お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

岡城

壊された車を買い換えた。ギャルっぽい車になった。家族の許可が下りたら今度こそインプレッサSTIハッチバック買うんだー。

 

納車したので、ウキウキ気分でちょっと出かけた。岡城、団地の真ん中にぽつんと残っているというので、あんまり期待していなかったが。

こんな奴だった↓

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縁日みたいな大きい幟があるので、神社があるのかもしれない。ぱっと見て、形は古墳なのかと思ってしまった。

 

現在地は岡城公園の入り口。岡城公園は元・二の丸の土塁部分であるらしい。

↓堀跡はこんな様子で異常に広い。水田跡地でもあるようだ。

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これ↓も井戸跡かなんかかねー? お堀の跡地に井戸なんかあるわけないんだけど井戸っぽい。

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史跡になっているのは公園の部分のみで、他は住宅地になっている。

入り口付近には案内看板があった。

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↑お城の全体像はこんな感じ。

また、お城の紹介として、

  • 武田信玄の家臣 馬場信房により築城
  • 天文年間末の出来事
  • 武田氏独特の三日月堀がある、甲州流築城の初期かつ大規模な平城
  • 天文22(1553)に村上義清の居城、葛尾城を落とす
  • 永禄3(1560)年に海津城を築く
  • 天文22年~永禄3年の間、武田氏の前線基地であった
  • 規模は東西460m、南北365m
  • 面積は約75000㎡(東京ドーム1.6倍)
  • 三日月堀は3カ所、内堀・外堀もあった

 

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↑右側には三日月堀があったようだが、今はただの民家に。

とにかく、公園に入ってみることにした。

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緩い坂道を登る。

左手側は古い団地があった。人もまぁまぁ住んでいる。

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団地がある場所が本丸跡と書いてあったが、どうやらココ↑は二の丸のようだ。

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登り切ると、なんかその辺によくある雰囲気の小さな公園だった。草も刈ったばかりのようだし、きちんと手入れされている小綺麗な印象。

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遊具やベンチがあったけど、誰もいない。

堀跡を上から見ると。

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堀、広いわねー。

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現在は秋、実りの季節にも関わらず何もなし。休耕田? 放棄はしていない様子にも見えるが、数年前から田んぼとして使われていないようも見える。

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神社の幟がある。社殿は見えない。どこにあるのかしらね? こんもりした丘みたいになっているけど、この上かしら? 裏側に回り込めそうな道があるので行ってみた。

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井戸発見か。

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今でも使えるのだろうか、と思い近づいたらただの水道くさい。なんだよう。

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↑ここも二の丸。思った以上に大きなお城のようだ。

しかも、入り口で見た建物より更にレトロ感が増した。調べたら、入居者はもう募集していないようだ。もの凄く家賃が安そうだな。

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巣箱も置いてあった。

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上の丘っぽいのに登れそうなので、行ってみた。

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ここは物見櫓なんかを置いた場所なのだろうか。

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人工的な地形の香りがプンプンするよ。この規模のお城作るのに、どのくらいの工期だったんだろう? 6年で放棄のお城ということを考えると、以外と短期間で出来上がるのかもねー。

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↑航空写真で見た感じだと、矢印の辺りが丸馬出しだったみたい。ちょっと形が残ってた。

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本丸方面もこんな感じに。団地群を兵舎などの建物と見立てれば、中々のお城かもと雰囲気出てきた。

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そして神社を探すが。

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祠しかなかった。

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拍子抜けした。しかも、この祠がどういったものなのかは未だ分からず…。この辺一帯の産土神としてどこからか勧請したものなのかね? それにしては素っ気なさ過ぎるわ。まあ、古そうと言えば古そうだがね。

 

この祠のすぐ脇に「岡村城の由来」という石碑があった。岡城=岡村城。

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石碑には「1971年」と彫られており、おそらく入り口の看板より古くからあったような感じ。昔はここを「岡村城」と読んでいたのかしらね。ちなみに地区名は1971年当時も「岡」であるようだが、古くは小県郡岡村と呼ばれたみたい。

  • 今から1190年あまり前、桓武天皇の末裔の権之左衛門尉、平清氏が弘仁2(811)年、信濃守として当地に赴任し城を造る
  • 後に、地名から名乗りを「岡村権之左衛門尉平清氏」と改め、城も岡村城と名前を変えた
  • 清氏、京都の命により甲斐に行くが、天長10(833)年自害
  • その後は藤之木氏の支配となり、戦国期に入ると(支配者だった)浦野氏が武田に下る
  • 武田の支配下となると、馬場信房が城を守って村上義清と戦う
  • 上田原の戦い、川中島の戦いを経て、永禄11(1568)年の長沼城完成までの間、武田軍の居城であった

いくつかの苗字サイトを当たってみたところ、どれも「岡村氏=小県郡岡村(現・上田市岡)発祥の桓武平氏」と書いてあり、桓武平氏であることは間違いないらしい。

桓武天皇崩御延暦25(806)年。平氏の賜姓は天長2(825年)が初めて。桓武天皇孫ぐらいの世代じゃないかと思い、該当しそうな名前の人物を頑張って探してみたけど見つからず…悔しい。石碑の年代が間違っているのかしら?

