お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

碓氷関所

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何年かぶりに県境を越えた気がする。群馬に来たのは本当に久しぶりだわ。群馬では何故か桜のような花が咲いていたよ。

目的地の近くに史跡があるというので見に行ってきた。碓氷関所という関所があったそうだ。

 

西国から江戸に向かう大きな街道としては、東海道中山道がある。私が買っている漫画の最新刊が出たばかりで、ちょうど内容が「和宮(偽物)が降嫁~徳川家茂の上洛が決定」だった。江戸に向かう和宮がここを通ったそうで、なんか個人的にタイムリーな場所だったわ。

この関所の歴史はかなり古く、昌泰2(899)年碓氷坂(碓氷峠)に設けられたものが始まりと言われているらしい。江戸時代には中山道という名前になっていたけど、それ以前は東山道という名前だったようだ。この街道のルートは時代により多少ずれがあるけど、大まかな道筋としては古代から現在まで変わらないらしい。中山道東山道も軽井沢~碓氷峠~坂本という並び方。

何かで聞いた話だと東山道の碓氷坂=入山峠と考えられており、これは現在の碓氷バイパスと大体同じルート。一方、江戸時代の中山道が通るのは碓氷峠で鉄道の旧信越本線と旧国道18号とほぼ同じルートだそう。

江戸時代の中山道は今でも生活道路として存在しており、舗装されているので車の通行も出来た。狭いけど。

 

碓氷関所は碓氷峠の頂上にあるとか勝手に思っていたけど、坂本宿と松井田宿の間にあって峠からは離れていたことを今日初めて知った。

 

関の位置も時代毎に変わったらしい。古代の関はどこだか分からないけど、正応2(1289)年には関長原(松井田町横川)に置かれていたそうで、今は山吹の郷という公園?になっているらしい。

江戸幕府が慶長6(1601)年に中山道の整備を開始し、7年かけて完成。ほぼ東山道のルートを踏襲しているようだ。現在の碓氷関所は元和9(1623)年に置かれ、江戸と京都を結ぶ2大街道(山側)の重要関所としてかなーり厳しく通行を監視したようだ。碓氷関所が置かれた後の享保元(1716)年に東山道は正式に中山道という名称に統一された。

 

東海道中山道は重要な街道で、その街道筋の関所の中でも東海道の「箱根」「新居」中山道の「福島」「碓氷」の4つを天下の四大関所と位置付けて厳しく通行人を取り締まったらしい。

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中山道路傍に立つ碓氷関所東門跡

↓中央:中山道 右:階段の上が関所の番小屋跡

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中山道の碓氷関の東側・西側それぞれ門があったらしい。東門が安中藩管理、西門が幕府管理。番所は階段の上にあったようだ。

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階段を上がってみた。

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↑東門。移築されたらしい。本来はさっき見た中山道の道路上にあった門。

門柱・扉・台石と屋根の一部は当時の物で、それら以外は造って昭和34(1959)年に復元されたそうな。

西門は所在不明(廃関されたあとの記録なし)。

 

番所の小屋などの配置はこんな↓らしい。

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東門と西門の間(関所内)は52間2尺(約95m)。結構広い。関所で働く役人達の住まいもここにあったみたい。役人の定員は14名で、役人の家族や雑用係で採用した一般人もここに住まわせていたような感じ。意外と賑やかだったんだー。

役人は安中藩からの派遣と代々定住している現業の同心と門番で構成されていた。幕府管理の西門番は代々の定住者らしい。安中藩管理の東門番は近隣から採用した人が担当。

 

安中藩譜代大名が藩主家になっている重要な藩だったらしい。あと日本初のマラソン大会を開催した藩らしい。勝新太郎出演の映画「まらそん侍」っていうの、ごく稀にCSで放送したりしてて名前だけ知ってたんだけど、あれは安中藩の話だったらしいわ。

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ここが紛う事なき関所跡だったんだけども、↓こっちも少し気になっちゃってねー。

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子供も登ってみたくなったらしく騒いだが、嫌な予感が。

まあでも行くかと子供に引っ張られて登らされた。

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先に何があるのか分からないまま。

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石垣があるぞー。

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祠があり、行き止まりー。

  • 以前は関所八幡社があった
  • 同心家の古文書には関所内に八幡社、稲荷社があったという記録あり
  • 建立された時期は不明
  • 壊れた円筒形の石塔があり、ここには延享4(1747)年奉納とある
  • 明治2(1869)年の碓氷関所廃止と同時に八幡社・稲荷社はお移りになった
  • どこに移ったかは分からず
  • 大正8(1919)年、地元民が新たに御稲荷さんを祭った

ということで、関所の西門の件と言い、廃止時にかなりの混乱があったように感じた。

 

お参りをしたので降りようとしたら、やはり子供が「怖くて降りられない」などと言い出す。高いところが好きなのは知ってるけどさー後先考えろよーと思いつつ、抱えて下まで降りる羽目になり。復元東門の辺りにいたボランティアガイドのお爺さんが我々の様子をずっと見ていたようで、「大変ですねえ」と苦笑された。

