お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

松本城

松本の市街地にやってきた。

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とりあえず松本城へ。お盆休み期間中ということで人だらけ。混雑している。

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松本城天守閣が国宝、お城跡は国の史跡に指定されているそうな。

  • 天文年間(1504~1520)、小笠原氏が林城の支城として深志城を築城
  • 天文19(1550)年、林城や深志城などが武田氏によって落城
  • 武田氏は林城を破却、深志城には城代を置く
  • 天正10(1582)年の武田氏滅亡→本能寺の変天正壬午の乱で、お城の主は武田氏(馬場信春)→織田氏織田長益木曾義昌)→小笠原洞雪斎(上杉方)→小笠原貞慶(徳川方)と代わる
  • 小笠原貞慶松本城と改名
  • 天正18(1590)年の北条氏滅亡。支配者がいなくなった関東に徳川氏が移り、松本城主だった小笠原氏も一緒に引っ越し
  • 石川数正が初代松本藩主となり、城郭の整備や城下町を造る
  • 石川氏が失脚、小笠原氏が戻ってくる
  • 石川氏→小笠原氏→戸田氏→松平氏→掘田氏→水野氏→戸田氏 の順で藩主が代わる
  • 天守閣を改造したのは松平氏(原型をあまりとどめていない程度に改造したらしい)
  • 天守閣はいつ造られたのか正確には分からない

初代松本藩主の石川数正徳川家康の今川家人質時代からの家来で、家康の右腕だったらしい。しかし天正13(1585)年急に豊臣家の家来になってしまった、しかもその理由はよく分からないらしい。軍事機密を熟知していたそうで、仕方なく石川数正という人が逃げた後は滅んだ武田氏の遺臣を多数抱えて、武田の軍制を取り入れることになったとかいう、徳川氏にとっては大事件だったらしい。豊臣家が滅んだら、真っ先に粛正されそうな一族だなーと思う。しかし、石川数正の子の石川康長という人(第2代松本藩主)が関ヶ原の戦いで東軍だったために本領安堵。慶弔18(1613)年に失脚したのも「大久保長安事件」とかいう謎の事件に巻き込まれたかららしい。その事件なかったら、大名として存続してただろうか? 裏切ったのにずるいなぁ、でも幕府の中で肩身が狭くなかったのかな?

大久保長安という人も切れ者でロマンあふれる大出世を遂げた人らしい。

  • 猿楽師の家に生まれる
  • 武田信玄に才能を見いだされて、鉱山開発など土地開発の仕事をする
  • 武田氏滅亡→すぐに徳川氏に雇われる
  • 甲斐の内政立て直し事業を手がける→成功
  • 八王子同心の創設者・統括者になる
  • 全国の鉱山開発、道路網整備の責任者になる
  • 徳川領150万石の代官になる
  • その収入で大金持ちになる
  • 晩年は鉱山の収入が低下したことで家康から嫌われたのか役職を次々罷免され、豪遊し過ぎたのか中風(脳血管障害)になり死ぬ

という人。お金持ちになりすぎて他人から疎まれてしまったようだ。大久保長安事件というのwikiで読んでもイマイチ分からなかった。政争じゃないかと言われているらしい。内情が分からないので、巨万の富を元手に国家転覆を企てようとしてた、という説もあるようだ。普段から豪勢な生活をしていたそうで、側室が70~80人いたという話も。私は死んだら大久保長安に生まれ変わりたいと思った。

 

じゃあ天守閣に登ってみようか、と行ってみたところ。

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そんなに待ってられないわ、と早々断念。

 

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お堀沿いを歩き、外側からお城を見るだけということに。

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前回来たときは、地震があったそうで石垣が崩れて修復作業中のシートがかかっていたものの。さすがに今はないようだ。

ぐるっと天守閣を見回る形で人の流れが出来ていた。

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ココが一番有名な撮影スポットだった気がする↑

赤い橋も見えるしねー。

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↓赤い橋。埋橋というらしい。

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前回の地震は平成23(2011)年6月で、やっぱり牛伏寺断層の仕業ということになっていた。石垣25カ所と埋橋が被害に遭い、現在も埋橋は立ち入り禁止。

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↓なんか蓮咲いてたわ。

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★★★★★

天守閣かっこいいよね

 

 

 

松本城

築城年 永正年間(1504~1520)

築城主 小笠原氏

構造 平城

牛伏川フランス式階段工

お盆休みどうしようか、といくつか観光地の候補を出していた時に見つけた「フランス式階段工」というモノ。字面からはどういったものなのか全く想像できない。国の重要文化財砂防ダムらしい。

重文指定されているダムは全国に何カ所かあるらしい。フランス式階段工は2012年に指定されている。

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こんな感じだった。河床が階段状に連なり、全部で19段。

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もっとたくさん階段があるように見えるなあ。資料によれば、各段には3寸(約9cm)の小段が設けられており、それで水の流れの勢いを殺しているそうだ。

