お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

富士見城

今年五月一日は「令和」と書いてあるお菓子を買い、皆で記念撮影をしてみた。

f:id:henrilesidaner:20191211094027j:plain

以前、高速飛ばしてたときにナビが教えてくれたお城跡。通りかかったので、寄ってみた。

富士見城跡というらしい。

f:id:henrilesidaner:20191211094036j:plain

現在は飯縄山公園というものになっているらしく、人間がウロウロしている。

↓公園の入り口はこんな感じだった。

f:id:henrilesidaner:20191211094220j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211094639j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211094127j:plain

登ってみた。

f:id:henrilesidaner:20191211094746j:plain

なだらかな山だった。尾根伝いに道が続いている。

f:id:henrilesidaner:20191211094835j:plain

まず旗塚という盛り土があった。

f:id:henrilesidaner:20191211095107j:plain

点々と続いていた。旗を立てた土台らしい。敵に「たくさんの兵が詰めているよ」と欺くために軍事機密というヤツだな。ただ、私はなんとなく、その辺のお店の入り口にあるような、「本日ポイント10倍デー」とか書かれた幟が延々と並んでいるのをイメージしてしまったわ。

f:id:henrilesidaner:20191211095107j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211094925j:plain

↑旗塚は5,6基くらいあった。

f:id:henrilesidaner:20191211095131j:plain


 

 

f:id:henrilesidaner:20191211094645j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211094656j:plain

↑城郭跡なのか分からないが、美術館があった。

f:id:henrilesidaner:20191211094703j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211094959j:plain

↑この山を高速道路が突き抜けている。しかし騒音は気にならず。うるさくない。

f:id:henrilesidaner:20191211094849j:plain

↑北側集落の様子。南側に位置する集落からは150mの急斜面を登らなければならないが、北側集落からは30m程度で登れるらしい。見た感じはそれなりの急な斜面だし、段郭も見えたぞ。簡単には登れないんじゃないのかなー?

↓北側の斜面。桜が植えられていた。桜、まだ若そう。

f:id:henrilesidaner:20191211094855j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211095121j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211094840j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211095212j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211095147j:plain

↓南側斜面。人の手が入っていなさそうな藪。

f:id:henrilesidaner:20191211095221j:plain

↓石垣のようなものが、遠くから見えた。

f:id:henrilesidaner:20191211095608j:plain

 

 ↓5の郭。城の東限とあった。さっきの美術館の敷地はお城関係ないらしい。

f:id:henrilesidaner:20191211095744j:plain

5の郭はあまり広くなさそう。説明書によれば、木戸が設けられていた場所と思われるとある。玄関だったって言いたいのかね。

f:id:henrilesidaner:20191211095603j:plain

4の郭と5の郭の間にはしょぼい堀切?があった。説明書には「現在残っている部分から、ここにも堀切があったと考えられる」と書かれていた。

f:id:henrilesidaner:20191211095747j:plain

遠目で見えていた石垣はこんな感じだった↓

f:id:henrilesidaner:20191211095716j:plain

この富士見城がある飯縄山は岩石で出来た岩山で、石が豊富だそう。そのせいなのか、郭の区画は石積みで区切られているという。しかも飯縄溶岩という名前の、市内ではこの山でしか採取できない特殊な石がゴロゴロしており、それを使っているとあった。時代考証的にはおかしいらしく(当時は石垣組める技術が低かったらしい)、どこまでがお城の石垣として作られたものか城域を特定するのが困難な状況です。なんて書いてあったよ。

まあ、築城当時の石垣かどうかは分からないが、この石垣も古そうだぞ。

 

4の郭、5の郭と書かれたプレートがある辺りも、よく見たら石垣っぽい。

f:id:henrilesidaner:20191211095829j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211095810j:plain

↓4の郭と5の郭の間の、推定堀切

f:id:henrilesidaner:20191211095802j:plain

 

↓4の郭の中

f:id:henrilesidaner:20191211100159j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211095942j:plain

↓東西に土塁があった

f:id:henrilesidaner:20191211095908j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100210j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100213j:plain


f:id:henrilesidaner:20191211095932j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100151j:plain

4の郭の次は主郭のようだ。

f:id:henrilesidaner:20191211100226j:plain

橋が渡してあるぞ。

f:id:henrilesidaner:20191211100248j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100244j:plain

富士見城最大の堀切があったよ。

こんなところにも石積みが。

f:id:henrilesidaner:20191211100256j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100337j:plain

主郭到着後、振り返って堀切を見たよ↓

f:id:henrilesidaner:20191211100418j:plain

主郭をぐるっと取り囲むように、石積みが並んでいる。

f:id:henrilesidaner:20191211100459j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100512j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100546j:plain

主郭からの見晴らし。非常に良い。

f:id:henrilesidaner:20191211100515j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100543j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100600j:plain

とにかく主郭を一回りしたよ。

f:id:henrilesidaner:20191211100617j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100625j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100632j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100636j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100816j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211100852j:plain

1周では飽き足らず、更に周回。

f:id:henrilesidaner:20191211101054j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211101345j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211101349j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211101352j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211101356j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211101408j:plain

それほど広くはないけれど、斜面が急だった。南側は石積みがある分、落ちたら頭を岩にガコンガコンぶつけて最悪死ぬんじゃないの? という感じ。骨の1,2本はやっちまいそうだ。北側は段郭らしきものが続き、落ちたところで軽い怪我だけでなんとか済みそう。

f:id:henrilesidaner:20191211101741j:plain

↑この階段下も主郭らしい。説明書きには「東側の一段高い郭と西側に続く長方形の郭

が本城の中心です」とあった。

f:id:henrilesidaner:20191211101745j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211101843j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102000j:plain