関所跡の敷地には資料館もあり、そこでお話をうかがうと上の社は関所の守り神だったそうだ。通行手形のコピーやら子供にちょっとしたお土産もいただき随分良くしていただいた。

通行手形は発行先と台帳があり、毎回役人が確認するんだそう。文章は手書きでテンプレがあり、細かい言い回しは変えてもよいらしい。内容がどうのと吟味するわけではなく、通行手形のハンコが偽造されていないかの確認は絶対していたという。

 

天下の四大関所だけあって、通行人は立場がかなり弱そう。

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ほぼ土下座でお願いするみたい。

いただいた通行手形のコピーは松代藩士のものだったけど、歴としたお侍さんも手をついて通ったのかしら…大変ねー。

 

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ここにきたのは、これ↑のせい。

子供は昔からトーマス>アンパンマンだったので喜ぶだろうかと連れてきたら。園内ではひたすら葉っぱ拾っていやがる。そして群馬県内かつ隣に国道18号が走っているせいで、近くの道路には格好いい自動車を良く見かけた。子供もトラックやスポーツカーばかり気にしていたわ。

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この機関車は古い物ではなく平成10(1998)年生まれみたい。ウィルソン・エンジニアリングというイギリスの会社が手がけた機関車で、その会社はナローゲージ用ミニチュア機関車と客車の製造メーカーだったみたい。観光用の動く機関車を主に製造していたようだ。ブレ渓谷鉄道というイギリスの国立公園内の鉄道でウィルソンエンジニアリング製機関車の多くが元気に走っているとwikiで読んだ。ウィルソン・エンジニアリングは1980年代半ばに設立、2001年倒産。

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子供を乗せてみたところ。初めて乗る乗り物なので、ひたすら固まっていた。レトロ感が売りだろう、乗り心地はあまり良くなかった。車輪からの振動がお尻にダイレクトにくるんだよ。

 

敷地内にはたくさんの列車が置かれていた。

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一番気に入ったのがコレ↑

除雪用ディーゼル機関車。北海道で走ってた機関車で、高出力仕様。全国でも3機しか造られていないと書いてあった。投雪で民家や電柱などを壊してしまい、里を離れて山へ追いやられてしまった可哀想な奴。私パワー系好きなの。ジェットエンジン積んだ機関車も存在していたことがあった(試作で終わった)みたいだし、プロペラついたメチャ速い列車もトーマスに出てきたよ(アレ実在したらしい、写真で見たことがある)。今の人はパワー系嫌いなのかねー? かっこいいのに。

子供は静態保存の物に興味なし。後で鉄道博物館に子連れで行った知り合いと話したら、鉄道博物館内の展示車両より隣の駅に入ってくる動く列車の方が喜んでいたよ…と言っていた。やはり子供は動いているものの方が良かったみたいだ。

 

10年以上前にも来たことがあったけど、その当時は内部も公開していたのに(機関車内部の謎の機械類を見て喜んだ記憶がある)、今は全部鍵かかってた。見たかったな、謎の機械。

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帰り道、せっかくなので中山道を少し走ってみたよ。一車線幅の道路だった。神社があった。

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↑碓氷神社

と入り口の案内板に書かれていた。御祭神はやけに多いのは、合祀されたためだったのか。

 

 

★★★☆☆

江戸時代の有名な関所だったけど、ほとんど解体されていた

 

 

<碓氷関所>

設置年 元和9(1623)年

須々貴城(下の城)

岡城跡が思いの外良かったので、あまりリサーチせずに次のお城に行ってしまった。

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須々貴城。

今は「須々貴山神社」になっているらしい。背後の山が須々貴山というのだろうか。

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猪避けなのか、入り口がこんな感じ↑で非常に敷居が高いように思えた。柵をキィと開けて入る。

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古い神社なのかどうか、よく分からん。

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えーなんか石段おかしくね? ちょっと石段の先が見えないような気もするわ、その辺がね何かね。

 

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少し周囲の様子を観察してから、石段を登り始めた。

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急階段かつ緑が濃いので先が見えないに違いない。きっとそう。

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登山道もあるらしい、しかしせっかくなので階段を。まっすぐだし、登山道を行くより近道だろう。今日は1人だった、しかも行き先は誰にも言わずに来た。

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新しめの看板。山の名前は「天白山」だそうな。石段も507段とあるが、まぁ大したことじゃないだろう。改修してあるっていうし。

そんな気分で登り始める。

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↑変な奴あった。

100段。

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昔の石段だし、多少は急だけどこんなもんだろう。正直、そこまで疲れてないわ。

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でも真っ直ぐ伸びているせいか、地面が少しずつ遠くなっていく実感がわく。

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苦労感じずに200段到達。

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半分過ぎた。さすがにちょっと疲れたかしらね?