今はこんな感じのサラサラした小川みたいな牛伏川はしょっちゅう災害を起こしていたらしい。こういう山の中だから主に土石流。ここは牛伏寺という有名なお寺さんがあり、そこから名前を採ったと思われる牛伏寺断層という頻繁にずれてる断層がある。しかもその断層が牛伏川と併走しているという。雨が原因の土石流の他に地震が原因の土石流も起こるんだと。置いてあった資料には元禄3(1690)年~明治29(1896)年で起きた主な災害があった年月が羅列されている。これによると10~20年周期で大きな災害が起こっているようだ(規模の小さい災害は載せていないらしい)。また、この階段工より下流には大きなダムがあった。

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ダムよく見えない。残念。

さすがお盆休みで、ダムがよく見える辺りはがっつり路駐されててこっちの車をとめる場所なかったわ。牛伏寺にお参りに来る家族、牛伏川の河川敷でBBQやってる家族で賑やかだった。

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この階段工は大正5(1916)年着工、大正7(1918)年完成、ちょうど今年は完成100年の年に当たる。が、牛伏川の治水工事自体はもっと前から、明治18(1885)年より行われているそうだ。

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↑こういうものなどを造っていたようだ。これは山止め(崩落止め)の空石積みらしい。

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↑河床も石積み、護岸も石積み。とにかく石を積みまくっている。

 

一番上の段には第1号石堰堤(ダム)という施設があるようだ。そのダムの完成が明治19(1886)年。標高850m~1600mの間に100基以上の石堰堤・護岸水路・崩落止めの石積みがあるという。階段工は標高990m~1015mの位置にあり

(階段工の真ん中辺りが標高1000m地点)、階段工付近はとにかく人の手が入りまくっているようだ。山の木々に覆われて何にも見えないけど。

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ちょうど階段工周辺が一番急峻な谷部分らしい。

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V字のような場所、底に川だー、この部分が一番土石流起こりやすいということで、相当人の手が加えられているようだ。

100年前なので重機もなく、セメント工事は費用の面で不可(内務省直轄工事で資金はそれなりに潤沢だったと思われるものの地方の山の中だから無理だったという)。使われている石は全部人力で運び、設置したそうな。

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↑工事中の様子。

そんな感じなので、色々やってたら30年かかってしまったらしい。

 

 

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穴太衆とかがお城の土台造ってたんだしな。現代でも穴太衆存在してるし(テレビで棟梁のインタビュー見たことがあるが、「経験積むと石の声が聞こえるようになり石の指示で石垣が組める」と語っていた、日本の職人さんらしい言い方で面白かった)。

 

何故「フランス式」と名前がついているのかという理由も、現地の看板に書かれていた。

・池田圓男さんは明治後期に内務省土木技師として欧米へ視察研修に行き、フランスのサニエル渓谷の砂防技術について学んだ

・後に牛伏川の砂防工事に関わり、上記のサニエル渓谷での砂防技術を導入提案した

・そのため「フランス式」と呼ばれている

 

 

階段工のオリジナルはサニエル渓谷を流れるデュランス川に設置されているらしい。その川はフランス4大大河のひとつ、ローヌ川という川の支流らしい。なんかすごいらしいけど、全く実感が湧かず。サニエル渓谷もアルプスの南がどうたらこうたらとか書いてあったけど、よく分からない。フランス行ったことないし。まあでも階段工は外国的な雰囲気あるよなー。デュランス川は荒いと大昔から有名で、こちらも色々と改修されていた川だそうだ。 

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階段工を見に来ている人達はほとんどいなかった。我々の他に家族連れが1組のみ。観光客は結構来ている様子だったのにな。

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この先にもキャンプ場があるらしい。自然大好きなアウトドア派の人達には天国みたいな場所なんかね?

 

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近くの牛伏寺は修験道のお寺さんらしい。縁起は「聖徳太子が42才の時に彫った観音像を安置したこと」だそうで。敏達天皇3(574)年生まれなので、42才なら616年かなー? 推古天皇24年にあたるようだ。 推古天皇30(622)年薨去とあるので晩年の出来事かな?

今回弾丸ツアーを組んでしまい、時間がないため牛伏寺にお参りしなかった。しかし、こんなものが道沿いにあった↓ 

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 牛伏寺の名前に関連する「牛堂」。看板には

・唐の玄宗皇帝が楊貴妃の菩提を弔うため大般若経善光寺に納経させた

赤と黒の牛2頭に運ばせる

善光寺へ向かう途中、この山の麓で牛は2頭とも倒れた

・御本尊の十一面観音様の霊力により牛が死んだと推察される

・牛が運んでいた経典は牛伏寺に納めた

・牛堂では倒れた牛の霊を祀った

 

公式では天平勝宝7(756)年の出来事とされる。楊貴妃玄宗皇帝から死を賜り756年7月15日に亡くなったそう。その年内に600巻の経典造らせて日本に運ばせるの無理じゃないのー? そもそも唐の皇帝は善光寺なんか知らなそう。などと考えていた。単なる伝承なので色々無理があるらしく、鎌倉時代以前の牛伏寺についてはよく分からないらしい。ちなみに楊貴妃は蓬莱(日本)に生まれ変わったとか、阿倍仲麻呂の手引きで日本に亡命したとか、そんな噂もあるらしい。そのせいで楊貴妃の事を持ち出してきたのかもねー? 

