お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

村松殿屋敷

長野県が発行している「信州の土木カード」の第2弾が先日発行された。ちなみに第1弾(というかプレで作ったっぽい)カードは久米路橋4種だったらしい。こちらの方は食指が動かなかったが。第2弾のカードは眺めていたら欲しくなってしまったという…先行配布イベ行けば良かったと後悔中よ。

 

第2弾、北信・東信・中信・南信の4ブロックに分け、各4枚(4カ所)という構成。さらに各ブロック4枚を集めるとプレミアムカードがもらえるという。

北信:毛無峠

中信:釜トンネル

東信:碓氷峠

南信:大平トンネル

釜トンネルか毛無峠欲しい…。ただ、長野県は広すぎる。最南配布場所は遠山郷、一体どうやって行けばいいのよ? こんなのを自力で集めるのは無理だろ、どう考えても。まぁ大人の力でズルするかもなw

大平トンネルがよく分からなかったんだが、パンフレットに見本載ってた。なんかアレな奴だった。あんなトンネル?あるんだねえ。世界は広い。

 

配布カードで一番欲しいのは「明通トンネル」、ここは簡単に配布場所まで行けそうだから早速もらってきた。

f:id:henrilesidaner:20200722103021j:plain

やったね!

明通トンネルは長野県が誇る心霊スポットとして有名だけど、日本国道で最も古いトンネルとしても有名で、明治23(1890)年開通、昭和32(1957)年改良というトンネルだよー。青木峠自体が不気味だけど、このトンネルも華を添える感じで本当に心地悪いの。

 

f:id:henrilesidaner:20200722101303j:plain

配布場所にはこういうの↑があるので子供にもちょうど良かった。

 

現在地は古代の東山道時代から昭和51(1976)年の三才山トンネル開通まで賑わっていたらしい。麻績や松本から上田に行く人がここで合流するという交通の要衝だったみたい。山を越えれば別所にも行けるようだ。

f:id:henrilesidaner:20200722104228j:plain

お城も「殿の屋敷跡」「村松殿屋敷跡」の表示がある。地図には載ってないけど、岡城もすぐそば。

 

で、村松殿屋敷跡。

目印は「村松の宝篋印塔」とかいう奴で。

f:id:henrilesidaner:20200722121009j:plain

これがソレらしいぞ。

案内板には↓と説明していた。

  • 宝篋印塔は宝篋印陀羅尼の経文を納めた塔
  • 鎌倉時代以降は宗派を超えて建立された
  • 東側の塔には「貞治4(1365)年」の銘がある、西側の塔も同時期の作品か
  • この二つの塔で、大日如来の教えである「慈悲」「真理」を表す

 

宝篋印陀羅尼とは、正式には「一切如来心秘密全身舎利宝筺印陀羅尼経」というらしく、これを写経すれば現世利益があるそうな。この塔は鎌倉時代から作られ始めた様式で、中国の王様の銭弘俶(929~988)が延命を願って立てた塔が起源だという。王様が作るぐらいなので華美。元ネタの中国では宝塔として建てられているが、日本では供養塔や墓碑塔としても建てられたそうだ。五輪塔も同じ用途の塔だが、それに比べると派手なので、貴人用の傾向が強いらしい。

 

東側の塔には碑文もあり、

 奉寄進

 善福寺

 田畠事

 右寄進田地

 者浦野庄内

 村松滕次郎入道

 在家三分二田

 三畝寄進如件

  貞治四年一二月

   沙弥朝阿

と彫られているとのこと。

善福寺という寺に浦野庄の住人・村松滕次郎入道が土地を寄進したという内容だそうな。善福寺はすでに廃されている。

西側の塔は村松滕次郎入道の身内(妻か子)と言われているらしい。

f:id:henrilesidaner:20200722121055j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121059j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121105j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121121j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121125j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121118j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121129j:plain

善福寺がどこにあったのか分からないが、この遺物は移されてきた雰囲気。県宝に指定されているとかで仰々しい。

 

