃にようやく竣工。槌井神社付近とその対岸の地区は築堤により移転したおうち39戸と小学校1校という犠牲を払ったそうな。槌井神社本殿は辛うじて移転を免れた(確かにすぐ脇は堤防だった)。あの石碑が建立された時期はまだ工事終わってなかったのね、移転する予定になっていたのかしら?

 

松代藩七渡しのひとつであった寺尾の渡しは明治6(1873)年船橋(川に船を浮かべ、その上に板をわたした橋)に、明治25(1892)年寺尾橋(木製)、昭和10(1935)年川中島橋(コンクリ)、平成6(1994)年松代大橋に変化していった。石碑の頃の工事で造られたのが川中島橋だったようだ。

川中島橋通ったことある。私も知らず知らずに恩恵を受けていたらしい。

 

広田城(昌龍寺)

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東昌寺から細い道を歩いていくと、昌龍寺に至る。

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お寺の周囲の道も元はお堀なのかしら? 東昌寺と同じく、お寺を囲むように道が続いている。折角なのでお寺の周りを回ってみた。

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東昌寺よりも広いお寺のようだ。↑写真左の黒くて高い何かは「四面角塔鐘楼」という名前で15m程の高さだという。これは松代城にあった隅櫓を移築したものらしい。ということは、このお寺さんも東昌寺と同じように松代藩や真田家に縁があるのかと思ったら、そうではないようだ。

 

武田さんが広田城を改修したあと、武勲をたてた大日方直長さんという人にお城を任せた。この人は水内郡小川出身で、大日方一族というのは信濃守護の小笠原氏の流れを汲む名族だったそうだ。彼らは相当な力を持っていたらしい。武田さんの信濃侵攻のときに自分達のお城を一つを落とされたことがきっかけで、主戦派・恭順派に分かれて喧嘩した。結局恭順派が勝ち、武田さんに従うことになったみたい。

だが、徹底抗戦を訴える人が出てくるんだから、なんとか勝てるかもな程度の兵力あったんだろうなーと思った。wikiによると周辺の国衆と比べて突出した動員兵力(9千~1万)だったらしい。川中島合戦の規模は、上杉の兵力8千~1.3万、武田の兵力1万~2.3万だそう。大日方一族内で主戦論者が勝ち、死ぬ気で武田に抵抗して、運が良ければ武田に勝てたかも? とちょっと思った。優秀な一族で手柄を何度もたてたらしい。特に大日方直長さんは武田さんから感状をもらっていた。

天正10(1582)年に武田が滅亡した後、織田家配下になっていた木曽義昌さんを通じて、織田家から本領安堵を受けたものの、その後すぐに織田信長死んじゃったので有耶無耶になってしまった。結果、徳川方(直親)と上杉方(直家)と2つに分裂してしまった。が、最後は皆仲良く地元の小川に戻り帰農したらしい。

 

昌龍寺の縁起は2通りの話がある。

かねてから大日方直長さんは「広田にお寺をつくりたい」という志を持っていたらしい。それが叶わず亡くなった。後を継いだ子の直家さん(ちなみに徳川方についた直親さんは直長さんの弟)は父の菩提を弔うために天正5(1577)年に、広田城跡に昌龍寺を建立した。

広田にお寺を建立したい直長さんは他のお城(領地)にいた。子の直家さんが広田を守っていた。天正5(1577)年直長さんの命で昌龍寺建立、直長さんは天正12(1584)年没、昌龍寺に葬られた。

 

直長さんがお寺の創建より先に死ぬか、後に死ぬかの違いだけの話なのか。

どちらにしろこの場所は、天正5(1577)年にはお城の機能を失っていたようだ。東昌寺は江戸時代に入ってから前身の御堂が建てられているので、お寺としてはこちらの方が古いようだ。

とすると、昌龍寺・東昌寺はそれぞれ別のお城だった可能性が高いのかも? 天正5年頃はまだまだお城は必要だった気がするよ。「広田城=東昌寺」だったら昌龍寺付近は気にせずお寺にできそうだけど、広田城潰してお寺その他にする勇気ないと思うよ。長野市文化財データベースが正しいのかー?