聖徳太子が彫った?十一面観音は密教の伝来と共に信仰を集めた観音様らしい。聖観音の次に仏像が多い観音様だそう。密教最澄が一番最初に紹介したとのことだが。最澄は短期留学の扱いだったため804~805年しか唐に居らず、809年密教をがっつり勉強してきた空海が帰国したのがキッカケで流行ったらしい。

ただ、白山を開山した修験僧の泰澄(天武天皇11(682)年~神護景雲元(767)年)が十一面観音像を信仰していたとかで密教伝来よりずっと昔から知られていた観音様かもしれない。7世紀頃インドで成立した観音様と言われている。聖徳太子も泰澄も7世紀の人物のようだ。

 

 ★★★★★

ここは非常に良かった、大自然苦手な私でも行って良かったと思ったぐらい

 

 

 

<牛伏川フランス式階段工>

竣工年 大正7(1918)年

構造 砂防施設

格致学校

今年は暑くて例年以上に死人が出ている。毎日スマホに「熱中症の恐れあり・屋外原則運動禁止」などというアラートが来る。そんなの目にすれば外に行くのはやめようと思うけど、さすがに毎日引きこもる訳にもいかず。

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擬洋風建築というジャンルの建築物が結構好きで、わりとあちこち見に行っていたけど。最近まだ見に行っていない建物が近くにあるということに気づいた。

格致学校というらしい。

明治8(1875)年の中込学校、明治9(1876)年の開智学校に触発されて建てられた明治11(1878)年竣工の小学校だそうだ。

明治5(1872)年に学制という日本初の教育法令が発布されたことがキッカケで日本各地に文明開化な感じの学校の建設ラッシュがあったようだ。山梨・静岡・長野の3県は特に擬洋風の学校を造ろうと盛り上がっていたとか。ただし名称は洋風ではなく地名だったり何かの文章から採ったりと、昔ながらの感じ。せっかくだからセントバーナード学校みたいな海外っぽい名前つけようなどというはっちゃけた文明人はいなかったのだろうか。

格致学校の名前の出典は中国の古典・大学で、「致知在格物、物格而知至」=「格物致知略して格致」からだそうな。儒教の四書(大学・孟子・中庸・論語)のうち大学は儒教の思想をまとめた本だそう。儒教を学ぶときには真っ先に大学を読め、四書の中で一番読みやすいから、と朱熹という人が言っていたぐらいに体系的な書物らしいが。実は「格物」「致知」という項目を設けていたにも関わらず、この二つの言葉の意味を全く言及せずに終わってしまっているという。この難しい言葉は昔の中国でも色々な解釈・論争を生んでいたようで。儒教の宗派で解釈が違い、しかも読み方まで変わってくる恐ろしいモノらしい。一応、格致学校の説明文には「物事の道理を究めて自分の知識を完成させる、という意味」とあった。

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明治5(1872)年の学制発布を受けて、格致学校は2つの村の組合立の学校として発足、当初は西念寺というお寺さんを仮校舎として使う。明治11(1878)年に一行寺跡に新校舎が完成したとあった。

学制では義務教育という概念はなかったらしい。明治33(1900)年まで授業料を徴収していたそうで、「小学校のわりには小さくね?」などと思ったもののお金が払える家の子だけ通学していたんなら、校舎はこの程度の規模で十分なのかと少し納得した。

小学校運営は地元民の寄付・生徒の授業料で賄われていたものの、教員は1校あたり1~2人、生徒も40~50人程度が標準だったらしい。格致学校みたいに校舎新築も地元の人間からまずお金を徴収するというスタイルなので、反対されれば寺(小学校全体の40%)や一般住宅(全体の30%)で開学となる。新しい校舎(しかも擬洋風という新ジャンル)で建てるような地区は金持ちや教育に熱心な人々が多かったんだろう。小学校設置は国策とはいえ維持費などの金を出すのは地元民だからか、政府批判の矛先が学校に向かい焼き討ちされることもあったとか。

明治19(1886)年の小学校令で「4年制の尋常小学校が義務教育」というのを初めて明文化したようだが、明治33年の小学校無償化まではやはり就学率が低かったみたい。明治6(1873)年の就学率が男子約40%、女子約15%、平均約28%。小学校設置と共にそれまであった学校(郷学校・寺子屋等の庶民教育機関、藩校など武家子弟教育機関)を全廃したとのことだが。大多数が庶民向けの教育機関だったために寺子屋等をそのまま小学校にと転換した例が多く、学制発布当初の学校規模や内容、就学率も寺子屋時代と大差ないらしい。寺子屋も授業料を取っていたそうだ。寺子屋の場合は経営者の裁量で授業料が定められ(都市部は現金払い、地方部は物納。基本的に安い)、寺子屋は家が裕福かそうでないかで授業料が変わり、江戸市中の相場が3750~12500円。藩校や郷学校は経営者が藩なので基本的に無料。明治の小学校は月50銭(10000円くらい)。お高いじゃない。寺子屋の先生というのは理想を掲げていたようで、未来ある子供達が今よりもっと良い生活が出来るようにと願い学問を教えていたとか。なので授業料は親の負担にならないよう安く、各家庭の経済状況も考えてお金のない家からはあまり多く取らず、授業料滞納した程度では追い出さなかったらしい。