堀切4に到達。相当浅い。ここで主郭が終わる。

f:id:henrilesidaner:20191211102023j:plain

またもや石積みが。大雑把な感じする。大きな岩で、持ち上げて積んだだけで満足しそう。これでも凄い技術だったのかもしれないけどさ。

f:id:henrilesidaner:20191211102059j:plain

2の郭↓

f:id:henrilesidaner:20191211102121j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102208j:plain

 

f:id:henrilesidaner:20191211102142j:plain

2の郭と3の郭の間には危ないモノがあった。

f:id:henrilesidaner:20191211102146j:plain

石塁だってー。1m程と書いてあったけど、だいぶ崩れている。これも適当に積んだだけ感がある。

この石塁の向こう側が3の郭になるようだ。

f:id:henrilesidaner:20191211102153j:plain

富士見城の中で一番広いらしく、この郭を取り囲むように3m程の石垣があるそうだ。上からはもちろん見えないと思う。

f:id:henrilesidaner:20191211102222j:plain

富士見城という名前でも想像つくけど、ここから富士山が見えるらしいぞ。いい天気なので見えるかしらねー?

f:id:henrilesidaner:20191211102237j:plain

いたよー!

f:id:henrilesidaner:20190506151730j:plain

本当に見えるもんなんだな、と感心した。「富士見」と名のつく場所で富士山見たの初めてかもしれない。

f:id:henrilesidaner:20191211102258j:plain

本郭と2の郭と、崖が見えた。石垣多いねー。

f:id:henrilesidaner:20191211102422j:plain

一番広い郭ということだが、ベンチが申し訳程度に置いてある程度で何もなかった。3の郭の下から遊歩道があり、お城の入り口まで続いているようだ。この遊歩道を辿って帰ろうと思う。

f:id:henrilesidaner:20191211102550j:plain

3の郭を取り囲むという、高さ3m近い石垣というのがコレ↑なのかな? この角度から見ると立派だわ。3の郭から下は段郭が半円状にたくさん連なっているようだ。

遊歩道は3の郭から主郭に沿った段郭を利用したものらしい。お城見学用ではなくバードウォッチング用とか景色見るための歩道のような名称だった(看板があったけど、詳しくは覚えていない)。

f:id:henrilesidaner:20191211102553j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102602j:plain

遊歩道から見上げればゴツい石垣群が。

f:id:henrilesidaner:20191211102716j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102721j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102739j:plain

こういう山の中のお城では珍しいわね、確かに。説明書きでも「本当にすべてお城築いた時に造られたものなのか怪しい」とあったが、じゃあ後年ココは何に使われてたんだろう? と調べたところ。小諸市が平成8年にここを発掘調査したときの調査報告書を見つけた。

どうやら、畑になってたらしい。調査報告書では「遊歩道から見える石垣はお城と関係が無い、耕作用の畦石垣と土砂崩れ防止用の石垣だった」と結論づけられていた。江戸時代には畑になっていたようで、大豆・麦などの雑穀や桑が栽培され、明治以降は主に桑畑と化していたようだ。調査報告書はほぼ石垣の件ばかり語られていた。というか、調査箇所が石垣のみだった。

石垣もお城に関係ないとはいえ、こういう雰囲気は格好いいよねー。ちなみに、遊歩道回り以外の石垣(郭を囲む石垣や石塁)は調査していないようだ。

f:id:henrilesidaner:20191211102816j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102822j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102830j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211102851j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211103024j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211103124j:plain

説明書きには、

  • 戦国時代の終わり頃には存在していたと考えられる
  • 当時は城(戦闘用)と館(生活用)と別れており、この富士見城も常時人が生活していたものではないと思われる
  • 天文年間(1532~1554)、武田氏が佐久地方統括の拠点とした小諸鍋蓋城(小諸城の前身)の支城として整備され、ある程度の石垣はこの時期に積まれたと考えられる
  • 天正壬午の乱では徳川方の武将・柴田康忠が布陣したと言われる

と書いてあった。

一方、調査報告書のお城概要では、

  • 佐久地方の城塞の大半が応仁・文明の乱以降であることから、富士見城も15世紀後半に築かれたと考えられる
  • 築城者は当時の佐久地方の支配者、大井氏の誰か
  • 西方からの脅威(村上氏)に対する備えとして、小諸城の大遠見城(監視用の城)として築かれたようだ。
  • 築城から約100年後の天正壬午の乱で、徳川氏の将・柴田七九郎康忠が一時居城したという地元の伝承がある
  • 柴田七九郎は天正11(1583)年に徳川家康の命を受け、大井行吉攻めを行った依田信蕃の軍監(家康から派遣された監視役)を務め、天正13(1585)年の第1次徳川・真田合戦でも出陣した

 と説明されていた。多分、調査報告書の方が信用できるかなと思う。

 

柴田七九郎康忠さん

  • 永禄4(1561)年より徳川家康に仕える
  • 康忠という名は家康からもらう
  • 永禄12(1569)年、功績を挙げ家老に昇進
  • 天正10(1582)年、甲州奉行に任命
  • 文禄2(1593)年死去(享年56)

 

依田信蕃さん

  • お父さんの芦田信守の時代に武田氏家臣となる(元々は大井氏の家臣だったが、幼少の信守が生け捕られた挙げ句、脅されて武田氏家臣になったようだ)
  • 芦田信守は二俣城の城代となり、子の依田信蕃も一緒に入城
  • 長篠の戦い直後の二俣城攻防戦で籠城(籠城中に病気療養中の芦田信守が亡くなる)し、ついに城を落とせなかった徳川家康から城兵すべての安全な退却を約束させた上で開城、依田信蕃以下武田軍は撤退
  • その後は田中城の城代になる
  • 天正10(1582)年、織田信長甲州討伐を開始、田中城も家康に攻められるが、またしても籠城
  • 武田勝頼の自害の連絡を受けて、ようやく開城
  • 織田の武田氏残党狩りを警戒して、家康が依田信蕃を自領に匿う(家来になった?)
  • 本能寺の変が起こると、織田の重臣滝川一益の逃亡に手を貸す
  • その後信濃国に攻めてきた北条家と戦う(主にゲリラ戦)
  • 徳川の援軍を得、その後徳川氏が有利な条件で北条氏との講和が成立しその功績で小諸城代になる
  • 元々の主君筋・大井氏が邪魔をするので、攻めることになった
  • 簡単に落とせると思ったのに苦戦し、結局戦死した(享年36)

