お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

宇木城

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宇木城にやってきた。

住宅地の真ん中なので、こちらも何もない。申し訳程度の看板のみ。

  • 上宇木古城・城跡
  • 応仁2(1468)年、諏訪上社頭役だった宇岐(宇木)氏の居館跡?
  • 「城の山」と呼ばれていた
  • 以前は約800㎡の畑地だった

という内容。

この辺りの旧町名は「宇木」で、それの由来となっている城らしい。現在の住居表示では「宇木」が使われていないが、バスで「宇木行き」とかあった気がする。

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宇木城・宇木氏についてはよく分からない。探してみたけど分からなかった。

あと「城の山」という表現も分からないやー。だってココ平地だしさー。緩やかな上下はあるかもだけど、感覚としては山っぽさ皆無だったんだよ。

 

諏訪上社頭役については権威があるものらしく。14世紀頃には家単位で祭礼行事に関する職務・責任を受け持つようになり、その負担は大きかったために交代制となっていたようだ。任命の話も公文書などで残されているらしい。応仁2(1468)年の日付で「宇木・小鹿野(押鐘)など5か村が交代で諏訪上社の頭役を務めた」という内容の記述が残っているようだ。そのときの宇木の支配者の館跡ということなのかな。

多田(押鐘)氏の押鐘城は大永年間(1521~1527)に築城、それに先立って建築された盛伝寺居館は昔から地区が違うものの、宇木城からかなり近い(距離300mくらい)。多田氏はどこからか小鹿野にやってきた一族。もしかして宇木氏は小鹿野にやってきた多田氏に敗れて、いなくなっちゃったんかな?

 

★☆☆☆☆

どこかに堀跡を示す看板もあるらしい、見つけられてない

 

 

<宇木城>

築城年 不明

築城主 宇木氏?

構造 平城

相木城

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現在の相木城の面影は↑これだけ。このモサモサの藪の中に城跡を示す石碑や神社があるらしいが、周りはフェンスで取り囲まれており入れなさそう。入口が分からない。

昔は城跡の名残、土塁やら堀やらあったらしいが、ほぼ全部学校建設のために潰したらしい。

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昭和32(1957)年に城跡を取り壊して高校が建てられる。しかも女子高。たまたま休みの日でJKも全くいなかったので助かったが、もし登校日にうろついていたら不審者情報に載っていたかもしれない。

土塁の一部は記念に残しておいたものなのか、元々神社があったせいなのか、そのまま放置されている。モサモサの中の石碑には、「相木市兵衛政友之城跡」と彫られているとか。

 

相木さんは佐久の国衆・大井氏の家老一族で、元は小県の依田氏の流れを汲むおうちだそうな。そして本拠地は北相木村南相木村(永禄8(1565)年に相木村が南北に分裂した)。なんでこちらにも城を造ったのかというと、永禄4(1561)年の第4次川中島の戦いに武田方として参加した相木昌朝という人がおり、武田晴信さんに命じられて引っ越してきたためだそうだ。相木昌朝こと相木市兵衛政友、ということらしい。この人、「まさとも」という名前の音は気に入っていたものの、字面がいまいちだと思っていたのか、昌朝・正朝・昌友・政友・正友と色んなパターンの名前が残っている。ややこしい。

相木昌朝は1567(永禄10)年にこの地で亡くなったそうで。本家の北相木村の相木城は子の頼房・信房という2人が継いだらしい。信房の奥さんが美女剣士・更科姫で、二人の子が尼子氏再興運動を頑張った山中鹿之介なんだそうだ。そのため島根県松江市に相木信房(盛之助)と更科姫のお墓があったり、相木氏発祥の地の長野県南相木村には山中鹿之介の記念館があるらしい。

えーなんかこれトンデモっぽくないかしら? 武田氏旧臣の息子が所縁もなさそうな尼子氏になんで執着するんだろう、意味分からないわ。などと思い調べて見たら、やはり史実ではないらしい。更科姫は文化8(1811)年から10年にわたり刊行された「絵本更科草紙 」という本の主人公で、「山中鹿之介の母親=更科姫」という設定だった。これが当時流行ったらしい。で、山中鹿之介の地元に相木夫妻のお墓が作られたりしたんだろうか。

  • 天正9(1581)年、高天神城の戦いで相木信房戦死
  • 天正10(1582)年、武田氏滅亡、頼房は北条方になる
  • 天正17(1589)年、木次原の戦いで依田康国(徳川方)に敗れ、相木一族は信濃を追われる