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入り口。明治の創建当時のままを移築復元したということで、冷暖房なしだそう。管理の方に熱中症にならないよう、気を付けるように言われる。

まず二階へ。

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広い。この部屋は試験場らしい。

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今は坂城町の観光名所や歴史などのパネル展示があるだけだった。

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床は板張りなのにキシキシしなーい。

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↑窓の外。

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↑これ見たい。こんな感じの用水遺産というものが数カ所あるらしい。イギリス積みだのと説明文にあるので、明治時代に造った水路なのかなー?

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登ってきた階段↑

小学生の子供なら、毎年誰か1人くらいふざけて柵の間から落ちて怪我してそうだ。

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隣に一部屋、教場だそうな。

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こちらは長野県内の擬洋風建築小学校の紹介パネルが展示してあった。これを見ると半分くらいしか見に行ってない事に気付く。有名どころの中込学校、開智学校は何度か見に行っているが、和風に近い(屋根が瓦とか)校舎はあまり関心が向かず、しかしそれら建物も擬洋風建築にカウントされていたので(やっぱり一度見に行ったほうがいいのかなー?)とプレッシャーを私にかけてくる。

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ただ一時ハマって、定期的に見に行っていた聖博物館がない(ここには戦艦陸奥の主砲や自衛隊機のほか、JALのスチュワーデスの古い制服が数点展示されていたり、旧日本軍のパイロット養成課程の教科書も置いてある。昔の村長で、旧日本軍パイロット→JALパイロットという経歴の人がいたとかで、その伝手で集めたものなのかね?)。あれも擬洋風建築の小学校を移築したモノだったはずだ。調べたら、明治10(1877)年建築の旧麻績小学校校舎を昭和46(1971)年に移築とあった。格致学校より古い…。ただ、移築したときに規模を縮小しているそうで、その為このパネル上ではカウントされていないのだろうか。擬洋風小学校の是非仲間に入れておいて欲しい、と思う。 

 

一階の見学。いくつかの部屋には隣接する図書館の蔵書が置かれていた。

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古い本は展示してある。

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古い本と言ってもこんなものから↓

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こんなものまで↓

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古い教科書かなー?

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江戸時代の本がけっこうあった。

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文章規範は、漢と宋の時代の文章(散文)を古文と呼び科挙の受験対策用に名文を集めた参考書のようなものらしい。古文は唐の時代に主流だった華麗な駢体という文体に対して、古い時代の飾らない文体の方がいいんじゃないかと復興運動が起こり、科挙出身の官僚達に特にウケたものらしい。駢体は韻を踏んで美辞麗句を用い、如何に美しい文章を書くかに重点を置いたもので、文章の内容についてはどうでもいいことになっていたらしい。貴族がよく用いた文体。対して古文は史記などの歴史書などに使われた文体で、伝えたいことをハッキリ書くことに重点を置いている。

 

孟子↓も古文の時代の文章だとか。

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古文復興運動は儒教の復興運動と結びついているらしい。江戸時代には儒教朱子学)が推奨されており、その関係なのか「文章規範」は江戸後期によく読まれていたという。

 

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格致学校時代の大事なものも展示。学校の免状?許可証?みたいなものとか。何故だか釘も展示してあった。

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明治時代の有名な書家の字↑

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一階は教場5、事務所、面謁所、教員休息所、生徒休息所がある。

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一部屋、教室風にしてあった。

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開校当初のものではないとのことだが、非常に趣があり思わず「すげー」と言ってしまった。

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古いオルガンもあり、蓋を開けて少し弾かせてもらった。

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足でペダルを踏まないと音が出ないよ、と教えたにも関わらず。子供がキーを叩くも「音が出ない」とブツブツ文句言っていた。

 

一回りしたので外に出た。

外にも案内板が置いてあった。

  • 格致学校は旧埴科郡中之条村横尾村の組合立小学校として明治6(1873)年設立、仮校舎として西念寺を利用
  • 明治10(1877)年新校舎着工、工費約1381円、明治11(1878)年竣工
  • 擬洋風建築、木造二階建
  • 正面入り口のアーチ、窓、扉、石造りの基礎等が洋風。屋根、漆喰塗りの外壁等が和風。
  • 外観は装飾部分が少ない
  • 昭和37(1962)年まで使用
  • 格致学校→南条学校→安形学校→中之条尋常小学校→中之条国民学校→中之条小学校→中之条中学校→坂城中学校中之条部校 という変遷
  • 昭和57(1982)年文化財保存施設整備事業により移築復元を計画、昭和57(1982)年着工、総経費1億2070万円、昭和58(1983)年移築竣工

 

 

 

★★★★★

行って良かった、面白かった

 

 <格致学校>

創立年 明治6(1873)年

福沢氏館

普段よく通っている道に「福沢氏ゆかりの寺 飯縄山福泉寺」という看板があった。ずっと気になっていた。場所は狐落城のある山の麓付近。村上さんの本貫地である。

村上さんの土地の中に福沢さんが居る? それとも村上さんの親戚の人か?