 

大井行吉さん

  • お父さんの代から武田氏に仕える
  • 長年、武田氏の元で活躍する
  • 武田氏滅亡~本能寺の変の間には(多分)埼玉県内にいたらしい
  • 本能寺の変のあとに北条家に下り、地元に帰してもらった
  • 岩尾城に戻り、討伐にやってきた柴田・依田軍と戦う
  • 依田信蕃を討ち、柴田康忠の説得に応じて開城し、群馬の保渡田村に行く
  • その地で没する(享年43)

 

f:id:henrilesidaner:20191211103137j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211103207j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211103328j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211111137j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211111139j:plain

f:id:henrilesidaner:20191211111144j:plain

最初の駐車場に戻った。

 

 

★★★★★

整備されていて歩きやすいし、何より(後年のものとはいえ)石垣が良かった

 

 

<富士見城>

築城主 大井氏

築城年 不明

 

法蔵寺館

f:id:henrilesidaner:20191202093559j:plain

構えの墓屋敷の本体にあたるお城にきた。現在は「法蔵寺」という立派なお寺さんになっている。

f:id:henrilesidaner:20191202093533j:plain

↑この山門は長野県宝に指定されているとかで、重厚な造りだったよ。構えの墓屋敷の説明書きにもあったけど、このお寺は江戸時代に入って館跡に移転してきたもの。

 

お寺さんの案内板もあり、それによると

  • 浄土宗知恩院の末寺、永正3(1506)年に吉野梶海渡に創建
  • 成相新田宿の建設に伴い、慶長16(1611)年に現在地に移転
  • 山門は寛政元(1789)年に伊藤(柴宮)長左エ門らにより建築
  • 伊藤長左エ門はこの時代の傑出した工匠で、他に諏訪大社下社春宮弊拝殿や水上布奈山神社本殿(いずれも重文)などがある

諏訪大社で思い出したけど。諏訪大社の春宮と秋宮を同工期・同規模で作らせ、どちらが素晴らしいかと大隅流と立川流で競わせたヤツ、その時の勝負で負けた大隅流の棟梁の人っぽいわ。個人的には負けた方、この山門を手がけた大隅流の派手な感じが好きなんだけどなー。

宝蔵寺は成相新田宿の檀那寺(お布施で成り立っているお寺のことらしい)になった。江戸時代に寮舎が6坊、周辺の村に管理している庵が10棟あったらしい。お寺の規模としては大きい感じなのかな? と思った。

創建時の所在地「吉野梶海渡」という場所は、吉野堀屋敷の近くのようだ。

 

f:id:henrilesidaner:20191202093636j:plain

お寺もちょっと見学したかったのに、子供はお隣の公園がいいとさっさと行ってしまった。

f:id:henrilesidaner:20191202093429j:plain

訳の分からんタコの遊具とかあった。この公園も宝蔵寺館の一部なんだろうか。

 

走って行くあとを追いつつ、頑張って案内柱の内容を写真に収めたよ。

  • 戦国時代に武田氏が作った棒道沿いにあり、軍略上・交通上の要所
  • 真々部に続いて建設された館
  • 武田氏は「もやい堰」という水道を棒道沿いに最短距離で開削し、法蔵寺館と構えの墓屋敷へ導水した
  • 館の規模は109m四方で堀が巡らされていたと考えられる
  • 寺の記録によれば、東西3町(約327m)・南北1町半(約164m)が城郭であったとされる
  • 城主は成相氏と考えられる

 

公園内でも何か残っていないかなー? と思って探した。

f:id:henrilesidaner:20191202093809j:plain

お寺と公園の境に盛り上がりがある。まさか土塁跡なの?

f:id:henrilesidaner:20191202093850j:plain

よく分からないやー。

家帰ってぐぐってみたけど、コレは土塁跡ではなさそう。お城の遺構はお寺の本堂裏に残っていたもののみらしい。

 

この公園、「皇太子殿下御降誕奉祝記念公園」というものらしい。金属の記念柱があった。その柱には豊科町と書かれていた。旧豊科町が公園整備の計画を始めたのが昭和9(1934)年、土地を法蔵寺から購入したのが昭和10(1935)年のようだ。とすると、ここも館跡だったっぽいなー。

記念柱に色んな人の名前が彫られていたから、きっと寄付募ったのかねー? 戦前からある公園のようだけど、遊具は最近設置されたような非常にポップなものだった。

 

 

★★★☆☆

お寺さんにきちんとお参りできなかったことが悔しい、遊具が目立つせいだ

 

 

 

<宝蔵寺館

築城年 不明

築城主 武田氏? 成相氏?

構造 平城

 

構えの墓屋敷

f:id:henrilesidaner:20191202091811j:plain

なんとも不吉な名前のお城跡に行ってきた。

このネーミングは単純に「現在は墓地である」ことからついたものらしい。本当のお名前は分からないのかも? ここの説明書きには、

  • 武田氏支配の時代に、熊倉ー成相新田ー穂高を結ぶ街道の要衝に建てられた「構え」と推定
  • 構えとは敵に構えるという意味、本拠の館から前衛に当たる場所を指す
  • 「構えの墓屋敷」は「宝蔵寺館」を守る前衛と考えられる
  • 東西36m、南北48m、四方に堀が巡らせてあったと思われる
  • 主は成相氏?