岡村(平)清氏という人は信濃守として京都から赴任しお城を造り、20年ぐらい統治したあと流刑になり甲斐国へ流され、そこで自殺して亡くなったということらしい。妙に詳しく書かれている。絶対どこかに元ネタあるはずだ、と躍起になり探したのよ。徒労に終わった。

あるサイトには「岡村氏=桓武平氏維茂流」とあった。平維茂は鬼女紅葉伝説で有名な方だそう。

と、この場所に所縁があるような感じ。この人の子孫は京に残った者・新潟で栄えた者の二系統があるらしい。今昔物語の中でもバリバリの武闘派のようだけど、この人甲斐へ流されたかどうか不明。

こちらも収穫なしよ。何なのか、岡村清氏。

 

岡村氏→藤之木氏→浦野氏と支配者が代わった後、武田氏がやってきて浦野氏降伏→館を接収、改造という流れのようだ。

 

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しばらくウロウロした後、本丸方面に向かうことにした。

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人は住んでいるらしく、プロパンガスのボンベが見えたりする。

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建物群を少し抜け、道に出る。

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この団地は結構規模が大きそうだ。ここを左折すると二の丸井戸があったみたい。まだこの辺は二の丸なのか…。

 

何かしら土塁のようなモノが続いている?

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それっぽいものを探して歩いた結果。

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本丸の井戸を発見↓

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一応、まだ使われていたりするのだろうか? 二の丸~本丸までまあまあの広さ。どのくらい人間収容されるかなー? 200~300人ぐらいイケるかもー。

 

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どうみても土塁のようにしか見えない怪しげなアップダウンを抜けた。土塁上に住宅が並んでいた。

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ここも怪しい地形だわ。

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出入り口があったようだ。

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雰囲気はあるねえ。

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境界を表している? 道祖神

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本丸~二の丸の平坦な部分は団地造成して消しちゃったけど、それ以外の部分はさほどいじっていないのかもしれない。放棄されたお城の地形そのままを生かす(壊すことが面倒臭かったのかもしれないけども)形で田畑・住宅になっている様子。

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ただ、本丸の出入り口を過ぎたら何もなくなってきた。キリの良さそうなところで引き返す。

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ビオトープとは何か。

↓実はこんなものを見つけたので、事前に地図代わりに写真撮っておいた。

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ビオトープとは美しい水辺にかかる桟橋の風景を楽しむ的な奴か?

コレもあとで調べて見たら。

  • 生物の生息場所という意味のドイツ生まれの概念

あとは難しくてもう分からんかった。

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 お城の方へ別のルートで戻ることにした。

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長閑な風景を見つつのんびり歩いていると。

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やだー土塁じゃない。

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つまり今歩いている道は堀跡なのか?

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土塁のようなものも一部遺されているようで、連続していなかった。

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あーまた現れたよ土塁。

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そうこうしているうちに、最初に見た二の丸と土塁、物見台跡が見える場所まで戻ってきていた。

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↑この場所から道なりに進み、見るお城が非常にかっこよかった。

 

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公園付近は濃厚に遺跡が残っているせいか、非常にイメージが湧きやすい。

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↑浦野川

 

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↑近くにはこんな旗が。なんで菱形の家紋じゃないんだろ? と思った。

 

 

 

★★★★★

ここは行って良かった。とても面白かった。

 

 <岡城>

築城主 岡村氏

築城年 不明

構造 平城

飯田砦

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現在私有地(御子孫が近くにお住まいだそうな)のお城跡。奥のジャングルめいた場所が跡地。石碑は土塁の上に建てられていた。

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手前は川だかなんだかで、勘左衛門堰というらしい。総延長10kmの、中々珍しい用水路のようでwikiに載っていた。

 

  • 寛文2(1662)年、安曇郡の代官・二木勘左衛門により着工
  • 貞享2(1685)年、現在の堰の開削が着工、2ヶ月後完成
  • 天明2(1782)年、大改修
  • 寛政10(1798)年、再び大改修

 

江戸前期に作られ、現在も現役なんだそうだ。取水口は松本市にあるが、補助の取水口というものも存在し、それがこの豊科飯田にあるようだ。ちなみに安曇野には総延長15kmの用水路もあり(拾ヶ堰)、あまり水に恵まれない地であったようだ。あんまりそういうイメージがないわ。山葵農場の印象が強いから、澄んだ水が大量に流れるなどと思っていた。けど、この手の用水路を江戸時代に大量に作って現在の「自然豊か」風な安曇野を創り出したのかもねー。

拾ヶ堰は勘左衛門堰より後の寛政11(1799)に立案、文化14(1817)年竣工で、江戸中期~後期のお仕事になる。

 

で、この飯田砦前を流れる用水路は堀を流用してるのかもしれない。確証はない。

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土塁はこんな感じ↓

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土塁を辿っていくと、神社があった。

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氏神様をお祀りしているのだろうか。

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多分ここから神社に行ける?

 

とりあえず一周しようと、回っていたら。如何にもな旧家風のお屋敷があった。あれは間違いなく御子孫のお宅だよねえ。

 

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こちらが大手側らしい。入るなって書いてある看板あったよー。ちょうど神社と対角の位置ぐらいかな?