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↑落ちたら死ぬかな? 少し慎重に行こうか。

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400段到達。キツくなってきた。

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なんとなく先が見えてきたよ。

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階段は狭い、少し歩きづらい。

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後ろは純粋に怖い。転んだらマジで死ぬ。行き先は家族に告げてこなかったし、こんなところで落ちたら死後数日たってやっと見つかりそうな。地元民もこんなクソみたいな階段のある神社、頻繁には来ないと思う。二時間サスペンスドラマで、たまに公園や神社でもみ合い→片方が石段から落ちる→死ぬ、っていう展開見るけど。精々20段程度で死ぬかいなーって生ぬるく見てしまうのだが、こういう階段でやったら非常に説得力があるし、ドラマ映えもするんじゃないの? と思います。

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500段にやっと来た。この時点で恐怖のあまり立って歩けず、四つんばいで階段を上がるという体たらく。高所恐怖症じゃないのに、この階段は身体が受け付けなかった。
 

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500段と少し上がり、広場に出た。やっと人心地ついたわ。振り返って見る余裕も生まれた。

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よく分からない石碑。字が読めないの。あれ、ここが本郭跡かしら? と思ったけども雰囲気がおかしい? 郭的なものないし、堀切みたいなのもないし。ふざけた石段で真っ直ぐ来ちゃったから見えなかったのかしら?

 

結局家帰ってきちんと調べたら、さらにこの奥、尾根伝いに上がっていくと本郭になるそうな。この場所は須々貴城でも「下の城」と呼ばれるエリア。本体は「上の城」のようだ。

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↑多分こっち上がっていくんじゃないかなー? 何も考えていなかったので、よく分からない。

 

須々貴城は、

  • 上田原の戦いで、村上義清が布陣した城
  • 元は地元の豪族、小泉氏が築城した城らしい

ぐらいしか分からず。小泉氏も「小泉下の城」「小泉上の城」「根小屋(小泉氏館)」と他にも城を持っている、力を持った豪族だったらしい。上下のお城造っちゃうのは小泉氏の伝統かなんかなのかね?

この地域に小泉小太郎伝説という民話があるんだけど、その小泉さんとお城の最初の主の小泉さんと、何か関係があったりして?

 

何も調べてこなかったので、とりあえず探す。

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私の目に留まったのは、こっちの階段↓

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何かあるから行ってみよう。

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登ったよ。

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崩れてるんですけどー。

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登り切った。

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須々貴山神社の社殿のようだ。こちらは非常に眺望がよく、物見台だったかも。

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社殿はそんなに大きいサイズではないが、平場ギリギリに建てられている。

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↑こっちが上田原の戦いの戦場方面だっけ? もうちょっと右だっけ?

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↑反対側は山

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本人はこんなイタズラしたこと覚えてないと思うわ。

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↑多分上田市街地方面

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とにかく見晴らしがいいことが分かった。

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この神社には、天白大権現?と猿田彦命が祭られているようだ。この山は天白山とも呼ぶらしく、この神様が元ネタということなのかしら? 猿田彦命天孫降臨で降りてきたニニギの道案内をした神様。ところで、この2柱はどういう関係なのだろうかね。

 

お参りを終え、無事に下の平場に降りられた。

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帰り道はこっちだって。

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さすがにあの石段を降りて帰る変態はいないかー。

こっちの道の方がいくらかでも楽かもしれないし、素直に標識に従った。

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いきなり雲行きが怪しくなった。

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この道も苦しい道ですなー。

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最初は覚悟したけれど。他は普通の山道だった。

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とりあえず、一度は転んだ。だが、あの石段よりもずっとマシな気がする。

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山道もきちんと整備されているようだ。

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そのうちに、何か竪堀のような巨大な堀切が見えてくる。

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やっとお城らしいものを見つけたよ。そんな竪堀もすぐにいなくなった。

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また出てきた竪堀。

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↑また出てきた竪堀

登山道は蛇行しているので、竪堀に近づいては遠ざかる。

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↑最後に竪堀を見かけたときは、こんな感じ。もっと続いているようだが、見かけなくなった。

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獣の形跡かしら?

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もうすぐ下界に降りそう。

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はい着いたよ。

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古い石灯籠1対は文政12(1829)年13(1830)年に奉納されたものらしい。願主は同一(入田澤村と田澤中村かな?)のようだが、何故か文体が違う。

 

 

★★☆☆☆

個人的には非常に楽しかったけど、こんなところ子供は歩けない

 



<須々貴城>

築城年 不明

築城主 小泉氏?

構造 山城

篠井神社

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特に目的があったわけではないけど、何となく山道を走らせていたところ。ナビにデカいため池?らしき池が映し出された。近くに神社があるようなので「きっと車を駐めるスペースもあるはずだ」と寄ってみることにした。

神社は「篠井神社」というらしく、この近辺の地名・篠ノ井の由来か何かと思ったのにどうやら違うらしい。読み方自体も違う。

 

池は有旅大池という名前で、農業用のため池のようだ。この辺、ナビで見るとため池だらけみたい。山の中なんだけどな。昔からの大きな集落があるんだろうか。来る途中にも最新鋭の貯水タンクあったよ。

ここまで車を走らせてみた感じだと、どうやら古い街道筋のようで。家も大きめの古民家が並んでおり、ちょっとした宿場も備えている集落だったという雰囲気が漂う。

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思ったより普通の池で(まぁ大きいんだけど)、ちょっと普通すぎてガッカリした。池ごときに期待した自分が馬鹿だったわ。

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とりあえず、神社見ておこう。

 