熊倉(熊倉の渡し)ー成相新田(ココ?)ー穂高穂高宿)というルートは千国街道のことらしい。上杉謙信武田信玄に塩を送りつけた街道としても有名な道だそうな。

どうやら、江戸時代に入り千国街道を整備した慶長9(1604)年に「成相新田宿」という宿場町を作ったらしい。この成相新田宿は千国街道が二つのルートに分かれる分岐点でもあったらしい。どちらの道を通っても松本城下に行き着く。成相新田が栄えたのは江戸期以降みたいだけど、とにかく昔からの交通の要衝ではあったらしい。

そして、江戸時代以前の千国街道はちょっとルートが違うようだ。ルートは3つある。

  • 熊倉の渡し経由(松本駅から豊科駅へ約5時間)
  • 飯田の渡し経由(松本駅から豊科駅へ約3時間)
  • 長尾前の渡し経由(松本駅から豊科駅へ約4時間)

熊倉の渡し経由では、吉野町屋敷吉野の堀屋敷から構えの墓屋敷

飯田の渡し経由では、飯田砦から構えの墓屋敷

長尾前の渡し経由では、真々部氏館・成相氏館から構えの屋敷

とそれぞれ監視の施設を通るようになっていた。このうち熊倉の渡し・飯田の渡しは松本城下へ進めるが、長尾前の渡し経由では真っ直ぐ松本城へ向かわず、どちらかといえば松本はスルーしちゃう雰囲気。長尾前の渡し経由は少し毛色が違う道なのかなー?

武田信玄が真っ先に宿場を置いたのが長尾前の渡しルートにある真々部という地区らしい。地図で追ってみたら、真々部→塩尻に行ける。塩尻から先は諏訪→韮崎→甲府という道があった。下諏訪からは昔で言う甲州街道なんだそうな。棒道とかいう武田の軍用道路かもしれない、などとも言われているらしい。そりゃ真っ先に真々部を整備するよねえ。

ちなみに一番古い塩の道が熊倉の渡し経由らしい。熊倉の渡し経由では養老坂という山道を通るキツい道。古代では松本に国府が置かれていたそうなので、塩尻には行かず松本に進むのが正解。飯田の渡し経由は山道を通らないようだ。

 

現在この成相新田にはイオン・市役所・警察署・総合病院・郵便局・銀行と信用金庫があり、街の中心地となっていた。成相氏の勢力下にあったからという推定だけなので、実際のところ構えの墓屋敷が成相氏の館なのかも不明。

ネットでぐぐったら、「天正年間に成相氏の一族成相藤兵衛猪之助が松本城主小笠原氏の配下として活躍したころの居館跡か」という記述もあった。これ以上はよく分からず。記述がほぼ「~か?」という推測ばかり。成相氏の記録がないのかもね。そして、墓地じゃ発掘調査だなんてまず無理だろうし。

f:id:henrilesidaner:20191202091903j:plain

とにかく、現在はただの墓地である。

f:id:henrilesidaner:20191202091747j:plain

説明が書かれた柱はあるものの、堀跡も微妙(一応あるらしい)、他は見当たらず。

f:id:henrilesidaner:20191202094639j:plain

↑写真左側の木が生えている辺りが堀跡らしい。

f:id:henrilesidaner:20191202092014j:plain

墓以外で目に入ったものは木の切り株ぐらい。発掘調査も出来なさそう。印だけある。それはまだマシなのか?

f:id:henrilesidaner:20191202091656j:plain

 

★☆☆☆☆

名前のインパクトがすべて。

 

 

 

 <構えの墓屋敷>

築城年 不明

築城主 成相氏?

構造 平城

布制神社

f:id:henrilesidaner:20190328140459j:plain

ちょっと時間が出来、ドライブした。なんとなく山の中に入ってしまい、「山布施」という地名に見覚えがあったので行ってみた。見つけたのが「延喜式内社 郷社 布制神社」という古い神社。

ちなみに見覚えがあった理由がコレ↓

f:id:henrilesidaner:20190328140322j:plain

神社脇の小道から入っていくとあるらしい。500mで辿り着けるらしく、グーグル先生の計測では2~3分で行けそう。

f:id:henrilesidaner:20190328140353j:plain

どうしようかなー? 行っちゃおうかなー? とかなり考えたものの全く準備していないので諦める。まあ、いつでも来られるからな。

 

延喜式神名帳に載っている「布制神社」には3つの論社があるらしく、そのひとつであるという。他は「布制神社(布施五明)」「布制神社(篠ノ井石川)」、布施五明にある「布制神社」が一番デカそうだ。

 

f:id:henrilesidaner:20190328140505j:plain

こちらの布制神社には由緒とかの説明板がなく、とりあえず古そう。ということしか分からず。色んな布制神社があるけれども、それらも全部ひっくるめて布施氏という一族が関わっているらしい。須立ての城も、築城主は「布施頼重」か「布施頼直」か「布施直頼」と、とにかく布施一族の誰かとされている。そして、布制神社は布施一族のご先祖様を祀っているらしい。

布施氏の祖は孝元天皇の第一皇子・大彦命で、この人は北陸方面の平定のため遣わされた皇族将軍であるという。

布制神社についてぐぐってみたところ、

  • 神護景雲2(768)年、高橋朝臣国是之、更級郡の大領に任じられる
  • 下総国結城布制郷の人民を従えて移住した
  • 宝亀8(777)年、布施氏の祖・大彦命を勧請した

という内容がたくさん出てきた。

ところが、布施五明の「布制神社」由緒書きには

  • 大彦命は布施五明海道北山(瀬原田)の長者窪を本拠に、北陸道や北信濃を鎮撫し、当地で薨じられたといわれて云々

と書かれているようだ。

 

高橋朝臣国是之という人は、大彦命の孫にあたり料理の神様でもある磐鹿六鴈の子孫とされるらしい。磐鹿六鴈上総国で鳥を捕まえようとして失敗し、代わりに得られた鰹と蛤で料理を作ったところ天皇陛下にお誉めの言葉をいただき、膳臣の姓を賜り料理番として仕えることとなったという。この膳臣氏が天武天皇の時代に高橋に改姓し、長らく料理を担当する一族となったそうだ。ちなみに御飯担当は阿曇氏という一族もおり、ライバル関係だったそうだ。そういえば阿曇一族も長野に移住していたな。