 

わざわざ「福沢氏」と銘打っているんだから、何か地域で有名な一族なんだろうか。福沢という有名人なんて福沢諭吉ぐらいしか知らない。誰もが愛してやまない一万円札の人。しかし一万円札は大分県の中津藩士の子、親は大阪で仕事していたので出生地は大阪。長野に関係なさそう。

と思っていたら、一万円札は「私の遠い先祖は信濃国福沢出身だそうです」などと言っていたとか。ただ、その言い方だとざっくりしすぎてよく分からないことになっているらしい。長野県内には「福沢」という地名の場所が11カ所あるんだと。そのうちの一つが坂城町の福沢という場所らしい。また「福沢氏ゆかりの寺」の福沢氏というのは村上氏の家来やっていた福沢氏を指しているとのこと。つまり、福沢諭吉の先祖=村上家重臣福沢氏かもしれない、とか。

 

その福沢氏の館跡があるとかいうので、見に行ってみた。「福沢氏ゆかりの寺」からは少し離れている(というか、小さい山をひとつ越えた別の地区にある)。

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福沢川という川が流れている。

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川を渡ると、葡萄畑発見。

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この奥が館跡だとか。

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屈んでみると、葡萄畑の奥は盛り土? 削った? どちらか分からないが、急に高くなっている。その一段高くなったあたりに館があったらしい。

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館跡周辺を取り囲むように道があるので歩いてみた。これは多分、堀の跡ではないと思う。

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ゆるい坂道になっている。

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この辺か? と思われる場所は民家と畑に。

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見た感じ、何もない。

件のゆかりのお寺さんHPには、

  • 福泉寺開基は福沢薩摩守政隆
  • 福沢氏は村上氏の重臣(親戚)
  • 天文年間(1532~1555)は塩田城の城主
  • 天文22(1582)年、塩田城の落城と共に福沢氏滅亡
  • 福泉寺は天正年間(1573~1586)創建なので、福沢一族は全滅しなかったのでは?

という内容が載っていた。

村上氏の最重要拠点だった塩田城が落城したときに、本家筋でもある村上氏を越後に逃がすために福沢氏は人間の盾となり武田軍の攻撃をガッツリ受ける→福沢氏滅亡→武田家も滅ぶ→福沢一族の菩提寺として福泉寺創建という流れのようだ。

 

ちなみに塩田城は建治3(1277)年、鎌倉幕府の第六代連署(副執権)だった北条義政信濃国塩田荘に移り住んで来た時に造られたお城。北条義政という人は病を得て、何もかも嫌になったのか遁世してしまった。もちろん仕事を途中で放り投げられた幕府の偉い人達は怒って北条義政の領地没収。その後、幕府内で出世できなくなった塩田北条氏が3代に渡って統治した。北条義政は文化人としても有名かつ金もあったらしく、鎌倉文化を持ち込んでお寺さんなどを建てたりしたようだ。そして元弘の乱(1331~1333)では「いざ鎌倉」と駆けつけたものの幕府と一緒に戦い滅亡。領主が村上氏に変わった。塩田北条氏は出世できなくなったとはいえ家格が高く、当然塩田城も大変立派なお城である。中世城郭としては長野県最大級だとか。村上氏と武田氏も改良を重ね、最終的には弘法山という山をすべて城塞化している。

ただし、塩田北条氏(北条俊時)の子孫がすべて死んだわけではなく、足利氏に属して塩田荘の領地を安堵されたともいわれる。前山村(前山寺がある辺り)の福沢に住んだ末裔は福沢氏を称し、宮沢に住んだ末裔は宮沢氏を称したそうな。宮沢氏は後に消えてしまったが、福沢氏は後に村上氏の配下になったという。文安5(1448)年から福沢氏が塩田荘の代官を世襲しており、長享3(1489)年まで記録が続いた。

この話が事実だとすれば、どういう理屈で福沢氏が別所周辺を支配していたか納得出来る。ああ、北条氏→福沢氏→一万円札ということなのかー。凄い家の人だった。

 

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林道があった。古そう、結構暗め。

石碑の裏には林道が造られた経緯などがまとめられていた。それによると

  • 昭和57(1982)年、森林育成と保護のため林道建設が発案される
  • 尽力した県会議員の名前、坂城町町長の名前、坂城町の議員諸氏により坂城町の事業とし、同年「林道網掛線」として着工
  • 延長3617m、幅員3m、総事業費1億213万円、昭和60(1985)年竣工
  • 受益面積約300ha 受益戸数114名
  • 雑務をこなした網掛林道委員会常任委員と土地を無償提供した74名に感謝
  • この林道は森林資源の動脈として、また地域住民の森林浴遊歩道として活用してほしい
  • 国県町の関係機関、林道建設に協力をいただいた福沢区の皆様、この記念碑建立に御芳志いただいた方々に感謝