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↑篠井神社。

入り口に説明板があった。

  • 創建年不明
  • 祭神は健御名方神
  • 建保2(1214)年、布施郷地頭の布施宗俊が社殿を再建
  • 永禄4(1561)年、茶臼山に布陣した武田信玄が戦勝祈願で神領を寄付
  • 旧社号は「諏訪大明神
  • 文政12(1829)年、氏子が旧荘園名の「篠井」を社号としたいと願い出たため、現在の名前になった
  • 明治6(1873)年、村社
  • 境内社金比羅さん、養蚕神社、太郎社
  • 記念堂がある(大正年間に茶臼山にあった古峯神社の社殿を買収、移築)

篠井庄という荘園があった(その範囲は数か村に及ぶらしい)ということで、それがこの辺りの地名「篠ノ井」の由来なのかもね。

二ツ柳神社付近に「石造多層塔」という謎の石塔があり、これは長野市文化財指定を受けているので案内板もあった。それによると「前部秋足という人は高麗の王族の末裔で、帰化している。改姓を朝廷に申し出た。篠井姓を賜り記念に石塔を造った」などと書いてあった。wiki読んだらさ、奈良時代末~平安初期に信濃国内に住む帰化高句麗(高麗)人の改姓が進められたとあって、延暦18(799)年に篠井姓を下賜された奴(前部秋足ら)もいた。そいつらが王族の末裔かどうかまでは書いてなかったわ。その帰化渡来人の篠井氏が治めた?から、篠ノ井になったんだろうか。

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延喜式には載ってないものの、それなりに古そうな神社ではある。

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でも、あまり見るものがなく…なんか暗いし、もういいかという感じになってしまった。有旅大池に期待して、裏切られた気持ちを引きずっているのかも。罪深い池だわ。

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↑有旅大池の記念碑。

  • 有旅大池、またの名を篠井池
  • 信里地区最大のため池、貯水量は6万㎥
  • 築造年代不明
  • 天文・永禄年間(1532~1570)に武田信玄が改修
  • 文化年間(1804~1818)に松代藩が改修
  • 大正年間(1912~1926)には更に補助池を3つ造る

そうか、この池結構凄いんだー。ガッカリしてごめんなさい。でも、ため池なのに造った時期が分からないとか、なんか笑っちゃうね。

この辺り、武田信玄所縁のお寺さんとかもあった。大きなため池以下、貯水池を色々増設し続けているぐらいだから、昔からの権力者がいたのかしらねー?

 

この他には、

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聖徳太子とか。

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よくわかんない石仏とかがいた。で、帰った。

帰り際、この石仏群の奥の広場に石碑みたいなのが見えたんだけど、なんだったのか。家でこの辺をストリートビューで見たところ。件の広場は重機が入ってた(2012年5月の日付)。何か造成してたみたい? 石碑は影も形もない。気になるー。でもしばらくはこっちまで来なさそうだー。

 

よく分からないと言えば。

ここまで来る途中に「大陸天」という石碑も見たぞ。中華系の怪しげな何かか? それとも失われた古代の邪教の神? と思うけど、石碑自体は古めかしい。多分、大昔の街道だった頃からありそうな様子だった。それもついでに調べたよ。

グーグルのコメントに大陸天=第六天じゃないかなどと書いてあった。ググってみると確かに大陸天で「だいろくてん」と読ませていることがあるらしい。第六天=第六天魔王織田信長が名乗っていたらしい。現人神として、自分を祭神にした神社造ったと聞いたことがあるなー。不思議なことに東日本にしか第六天の神社がないみたい(豊臣秀吉が西日本の第六天神社を破壊し尽くしたとかいう噂があるようだ)。第六天魔王織田信長が自称する以前からいたらしく、欲界(欲望にとらわれた世界)に住む六欲天の一番偉い人のことを指しているそうな。第六天魔王の名前は波旬といい、要は悪魔なんだと。仏教に悪魔が居て、その悪魔を祭っている神社なんてあるんだー。全然知らなかった。

あと、高札場の跡地もあったなー。

 

 

★☆☆☆☆

やっぱり池の風景がイマイチだったわ

 

<篠井神社>

創建年 不明

御祭神 健御名方神

岡城

壊された車を買い換えた。ギャルっぽい車になった。家族の許可が下りたら今度こそインプレッサSTIハッチバック買うんだー。

 

納車したので、ウキウキ気分でちょっと出かけた。岡城、団地の真ん中にぽつんと残っているというので、あんまり期待していなかったが。

こんな奴だった↓

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縁日みたいな大きい幟があるので、神社があるのかもしれない。ぱっと見て、形は古墳なのかと思ってしまった。

 

現在地は岡城公園の入り口。岡城公園は元・二の丸の土塁部分であるらしい。

↓堀跡はこんな様子で異常に広い。水田跡地でもあるようだ。

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これ↓も井戸跡かなんかかねー? お堀の跡地に井戸なんかあるわけないんだけど井戸っぽい。

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史跡になっているのは公園の部分のみで、他は住宅地になっている。