個人的には布施五明の方の「大彦命は当地で薨去だよ」という話より、「自称、大彦命磐鹿六鴈の子孫の高橋一家入植」という話の方が有り得そうな気がするわ。布施御厨というのがあったらしいし、食材集めで料理人の一族が来てもおかしくないような?

f:id:henrilesidaner:20190328140440j:plain

↑この写真の中の説明板っぽいヤツ、完全に文字が薄れて何も読み取れなかったよ。

 

f:id:henrilesidaner:20190328140600j:plain

拝殿。本殿は神明造らしい。

ぐぐった布制神社(山布施)の由緒には続きがあり、

  • 「信州宝鑑」には、光仁天皇(709~782)の時代に伊勢神宮の分霊を勧請とある
  • 安和2(969)年、佐久の望月氏が移住
  • 望月→布施と氏を改め布施郷の領主に
  • 当神社は以降、神明宮と称する
  • 文化7(1810)年、布制神社と改称

信州宝鑑=信濃宝鑑かしら? 著作権絡みなのかネットで読めなかったが、明治時代発行の神社仏閣ガイドブックだそう。

 

今まで出てきた内容をまとめると、

709年~782年頃、伊勢神宮を勧請

 →宝亀8(777)年、大彦命を勧請(布制神社と呼ばれた?)

  →安和2(969)年以降、領主が変わり神明宮と改称

   →文化7(1810)年、布制神社に改称

という流れなのか。望月氏は別に大彦命の子孫じゃなさそうだしな。

近隣の小松原という地区に、弘化元(1278)年に領主「布施冠者八郎頼直」が再建しましたという棟札が残る小松原伊勢社(布施御厨皇大神宮)があるらしいよ。布施御厨って物凄く範囲が広いのかな?

f:id:henrilesidaner:20190328140515j:plain

f:id:henrilesidaner:20190328140528j:plain

f:id:henrilesidaner:20190328140543j:plain

古い神社にしては、摂社が少なめな気がした。

f:id:henrilesidaner:20190328140646j:plain

f:id:henrilesidaner:20190328140649j:plain

遊具があった。

f:id:henrilesidaner:20190328140512j:plain

f:id:henrilesidaner:20190328140636j:plain

f:id:henrilesidaner:20190328140632j:plain

お参りしたので帰りました。

 

元来た道をばーっと走っていると。

f:id:henrilesidaner:20190328141719j:plain

誰なのか。

どうやら、須立ての城を築城したかも? と言われている人らしい。須立ての城の説明板では、「布施直頼の子・正直は須立ての城から別の場所の上尾城に移り、そこを本拠とした」とあったので、布施直頼戦死した場所なのかなとか色々考えて進んでみたけど。

f:id:henrilesidaner:20190328141726j:plain

説明板の内容がざっくりしすぎて辿り着けず(一応、北へ向かって車を走らせてみたものの、途中で倒木っぽいのがそのまま放置されていた怪しい道になってきたので、引き返してみた。「終焉の地」はその枝が散らばってた道の先にあったと思われる)。

もしかしたら戦死したとかなのか? と思い調べたが、布施直頼は普通に畳の上で亡くなったようだ。では、布施八龍大権現という神社が布施氏の館跡だったりするのかな? 辿り着いてみたかったわ。

この布施直頼さんの死後、布施氏は家督争いで分裂したらしい。上尾城に移った子の正直が平林氏と名乗り、この系統が布施氏を統一し、色々あってこちらを去り、会津→米沢→お家騒動と頑張っていたらしい。

 

 

★★☆☆☆

個人的には、ここは延喜式に載ってた神社じゃ無いと思う

 

 

 

<布制神社>

創建年 不明

須立之城跡
 
ドラッグするとルートを変更できます
ドラッグするとルートを変更でき、クリックすると削除できます
ドラッグすると変更できます
ドラッグすると変更でき、クリックすると削除できます
ドラッグして場所を変更するか、クリックして詳細情報を表示
 
 

長谷寺

f:id:henrilesidaner:20191017101200j:plain

行ってきた↑ 日本三大長谷寺のひとつだそうな。

f:id:henrilesidaner:20191017101151j:plain

物凄く古いお寺さんで、仁王門までの真っ直ぐな参道があって。古そうな杉並木の区間もあり、雰囲気は非常に良かった。仁王門は安永4(1775)年に造られているそうだ。この門の近くに車を置いて、付近を散策するお爺さんも居た。ココだけでも相当雰囲気いいしねー。本来なら仁王門をくぐってゆっくり本堂へ向かうべきなんだろうけど…面倒だから車で上まで行っちゃったよ。

f:id:henrilesidaner:20191017101903j:plain

↑本堂下の階段に来た。

「南無大悲観世音菩薩」と書かれた石柱があるが、このお寺の御本尊は十一面観音。平安時代に造られたとあった。秘仏なので見ることは出来なさそう。

階段を上ると、こんなのがあった↓

f:id:henrilesidaner:20191017102008j:plain

霊場御砂踏場とあった。なんと全国260カ所の観音霊場から小石を持ってきて、この場所に埋めてあるという。踏んでお参りすると、そのまま260カ所の霊場でお参りしたことになってしまう優れもの。

f:id:henrilesidaner:20191017102109j:plain

御砂踏場からまた階段を上っていくと、鐘楼門があった。享和2(1802)年に造営。平成18(2006)年に改修されており、確かに古さをあまり感じない。

f:id:henrilesidaner:20191017102229j:plain

↑こちらは本堂。

 

f:id:henrilesidaner:20191017102312j:plain

観音堂、こちらも平成18(2006)年に改修されており綺麗。元の建物は正徳3(1713)年に再建されたみたい。

 