とあった。意外と新しい。この林道は途中で二手に分かれ、1本は山の上にある温泉施設へ、もう1本は県道160号上室賀坂城停車場線にぶつかる。総延長3.6kmとあるから、県道160号にぶつかる道が本線らしい。上室賀坂城停車場線は大昔からある道のようで、室賀峠を経由し坂城から上田に抜ける。

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ぐるっと一周まわることにした。

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館跡方面。奥が最初見た葡萄畑。こう見ると、多分削っているんじゃないかと思った。切岸というやつかねー?

↓やっぱりちょっと段になっているみたい。

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福沢氏は福泉寺を建てた後、また消えたらしい。一説によると、村上水軍南北朝時代に信州村上氏のうち南朝方が瀬戸内に移住した→海賊衆になる、という説があり、それに基づくと村上水軍と福沢氏は遠い親戚関係にあたるようだ)を頼って四国へ行き、その後は九州に移住したらしい。福沢諭吉は大分中津藩士なので繋がってくるというお話。

「福沢」11カ所のうち、現在最有力なのは茅野市平福沢で有志が石碑を建てたらしい。その次くらいに坂城町網掛福沢なんだそうだ。しかし当の本人は自分のルーツに興味がなかったようで、特に先祖を調べたりしていない様子。その後色々な人が調べたらしいが、結局どこなのか今でも確定できず。進め一億火の玉だ的な感じのヤケクソな終わり方をした一族の子孫が一万円札の人物だなんて、ちょっと嫌だなとは思った。茅野市平福沢が発祥の地でいいんじゃないかねー?

 

 

★☆☆☆☆

長閑で静かな田舎だった

 

 

<福沢氏館>

築城年 不明

築城主 福沢氏

構造 平城

 

 

三才田子遺跡

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一応、三才田子遺跡という名前がつけられている辺り。

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↑こんな名前の川がある。

現在「北部スポーツ・レクリエーションパーク」という施設が建っている場所を籠沢遺跡というらしい。平成26(2014)年に出来たばかりだそうで、この運動公園近辺は道も新しくなっている。

北部スポーツ・レクリエーションパーク建設に先立って平成20(2008)年~平成23(2011)年に発掘調査が行われたとか。成果はかなりあったようだ。住居跡が170軒とか…ムラって感じではなく、街じゃないのー? 発掘調査の後は公園になってしまって看板もなく、今はその辺の親子がスケボーとかやっているような場所に。

三才田子遺跡の方は籠沢遺跡よりも古くから知られている遺跡だけど、きちんとした調査はこれからかも? なのかな。だけど、その調査も出来ないかもしれない。

遺跡の真ん中に↓こんなやつ走っていたりして、発掘が難しいと。

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奈良の平城京跡みたいだよねー。線路に分断されてる。

昭和42(1967)年~昭和43(1968)年と平成27(2015)年に発掘調査をしているようだが、籠沢遺跡のようにじっくり発掘できなかったみたい。

籠沢遺跡は住宅地跡だったようだが、三才田子遺跡は東山道支道・多古駅家跡説が根強い。近くに三才駅もあるしね。駅造りやすい地形なのかもー?

 

駅路と駅家

  • 律令制度下における官道(駅路)の施設で兵部省の管轄、原則30(役16km)毎設置
  • 地形関係なく、中央(都)から放射状かつ直線的に伸びる駅路沿いに駅家が置かれた
  • 駅路は都と太宰府五畿七道のすべての国府を結ぶ道路網、6m~30mの幅で広い、公式文書のやりとり(朝廷の命令・地方の報告)や緊急時の連絡用として整備
  • 駅家は駅馬を置き、駅使(乗馬が許された公的な使者)や駅鈴(朝廷から地方出張を命じられた官人に支給されるもの)を持つ役人などに馬や食料、宿泊所を提供する施設
  • 運営は地元民、駅戸と呼ばれる駅家関係の仕事に従事する義務を負った特定の農民、駅戸の中でも経験豊富・財力豊富な者が駅長になった
  • 運営費は駅起田から収穫された駅起稲、駅戸が駅起田を耕作する義務を負う
  • 駅起稲は天平11(739)年に正税(国・地方の公的な倉庫である正倉に保管される稲、租税とその利息分で構成される)として一本化されたが上手くいかず、天平宝字元(757)年には駅稲として正税から独立する
  • 10世紀頃まで存続したが、律令制の崩壊とともに使われなくなる
  • 直線であることを重視し造った道路のため人里離れた山の中を通っていたりする→集落を結ぶ生活道路ではなかったので役人ぐらいしか通らない→役人すら通らないなら誰も通らない→整備する必要がないので藪に埋もれる→消える