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鬱蒼としており、何も見えない。が、かなり状態良く残っているという噂で、勝手に入り込む輩が後を絶たないらしい。

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でもさー勘左衛門堰側にあんな立派な石碑と入り込めそうな神社の参道あったらさ、入っちゃうよね…と思った。

ちなみに、あの立派な石碑の裏には

  • 室町時代末期の館跡
  • 南北25m、東西30m
  • 神社は屋敷神
  • 武田氏の進出により築かれたとされる
  • 吉野町館や真々部氏館の前衛

と書かれているようだ。

 

 

<飯田砦>

築城主 飯田氏

築城年 不明

構造 平城

犬甘城

なんとなく地図を見ていて、城山公園というものを見つけた。まず間違いなくお城跡だろうと思った。

行ってみたらこの通り↓

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六ノ郭まで存在しているようだ。

この松本市城山公園、ぐぐっても公園の成り立ちしか出てこないのよ。公園の中でもかなり古くからあるものらしく、またそれが誇りでもあるようだ。個人的には公園・庭園の類いはあまり関心がなく…。

  • 天保14(1843)年、松本藩主戸田光庸により開設、一般人にも開放
  • 明治8(1875)年の筑摩県布達により、日本初の太政官布達公園のひとつとなる
  • これに先立ち、明治6(1873)年には公園設置の条件を示した太政官布達が発布されている(太政官布達第十六号)

 

江戸時代には公園という概念がなかったものの、偉い人が景勝地を整備して民のための憩いの場にすることはあったらしい。江戸では、徳川吉宗が整備開放した遊園「隅田川堤」「品川御殿山」「飛鳥山」「中野の桃園」があり、地方でも水戸藩徳川斉昭という人が作った「偕楽園」が有名らしい。偕楽園は私いつも後楽園と間違えちゃってて、ボクシングの方かなって思っちゃう。

 

厳密に言えば遊園と公園は別物のようだ。

遊園=遊び場、憩いの場として設けられた庭園

公園=公衆が遊びを楽しむ、憩うために公開された場所、公共の施設

 

城山公園は近代的公園を全面に打ち出している感じで、公園内にはたくさんの歌碑が散らばっているらしい。

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公園散策の他には山登りも出来るらしい↑

 

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駐車場から公園内に侵入。お城っぽいものは今のところこの辺り↑かな? よく分からないけど何か急斜面になっている。

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だいたいがこんな感じ↑のよくある公園風景で桜の木が多数見える。桜の名所でもあるらしい。

再び急斜面を覗くも。何かイマイチ気分。暑いせいか。

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ちなみにこれの説明はなく、自然に出来たものなのかもしれないとも思える。藪だしねー。

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この急斜面を横目で見ながら更に道を進む。

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入り口発見↑ 先ほどの急斜面のすぐそばなので、やはり何かしら人の手が入った崖だったのかも? そして、案内板もあったよ。

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犬甘=いぬかい なのか。読めないわ、そして何で犬が甘いと書くんだろうか。まさか食べたのかね犬を。味は甘いのか。

悲しいことに犬甘城の説明は本当にサラッとした様子で、やっぱり公園の話を多めに説明している。

 

松本城と同じく、この犬甘城も小笠原氏の居城・林城の支城の一つであったようだ。犬甘氏は小笠原氏の家臣で、大伴氏の子孫にあたる豪族だったらしい。戦国期の小笠原氏は武田氏に惨敗し勢力を低下させたが、犬甘氏と平瀬氏というふたつのおうちは小笠原氏に忠誠を尽くしたようで。小笠原氏のお城はどんどこ落とされてしまったけど、犬甘城と平瀬城は徹底抗戦。wikiに犬甘城の落城顛末が載っていた。

  • 犬甘城のすぐ近くの深志城(現・松本城)の城代・馬場信春(武田氏の家来)が物見で犬甘城の近くにやってきた
  • 犬甘城主は村上氏からの援軍が来たと勘違いし、出迎えるために家臣数名と一緒に馬場信春に近寄る
  • 敵に包囲される
  • とりあえず頑張って城主は逃げた(二木さんという仲間を頼ったらしい)
  • 城主不在になったので、犬甘城を攻めたら呆気なく落城

残念エピソードねー。一応、主君の小笠原氏の松本復帰に伴い犬甘氏も旧領復帰しており良かったね、という結末にはなっているようだが。

とにかく、この階段の先に本郭があるはずなので、登ってみた。

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何かあるぞ。

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歌碑だった。それと、歌碑の説明板。この歌は吉江孤雁という人が作ったらしい。誰だか分からないし興味もなく、チラ見して先に進む。

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↑これも郭っぽい。最初の公園案内図だと3ノ郭になっていた。f:id:henrilesidaner:20190414085731j:plain

↑見えてきた本郭。

本郭内、やはりお城跡だよって看板なし。

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暑すぎるし誰も居ない。子供もキレ始める。さっさと降りた。

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端っこはこんな感じだった↑ 藪が濃すぎてもう分からん。

 

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この先にもまだ郭が存在しており、展望台や神社もあるようだが。ごねられたので目的地に行くことにした(この後は松本城四柱神社→某ショッピングモールの順)。

 