この塔のすぐそばにはお目当ての村松殿屋敷跡の案内板があった。

f:id:henrilesidaner:20200722121028j:plain

小山田茂誠夫人かつ真田信繁の長姉の村松殿のお屋敷跡だってさ。

宝篋印塔のある場所より少し上にあるそうだ。

f:id:henrilesidaner:20200722121251j:plain

↓上らへん。

f:id:henrilesidaner:20200722121255j:plain

旦那さんが武田氏→後北条氏→真田氏(真田昌幸真田信之)と主を代えていったが、舅の真田昌幸の家来になったのは天正18(1590)年の後北条氏が滅んだ後で、同年この村松郷を与えられた(ちなみに結婚したのは天正10年より前の武田氏家臣時代だとか)。旦那さん、きちんと主家が滅んだのを見届けてから別の家に仕官してて、なんか律儀な人だなと思った。

元和8(1622)年、真田家が松代に引っ越したときに、当然だけど付いていったから、ここは破棄されたようだ。30年くらい住んでいたのかなー。

お引っ越ししてから400年。普通の宅地に戻ってしまっているようだ。

f:id:henrilesidaner:20200722121258j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121306j:plain

屋敷跡の上まで登ってきたが。

f:id:henrilesidaner:20200722121421j:plain

藪が深くて下見えなくなっちゃったー。

f:id:henrilesidaner:20200722121426j:plain

藪が無ければ、景色良さそうだよ。

f:id:henrilesidaner:20200722121445j:plain

f:id:henrilesidaner:20200722121447j:plain

峠もあるし、見晴らしが良い屋敷つまり監視小屋、という感じかね。と思ってしまう。松代町に移住後は松代城のすぐ近くに屋敷を構え、次席家老とか要職を代々世襲する重臣になってた。峠監視の仕事?から出世してたわ。

村松殿小山田茂誠夫人を指すみたいなんだけど。この屋敷に住んでいる時分には夫婦で暮らしていたのに。小山田氏館跡と呼ばれないの、ちょっと気になるー。どうやら小山田茂誠家は真田姓を許され一門衆扱いだったらしい(この夫婦の跡取り息子は真田姓を名乗っていた)。むしろ分かりやすく「村松殿屋敷跡」と呼んでいるだけだったのかー。

 

★☆☆☆☆

宝篋印塔の案内板に出てくる村松滕次郎は何者なんだろう?

 

 

村松殿屋敷>

築城年 天正18(1590)年

築城主 小山田茂誠

 

 

 

f:id:henrilesidaner:20200722135426j:plain

帰り道の配布施設で2枚目ゲット。そこではマンホールカードも配ってた(マンホールカードもダムカードも膨大すぎて集めるの、躊躇するよ)。翌日には布引トンネルも手に入れ、もう3枚集まったよw

笹洞城

原畑城と対のお城である笹洞城に行った。

麓に某温泉施設があるので、そこに車置いて荷物を整理していたところ。見ず知らずのおばさんが寄ってきて、

  • 昨日、この場所に気持ち悪い虫が大量に湧いた
  • 多分、土の中からボコボコ出てきたと思う
  • 山のように湧いて、本当に気持ち悪いので施設の人に頼んで消毒してもらった
  • そうしたら、虫の山は一つではなく2個3個といっぱいあった
  • 本当に気持ち悪かったので、今日はどうなっているのか探しに来た
  • 今気持ち悪い虫が居たように見えたが、ちょっと分からなくなった

という内容の話をしてきて、一緒に気持ち悪い虫を探す羽目になった。結局見つからなかったが、非常にテンションが下がってしまい困ったよ。気持ち悪い虫というのは黒い毛虫だか芋虫だからしい。

f:id:henrilesidaner:20200630091208j:plain

施設の隅にいらっしゃった厄除け地蔵に今後の平安を祈った。

 

以前、館の方の原畑城には行ったけど、山の詰めのお城には行かなかった。室賀城とは原畑城と笹洞城を総称した言い方だそうで。これで片参りが解消できるぞー!