入り口付近には案内看板があった。

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↑お城の全体像はこんな感じ。

また、お城の紹介として、

  • 武田信玄の家臣 馬場信房により築城
  • 天文年間末の出来事
  • 武田氏独特の三日月堀がある、甲州流築城の初期かつ大規模な平城
  • 天文22(1553)に村上義清の居城、葛尾城を落とす
  • 永禄3(1560)年に海津城を築く
  • 天文22年~永禄3年の間、武田氏の前線基地であった
  • 規模は東西460m、南北365m
  • 面積は約75000㎡(東京ドーム1.6倍)
  • 三日月堀は3カ所、内堀・外堀もあった

 

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↑右側には三日月堀があったようだが、今はただの民家に。

とにかく、公園に入ってみることにした。

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緩い坂道を登る。

左手側は古い団地があった。人もまぁまぁ住んでいる。

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団地がある場所が本丸跡と書いてあったが、どうやらココ↑は二の丸のようだ。

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登り切ると、なんかその辺によくある雰囲気の小さな公園だった。草も刈ったばかりのようだし、きちんと手入れされている小綺麗な印象。

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遊具やベンチがあったけど、誰もいない。

堀跡を上から見ると。

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堀、広いわねー。

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現在は秋、実りの季節にも関わらず何もなし。休耕田? 放棄はしていない様子にも見えるが、数年前から田んぼとして使われていないようも見える。

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神社の幟がある。社殿は見えない。どこにあるのかしらね? こんもりした丘みたいになっているけど、この上かしら? 裏側に回り込めそうな道があるので行ってみた。

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井戸発見か。

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今でも使えるのだろうか、と思い近づいたらただの水道くさい。なんだよう。

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↑ここも二の丸。思った以上に大きなお城のようだ。

しかも、入り口で見た建物より更にレトロ感が増した。調べたら、入居者はもう募集していないようだ。もの凄く家賃が安そうだな。

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巣箱も置いてあった。

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上の丘っぽいのに登れそうなので、行ってみた。

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ここは物見櫓なんかを置いた場所なのだろうか。

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人工的な地形の香りがプンプンするよ。この規模のお城作るのに、どのくらいの工期だったんだろう? 6年で放棄のお城ということを考えると、以外と短期間で出来上がるのかもねー。

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↑航空写真で見た感じだと、矢印の辺りが丸馬出しだったみたい。ちょっと形が残ってた。

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本丸方面もこんな感じに。団地群を兵舎などの建物と見立てれば、中々のお城かもと雰囲気出てきた。

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そして神社を探すが。

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祠しかなかった。

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拍子抜けした。しかも、この祠がどういったものなのかは未だ分からず…。この辺一帯の産土神としてどこからか勧請したものなのかね? それにしては素っ気なさ過ぎるわ。まあ、古そうと言えば古そうだがね。

 

この祠のすぐ脇に「岡村城の由来」という石碑があった。岡城=岡村城。

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石碑には「1971年」と彫られており、おそらく入り口の看板より古くからあったような感じ。昔はここを「岡村城」と読んでいたのかしらね。ちなみに地区名は1971年当時も「岡」であるようだが、古くは小県郡岡村と呼ばれたみたい。

  • 今から1190年あまり前、桓武天皇の末裔の権之左衛門尉、平清氏が弘仁2(811)年、信濃守として当地に赴任し城を造る
  • 後に、地名から名乗りを「岡村権之左衛門尉平清氏」と改め、城も岡村城と名前を変えた
  • 清氏、京都の命により甲斐に行くが、天長10(833)年自害
  • その後は藤之木氏の支配となり、戦国期に入ると(支配者だった)浦野氏が武田に下る
  • 武田の支配下となると、馬場信房が城を守って村上義清と戦う
  • 上田原の戦い、川中島の戦いを経て、永禄11(1568)年の長沼城完成までの間、武田軍の居城であった

いくつかの苗字サイトを当たってみたところ、どれも「岡村氏=小県郡岡村(現・上田市岡)発祥の桓武平氏」と書いてあり、桓武平氏であることは間違いないらしい。

桓武天皇崩御延暦25(806)年。平氏の賜姓は天長2(825年)が初めて。桓武天皇孫ぐらいの世代じゃないかと思い、該当しそうな名前の人物を頑張って探してみたけど見つからず…悔しい。石碑の年代が間違っているのかしら?

岡村(平)清氏という人は信濃守として京都から赴任しお城を造り、20年ぐらい統治したあと流刑になり甲斐国へ流され、そこで自殺して亡くなったということらしい。妙に詳しく書かれている。絶対どこかに元ネタあるはずだ、と躍起になり探したのよ。徒労に終わった。

あるサイトには「岡村氏=桓武平氏維茂流」とあった。平維茂は鬼女紅葉伝説で有名な方だそう。

と、この場所に所縁があるような感じ。この人の子孫は京に残った者・新潟で栄えた者の二系統があるらしい。今昔物語の中でもバリバリの武闘派のようだけど、この人甲斐へ流されたかどうか不明。

こちらも収穫なしよ。何なのか、岡村清氏。

 

岡村氏→藤之木氏→浦野氏と支配者が代わった後、武田氏がやってきて浦野氏降伏→館を接収、改造という流れのようだ。

 

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しばらくウロウロした後、本丸方面に向かうことにした。

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人は住んでいるらしく、プロパンガスのボンベが見えたりする。

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建物群を少し抜け、道に出る。

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この団地は結構規模が大きそうだ。ここを左折すると二の丸井戸があったみたい。まだこの辺は二の丸なのか…。

 

何かしら土塁のようなモノが続いている?