こちらから松本城に向かう途中、目を引くものがあり子供を説得し、ちょっとだけ時間をもらった。

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義民塚だってー。

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案内板には

  • 貞享義民塚
  • 貞享3(1686)年、松本で起こった百姓一揆=貞享騒動
  • 昭和25(1950)年、中学校建設時に人骨が出てきた
  • 調査の結果、貞享騒動の首謀者で当地で処刑された多田加助等のものと判明
  • 義民塚として祭ることにした
  • 多田加助を指導者とし、松本藩領内から1万人近い農民を動員した大きな百姓一揆であった

とあった。

なんか昔ハマったラノベでこの話を読んだわ。私の教養は「テレビで見た」「ゲームで見た」「マンガorラノベで読んだ」で構成されている気がするわ。どうしようもない感じだわねー。

このすぐお隣には中学校があったけど、この中学校が出来るまで処刑場の存在が忘れられていたんだろうか。地元の松代藩処刑場は場所もしっかり知られているし、アクセスが悪い山の中にあるようだがね。現在では一般人や冷やかしが行くにはしんどい峠の道。

なので不思議に思い、ちょっと探してみたところ。ここは「瀬高刑場」と呼ばれた臨時の処刑場だったらしい。案内板にもあるように一揆参加者約1万人なので処刑する人数が多すぎて常設処刑場(出川刑場)だけでは足りず、臨時の処刑場を設けて刑を執行したらしい。出身地によって使う刑場を分けていたようだ。安曇郡の人間は瀬高刑場、筑摩郡の人間は出川刑場で。死罪28名(磔8名、獄門20名)で、瀬高刑場は首謀者の多田加助以下17名の刑が執行されたらしい。ちなみに人骨は18体見つかっており、埋葬方法が違うという理由で1体は貞享騒動の処刑者にカウントされていない。その1人がなんなのか気になる。

松本藩の常設処刑場「出川刑場」の現在を探してみた。郊外の住宅地の中にあるようだ。ストリートビューで見ると、その場所のみぽっかりと空き地になっている。禁足地っていうのかな? その様子だけで不気味だわ。

 

 

★★★★☆

他の郭も見てくれば良かった。

 

 

<犬甘城>

築城年 不明

築城主 犬甘氏

構造 山城

 

 

四柱神社

先日、私の車が破壊された。もらい事故で相手に支払い能力がなさそう。やってらんないわ。車は廃車の予定となり、まさかこんな形でお別れすることになるとは…と落ち込む。とりあえず誰かウチの玄関に1億円くらい置き忘れてくれ。

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松本の市街地にある神社。歴史は浅く、明治になってから創建された神社らしい。

 

江戸時代には何だったのかというと、松本城の大手門の手前、枡形になっていた場所だそうな。

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↑この絵図の「現在地(推定)」というのが、ここ↓にあたるらしい。

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置いてあるオブジェ?は何なのか。

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松本の城下町は大手門の中、↑こんな感じで広がっていたようだ。松本藩初期の石高は10万石(遺産相続で分割したり等で石高減ったりする)、その後別のおうちの人が入城して石高は藩主家により6~8万石となっていた。

世界で10万人くらい住んでいる国を探したら、アンティグア・バーブーダが出てきた。イギリス連邦の国で、カリブ海に浮かぶ島。広さは種子島程度。首都セントジョンズの2005年時点の人口が約3万人だった。もしかして松本城下にもその程度の人が住んでたのかなー? 調べたところ江戸後期の松本城下には2万人弱、明治元年の松本藩全体の人口は約12万人(明治元年松本市人口は約1.2万人らしい)。アンティグア・バーブーダの人口とだいたい合ってるのかねー? 江戸時代後期から日本全体で人口減少時代に突入し、特に都市部(城下町)では人口が減っているとか書いてあったので、もう考えるのは止めようと思った。

 

この場所は大手門(=正門)跡ということで、何か出てくるかと発掘調査も行われているそうだ。案内の看板には。

  • 16世紀後半石川家の時代に天守閣を建てると共に、城下町をぐるりと取り囲む堀を整備したようだ、そして大手門も造ったらしい
  • 平成24(2012)年に発掘調査を行う
  • 長さ約18m高さ最大1.4mの石垣が見つかる
  • 石垣は総堀の一部ではないかと思われる
  • 総堀は明治11(1878)年以降埋め立てられたという記録がある
  • 明治4(1872)年に大手門が廃されたという記録もある
  • 大手門の取り壊しで出た廃材は総堀に捨てたようで、総堀跡からはうち捨てられた状態の瓦等が発見されている
  • 発掘調査の成果→大手門の枡形など在りし日の位置や規模が分かった

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四柱神社はその名前の通り、御祭神が天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神天照大御神の4柱。天照大御神以外の3柱は天地開闢の時に現れた神様達だそうだ。

天之御中主神は天の中央に坐る主神で、残りは脇侍みたいな位置づけなのかね。似たようなお名前だしなー。高皇産霊神神皇産霊神は宇宙創造の根元の神様で何かを生み出したり調和させれくれるみたい。