 

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山門は古さを感じる佇まい。

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1周して元の場所に戻った。おしまい。

 

 

★★☆☆☆

結局、広田城の謎は解明できずじまい。

 

 

<広田城>

築城年 不明

築城主 広田氏?

構造 平城

 

 

 

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最後に近くの御厨公園で遊んできた。ジャングルジム的な遊具が気に入ったらしく、子供は黙々と遊んでいた。

 

 

広田城または藤牧城(東昌寺)

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広田城こと東昌寺に行ってきた。

ここはややこしい。長野市文化財データベースでは「藤牧城跡(東昌寺)」ということになっている。東昌寺から徒歩数分の場所に昌龍寺というお寺さんがあり、データベースでは「広田城跡(昌龍寺)」とあった。その根拠は分からない。

近所過ぎて「お城が2つ並んでいるはずがない」と世間では思われているらしく、「広田城跡は東昌寺から昌龍寺までの規模」と紹介されていたりもする。

当の東昌寺さんは「広田城跡です」と言っている。

 

城跡だと示すものは、一部残る土塁だけ。

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土塁の前には案内板があった。

・応永7(1400)年頃、広田・藤牧の領主であった広田氏が館を造る

・支配者が広田氏から藤巻氏に変わる

室町時代末期、藤牧氏(藤牧弥之助)が中野市へ移る

・天文21(1552)年頃、武田氏の砦として館跡を改修し広田城とする

・現在残されている土塁は武田氏時代に造られたもの

・江戸時代になり砦は廃止、元文4(1739)年観音堂が建立される

・宝暦9(1759)年長国寺の末寺として東昌寺が創建される

 

この案内板の記述だと、武田氏が「広田城」と名付けたように思える。

①広田氏が広田城(現・昌龍寺)を造る

②藤牧氏が、広田城を廃して隣に館(現・東昌寺)を造成し藤牧城を造る

 又は、既存の広田城を利用しつつメインの館を現在の東昌寺に置き藤牧城と命名

③武田氏に代わり、藤牧城を改修し広田城と改称

これなら色んな情報の整合性がとれるかなー? 地図上の形だと、昌龍寺・東昌寺は各々独立しているようにも見えるのよね。不思議だわ。

 

広田さんは村上支族だが、飯縄町の芋川さんとは姻戚関係にあったとかで芋川さんが断絶したときに飯縄に移り芋川の名を継いだそうだ。戦国時代の芋川さんは村上→武田→上杉と他の北信濃の国人領主と同じような流れで主君を替えていったらしい。米沢藩に芋川さんという家があるので、上杉氏に従い信濃から引っ越していったようだ。

藤牧さんは広田さんの親類だったらしい。身内だったので領地を継いだようだ。藤牧さんがよそへ行った理由は武田氏に追われたから。移住先で帰農したらしい。その子孫が和算家として名前を残している。

 

東昌寺の近くに藤牧神社という神社があった。

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この神社は創建年不詳となっていた。が、古い文献には寛永5(1628)年頃に地元の豪族・藤牧氏により建立されたとあったらしい。天文21(1552)年前後には、藤牧氏は武田氏に駆逐されていなくなっているはず。えー藤牧さん引っ越してないのー? 前述の和算家は貞享3(1686)年~宝暦2(1752)年の人で、その5代前には篠ノ井(東昌寺がある辺りは篠ノ井地区ではないが、その近くではある)に住んでいたとあった。和算家さんの系統とは別の藤牧さんがいるのかしら?