 

前回室賀氷上神社の脇から伸びる登山道に赤い旗が立ち並んでいたが。

f:id:henrilesidaner:20200630091346j:plain

だいぶ朽ちているものの、まだ旗は存在していた。

f:id:henrilesidaner:20200630091506j:plain

室賀氷上神社の鳥居をくぐり。

f:id:henrilesidaner:20200630091523j:plain

参道を進まずに横の道を、赤い旗を探して進むよ。

f:id:henrilesidaner:20200630091603j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630091657j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630091723j:plain

登山道の左側は放棄された水田。

f:id:henrilesidaner:20200630091743j:plain

今年だけが休耕田になっているのか、きちんと手入れされている。来年は米作れそうな雰囲気だよ。

f:id:henrilesidaner:20200630091812j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630091859j:plain

初っぱなから倒木出たよ! 道は大丈夫なのかしら?

台風19号の爪痕なのか、ちょっと荒れている?

f:id:henrilesidaner:20200630092003j:plain

この地点だけかな?

f:id:henrilesidaner:20200630092032j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092114j:plain

入り口の倒木だけで、他はなんともないみたい。

f:id:henrilesidaner:20200630092144j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092210j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092244j:plain

綺麗だぞ。

f:id:henrilesidaner:20200630092326j:plain

ふと右を見ると、大きな竪堀があった。

f:id:henrilesidaner:20200630092329j:plain

竪堀と平行して登山道が付けられているみたい。先が見えないほど長いよ。

f:id:henrilesidaner:20200630092336j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092343j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092414j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092418j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092502j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092506j:plain

しばらく竪堀と一緒に登っていたが、突如前方にこんなの↓が現れた。

f:id:henrilesidaner:20200630092614j:plain

虎口?

f:id:henrilesidaner:20200630092700j:plain

少し登ってみてから振り返ると、ちょっとクランクっぽくなっている。この数年前に整備されたという登山道、実は大手道だったりして…?

f:id:henrilesidaner:20200630092704j:plain

この辺りは目印の旗がなく、代わりに虎ロープが案内してくれている。なんという親切さ。

f:id:henrilesidaner:20200630092731j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092743j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092753j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092810j:plain

↑郭っぽい。

f:id:henrilesidaner:20200630092815j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092856j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092921j:plain

郭がまたあった。

f:id:henrilesidaner:20200630092925j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092943j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092943j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630092947j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093005j:plain

段になっている。

f:id:henrilesidaner:20200630093010j:plain

今までは虎ロープ=ガイド役だったけど。

f:id:henrilesidaner:20200630093037j:plain

道が急峻になってきて、虎ロープに手助けして貰わないと登るのキツくなってきた。この虎ロープさ。

f:id:henrilesidaner:20200630093124j:plain

優しいの。ところどころ玉結びしてあって、滑り止めになっているの。

f:id:henrilesidaner:20200630093128j:plain

久しぶりに赤い旗が現れた。

f:id:henrilesidaner:20200630093153j:plain

この先にも郭。

f:id:henrilesidaner:20200630093237j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093239j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093242j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093308j:plain

この先に堀切が。

f:id:henrilesidaner:20200630093335j:plain

なんかよく分かんない!

f:id:henrilesidaner:20200630093343j:plain

堀の先、また急な斜面を登るよ。 

この虎ロープ大丈夫かしら? ちょっと心配。とか考えていたら。

f:id:henrilesidaner:20200630093438j:plain

めっちゃ木の幹に食い込んで、安全だった。

また郭のようだった。

f:id:henrilesidaner:20200630093557j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093608j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093617j:plain

堀切もあったよ。

f:id:henrilesidaner:20200630093643j:plain

更にその先に行く。

f:id:henrilesidaner:20200630093655j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093702j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093727j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093756j:plain

何か見えてきた。

f:id:henrilesidaner:20200630093808j:plain

祠だ。

f:id:henrilesidaner:20200630093833j:plain

祠の上に、すんごい石垣あった。やばい。

f:id:henrilesidaner:20200630093842j:plain

ちなみに祠は空っぽだった。どういう神様がいらっしゃったのか、手がかりもない。麓の室賀氷上神社に摂社がいくつもあったから、もしかしたらそっちに引っ越しているのかも?