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それっぽいものを探して歩いた結果。

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本丸の井戸を発見↓

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一応、まだ使われていたりするのだろうか? 二の丸~本丸までまあまあの広さ。どのくらい人間収容されるかなー? 200~300人ぐらいイケるかもー。

 

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どうみても土塁のようにしか見えない怪しげなアップダウンを抜けた。土塁上に住宅が並んでいた。

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ここも怪しい地形だわ。

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出入り口があったようだ。

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雰囲気はあるねえ。

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境界を表している? 道祖神

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本丸~二の丸の平坦な部分は団地造成して消しちゃったけど、それ以外の部分はさほどいじっていないのかもしれない。放棄されたお城の地形そのままを生かす(壊すことが面倒臭かったのかもしれないけども)形で田畑・住宅になっている様子。

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ただ、本丸の出入り口を過ぎたら何もなくなってきた。キリの良さそうなところで引き返す。

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ビオトープとは何か。

↓実はこんなものを見つけたので、事前に地図代わりに写真撮っておいた。

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ビオトープとは美しい水辺にかかる桟橋の風景を楽しむ的な奴か?

コレもあとで調べて見たら。

  • 生物の生息場所という意味のドイツ生まれの概念

あとは難しくてもう分からんかった。

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 お城の方へ別のルートで戻ることにした。

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長閑な風景を見つつのんびり歩いていると。

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やだー土塁じゃない。

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つまり今歩いている道は堀跡なのか?

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土塁のようなものも一部遺されているようで、連続していなかった。

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あーまた現れたよ土塁。

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そうこうしているうちに、最初に見た二の丸と土塁、物見台跡が見える場所まで戻ってきていた。

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↑この場所から道なりに進み、見るお城が非常にかっこよかった。

 

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公園付近は濃厚に遺跡が残っているせいか、非常にイメージが湧きやすい。

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↑浦野川

 

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↑近くにはこんな旗が。なんで菱形の家紋じゃないんだろ? と思った。

 

 

 

★★★★★

ここは行って良かった。とても面白かった。

 

 <岡城>

築城主 岡村氏

築城年 不明

構造 平城

飯田砦

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現在私有地(御子孫が近くにお住まいだそうな)のお城跡。奥のジャングルめいた場所が跡地。石碑は土塁の上に建てられていた。

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手前は川だかなんだかで、勘左衛門堰というらしい。総延長10kmの、中々珍しい用水路のようでwikiに載っていた。

 

  • 寛文2(1662)年、安曇郡の代官・二木勘左衛門により着工
  • 貞享2(1685)年、現在の堰の開削が着工、2ヶ月後完成
  • 天明2(1782)年、大改修
  • 寛政10(1798)年、再び大改修

 

江戸前期に作られ、現在も現役なんだそうだ。取水口は松本市にあるが、補助の取水口というものも存在し、それがこの豊科飯田にあるようだ。ちなみに安曇野には総延長15kmの用水路もあり(拾ヶ堰)、あまり水に恵まれない地であったようだ。あんまりそういうイメージがないわ。山葵農場の印象が強いから、澄んだ水が大量に流れるなどと思っていた。けど、この手の用水路を江戸時代に大量に作って現在の「自然豊か」風な安曇野を創り出したのかもねー。

拾ヶ堰は勘左衛門堰より後の寛政11(1799)に立案、文化14(1817)年竣工で、江戸中期~後期のお仕事になる。

 

で、この飯田砦前を流れる用水路は堀を流用してるのかもしれない。確証はない。

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土塁はこんな感じ↓

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土塁を辿っていくと、神社があった。

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氏神様をお祀りしているのだろうか。

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多分ここから神社に行ける?

 

とりあえず一周しようと、回っていたら。如何にもな旧家風のお屋敷があった。あれは間違いなく御子孫のお宅だよねえ。

 

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こちらが大手側らしい。入るなって書いてある看板あったよー。ちょうど神社と対角の位置ぐらいかな?

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鬱蒼としており、何も見えない。が、かなり状態良く残っているという噂で、勝手に入り込む輩が後を絶たないらしい。

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でもさー勘左衛門堰側にあんな立派な石碑と入り込めそうな神社の参道あったらさ、入っちゃうよね…と思った。

ちなみに、あの立派な石碑の裏には

  • 室町時代末期の館跡
  • 南北25m、東西30m
  • 神社は屋敷神
  • 武田氏の進出により築かれたとされる
  • 吉野町館や真々部氏館の前衛

と書かれているようだ。

 

 

<飯田砦>

築城主 飯田氏

築城年 不明

構造 平城

犬甘城

なんとなく地図を見ていて、城山公園というものを見つけた。まず間違いなくお城跡だろうと思った。

行ってみたらこの通り↓

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六ノ郭まで存在しているようだ。

この松本市城山公園、ぐぐっても公園の成り立ちしか出てこないのよ。公園の中でもかなり古くからあるものらしく、またそれが誇りでもあるようだ。個人的には公園・庭園の類いはあまり関心がなく…。