 

 

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東昌寺の創建時には堀も土塁も残されていた、とある。

↓図もあった。なかなか面白いお寺さんだったようだ。

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昭和48(1973)年に堀を埋め立てお寺さんを囲むように道路を作ったと書かれていた。なので堀跡を回ってみた。

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土塁も潰してしまっているので、言われなきゃ分からない感じに。

 

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東昌寺は真田家や長国寺と縁が深いということで、六文銭が随所にあしらわれていた。

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山門にも土塁とは少し異なる内容の案内板があった。先ほどの土塁前の案内板より少しだけ詳しい。

・藤牧氏は相当な勢力

・東西南北に400mの広大な敷地の城、方角は正確、正方形

・お寺が建てられた頃には堀にたくさんの蓮が咲き、美しかった

 

このお寺さん、土塁も堀も残されていたらパワースポットとして売り出せたかも。方角が正確なんて古代の宗教施設によくあるヤツだし、寺を取り囲む掘に咲く蓮はちょっと見てみたい。お寺とか神社にしようと思った気持ちが分かる。

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★★☆☆☆

藤牧城なのか広田城なのか、気になっているものの答えが見つからない

 

 

<広田城・藤牧城>

築城年 不明

築城主 広田氏

構造 平城

  

尾張城

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こんな仰々しい名前の公園に行ってきた↑

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新興住宅地の中にある、ありふれた感じの公園。昔ここに尾張城があったから、そういう名前らしい。

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黒御影石だかの渋く立派な石碑が建っている。この石碑の裏には平成11(1999)年3月の文字。恐怖の大王が降りてくるーと騒いでいた頃に出来た公園なのか。来歴も書かれており、それによれば。

・碑のある場所から北東約70mの場所に主郭があった

天正年間(1573~1591)、尾張備中が住んでいた

尾張部三郎は永禄年間(1558~1569)の初め武田氏に下った、その時に城館を引き払った

・主郭は東西約96m、南北約85m

・二の郭は東西約118m、南北約69m

・内堀、外堀、馬出しがあった、回字形のお城

・平成5(1993)年~7(1995)年、土地区画整理事業に伴い発掘調査をした

・主郭、内堀、馬場など見つかる

・主郭部では多数の建物跡が見つかり、同時に陶器類も発見

新しい碑文のせいか、妙に細かく書いてるような気がした。天正年間から永禄年間で名字が微妙に違うの? 名字にちょっとだけ変化を付けてみようとか? それほど大きな変化じゃないし一体どうしちゃったんだろう。

発掘調査資料だと、尾張備中守という人物や尾張部氏という一族は実在が確かめられない、とあった。とはいえ、この場所の地名には「尾張部」が入っている。

具体的な活動も、「尾張部氏が平林氏を攻めようとして馬で駆けていたら、急に自分の屋敷から火の手が上がったのを見て慌てて戻った」という伝説が残っている程度。しかも尾張部さんと平林さんの戦争の決着すら分からない話。どうせ火付けしたのが敵の平林さんなんだろうから、尾張部さんはそのまま滅んだんだろうと思うけどさ。伝説が尻切れトンボなので気持ち悪い。

とりあえず実際のところは、いつ造営されどういう一族が住んでいたのか何故放棄したか全く分からないという状況。

 

明治時代に入った頃にはほとんど埋め立てられ、水田になっていたということで。区画整理事業でも残さず綺麗に消してしまっているだろうと思う。

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公園の周りの道路や水路も尾張城には関係なさそう。周りの家も新しめな様子で、石碑さえなければ誰も城跡なんて思わない。

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このテの公園にしては珍しいと思ったのが、どんぐりの木があること。

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鈴なりー。子供が拾い集めてた。

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子供はこの公園を甚くお気に召したご様子。そろそろ帰りたいので呼んでも、こちらの言うことなどガン無視。結局子供がウンコ踏みやがったので車へ強制送還した。ウンコとか…やめて欲しい…。

 

★★★★☆

遺構ないけど、子供が喜んでくれたから

 

 

尾張城>

築城主 不明

築城年 不明

構造 平城

 

 