祠には10円玉が3枚置いてあった。空っぽとはいえ、勝手に漁るのは気が引けるから手を合わせた後に10円玉を検分した。一番新しいものが平成21年だった。10年前か。その当時は神様がいらっしゃったのだろうか。

祠があるぐらいだから、この辺りが中心部なんだろう。ふと下を見れば。

f:id:henrilesidaner:20200630093942j:plain

↓あの石辺りも、人工的な石積みの雰囲気あるわ。

f:id:henrilesidaner:20200630093932j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630093952j:plain

祠上の石垣の上に、目印の赤い旗。

f:id:henrilesidaner:20200630094005j:plain

本郭に到着したよ!

f:id:henrilesidaner:20200630094007j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094011j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094019j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094022j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094026j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094044j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094048j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094100j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094109j:plain

↑怪しい石の並び方と、堀切。

f:id:henrilesidaner:20200630094116j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094122j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094126j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094130j:plain

気のせいか、3方向見晴らし悪くて。唯一開けていたのが上田市街地方面。

f:id:henrilesidaner:20200630094252j:plain

管理している人も分かっているのか、看板を開けている場所に立てていた。これピカピカしてる。つい最近作ったばっかりのような?

f:id:henrilesidaner:20200630094223j:plain

土塁もある?

f:id:henrilesidaner:20200630094327j:plain

上田市街地から侵入してくる敵が丸見えだな!

坂城方面からも入り込めるけど、主家筋の村上氏領だからかさほど気にしていない様子?

f:id:henrilesidaner:20200630094147j:plain

小さい郭が下にある。

f:id:henrilesidaner:20200630094154j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094154j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094156j:plain

数年前は麓からも見えた赤い旗がボロボロに。

f:id:henrilesidaner:20200630094258j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094331j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094338j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094346j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094440j:plain

帰途についた。

f:id:henrilesidaner:20200630094740j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630094906j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095107j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095147j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095347j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095440j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095447j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095522j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095542j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095546j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095628j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095647j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095709j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095712j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095744j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095747j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095755j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095815j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095820j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095858j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095925j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095931j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095940j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630095958j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100032j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100138j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100156j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100201j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100240j:plain

下界が見えてきた。降りるときはあっという間よね。

f:id:henrilesidaner:20200630100309j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100315j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100323j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100337j:plain

↑この写真の右側はまだ森の中を進むような獣道があり、恐らくそこを通り抜けると原畑城辺りに出るのでは無いかと思う。

f:id:henrilesidaner:20200630092229j:plain

分岐点には↑この標識があり、こいつが指し示す方向とは逆に行けば原畑城に辿り着けると思う(方向的には合っている)。先は藪だったがねー。

 

 

f:id:henrilesidaner:20200630100401j:plain

あまり日が当たらない場所だったせいか、綺麗な状態で残っている幟。マジマジ見れば「2016年大河ドラマ 真田丸」とあり、3,4年前かーもっと前やってたと思ってたわーと驚いた。

f:id:henrilesidaner:20200630100457j:plain

f:id:henrilesidaner:20200630100802j:plain

室賀氷上神社まで戻ってきた。神社にもお参りしたよ。

 

f:id:henrilesidaner:20200630100911j:plain

変な虫の話をいきなり聞かされたせいで、山の中大丈夫かなー? とか思ったけど全然平気だった。

f:id:henrilesidaner:20200630101223j:plain

麓の温泉施設では、菊のお祭り開催中だった。

f:id:henrilesidaner:20200630103328j:plain

中学の時、こんなようなの育てさせられた気がするよ!

f:id:henrilesidaner:20200630103308j:plain

またお前か、と呆れるぐらいこの人↑関連の何かが多いよね、上田って…。

 

 

★★★★☆

良い天気で良かった。

 

 

<笹洞城>

築城年 不明

築城主 室賀氏

 

 

 