こういう状況なので、古代道路(駅路)の具体的なルートはあまりよく分かっていないらしい。平成24(2012)年長野市内で発掘されたコインが平成29(2017)年の調査で和同開珎だと判明し、発掘地点=北陸道連絡路跡じゃないかと報道されたらしく、うちの家族(発掘好き)が嬉しそうに話していた。その地点は古代牧が置かれていた辺りなので全部が全部人里離れた場所というわけではなさそうな。一部は人知れず今でも使われていそう。使われているので掘れない、特定も出来ないみたいな。

駅家跡もいくらか特定されているらしい。ただし、郡衙(郡司のいる公的施設・正倉がある)と兼ねていたり、駅長やってる人の私邸を駅家として使っていたりで確実に特定できるものが少ないらしい。

駅家が全部特定されればルートも分かるのになー。

 

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子供が電車を見たいというので、ついでに三才駅まで行った。

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駅長の帽子が置かれていたので被せたところ、もの凄い嫌がられた。気に入らなかったらしい。女児用も微妙。「おい早く電車を見せろ」とうるさく、しかもついさっき見送ったばかりで。田舎なので電車は頻繁に来ない。そう説明したところ、不機嫌がマックスに。帰途につきました。

 

 

★★☆☆☆

昔はたくさんの人が住んでいたような場所らしいが、現在は果樹園メイン

 

 

<三才田子遺跡>

弥生時代中期以降

本堀城

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住宅地の真ん中に空き地があり、こちらが本堀城跡(館跡)であるという。

この空き地自体が私有地のようだ。立派な石碑とともに説明板もあり、どうもこれらは個人で建てたものらしい。

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↑石碑のある場所

↓周辺の様子

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説明板によると

  • 若槻里城の城主、若槻氏の属籍(親族のことかしら?)の本堀氏屋敷跡
  • 稲積氏とも称した
  • 永正16(1519)年、若槻氏は村上氏に攻められ青柳氏を頼り落ち延びる
  • 本堀氏は村上氏の配下となった
  • 五郎川を掘とし、二面に巡らせていた
  • 周囲より高く盛り土をし、そこに館があった
  • 昭和63(1988)年の区画整理以前はリンゴ畑
  • 矢竹が自生していた

地図を見ると、お城跡北側に川のようなものがあった。五郎川というやつだろうか? などと思っていたのに、石碑手前の道路も暗渠っぽい様子。こっちが五郎川? どちらだろうね?

石碑のある場所だけ少し、周囲より高くなっているようだ。他はよく分からない。平らで整然としている。説明板からはお城の規模が分からないんだけど、おそらく少し高くなっている土地のみが館跡なのだろうかねー。ストビューと航空写真で見る限りは大きくなさそう。まあ土豪のお城だしね、こんなもんなのかも。

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↑館跡南側は何もなさそう? 説明板にも「五郎川が堀で二面」以外の館の様子は書いていなかったわ。

 

平安時代の住居跡?が微妙に出てきたという本堀遺跡という遺跡があるだけど、それと本堀城跡と範囲が被っているような気がする。地図を確認しても同じ地点なのよね。けど発掘調査書①が見られなくて謎のまま。②は見ることが出来たが、それによると調査結果はよろしくなかったような感じ。

とにかく、この辺りはあちこちに集落跡があるらしい。集落の集合体として浅川扇状地遺跡群という区分名があり、各遺跡(というのか? 点在する発掘地点)にもそれぞれ名前がつけられている。大きなものだけでも、90軒の竪穴式住居跡が出てきたとかいう檀田遺跡、古代寺院のものらしき遺物が多数発見されたという二ツ宮遺跡と2つあるようだ。二ツ宮遺跡は本堀城跡より450mの地点。正直、本堀遺跡は二ツ宮遺跡の一部なんじゃないかという気はするよ。

 

 

 ★☆☆☆☆

住宅地。

 

 

<本堀城>

築城年 不明

築城主 本堀氏?

構造 平城

若槻里城

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若槻団地の中にある小さな公園。名前の通り、お城跡。

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住宅地のオアシス的な公園になっている。名前と記念碑がなければ、その辺の公園と大差ないねー。

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このお城についての説明板も設置されていた。内容は↓

  • 12世紀後半(鎌倉時代初頭)、若槻頼隆により築かれたと伝わる
  • 若槻頼隆源頼隆源義家の孫で清和源氏直系
  • 頼隆の父・義隆は平治の乱に従軍、源義朝の身代わりとなり戦死
  • 頼隆は従五位下の位を持ち、伊豆守と称した
  • 鎌倉幕府御家人となる、若槻庄の地頭になりこの地に移住、若槻氏の祖となる
  • 若槻里城は居館跡
  • 城の規模は東西120m、南北180m、面積2.3ha
  • 現在遺構は当公園と里城池のみ、昭和40(1965)年からの若槻団地造成で失われる
  • 頼隆の子、頼胤・頼定兄弟が建治元(1275)年、京都六条八幡宮再建費用として十貫文(50~60万円くらい?)を負担した、当時十貫文以上払った人は信濃国御家人32人のうち5人しかいない
  • 頼胤が若槻里城を継ぎ、押田氏や多胡氏の祖となる
  • 頼定は真光寺に居館を構え、西条氏の祖となる
  • 室町時代は高梨氏の家来に
  • 応永11(1404)年、信濃守護代・細川慈忠に反抗した高梨氏に従ったため、若槻里城陥落
  • 嘉吉元(1441)年、結城合戦に出陣、室町幕府軍5番陣旗頭を務める
  • 善光寺平には城館跡が多く遺されているが、山城と対になっているものはここだけ