内後館

性懲りもなく、再び住宅地の中にあるお城跡を見に行った。内後館という、小田切氏上屋敷。小田切さん館はこれで3つ目。

上屋敷とか下屋敷とか、大名みたい。江戸時代だと、上屋敷=藩主居住地・(中屋敷=跡継・隠居の住まい等)・下屋敷=別荘となるようだ。江戸以前でも似たような役割なのかしら? 小田切さんの場合は小田切館、内後館(上屋敷)、於下館(下屋敷)の3つのうちメインで使用してたのは内後館なのかしらね? 小田切館は高台にあって平時暮らすには少し不便そうだし。

 

内後館跡は現在民家。来る途中に「村内徐行」という手書きの看板がいっぱいあった。注意を払わないとならないほど道は広くないし、微妙に入り組んでいたりして先が見えづらい。ちょっとづつ大きくなっていった村落みたいな感じなのかな? 道はちょっと複雑。民家も多いが田畑も多い、幹線道路に面している地区ではあるが、昼間だからか騒音もあまり気にならない感じ。長閑な場所だー。

 

 案内板を見つけた。

・昔は堀があった、徐々に埋められ昭和の初めには3つに減った

・小田切氏は村上氏に属し各地を転戦していたが、北信濃に進出してきた武田氏に追われ北部の山へ移動した

・小田切駿河守幸長は弘治3(1557)年戦死

・墓は円光寺にある

 

周り↓

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埋められてる堀かどうかは分からないけど。見た感じ、古い時代の遺構が残っているとは思えない風景ではある。

 

館跡と言われる民家には「小田切神社」なる神社が↓

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田切幸長夫妻を祀る神社(一般人立ち入り禁止?)がある。どうやらご位牌がこちらにあるらしい。

 

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田切幸長さんのお墓があるという円光寺もすぐ見つかった。目と鼻の先。

・建久元(1190)年、明譽上人により開山

・浄土宗のお寺

・小田切駿河守滋野朝臣幸長之墓所

 と案内板に書いてあった。

こちらにお墓があるのは、小田切幸長さんのお孫さんが住職をしていた関係らしい。なんで「小田切幸長」という名前をあちこちで見かけるのかというと、この辺りを攻略中だった武田信玄が感状で「小田切幸長」という名前をきちんと書いているかららしい。抵抗した豪族は十把一絡げに扱われ、個人名は出てこない。信玄が攻めたお城(葛山城)の主は落合という人だったようだが、その人の名前も出ずに援軍の将「小田切幸長」のみ。小田切幸長さんだけはこの辺りの豪族でも抜きん出ていた存在なんだ凄いんだぞ、ということのようだ。ちょっと落合さん可哀想。

 

 

★☆☆☆☆

何もない

 

 

<内後館>

築城主 小田切

築城年 不明

構造 平城

於下館

小田切氏館その2。於下館というそうだ。下屋敷の意味らしい。今は何もなく、住宅地になっている。

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↑於下公民館の北西側が館跡になるらしい。

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何の感想も浮かばない。

「館跡」を示す看板があった。コレがないと探すの苦労するだろうなー。

 

・小田切氏下屋敷(於下館)があった、この辺りの地名「於下」の語源になっている

・昭和30(1955)年頃まで北から東にかけ鉤型の堀があり、夏は釣り冬はスケートが出来た

・戦後の食糧難で畑に変わり、現在は住宅地になった

・昔の名残を留めるものは地名のみ

 

屋敷跡の前の道路が堀跡なのかは分からず。土塁も多分あっただろうし、綺麗に均して区画整理をしてるのかもしれない。

昔はもっとたくさん館や城跡が残っていたそうだが、平地はほぼ消滅してしまっているとか。よほど住民の思い入れが強く残そうという機運が盛り上がっても、全部残すのはほぼ不可能なのかもねー栗田城みたいに一部残っているだけでも凄いことなのかも。

 

 

★☆☆☆☆

住宅地の真ん中に残る館跡の看板だけ見に行くのって、不審者と間違えられそうで勇気が必要

 

 

<於下館>

築城主 小田切

築城年 不明

構造 平城