室賀峠を越える街道の説明板を見つけた。

  • 室賀の道(室賀峠を越える道)は「善光寺道」と古くから呼ばれた
  • 岩鼻を通るルートに危険を感じる人々により愛用された
  • 下室賀岳之鼻遺跡という遺跡から、平安時代のお寺跡が見つかった
  • 上室賀の熊野神社(室賀氷上神社)で峠越えの無事を祈ってから山道に入る
  • 神社から先の道には道しるべや馬頭観音がたくさん残されている

と書いてあった。

道しるべは2個あるみたいで、ここから善光寺の他、麻績、当郷(青木村当郷)、奈良本(青木村奈良本)という場所に行けるらしい。

 

道しるべ①

左 おみみち

右 ぜんこうじみち

 

左に行くと県道12号にぶち当たり、青木村(突き当たりを左へ)か麻績村(突き当たりを右へ)に行ける。

 

道しるべ②

左 山みち

右 ぜんこうじみち

 

左へ行くと山道(昔、麻績に抜ける近道だったと思われる、大林山を越えて行く険しそうな感じで、多分県道55号にあたりに出るのかな? と思われる)

 

室賀峠を越える道(ぜんこうじみち)は上田市内の分が昭和っぽい道。坂城町に入るとドリフト痕が残る広い道だった。

 

 

 

琵琶島城

f:id:henrilesidaner:20200212123231j:plain

初夏に野尻湖行って遊覧船乗ろうとしたが、↑天気が悪すぎて船欠航。素人目で見ても無理だろうという天気だったので仕方ない。大人しく帰ったよ。

しかしどうしても今年中に行きたく(来年は諏訪湖の新しい遊覧船に乗りたいから)、冬季運休に入る前になんとしても! ということで、ちょうど時間が出来たので行ってみた。

 

我々の日頃の行いが悪いために、この日も天気が怪しい。チケット売り場で「あのー今日船出てます?」と聞いたが「天気が悪いので今のところ出せない、微妙すぎて今後も無理かも?」との返答。とりあえず、次の便(5分後出航予定だった)は駄目だから、次の次の便が出る1時間後に来てくれ。とのこと。しかし、その返答なら1時間後も駄目かもなぁ…また子供が面倒臭い。

トイレなどの用を済ませるため、たまたまチケット売り場付近を10分ほどウロついていたら。「船出られます! 乗る方来て下さい!」と叫ぶ売り子のお姉さんが現れた。おおーっと人が数人チケ売り場に行き、我々も慌てて列に並んだ。

多分、他にも諦めてその場を離れた人達がいただろうと思う。トイレに行って良かったよ。今回乗り合わせることになった人間は全部で7人。

船は200人以上収容出来るデカい船では無く、20人くらい収容の小型船だった。しかも古い感じの。

f:id:henrilesidaner:20200601105636j:plain

↑こんなだよ。

屋根に登っても良いらしい。

f:id:henrilesidaner:20200601103820j:plain

すぐに出航した。

f:id:henrilesidaner:20200601102333j:plain

f:id:henrilesidaner:20200601102710j:plain

船内では野尻湖の案内放送がかかっているけど、どちらかというと乗り合わせた老夫婦がはしゃいでいたことのほうが印象深かった。「船はイイネー」とずーっと言ってた。 

f:id:henrilesidaner:20200601103006j:plain

天気のせいなのか、妙に寂れた雰囲気が良かった。この辺りは外国人も結構多くやってくるらしく、外人向け別荘群があるという。軽井沢が有名になりすぎて「閑かな場所を」ということで探し当てたのがココだったらしい。最初に探した人の故郷・カナダの風景に似ているとか? そういう理由なら、寂れた雰囲気でいいのかも。大学の合宿所も点在しているみたい。意外とレストランも周りにあったしな。もうちょっと天気が良い日なら人出も多いかもしれない。

f:id:henrilesidaner:20200601105404j:plain

f:id:henrilesidaner:20200601103208j:plain

↑屋形船いた

f:id:henrilesidaner:20200601103417j:plain

お目当ての島が見えてきたよ!