かなり情報量が多い。集約しすぎてさっぱり分からない。特に人名。誰だよー?

 

1.源(毛利)義隆

 

2.源(若槻)頼隆

  •  源義隆の三男
  • 平治の乱後に源氏関係者の処罰が行われ、生後1ヶ月の頼隆も流罪
  • 流された上総国の豪族で桓武平氏の後裔・千葉氏に育てられる
  • 治承4(1180)年、源頼朝平氏打倒の兵を挙げるが平氏方に敗れる
  • 頼朝の敗走先は千葉氏の館で、頼隆と引き合わされる
  • 頼朝は父・義朝と義隆の経緯からか、頼隆を重んじる
  • 鎌倉幕府成立後も身内として頼朝を支えたが、頼朝死後は所領の若槻庄に移住
  • 所領の名前をとって、若槻氏と名乗る

 

3.若槻頼胤

  • 源頼隆の長男
  • 千葉氏に仕える
  • 子の押田頼広は押田氏の祖で千葉氏の一門格となる→江戸時代に旗本となる
  • その他の子孫の若槻氏・多胡氏などは戦国時代まで信濃国に居住
  • 戦国期は村上氏に仕えた→武田氏に追われた村上氏に従い、越後へ
  • 若槻氏は以後、若槻庄に戻ることはなかった

 

4.若槻(森)頼定

  • 源頼隆の次男
  • 父の源頼隆の所領・相模国毛利庄から取り、森氏と名乗る
  • 叔父の源義広が同荘園を受け継いでおり毛利氏と称していたため、もうり→もりで名乗りを「森」にしたのかも?
  • 森蘭丸の先祖

 

若槻氏は宝治元(1247)年の宝治合戦に巻き込まれ、弱体化したらしい。源頼隆は三浦方となり討ち死に。とかあったけど、1160年生まれの87歳の爺が従軍かと俄には信じがたいがねー。

 

5.宝治合戦

  • 鎌倉幕府の内乱、執権北条氏と有力御家人三浦氏との合戦
  • 勝ったのは北条氏
  • 負けた三浦氏は一族500人自害し滅亡、三浦氏と縁戚関係にあった千葉氏なども攻撃を受けた(千葉氏は163人自害)
  • ライバルを根絶やしした北条得宗家の専政政治が確立した

 

千葉氏本家の滅亡は免れたものの、一族で実権を握っていた分家(この当主が三浦氏の娘婿だったらしい)が滅ぶ+当主は9歳ということで、何か大変だったみたい。この合戦に参加したのって、千葉氏に仕えていたという若槻頼胤じゃないのかなー?

若槻頼胤の子・押田頼広は宝治合戦の後千葉氏に匿われていたとか。若槻氏は源氏一門として扱われているので、北条氏にとって邪魔だったから滅ぼそうとしてたのかね? 押田って名乗りもかえているし、ずっと付け狙われていたのかなー?

しかし、こんな小さい公園のことで歴史の教科書に載ってそうな話を勉強する羽目になるとは思わなかったわ。疲れた。

 

今居る場所は↓の図の「北公園」。

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里城池はもはや池ではなくなっていた。

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閉鎖されているが、ここも公園ぽい?

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閉鎖されているのは整備途中だからだったようだ。

 

公園内には段差があり、「一番高い部分が本郭かねー?」などと考えていた。ちょうど若槻里城の石碑・説明板がある辺り。

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が、説明板の図では現在住宅地になっている部分が本郭、ニの郭にあたるようだ。

↓本郭方面

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↓二の郭方面

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「若槻里城」石碑のある辺りの方が一番の高地になっているような気がする。公園整備するときになんとなく高くしちゃっただけなのだろうか。

 

「山城と対になっている」と説明板にあったが。若槻山城は山の上にあるそうだ。施設としては若槻山城の他、番所というものもあるようだ。

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番所は物見砦のようなものらしい。

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若槻山城のある山なのかな? 地図では林道や遊歩道が整備されているようで、さあ今すぐ登りなさい。と誘っているようだ。若槻里城だけじゃ片参りだぞ、と。

ここと対になる城とはいえ、なんだか遠く思える。

 

 

★☆☆☆☆

多くの有名人の片鱗を感じたものの、テスト勉強させられている気分になった。

 

 

 

<若槻里城>

築城年 文治元(1185)年以降?

築城主 若槻氏

構造 平城