という出来事があり、相木氏は全国に散っていった。

長野市の相木城は天正10年の時点で廃城にはなっていそうな気がする。

 

今日は怪しまれなさそうなので、ちょっと周りを撮ってみた。

土塁の周り↓

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 女子校の校舎はまだ新しく、平成25(2013)年に完成したという。新校舎の建て替えに先立ち平成24(2012)年に発掘調査が行われ、1900年~1500年前の集落跡が見つかったらしい。

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48軒の住居跡を確認。とあったので、そこそこデカい集落だったらしい。

 

↓女子校の隣には宇達神社。

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この神社は宇逵神が主祭神で、健御名方神と八坂斗売神も祭られている。創建年は不明で式内神社ではないものの日本三代実録に名前が載っているという。

神社の説明板には、

  • 創立年代不詳
  • 祭神は宇逵(うき)神、相殿は健御名方神、八坂斗売神
  • この地の開拓神の泥土立神(にどのたちかみ)=産土神
  • 産土神が訛って宇逵神になったと言われている
  • 貞観7(865)年朝廷より従4位授与

とあった。1900年前の集落のすぐ横の、この地の開拓神を祭る神社。もしかして弥生時代からあるのー? という妄想が広がる。「逵」の字が難しくて「宇達」になったのかと思いきや、よく見れば現在の社号も見たことない字を使っている。

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古そうな木がたくさーん。御老体なのか丁寧に世話されているようだ。

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★★☆☆☆

相木城のことより、宇達神社が1900年前に創建された相当古い神社じゃないのかとワクワクした

 

<相木城>

築城年 永禄4(1561)年?

築城主 相木氏

構造 平城

皇足穂吉田大御神宮

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皇足穂吉田大御神宮。延喜式神名帳に「白玉足穂命神社」の名前で載っている神社の論社のひとつ、とされている(別の「白玉足穂命神社」論社の話だと、白玉=皇の誤記ではないかとあった)。地元では「吉田神社」と呼ばれているらしい。皇足穂吉田大御神宮は「すめたるほよしだおおみかみのぐう」と読む。また現れた読めない系神社。

 

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↑本殿

古い神社で、摂社もたくさんある。

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玉垣かと思ったら、全部お社。

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全国の一ノ宮を祀っているとか。平安中期、全国を68州に分けていた頃の一ノ宮だそうで。

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くねった字で「忠魂碑」。乃木将軍の字かねー?

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wikiによれば、摂社は100社だそう。この神社は昔別の場所にあって、慶長年間(1596~1615)に現在地へお移りになった際に近隣の神社を統合した結果とのこと。

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現社号になったのも文政2(1819)年のこと。

以上がこの神社の歴史である。長い歴史があるわりには、分かっていることが少なすぎじゃないだろうかねー? 創建年不明だし。旧社号は「白玉足穂命神社」だったのかも確証なさそう。ちなみに移転は「川の近くで氾濫しまくって大変」「新しく街道ができた」という理由だそうだ。

皇足穂命というのは食べ物の神様のことを指すようで、この神社の御祭神も食べ物の神様・豊受大神だった。「白玉足穂命神社」論社は他に2社(御祭神はそれぞれ違い、瓊瓊杵尊と倉稻魂命である)、飯縄権現(=皇足穂命)を祀る皇足穂命神社という神社もあるらしい。瓊瓊杵尊は食べ物の神様じゃないと思うんだけどー。

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↑本殿

御祭神は天照大神豊受大神。見ての通りのお伊勢さん系列の神社だった。摂社もお伊勢さんが多い。

  • 伊勢神宮別宮(13社)
  • 全国一宮(68社)
  • 町内鎮守社(10社)
  • その他(9社)

 

皇足穂命という神様も具体像がよく分からない。口から食べ物を吐き出す女神様の名前が皇足穂命ではないようだ。古い神社は謎が多いなー。

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★★★☆☆

社務所の他にお寺?もあった、混沌としている

 

 

<皇足穂吉田大御神宮>

創建年 不明

御祭神 天照大御神豊受大神

 

押鐘城

今年の花粉は酷い気がする。

 

信越放送旧社屋跡地の裏に、こんなものが。

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本城→押鐘城跡である。信越放送のHPには開局頃の写真が載っていた。当時の信越放送の周りは田んぼだらけだったようだ。