  • 天保14(1843)年、松本藩主戸田光庸により開設、一般人にも開放
  • 明治8(1875)年の筑摩県布達により、日本初の太政官布達公園のひとつとなる
  • これに先立ち、明治6(1873)年には公園設置の条件を示した太政官布達が発布されている(太政官布達第十六号)

 

江戸時代には公園という概念がなかったものの、偉い人が景勝地を整備して民のための憩いの場にすることはあったらしい。江戸では、徳川吉宗が整備開放した遊園「隅田川堤」「品川御殿山」「飛鳥山」「中野の桃園」があり、地方でも水戸藩徳川斉昭という人が作った「偕楽園」が有名らしい。偕楽園は私いつも後楽園と間違えちゃってて、ボクシングの方かなって思っちゃう。

 

厳密に言えば遊園と公園は別物のようだ。

遊園=遊び場、憩いの場として設けられた庭園

公園=公衆が遊びを楽しむ、憩うために公開された場所、公共の施設

 

城山公園は近代的公園を全面に打ち出している感じで、公園内にはたくさんの歌碑が散らばっているらしい。

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公園散策の他には山登りも出来るらしい↑

 

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駐車場から公園内に侵入。お城っぽいものは今のところこの辺り↑かな? よく分からないけど何か急斜面になっている。

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だいたいがこんな感じ↑のよくある公園風景で桜の木が多数見える。桜の名所でもあるらしい。

再び急斜面を覗くも。何かイマイチ気分。暑いせいか。

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ちなみにこれの説明はなく、自然に出来たものなのかもしれないとも思える。藪だしねー。

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この急斜面を横目で見ながら更に道を進む。

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入り口発見↑ 先ほどの急斜面のすぐそばなので、やはり何かしら人の手が入った崖だったのかも? そして、案内板もあったよ。

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犬甘=いぬかい なのか。読めないわ、そして何で犬が甘いと書くんだろうか。まさか食べたのかね犬を。味は甘いのか。

悲しいことに犬甘城の説明は本当にサラッとした様子で、やっぱり公園の話を多めに説明している。

 

松本城と同じく、この犬甘城も小笠原氏の居城・林城の支城の一つであったようだ。犬甘氏は小笠原氏の家臣で、大伴氏の子孫にあたる豪族だったらしい。戦国期の小笠原氏は武田氏に惨敗し勢力を低下させたが、犬甘氏と平瀬氏というふたつのおうちは小笠原氏に忠誠を尽くしたようで。小笠原氏のお城はどんどこ落とされてしまったけど、犬甘城と平瀬城は徹底抗戦。wikiに犬甘城の落城顛末が載っていた。

  • 犬甘城のすぐ近くの深志城(現・松本城)の城代・馬場信春(武田氏の家来)が物見で犬甘城の近くにやってきた
  • 犬甘城主は村上氏からの援軍が来たと勘違いし、出迎えるために家臣数名と一緒に馬場信春に近寄る
  • 敵に包囲される
  • とりあえず頑張って城主は逃げた(二木さんという仲間を頼ったらしい)
  • 城主不在になったので、犬甘城を攻めたら呆気なく落城

残念エピソードねー。一応、主君の小笠原氏の松本復帰に伴い犬甘氏も旧領復帰しており良かったね、という結末にはなっているようだが。

とにかく、この階段の先に本郭があるはずなので、登ってみた。

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何かあるぞ。

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歌碑だった。それと、歌碑の説明板。この歌は吉江孤雁という人が作ったらしい。誰だか分からないし興味もなく、チラ見して先に進む。

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↑これも郭っぽい。最初の公園案内図だと3ノ郭になっていた。f:id:henrilesidaner:20190414085731j:plain

↑見えてきた本郭。

本郭内、やはりお城跡だよって看板なし。

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暑すぎるし誰も居ない。子供もキレ始める。さっさと降りた。

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端っこはこんな感じだった↑ 藪が濃すぎてもう分からん。

 

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この先にもまだ郭が存在しており、展望台や神社もあるようだが。ごねられたので目的地に行くことにした(この後は松本城四柱神社→某ショッピングモールの順)。

 

こちらから松本城に向かう途中、目を引くものがあり子供を説得し、ちょっとだけ時間をもらった。

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義民塚だってー。

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案内板には

  • 貞享義民塚
  • 貞享3(1686)年、松本で起こった百姓一揆=貞享騒動
  • 昭和25(1950)年、中学校建設時に人骨が出てきた
  • 調査の結果、貞享騒動の首謀者で当地で処刑された多田加助等のものと判明
  • 義民塚として祭ることにした
  • 多田加助を指導者とし、松本藩領内から1万人近い農民を動員した大きな百姓一揆であった

とあった。

なんか昔ハマったラノベでこの話を読んだわ。私の教養は「テレビで見た」「ゲームで見た」「マンガorラノベで読んだ」で構成されている気がするわ。どうしようもない感じだわねー。