そもそもこのお寺さんは舒明天皇9(637)年創建と伝わり、なんと善光寺の創建年と伝わる皇極天皇3(644)年より古い。奈良の長谷寺から十一面観音を勧請し、お寺が出来たらしい。ちなみに、奈良の長谷寺は寺伝では朱鳥元(686)年、実際は奈良時代(710~794)の前半に創建と推定されているらしい。勧請先のお寺さんより創建年が古いとか意味不明。

 

創建の経緯として

  • 允恭天皇の子孫で白助という男がいた
  • 彼の祖父の代に信濃に移り住み(流刑?)、以降一族は貧乏暮らし
  • また白助は両親を早くに亡くしている
  • 白助は両親の供養のため、千日間清めの湯を沸かす&卒塔婆を千本造るという誓いを立て、それを達成させた
  • しかし、供養の方法が分からず善光寺に7日間通い祈ると、僧が現れ供養を請け負ってくれた
  • 僧は「奈良の長谷寺に行け、そこで現世と来世の幸福などを祈ってこい」といい、千日沸かし続けた風呂に入ると阿弥陀如来に変化→いい匂いを残して消える
  • 白助は言われた通りに奈良へ行くが、長谷寺がない(まだ出来ていなかった)
  • 仕方なく山の中に入り込むと光を放つ場所があったので、そこに留まり3年間祈りを捧げたりした
  • すると十一面観音が少年を従えて現れる、少年は「この観音様を崇拝すれば願いは叶う、明日山を下りて最初に出会う女を妻にしろ」といって消えた
  • 白助は夢から覚め、すぐ山を下りたところで少年を連れた女と出会う
  • 訳を話して求婚すると、女は二つ返事でOK、そのまま故郷の信濃国更級へ連れ帰る
  • 妻はかなりの美人で性格もよく、土地を治める領主(蘇我氏)が妻の噂を聞き、白助に「勝負に(領主が)勝ったら妻を差し出すように、その代わり白助が勝ったら大金をやる・地位をやる」と持ちかけてきた
  • 二番勝負は白助が2勝、金と地位を手に入れた
  • コレに感謝した白助は両親の供養もあり、十一面観音像を造り、長谷寺を建てた
  • その9年後、妻はいきなり「私は瀧蔵権現である、奈良に帰る、このことは他言無用」と言い左腕を遺して消える
  • 奈良から妻と一緒に連れてきた少年も「私も神様、人に言うな」と言って消えた
  • 白助が造った十一面観音像の左腕が無くなっていたので、妻の左腕をはめたところピッタリだった
  • 白助には5人子供が居り、子はそれぞれ1万石づつ遺産相続した
  • 白助は五万長者と呼ばれた

奈良の長谷寺の十一面観音は創建前にいいことをしていた! というお話らしい。奈良の長谷寺はこの件から100年後に創建、となっていた。また善光寺は存在している設定。奈良の長谷寺の創建縁起については信濃長谷寺は一切関わってこないみたい(日本三長谷の奈良と鎌倉、御本尊が同じ木から出来ていると紹介されていていたが、信濃についてはスルー)。

十一面観音は頭に11つの顔をつけている観音様で、現世利益をもたらすということで奈良時代から人気の観音様なんだそうだ。

 

鐘楼門から観音堂の間は庭園・芝生になっていて、広い。

f:id:henrilesidaner:20191017102423j:plain

さっそくお参りに。

f:id:henrilesidaner:20191017102417j:plain

観音堂から見下ろすと、とても綺麗だった。

f:id:henrilesidaner:20191017103006j:plain

十一面観音というか、観音菩薩観音菩薩は色んな姿に変化するらしく、33種類の姿を持っているらしい。十一面観音はそのひとつで、頭につけている11つの顔のうち一番目立つ正面には阿弥陀如来がついている。基本形は聖観音)は阿弥陀如来善光寺の御本尊)のお付きの菩薩らしく。それでこちらのお寺さんの縁起に善光寺が絡んでいるようだ。阿弥陀如来の脇侍は観音菩薩勢至菩薩で、この二尊の前世は無人島に捨てられた兄弟だったという。ちなみに阿弥陀如来の前世が兄弟の実母で、その関係で阿弥陀如来に従っているらしい。兄弟の父親は生まれ変わって釈迦如来になったとかで、つまり阿弥陀如来と釈迦如来は元夫婦になるようだ。凄い世界ね。

 

観音様にお参りの後は、観音堂の後ろ側にある霊場や長谷神社の方へ行ってみた。

f:id:henrilesidaner:20191017103057j:plain

裏手は急斜面で、なかなか厳しい。

f:id:henrilesidaner:20191017103053j:plain

↑長谷神社(上社)

長谷神社は延喜式内社だそうで、やはり古い神社。

長谷神社下社は長谷寺境内ではなく、麓の集落にあるらしい。また、上社と下社では御祭神が違い、上社は聖大神、下社は健御名方神事代主神だった。上社の八聖大神は「はせのおおかみ」とも読むらしい。この神様は神武天皇と皇后の媛蹈鞴五十鈴媛(事代主神の娘ともされる)の子で、初代科野国造の神八井耳命だという。また、この神様はこの地を治めていた「五万長者」の祖であるという。

寺伝に出てきた白助こと五万長者がこんなところにも出てきた。寺伝とは内容がだいぶ異なるものの。

 

延喜式内社の「長谷神社」とは現在の下社を指すらしい。長谷郷の産土神諏訪大明神だったそうで。上社が統治者の氏神・下社が産土神ということらしい。元は別の神社だったが天保7(1836)年に吉田家から上社・下社あわせて「長谷神社」と称するよう命じられたそうだ。

f:id:henrilesidaner:20191017103331j:plain

↓境内案内図

f:id:henrilesidaner:20191017103754j:plain

全部は回れないなー。この他にも康楽寺の開基の西仏のお墓がある。自分のお寺に墓がないとか何故なのか。西仏が軍師をつとめていた木曽義仲軍が横田河原の戦いの時、長谷寺も戦火に巻き込まれ焼失したと言われている。

f:id:henrilesidaner:20191017103501j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017103610j:plain

あとはこんなものも↑

f:id:henrilesidaner:20191017103634j:plain

30分登ればあるらしい…また今度。

山門の方へ下りていくと、「開基殿」という建物があった。白壁の蔵のような造り。壁は落書きだらけ。

f:id:henrilesidaner:20191017103958j:plain

酷いことするよねーなんて話していたが。

f:id:henrilesidaner:20191017104018j:plain

明治6年だとー? 