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現在はアパートが目立つ住宅地となっていた。

SBCの古い写真、社屋の裏手に林っぽいものが写っているものの、ソレが押鐘城跡か分からず。現在のように開発される前までは土塁も残っていたらしい。

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今はこんな小っちゃい公園の名前にしか、押鐘城の名残を感じることが出来なくなっているようだ。

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小っちゃい公園に小っちゃいキノコ。

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本城公園から人しか行き来できない犬走りを通る。

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本城公園より広い公園あった。

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吉田公園というらしい。

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何てことはない公園だ。

押鐘城は万刀美神社の西側にあったそうだ。ざっと歩いてみたけど、全く何もない。起伏もない。綺麗に整地しちゃったのね。

 

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吉田公園と万刀美神社の境にあったベンチ。押鐘の文字。

 

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↑万刀美神社

この神社所在地の旧住所表示も「押鐘本城」だったようなので、ひょっとしたら押鐘城跡地の一部だったのかも? 地図を見たところ、押鐘城の東境=吉田公園と万刀美神社の境、のようで。しかし吉田公園と万刀美神社の境界はフラットだ。

 

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↑万刀美神社拝殿

 

↓境内の様子

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白山社

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社宮社・金毘羅社・弥栄社

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↓万刀美神社本殿

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由緒を書いた看板があった。

・御祭神は健御名方神・馬背の神(牧場の出入口に祀られた神)

・創建年不明、桐原牧(平安時代にあった牧)の牧官が祀った

小鹿野村→押鐘村の産土神小鹿野村は名前を変更し押鐘村となった)

・以前は別の場所にあったが、寛文6(1666)年この地に遷座

・文政12(1829)年社殿再建

・創建時より「諏訪大明神」と称していたが、弘化4(1847)年「万刀美神社」に改称

・万刀美神社とは、健御名方神の別名「南方刀美命」から採られている

ということで、なかなか古い神社らしい。

肝心の「押鐘城」の話はひとつも書いてなかった。

 

江戸初期に移転なら、押鐘城もまだ残っていそうだ。吉田公園が堀(と土塁の?)跡なのかねー?

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押鐘城は、大永年間(1521~1527)に多田(押鐘)氏が居城として築いたらしい。周辺は古代から人が住んでいて、いたるところに遺跡があるようで。「浅川扇状地遺跡群」とひとくくりにされており、各遺跡の報告書もいっぱいあった。ただザッとタイトルだけ眺めた感じでは、押鐘城関係の調査報告は見当たらなかった…きっと調査してないのでしょうねー。

多田氏が最初に造った館は盛伝寺というお寺さんになっている。その後押鐘城の造営にあたり、居館を廃してお寺にしたようだ。扇状地というぐらいだから平らな場所だし、城ひとつで充分なのかな。

多田から押鐘に改姓した理由ははっきりと分からないが、

・「小鹿野」が訛って「押鐘」に変化説

 神社の由緒書きにもあった古い地名「小鹿野」から

村上義清さんに褒められた逸話から採った説

 鐘を叩いて味方の兵を鼓舞してくれたから戦に勝てた有難う、と言われたから

という2説があるようだ。 

 

旧姓の「多田」はなんだろー? この辺りの地名とは関係なさそう。どこからか来た一族だろうか。信濃源氏の祖先で源(多田)満仲という人を見つけた。この人は河内源氏摂津源氏などの祖先でもあり、かなりのやり手で出世した。同輩に妬まれて自宅放火されてしまう人(とはいえ、多田さん本人も汚い手法で成り上がった模様)。

多田満仲河内源氏信濃源氏という別れ方で、信濃源氏の祖となるのは多田さんの孫2人がメイン(井上氏系統と村上氏系統)。多田満仲嫡流摂津源氏で「多田」を名乗れる、河内源氏は満仲三男の子孫。「多田」姓名乗ってない。摂津源氏の「多田」一族の誰かが「同じ源氏じゃないか」と村上か井上を頼って引っ越してきたとかねー違うかなー。

 

 

★☆☆☆☆

何もない、吉田公園は遊べた

 

 

<押鐘城>

築城年 大永年間(1521~1527)?