元々は明治5(1872)年に神道中道院という施設が造られたことで始まっているらしい。明治3(1870)年に大教宣布という明治天皇の詔があったようだ。これは天皇に神格を与え神道を国教と定める宣言らしい。それに基づいて神道の布教活動をするため、総本山的なやつらしい「大教院」、都道府県単位で置かれた「中教院」、地域単位で置かれた「小教院」という施設を造った。このうちの中教院を母体とし、明治7(1874)年には4神を祀る。明治12(1879)年にこの場所へ移転してきたと同時に神社化、村社「四柱神社」となる。

ちょっと電波っぽい書き方の由来書は、国策でやっていた布教活動のせいなのかな? 一瞬だけ「トンデモか!?」とわくわくしてしまったよ。

 

 

  

 

★★☆☆☆

こんなところに城下町松本の入り口あったのね

 

四柱神社

創建年 明治12(1879)年

御祭神 天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神天照大御神

松本城

松本の市街地にやってきた。

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とりあえず松本城へ。お盆休み期間中ということで人だらけ。混雑している。

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松本城天守閣が国宝、お城跡は国の史跡に指定されているそうな。

  • 天文年間(1504~1520)、小笠原氏が林城の支城として深志城を築城
  • 天文19(1550)年、林城や深志城などが武田氏によって落城
  • 武田氏は林城を破却、深志城には城代を置く
  • 天正10(1582)年の武田氏滅亡→本能寺の変天正壬午の乱で、お城の主は武田氏(馬場信春)→織田氏織田長益木曾義昌)→小笠原洞雪斎(上杉方)→小笠原貞慶(徳川方)と代わる
  • 小笠原貞慶松本城と改名
  • 天正18(1590)年の北条氏滅亡。支配者がいなくなった関東に徳川氏が移り、松本城主だった小笠原氏も一緒に引っ越し
  • 石川数正が初代松本藩主となり、城郭の整備や城下町を造る
  • 石川氏が失脚、小笠原氏が戻ってくる
  • 石川氏→小笠原氏→戸田氏→松平氏→掘田氏→水野氏→戸田氏 の順で藩主が代わる
  • 天守閣を改造したのは松平氏(原型をあまりとどめていない程度に改造したらしい)
  • 天守閣はいつ造られたのか正確には分からない

初代松本藩主の石川数正徳川家康の今川家人質時代からの家来で、家康の右腕だったらしい。しかし天正13(1585)年急に豊臣家の家来になってしまった、しかもその理由はよく分からないらしい。軍事機密を熟知していたそうで、仕方なく石川数正という人が逃げた後は滅んだ武田氏の遺臣を多数抱えて、武田の軍制を取り入れることになったとかいう、徳川氏にとっては大事件だったらしい。豊臣家が滅んだら、真っ先に粛正されそうな一族だなーと思う。しかし、石川数正の子の石川康長という人(第2代松本藩主)が関ヶ原の戦いで東軍だったために本領安堵。慶弔18(1613)年に失脚したのも「大久保長安事件」とかいう謎の事件に巻き込まれたかららしい。その事件なかったら、大名として存続してただろうか? 裏切ったのにずるいなぁ、でも幕府の中で肩身が狭くなかったのかな?

大久保長安という人も切れ者でロマンあふれる大出世を遂げた人らしい。

  • 猿楽師の家に生まれる
  • 武田信玄に才能を見いだされて、鉱山開発など土地開発の仕事をする
  • 武田氏滅亡→すぐに徳川氏に雇われる
  • 甲斐の内政立て直し事業を手がける→成功
  • 八王子同心の創設者・統括者になる
  • 全国の鉱山開発、道路網整備の責任者になる
  • 徳川領150万石の代官になる
  • その収入で大金持ちになる
  • 晩年は鉱山の収入が低下したことで家康から嫌われたのか役職を次々罷免され、豪遊し過ぎたのか中風(脳血管障害)になり死ぬ

という人。お金持ちになりすぎて他人から疎まれてしまったようだ。大久保長安事件というのwikiで読んでもイマイチ分からなかった。政争じゃないかと言われているらしい。内情が分からないので、巨万の富を元手に国家転覆を企てようとしてた、という説もあるようだ。普段から豪勢な生活をしていたそうで、側室が70~80人いたという話も。私は死んだら大久保長安に生まれ変わりたいと思った。

 

じゃあ天守閣に登ってみようか、と行ってみたところ。

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そんなに待ってられないわ、と早々断念。

 

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お堀沿いを歩き、外側からお城を見るだけということに。

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前回来たときは、地震があったそうで石垣が崩れて修復作業中のシートがかかっていたものの。さすがに今はないようだ。

ぐるっと天守閣を見回る形で人の流れが出来ていた。

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ココが一番有名な撮影スポットだった気がする↑

赤い橋も見えるしねー。

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↓赤い橋。埋橋というらしい。

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前回の地震は平成23(2011)年6月で、やっぱり牛伏寺断層の仕業ということになっていた。石垣25カ所と埋橋が被害に遭い、現在も埋橋は立ち入り禁止。

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↓なんか蓮咲いてたわ。

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★★★★★

天守閣かっこいいよね

 

 

 

松本城

築城年 永正年間(1504~1520)

築城主 小笠原氏

構造 平城

牛伏川フランス式階段工

お盆休みどうしようか、といくつか観光地の候補を出していた時に見つけた「フランス式階段工」というモノ。字面からはどういったものなのか全く想像できない。国の重要文化財砂防ダムらしい。