このすぐお隣には中学校があったけど、この中学校が出来るまで処刑場の存在が忘れられていたんだろうか。地元の松代藩処刑場は場所もしっかり知られているし、アクセスが悪い山の中にあるようだがね。現在では一般人や冷やかしが行くにはしんどい峠の道。

なので不思議に思い、ちょっと探してみたところ。ここは「瀬高刑場」と呼ばれた臨時の処刑場だったらしい。案内板にもあるように一揆参加者約1万人なので処刑する人数が多すぎて常設処刑場(出川刑場)だけでは足りず、臨時の処刑場を設けて刑を執行したらしい。出身地によって使う刑場を分けていたようだ。安曇郡の人間は瀬高刑場、筑摩郡の人間は出川刑場で。死罪28名(磔8名、獄門20名)で、瀬高刑場は首謀者の多田加助以下17名の刑が執行されたらしい。ちなみに人骨は18体見つかっており、埋葬方法が違うという理由で1体は貞享騒動の処刑者にカウントされていない。その1人がなんなのか気になる。

松本藩の常設処刑場「出川刑場」の現在を探してみた。郊外の住宅地の中にあるようだ。ストリートビューで見ると、その場所のみぽっかりと空き地になっている。禁足地っていうのかな? その様子だけで不気味だわ。

 

 

★★★★☆

他の郭も見てくれば良かった。

 

 

<犬甘城>

築城年 不明

築城主 犬甘氏

構造 山城

 

 

四柱神社

先日、私の車が破壊された。もらい事故で相手に支払い能力がなさそう。やってらんないわ。車は廃車の予定となり、まさかこんな形でお別れすることになるとは…と落ち込む。とりあえず誰かウチの玄関に1億円くらい置き忘れてくれ。

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松本の市街地にある神社。歴史は浅く、明治になってから創建された神社らしい。

 

江戸時代には何だったのかというと、松本城の大手門の手前、枡形になっていた場所だそうな。

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↑この絵図の「現在地(推定)」というのが、ここ↓にあたるらしい。

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置いてあるオブジェ?は何なのか。

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松本の城下町は大手門の中、↑こんな感じで広がっていたようだ。松本藩初期の石高は10万石(遺産相続で分割したり等で石高減ったりする)、その後別のおうちの人が入城して石高は藩主家により6~8万石となっていた。

世界で10万人くらい住んでいる国を探したら、アンティグア・バーブーダが出てきた。イギリス連邦の国で、カリブ海に浮かぶ島。広さは種子島程度。首都セントジョンズの2005年時点の人口が約3万人だった。もしかして松本城下にもその程度の人が住んでたのかなー? 調べたところ江戸後期の松本城下には2万人弱、明治元年の松本藩全体の人口は約12万人(明治元年松本市人口は約1.2万人らしい)。アンティグア・バーブーダの人口とだいたい合ってるのかねー? 江戸時代後期から日本全体で人口減少時代に突入し、特に都市部(城下町)では人口が減っているとか書いてあったので、もう考えるのは止めようと思った。

 

この場所は大手門(=正門)跡ということで、何か出てくるかと発掘調査も行われているそうだ。案内の看板には。

  • 16世紀後半石川家の時代に天守閣を建てると共に、城下町をぐるりと取り囲む堀を整備したようだ、そして大手門も造ったらしい
  • 平成24(2012)年に発掘調査を行う
  • 長さ約18m高さ最大1.4mの石垣が見つかる
  • 石垣は総堀の一部ではないかと思われる
  • 総堀は明治11(1878)年以降埋め立てられたという記録がある
  • 明治4(1872)年に大手門が廃されたという記録もある
  • 大手門の取り壊しで出た廃材は総堀に捨てたようで、総堀跡からはうち捨てられた状態の瓦等が発見されている
  • 発掘調査の成果→大手門の枡形など在りし日の位置や規模が分かった

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四柱神社はその名前の通り、御祭神が天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神天照大御神の4柱。天照大御神以外の3柱は天地開闢の時に現れた神様達だそうだ。

天之御中主神は天の中央に坐る主神で、残りは脇侍みたいな位置づけなのかね。似たようなお名前だしなー。高皇産霊神神皇産霊神は宇宙創造の根元の神様で何かを生み出したり調和させれくれるみたい。

元々は明治5(1872)年に神道中道院という施設が造られたことで始まっているらしい。明治3(1870)年に大教宣布という明治天皇の詔があったようだ。これは天皇に神格を与え神道を国教と定める宣言らしい。それに基づいて神道の布教活動をするため、総本山的なやつらしい「大教院」、都道府県単位で置かれた「中教院」、地域単位で置かれた「小教院」という施設を造った。このうちの中教院を母体とし、明治7(1874)年には4神を祀る。明治12(1879)年にこの場所へ移転してきたと同時に神社化、村社「四柱神社」となる。

ちょっと電波っぽい書き方の由来書は、国策でやっていた布教活動のせいなのかな? 一瞬だけ「トンデモか!?」とわくわくしてしまったよ。

 

 

  

 

★★☆☆☆

こんなところに城下町松本の入り口あったのね

 

四柱神社

創建年 明治12(1879)年

御祭神 天之御中主神高皇産霊神神皇産霊神天照大御神