築城主 多田(押鐘)氏

構造 平城

中村神社

名前は難しくないが、ロマン感じる延喜式内社。

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鳥居が綺麗なのは、15年程前に再建されたばかりなので。

この神社のあちらこちらに「倒木注意」というような看板が立っていた。根元に×印がスプレー書きされている木もあった。見た感じは今にも倒れそうな老木ではなさそう。しかしきちんと調査した結果のようだし、隣が小学校だから多少大げさに注意喚起しているのだろうか。

 

↓境内の様子

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↑摂社がたくさんあった。

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↑拝殿と本殿

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拝殿、なんか長くないかなー? ちょっと気になった

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別の鳥居を発見。

 

古い神社なのに由緒書きの看板が見当たらなかった。御祭神についてのものだけ見つけた。

素戔嗚命

天児屋命

大国主命

建御名方富命

事代主命

の五柱の神様が祀られているそうだ。

素戔嗚命の子孫=大国主命

大国主命の息子=事代主命・建御名方富命

という関係性なので、なんとなく一緒に祀られていることがすんなり頭に入ってくるものの、天児屋命は他の四柱とどういう関係なんだろ? と思った。

天児屋命の業績としては、

・岩戸隠れの際、祝詞を唱える。ちょっと出てきた天照大神に鏡を差し出す

天孫降臨の際、瓊瓊杵尊随行した

・中臣氏(藤原氏)の祖

ということで、天孫降臨の時だけちょっと他の神様たちと関わり合っているようだ。

この神社が再建された際の棟札には「大国大明神」と記載されていたとのことで、主祭神大国主命らしい。

 

創建年は不明ということだけど、延喜式がまとめられた延長5(927)年にはこの場所に鎮座していたと言われている。それなら境内の木々を調査して「倒れそう気を付けて」といたる場所に看板立っているのも分かる気がするなー。パッと見、樹齢千年なんて古木はなさそうだが、数百年クラスはゴロゴロしてるのかもねー。

永禄年間(1558~1570)に兵火で本殿・拝殿・社庫などすべてを消失したらしく、永禄12(1569)年に当時の領主で竹山城主の西条裕直という人が社殿を再建しているそうだ。この地区の産土神でもあるらしい。

 

 

★★☆☆☆

気持ちの良い神社

 

<中村神社>

創建年 不明

御祭神 大国主命

 

源関神社

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この神社は、関屋氏という一族が諏訪大社の分霊を勧請したことが初め、と言われているようだ。関屋氏は諏訪氏の一族で、諏訪明神の氏子から成る諏訪神党という武士団のメンバーだとか。諏訪一族の大祝為盛という人が関屋地区に移住して、関屋氏と名乗ったのが延久元(1069)年と伝わっており、それ以後に氏神として建御名方をお招きしたそうだ。御祭神は建御名方命の他、八坂刀売命、事代主命御柱は何故か明治17(1884)年からやり始めたらしい。歴とした諏訪系神社なのに意外だわ。

別の場所だが関屋氏の関屋城も残っている。ここには地蔵峠に向かう重要な街道がある。松代と真田を結ぶ道。関屋城はその監視をするためのお城だったらしい。関屋氏の館は氏神様を祀るこの神社近くなのかなと思っていたが、実は館がどこにあったか分からないという。

 

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広くないものの、雰囲気はとてつもなく良好な神社。

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古風な神社。拝殿はどうだか知らないが、本殿は応永12(1405)年に造られたらしい。棟札も残され「造営の趣旨」や依頼した関屋さんの名前、建てた大工の名前などが残っていたという。そんな大昔の建物だから、がっつり保護されていて何も見えなかった。

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 ↑この中に本殿があるようだ。

左:源関神社本殿 中央:皇大神宮 右:住吉社

という順番で並んでいるとか…皇大神宮が真ん中なのか、最高神だからなのかねー? 並び方も意外に思った。

 

説明板には

・本殿の形式は一間社流造

 流造は全国の神社で最も多い形式で、屋根が反る・前に伸びてきて向拝(庇)のように出てきているもの。その中でも、桁行の柱間が1間(支える柱が2本)であるものを一間社流造と呼ぶようだ。

・屋根は板葺、母屋は丸柱、向拝の柱は角柱

 流造の一般的な形式と同じ

・母屋の柱上には舟肘木

 下半円の形をしている肘木(単純な、ありふれたもの)

・妻飾は豕扠首

 切妻屋根の両端に棟木を受けるために△形に組んだものを扠首といい、豕扠首は△の中央に束(短い棒)を立てた形式

・正面は幣軸付板扉

 扉口の上方と左右の三方につく繰形付きの額縁の付いている板戸(よく見かける板扉の様式)