 

f:id:henrilesidaner:20191017104125j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104108j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104303j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104407j:plain

↑蛇杉

子供がこの蛇杉の前で太極拳みたいなのを急にやり始めた。何を感じ取ったのだろう、怖い。

f:id:henrilesidaner:20191017104322j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104244j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104716j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104154j:plain

長谷寺を後にした。

 

f:id:henrilesidaner:20191017110631j:plain

近くの古墳も見てきたよ。鶴萩古墳という名前の古墳らしい。

f:id:henrilesidaner:20191017110522j:plain

入り口開いてるから盗掘済みなんだろうねー。この古墳、非常に古墳らしい綺麗な形をしている。

f:id:henrilesidaner:20191017110618j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017110540j:plain

出かけたのは二月下旬だったのに、花が咲いている。春が来るのかー。

f:id:henrilesidaner:20191017110640j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017110650j:plain

いかにもな見事な古墳なので、つい嬉しくなり写真を撮りまくってしまった。

f:id:henrilesidaner:20191017110604j:plain

さすがに、この中に入る勇気はなかった。昔読んでいたマンガで、古墳に閉じ込められその内部に蔓延していた古代ウイルスに感染した双子が超能力で云々というのを思い出しちゃった。アレとにかく登場人物が殺されまくって面白かったんだけど、とりあえず閉じ込められる嫌だしなー。

6世紀後半築造と推定される円墳らしい。古墳時代後期にありがちな横穴式だそうで、この鶴萩古墳は横穴式石室(玄室・羨道)と墳丘がほぼ完全に残っている素晴らしいものみたい。墳丘はこの地方独特のもの(地元の石材と土砂を使っている)、分類としては土砂混合墳というらしい。入り口にもかなり大きな石が積み重なっている様子が見えるが、内部もこんな感じの石で構成され、最奥には一番大きい石(2.3m×2.7m)が置かれているらしい。天井も五枚の巨石が載せられているそうで…絶対古墳って宇宙人が関わっていると思う。地球人が宇宙人に教えてもらった技術で造られていると信じてるわ。とにかくシュメール人は宇宙から来たと頑なに信じています。

 

古墳でウッキウキになったの、私だけだった。満足したので帰った。

 

★★★★☆

古墳が最高だった。

 

 

長谷寺

創建年 舒明天皇9(637)年?

康楽寺

家に物凄く大きな蜘蛛が出て、家族中がパニックに陥った。大きさは30cm近い。生まれて初めてあんなデカい蜘蛛に出くわした。絶対やばい生物(毒持ってる・噛む)だと思ったけど、後で調べたら毒など持っておらず、むしろゴキブリを食べ尽くしてくれる益虫として人気がある蜘蛛だったようだ…駆除してごめんなさい。

f:id:henrilesidaner:20191017111552j:plain

天気が良い日に出かけた。かなり目立つ大きなお寺があり、ちょうど近くまで来たので寄ってみた。康楽寺という寺号らしい。

ぱっと見、地域のお寺さんの雰囲気。けれど、敷地が異様に広い。

f:id:henrilesidaner:20191017111648j:plain

↑山門

f:id:henrilesidaner:20191017111806j:plain

↑本堂

この本堂の屋根が周りの家々より突出して高い。存在感がある。京都の市街地外れの山にある由緒正しいお寺さんみたいな堂々たる感じ。

この寺怪しい。

 

山門に「康楽寺略縁起」という説明板が立っていた。それによると、

  • 開基は木曽大夫房覚明円通院浄寛西仏坊
  • 創立は建暦2(1212)年
  • 開基の西仏坊は海野幸親の子の幸長(通広)
  • 天養元(1144)年海野庄(上田市)生まれ
  • 南都(奈良)で勉学に励み、興福寺勧学院文章博士になる
  • 上手い文章を書く人で有名だった
  • 源平盛衰記吾妻鏡徒然草にも登場した
  • 若い頃は軍師、右筆として木曽義仲に仕えた
  • 義仲滅亡後に出家し、比叡山で修行し親鸞と知り合う
  • 建仁元(1201)年、親鸞と一緒に法然の弟子になった
  • 承元元(1207)年、承元の法難で親鸞と一緒に越後国へ赴く
  • その後、赦免された親鸞と共に布教活動をし始めたが、その途中で法然が入滅した事を知る
  • 地元の海野庄に親鸞一行と行き、同地に庵を結び報恩の経を上げ、この庵を親鸞が「報恩院」と名付けた(建暦2(1212)年、これをもって創建とする)
  • その後、塩崎長谷に寺を移転
  • また弘治年間(1555~1558)に現在地へ移転(移転後も地籍は塩崎長谷)
  • 信越、東国、北陸の真宗布教の中枢となり、江戸期には門徒戸数3600人あまり、信州門跡と尊ばれた

 