重文指定されているダムは全国に何カ所かあるらしい。フランス式階段工は2012年に指定されている。

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こんな感じだった。河床が階段状に連なり、全部で19段。

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もっとたくさん階段があるように見えるなあ。資料によれば、各段には3寸(約9cm)の小段が設けられており、それで水の流れの勢いを殺しているそうだ。

今はこんな感じのサラサラした小川みたいな牛伏川はしょっちゅう災害を起こしていたらしい。こういう山の中だから主に土石流。ここは牛伏寺という有名なお寺さんがあり、そこから名前を採ったと思われる牛伏寺断層という頻繁にずれてる断層がある。しかもその断層が牛伏川と併走しているという。雨が原因の土石流の他に地震が原因の土石流も起こるんだと。置いてあった資料には元禄3(1690)年~明治29(1896)年で起きた主な災害があった年月が羅列されている。これによると10~20年周期で大きな災害が起こっているようだ(規模の小さい災害は載せていないらしい)。また、この階段工より下流には大きなダムがあった。

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ダムよく見えない。残念。

さすがお盆休みで、ダムがよく見える辺りはがっつり路駐されててこっちの車をとめる場所なかったわ。牛伏寺にお参りに来る家族、牛伏川の河川敷でBBQやってる家族で賑やかだった。

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この階段工は大正5(1916)年着工、大正7(1918)年完成、ちょうど今年は完成100年の年に当たる。が、牛伏川の治水工事自体はもっと前から、明治18(1885)年より行われているそうだ。

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↑こういうものなどを造っていたようだ。これは山止め(崩落止め)の空石積みらしい。

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↑河床も石積み、護岸も石積み。とにかく石を積みまくっている。

 

一番上の段には第1号石堰堤(ダム)という施設があるようだ。そのダムの完成が明治19(1886)年。標高850m~1600mの間に100基以上の石堰堤・護岸水路・崩落止めの石積みがあるという。階段工は標高990m~1015mの位置にあり

(階段工の真ん中辺りが標高1000m地点)、階段工付近はとにかく人の手が入りまくっているようだ。山の木々に覆われて何にも見えないけど。

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ちょうど階段工周辺が一番急峻な谷部分らしい。

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V字のような場所、底に川だー、この部分が一番土石流起こりやすいということで、相当人の手が加えられているようだ。

100年前なので重機もなく、セメント工事は費用の面で不可(内務省直轄工事で資金はそれなりに潤沢だったと思われるものの地方の山の中だから無理だったという)。使われている石は全部人力で運び、設置したそうな。

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↑工事中の様子。

そんな感じなので、色々やってたら30年かかってしまったらしい。

 

 

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穴太衆とかがお城の土台造ってたんだしな。現代でも穴太衆存在してるし(テレビで棟梁のインタビュー見たことがあるが、「経験積むと石の声が聞こえるようになり石の指示で石垣が組める」と語っていた、日本の職人さんらしい言い方で面白かった)。

 

何故「フランス式」と名前がついているのかという理由も、現地の看板に書かれていた。

・池田圓男さんは明治後期に内務省土木技師として欧米へ視察研修に行き、フランスのサニエル渓谷の砂防技術について学んだ

・後に牛伏川の砂防工事に関わり、上記のサニエル渓谷での砂防技術を導入提案した

・そのため「フランス式」と呼ばれている

 

 

階段工のオリジナルはサニエル渓谷を流れるデュランス川に設置されているらしい。その川はフランス4大大河のひとつ、ローヌ川という川の支流らしい。なんかすごいらしいけど、全く実感が湧かず。サニエル渓谷もアルプスの南がどうたらこうたらとか書いてあったけど、よく分からない。フランス行ったことないし。まあでも階段工は外国的な雰囲気あるよなー。デュランス川は荒いと大昔から有名で、こちらも色々と改修されていた川だそうだ。 

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階段工を見に来ている人達はほとんどいなかった。我々の他に家族連れが1組のみ。観光客は結構来ている様子だったのにな。

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この先にもキャンプ場があるらしい。自然大好きなアウトドア派の人達には天国みたいな場所なんかね?

 

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近くの牛伏寺は修験道のお寺さんらしい。縁起は「聖徳太子が42才の時に彫った観音像を安置したこと」だそうで。敏達天皇3(574)年生まれなので、42才なら616年かなー? 推古天皇24年にあたるようだ。 推古天皇30(622)年薨去とあるので晩年の出来事かな?

今回弾丸ツアーを組んでしまい、時間がないため牛伏寺にお参りしなかった。しかし、こんなものが道沿いにあった↓ 

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 牛伏寺の名前に関連する「牛堂」。看板には

・唐の玄宗皇帝が楊貴妃の菩提を弔うため大般若経善光寺に納経させた

赤と黒の牛2頭に運ばせる

善光寺へ向かう途中、この山の麓で牛は2頭とも倒れた

・御本尊の十一面観音様の霊力により牛が死んだと推察される

・牛が運んでいた経典は牛伏寺に納めた

・牛堂では倒れた牛の霊を祀った

 

公式では天平勝宝7(756)年の出来事とされる。楊貴妃玄宗皇帝から死を賜り756年7月15日に亡くなったそう。その年内に600巻の経典造らせて日本に運ばせるの無理じゃないのー? そもそも唐の皇帝は善光寺なんか知らなそう。などと考えていた。単なる伝承なので色々無理があるらしく、鎌倉時代以前の牛伏寺についてはよく分からないらしい。ちなみに楊貴妃は蓬莱(日本)に生まれ変わったとか、阿倍仲麻呂の手引きで日本に亡命したとか、そんな噂もあるらしい。そのせいで楊貴妃の事を持ち出してきたのかもねー? 