・三方は板壁で切目縁を廻す

 切目縁=板の張り方で外側に板の木口が見えるようにある

・向拝は大面取角柱、木鼻付頭貫を通し、組物は連れ三斗

 大面取角柱=面取り部分を大きく削っている角柱

 木鼻=貫から飛び出している部分、装飾されていることがある

 頭貫=柱と柱を上部でつなぐために柱の頭部に用いる横木

 組物=柱上に置かれ軒や屋根を支える装置

 連れ三斗=三斗はШ←こんなような形(縦棒が斗と呼ばれる)、連れ三斗は斗が4つになったもの

・母屋柱と向拝柱は繋虹梁で結び、正面には三段の階段

 虹梁=⌒と虹っぽく反った梁

 繋虹梁=柱と柱を繋ぐ虹梁

ということだが。文章だけでは本殿の姿がイメージとして浮かんでこない。実物を見たい。

と思っていたら、写真で見られたよ。600年以上前の物の割には綺麗な気がしたよ。大事に護られてきた神社なのね。文化財データベースに感謝した。

 

 拝殿は特に文化財指定されていないから本殿と同時期に建てられたものではなさそうだが、それなりには古そうだ。

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装飾も少なく、こちらも古風な感じがする。室町時代に造られた本殿と雰囲気を合わせているかのような。文化財指定されてないんだから、やっぱり見た目ほど築年数が古くはないんだろうねー。

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↑拝殿の掲額、字が完全に消えてるよー。なんて書いてあったんだろう?

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二軒繁垂木っていうものなのかな、京都の寺社っぽい感じ。

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1月に出かけた、江戸後期に造られた古大穴神社と同じような軒裏だけど、やっぱりどこか見た目の違いがあるような気がする。こちらの方が「古い」としか言いようのない見た目(明確にどこがどうとか説明できないが、そういう印象を持った)。拝殿を建て直したときに、元の拝殿と全く同じものを建てたとかなのかなー?

 

 

★★★☆☆

雰囲気あった、良かった

 

 

<源関神社>

創建年 延久元(1069)年以降?

御祭神 健御名方命 八坂刀賣命 事代主命

 

平林館

長野市文化財データベースによると、

・平林館跡とは、松代町豊栄地区の諏訪社周辺に比定されている居館跡

・沢状低地に挟まれた小高い傾斜地にあると推測されている

・現在は宅地である

・古い地図にも堀や土塁の痕跡が読み取れない

・具体的なことは何一つ分からない

とあった。

 

実際に見に行ってみた。

諏訪社というのはこんな場所↓

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村中安全所。

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諏訪社の本殿。

 

この場所は大昔の荘園で、名前を「英多荘」と言ったらしい。「英多=あがた」だそう。本当、昔のモノは読めない。延久2(1070)年には殿下御領という藤氏長者の荘園になっていたようだ。藤氏長者藤原氏の一番偉い人のことで、藤氏長者の地位に付属する土地の名称というのが殿下御領というそうだ。…荘園ってなんだっけ、と分からないのでとりあえず家族に聞いてみた。

 

・荘園とは?

 脱税するやつ

・何故脱税に繋がるのか?

 名目上は私有地である別荘の庭で、庭から農作物はとれないことになってる

 

分かったような分からんような。とりあえず、農地であれば税が課せられるが「農地ではなく非課税である庭」と貴族とかが主張し、管理人を常駐させて税取立てにくる国の役人を追い払ってたようだ。

鎌倉時代の「英多荘」の地頭(管理人)が地元在住の平林さんという人で、その屋敷がココにあったということらしい。

 

不思議な場所で、神社境内より道路の方が高い。

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道路の反対側は民家だったが、こちらは下がっている。

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何故か隣の民家の敷地と神社を結ぶ道がある。

諏訪社からは館跡っぽいものがまるでない感じで、ちょっと館跡をイメージしづらい。データベースの記述通り。

 

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裏手も何もなし。
 

 英多荘内には館の他に、清滝城というお城があった。そのお城も来歴不明みたい。この館からは結構離れた山の頂上にあるので、きっと平林館とは関係が薄いのかもしれないと思った。清滝城も古く、室町時代南北朝時代が始まった建武3(1336)年には存在していたようだ。

 

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↑諏訪社の摂社。鏑木門の祠が気になる。

 

★☆☆☆☆

何もない神社

 

 

 

<平林館>

築城主 平林氏

築城年 不明

構造 平城

 

 

 

 

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鳥居の傍に桜の古木と石柱が。

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皇太子殿下誕生記念。昭和9(1934)年に建てられたものだった。並び的に桜を生誕記念として植えたのかと思ったけど、違うのかなー。桜の木、ちょっと老い過ぎてるような気がする。