つまり浄土真宗草創期からの拠点だったらしい。

f:id:henrilesidaner:20191017112656j:plain

西仏というお坊さんの経歴がやけに激しすぎる。法然の弟子になった年齢も書かれていた、57歳の時だという。なんか元気だね。

木曽義仲は久寿元(1154)年生まれで西仏の10コ下だったみたい。死んだのが寿永3(1184)年で、西仏は41歳になるのかなー? で、16年ほど修行して法然の弟子? 承元の法難の時には63歳。親鸞は34歳だったらしい。34歳の男に同行して越後国へ行き、5年後許されて68歳時点で布教の旅に出る、ということになる。越後国信濃国だけなんだけど、これが事実なら死期を迎えそうだから地元に帰っただけとも取れるわ。

木曽義仲の軍師だった時代にはすでに出家していて(説明板では木曽義仲滅亡後出家とあるが、wikiとか色々見ると覚明は治承4(1180)年以前で仏門に入っているみたい)覚明と名乗っていたらしいけど、何故か子供もいて長野市内にある別の真宗のお寺さんの開基になってるー。承元の法難で僧籍剥奪?→一般人になる→結婚して子をもうける、なのかなー? 説明板通りなら当時63歳だよ、元気だねー。

 

説明板には書いていなかったけれど、西仏=平家物語作者説があるらしい。そもそも木曽義仲軍師の覚明という僧も謎の人物で、出自が分からないらしい。藤原氏菩提寺である興福寺で学んだとあるため、藤原一族の誰かということになっているらしい。

平家物語の作者は「信濃前司行長」なる人物とされ、本命は「藤原行長」になっていた。ただし、この人は信濃守になったことがない。生年月日が分からないけど、藤原行長のパパの人生は大治5(1130)年~文治3(1187)年で、藤原行長海野幸長とは同世代だと思われる。

藤原行長の父親が仕えていた九条兼実という人は、法然に帰依していたらしい。承元の法難でも法然を匿ったりしている。承元の法難の原因は上皇お留守の御所に無断で法然の弟子達がお泊まりし、そこの女官達と戯れてしまい、上皇を怒らせたことらしい。法難=宗教弾圧とのことだけれども。最高権力者の屋敷に入り込んで女達と遊んじゃったせいとか宗教関係ないし。そして実家浄土宗なんだよ、なんかショックだわ。

 

説明板に出てくる「海野幸長」は、平家物語にも本人が出ているらしい。なんか、お父様の海野幸親木曽義仲の侍大将やっており、そのご子息として名前が登場するそうな。海野幸親木曽義仲と一緒に討ち死にしたらしい。海野幸長説は、藤原一族ではないために興福寺で勉強出来ないから違うと否定されている。

浄土宗と平家物語は関係が深いみたい。全体的に浄土思想が色濃く反映されているとかで、それに詳しい人が書いたのではないかと言われているようだ。中学時代の国語の教科書に載っていた「敦盛の最期」は当時どうとも思わなかったのに、最近ETVで内容を見てしまい恥ずかしながら少し泣きそうになったと家族に話したら、肩をぽんと叩かれ「年取ったんだなぁ」と馬鹿にされる悔しい経験をした。その敦盛を討ったおじさんは後年、法然の高弟になっていた。じゃあ、そのおじさんが書いたんじゃないのか(当事者だし浄土思想にも詳しそう)と思ったけど、おじさん(建永2(1207)年死去)は無関係らしい。平家物語は建暦2(1212)年以降に成立したことは確実だそうな。

 

西仏について、ちょっと詳しい解説を見つけた。それによれば、

康楽寺の説明板の海野道広の生年とは多少ズレがあり、この記事だと義仲より年下になってしまった。まぁ有名人のことでも「アレこの人、年上だと思ってたけど年下だった???」と混乱する時があるから、昔の人の生年なんかもっと緩い感じになっちゃってそうよねー。

とりあえず色々と深い寺だった。

 

★★☆☆☆

信州門跡、確かに門跡寺院っぽい雰囲気だったわ。

 

 

<康楽寺>

創建年 建暦2(1212)年

地図にない神社

ちょっと時間が出来たので、以前から行きたかったお店へ出かけた。しかしお店しまってたよ。

f:id:henrilesidaner:20190203132914j:plain

お店の向かいのコレ↑は去年夏から解体作業が始まったらしいが、ゆっくりゆっくり壊しているらしく。まだ時間かかりそうだねえ。この手の廃墟は嫌いじゃないんだけど、お金の話だとか色々考えてしまって暗澹とした気分になるわ。

 

仕方ないのでウロウロしてみると、ひっそりした神社を見つけた。

f:id:henrilesidaner:20190203133052j:plain

グーグルマップにも載っていない。鳥居の社号も分からない。

地域の産土神のようで、しめ縄も綺麗だし植樹したばかりの木などもあって、境内はきちんと手入れされている。

f:id:henrilesidaner:20190203133234j:plain

この間見に行った、山の上の廃神社↓がこちらに移転したのかな?

f:id:henrilesidaner:20190804144420j:plain

などと考えるも狛犬の台座に「国威発揚」なんて書いてあるから、きっと戦中にはここにあったんじゃないかなー?

f:id:henrilesidaner:20190203133223j:plain

狛犬やらはこの年月↑に造られたという気がする。ちなみに神社にはもう一本石柱があったが、そちらは随分と朽ちており彫られた文字は全く見えない状態に。

 

この辺りの昔の名前、上山田村や若宮村の明治時代の地図を見たけど現在地に神社の記載がないようだった。

f:id:henrilesidaner:20190203133312j:plain

祠には読めない漢字で神様の名前が書いてある。天登神なのかなー? 天の次の文字の読み方が想像できない。コレっぽい名前の神様も見つけられなかったよ。

文政11(1828)年に再建なのかな? もう分かんない。

 

f:id:henrilesidaner:20190203133158j:plain

目的は達せられず、神社でモヤモヤしただけの1日だった。

 

 

☆☆☆☆☆

この神社がなんなのか分からない、誰か教えて欲しい

 

 

<????神社>

創建年 不明

御祭神 不明

 

 

 

近くの延喜式内社「波閇科神社」の摂社の水天宮かも?