聖徳太子が彫った?十一面観音は密教の伝来と共に信仰を集めた観音様らしい。聖観音の次に仏像が多い観音様だそう。密教最澄が一番最初に紹介したとのことだが。最澄は短期留学の扱いだったため804~805年しか唐に居らず、809年密教をがっつり勉強してきた空海が帰国したのがキッカケで流行ったらしい。

ただ、白山を開山した修験僧の泰澄(天武天皇11(682)年~神護景雲元(767)年)が十一面観音像を信仰していたとかで密教伝来よりずっと昔から知られていた観音様かもしれない。7世紀頃インドで成立した観音様と言われている。聖徳太子も泰澄も7世紀の人物のようだ。

 

 ★★★★★

ここは非常に良かった、大自然苦手な私でも行って良かったと思ったぐらい

 

 

 

<牛伏川フランス式階段工>

竣工年 大正7(1918)年

構造 砂防施設

格致学校

今年は暑くて例年以上に死人が出ている。毎日スマホに「熱中症の恐れあり・屋外原則運動禁止」などというアラートが来る。そんなの目にすれば外に行くのはやめようと思うけど、さすがに毎日引きこもる訳にもいかず。

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擬洋風建築というジャンルの建築物が結構好きで、わりとあちこち見に行っていたけど。最近まだ見に行っていない建物が近くにあるということに気づいた。

格致学校というらしい。

明治8(1875)年の中込学校、明治9(1876)年の開智学校に触発されて建てられた明治11(1878)年竣工の小学校だそうだ。

明治5(1872)年に学制という日本初の教育法令が発布されたことがキッカケで日本各地に文明開化な感じの学校の建設ラッシュがあったようだ。山梨・静岡・長野の3県は特に擬洋風の学校を造ろうと盛り上がっていたとか。ただし名称は洋風ではなく地名だったり何かの文章から採ったりと、昔ながらの感じ。せっかくだからセントバーナード学校みたいな海外っぽい名前つけようなどというはっちゃけた文明人はいなかったのだろうか。

格致学校の名前の出典は中国の古典・大学で、「致知在格物、物格而知至」=「格物致知略して格致」からだそうな。儒教の四書(大学・孟子・中庸・論語)のうち大学は儒教の思想をまとめた本だそう。儒教を学ぶときには真っ先に大学を読め、四書の中で一番読みやすいから、と朱熹という人が言っていたぐらいに体系的な書物らしいが。実は「格物」「致知」という項目を設けていたにも関わらず、この二つの言葉の意味を全く言及せずに終わってしまっているという。この難しい言葉は昔の中国でも色々な解釈・論争を生んでいたようで。儒教の宗派で解釈が違い、しかも読み方まで変わってくる恐ろしいモノらしい。一応、格致学校の説明文には「物事の道理を究めて自分の知識を完成させる、という意味」とあった。

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明治5(1872)年の学制発布を受けて、格致学校は2つの村の組合立の学校として発足、当初は西念寺というお寺さんを仮校舎として使う。明治11(1878)年に一行寺跡に新校舎が完成したとあった。

学制では義務教育という概念はなかったらしい。明治33(1900)年まで授業料を徴収していたそうで、「小学校のわりには小さくね?」などと思ったもののお金が払える家の子だけ通学していたんなら、校舎はこの程度の規模で十分なのかと少し納得した。

小学校運営は地元民の寄付・生徒の授業料で賄われていたものの、教員は1校あたり1~2人、生徒も40~50人程度が標準だったらしい。格致学校みたいに校舎新築も地元の人間からまずお金を徴収するというスタイルなので、反対されれば寺(小学校全体の40%)や一般住宅(全体の30%)で開学となる。新しい校舎(しかも擬洋風という新ジャンル)で建てるような地区は金持ちや教育に熱心な人々が多かったんだろう。小学校設置は国策とはいえ維持費などの金を出すのは地元民だからか、政府批判の矛先が学校に向かい焼き討ちされることもあったとか。

明治19(1886)年の小学校令で「4年制の尋常小学校が義務教育」というのを初めて明文化したようだが、明治33年の小学校無償化まではやはり就学率が低かったみたい。明治6(1873)年の就学率が男子約40%、女子約15%、平均約28%。小学校設置と共にそれまであった学校(郷学校・寺子屋等の庶民教育機関、藩校など武家子弟教育機関)を全廃したとのことだが。大多数が庶民向けの教育機関だったために寺子屋等をそのまま小学校にと転換した例が多く、学制発布当初の学校規模や内容、就学率も寺子屋時代と大差ないらしい。寺子屋も授業料を取っていたそうだ。寺子屋の場合は経営者の裁量で授業料が定められ(都市部は現金払い、地方部は物納。基本的に安い)、寺子屋は家が裕福かそうでないかで授業料が変わり、江戸市中の相場が3750~12500円。藩校や郷学校は経営者が藩なので基本的に無料。明治の小学校は月50銭(10000円くらい)。お高いじゃない。寺子屋の先生というのは理想を掲げていたようで、未来ある子供達が今よりもっと良い生活が出来るようにと願い学問を教えていたとか。なので授業料は親の負担にならないよう安く、各家庭の経済状況も考えてお金のない家からはあまり多く取らず、授業料滞納した程度では追い出さなかったらしい。

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入り口。明治の創建当時のままを移築復元したということで、冷暖房なしだそう。管理の方に熱中症にならないよう、気を付けるように言われる。

まず二階へ。

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広い。この部屋は試験場らしい。

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今は坂城町の観光名所や歴史などのパネル展示があるだけだった。

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床は板張りなのにキシキシしなーい。

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↑窓の外。

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↑これ見たい。こんな感じの用水遺産というものが数カ所あるらしい。イギリス積みだのと説明文にあるので、明治時代に造った水路なのかなー?

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登ってきた階段↑

小学生の子供なら、毎年誰か1人くらいふざけて柵の間から落ちて怪我してそうだ。

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隣に一部屋、教場だそうな。

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こちらは長野県内の擬洋風建築小学校の紹介パネルが展示してあった。これを見ると半分くらいしか見に行ってない事に気付く。有名どころの中込学校、開智学校は何度か見に行っているが、和風に近い(屋根が瓦とか)校舎はあまり関心が向かず、しかしそれら建物も擬洋風建築にカウントされていたので(やっぱり一度見に行ったほうがいいのかなー?)とプレッシャーを私にかけてくる。

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ただ一時ハマって、定期的に見に行っていた聖博物館がない(ここには戦艦陸奥の主砲や自衛隊機のほか、JALのスチュワーデスの古い制服が数点展示されていたり、旧日本軍のパイロット養成課程の教科書も置いてある。昔の村長で、旧日本軍パイロット→JALパイロットという経歴の人がいたとかで、その伝手で集めたものなのかね?)。あれも擬洋風建築の小学校を移築したモノだったはずだ。調べたら、明治10(1877)年建築の旧麻績小学校校舎を昭和46(1971)年に移築とあった。格致学校より古い…。ただ、移築したときに規模を縮小しているそうで、その為このパネル上ではカウントされていないのだろうか。擬洋風小学校の是非仲間に入れておいて欲しい、と思う。 

 

一階の見学。いくつかの部屋には隣接する図書館の蔵書が置かれていた。

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古い本は展示してある。

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古い本と言ってもこんなものから↓

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こんなものまで↓

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古い教科書かなー?

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江戸時代の本がけっこうあった。

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文章規範は、漢と宋の時代の文章(散文)を古文と呼び科挙の受験対策用に名文を集めた参考書のようなものらしい。古文は唐の時代に主流だった華麗な駢体という文体に対して、古い時代の飾らない文体の方がいいんじゃないかと復興運動が起こり、科挙出身の官僚達に特にウケたものらしい。駢体は韻を踏んで美辞麗句を用い、如何に美しい文章を書くかに重点を置いたもので、文章の内容についてはどうでもいいことになっていたらしい。貴族がよく用いた文体。対して古文は史記などの歴史書などに使われた文体で、伝えたいことをハッキリ書くことに重点を置いている。

 

孟子↓も古文の時代の文章だとか。

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古文復興運動は儒教の復興運動と結びついているらしい。江戸時代には儒教朱子学)が推奨されており、その関係なのか「文章規範」は江戸後期によく読まれていたという。

 

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格致学校時代の大事なものも展示。学校の免状?許可証?みたいなものとか。何故だか釘も展示してあった。

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明治時代の有名な書家の字↑

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一階は教場5、事務所、面謁所、教員休息所、生徒休息所がある。

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一部屋、教室風にしてあった。

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開校当初のものではないとのことだが、非常に趣があり思わず「すげー」と言ってしまった。

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古いオルガンもあり、蓋を開けて少し弾かせてもらった。

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足でペダルを踏まないと音が出ないよ、と教えたにも関わらず。子供がキーを叩くも「音が出ない」とブツブツ文句言っていた。

 

一回りしたので外に出た。

外にも案内板が置いてあった。

  • 格致学校は旧埴科郡中之条村横尾村の組合立小学校として明治6(1873)年設立、仮校舎として西念寺を利用
  • 明治10(1877)年新校舎着工、工費約1381円、明治11(1878)年竣工
  • 擬洋風建築、木造二階建
  • 正面入り口のアーチ、窓、扉、石造りの基礎等が洋風。屋根、漆喰塗りの外壁等が和風。
  • 外観は装飾部分が少ない
  • 昭和37(1962)年まで使用
  • 格致学校→南条学校→安形学校→中之条尋常小学校→中之条国民学校→中之条小学校→中之条中学校→坂城中学校中之条部校 という変遷
  • 昭和57(1982)年文化財保存施設整備事業により移築復元を計画、昭和57(1982)年着工、総経費1億2070万円、昭和58(1983)年移築竣工

 

 

 

★★★★★

行って良かった、面白かった

 

 <格致学校>

創立年 明治6(1873)年