f:id:henrilesidaner:20200601103751j:plain

f:id:henrilesidaner:20200601103758j:plain

弁天島というそうだ。

f:id:henrilesidaner:20200601104011j:plain

上陸だよ。

f:id:henrilesidaner:20200601104100j:plain

f:id:henrilesidaner:20200601104116j:plain

↑昔の船着き場はこちらだったようだ。

f:id:henrilesidaner:20200212123142j:plain

↑今はこういう場所に船着き場がある。

 

f:id:henrilesidaner:20200601104132j:plain

宇賀神社。

創建は天平2(730)年、行基御神体を安置したとか言われている古い神社。

f:id:henrilesidaner:20200601104157j:plain

お城跡でもある。野尻城または琵琶島城といい、築城時期は定かではないらしい。

f:id:henrilesidaner:20200601104258j:plain

階段を登ったあとの平地。

f:id:henrilesidaner:20200601104338j:plain

先がおかしい。

f:id:henrilesidaner:20200601104425j:plain

f:id:henrilesidaner:20200601104422j:plain

堀切だった。デカいヤツですぐ分かる。堀切の先は神社の本殿が見えてくる。

f:id:henrilesidaner:20200601104517j:plain

f:id:henrilesidaner:20200601104609j:plain

この辺が主郭ということでしょうか?

f:id:henrilesidaner:20200601104644j:plain

主祭神倉稲魂命なのかな? 「うがのみたまのみこと」と読むそうで、絶対この名前の「うが」から社号を取ってるよね?感あった。弁天島というぐらいだから、弁財天(市杵島姫命)も祀っているし、全部で13柱の神様をお祀りしているそうな。式年大祭が6年ごとにあり、直近だと2016年にあったそうだ。

 

何しろ上陸時間は15分しかなく、後続の船は多分出ないからココに留まれない(後続があれば40分の散策可らしい)。島をくまなく見ることは出来なさそうだ、残念。

パワースポットとして弁天島を売り出しているようなので、実はここにお城あったよ的な看板は一切なかったが。

f:id:henrilesidaner:20200601104750j:plain

宇佐美定行さんという人の墓があった。かわいい名前よね、うさみさんて。

看板には、

  • 長尾政景上杉景勝の父、上杉謙信の義兄)という人の紹介
  • 宇佐美定行という人の悩みというか憂いというか、困り事
  • 上杉家の将来を考えて、宇佐美定行は長尾政景と心中した内容の事件
  • 上杉謙信はこの地で宇佐美定行の菩提を弔った

という感じの話が書いてあった。

南北朝時代にはあったとも言われている。交通の要衝だったそうなので。

戦国時代だと、上杉氏の前線を守る城だったようだ。一応戦いが起こっていたようで、武田氏に取られる→上杉氏が取り返す などとやっていたようだ。

宇賀神社本殿の裏側には段郭もあったようだが、そんな場所に回り込めない。時間に追われている。

f:id:henrilesidaner:20200601104919j:plain

↑土塁

写真も撮る時間ないの。

f:id:henrilesidaner:20200601105434j:plain

船着き場に戻るとすぐ出航しちゃった。

 

 

琵琶島城の他に、野尻新城とか土橋城とかあるらしい。f:id:henrilesidaner:20200212123219j:plain

↑野尻新城はこの山の上なのかな? 

登山道があるという場所の手前にはピザのお店があったよ。

f:id:henrilesidaner:20190615124005j:plain

 

 

★★★☆☆

何故かいつも天気が悪くなってしまう、野尻湖とは相性が悪いのかな

 

 

<琵琶島城>

築城年 不明

築城主 不明

中俣城

先の台風では、まぁまぁ厄介な目に遭った。結果論でいえば、避難指示が出ようとも家にいるのが一番安全だった。が、将来同じ状況に遭ったとしても、家にいるという選択肢はないと思う…かといって、冷静に考えれば絶対確実な避難先なんてない。近くの避難所数カ所はどこか壊されたし、山のそばも川のそばも危険。だいたい自分の命だけ助かっても家も車もない状態になったら、生き続けないかも。なら、平時のうちに死んどいた方がいいのか、いっそ生まれてこない方が一番安全なのかもしれない、という気がする。とはいえ、あんなに間近でチヌーク飛んでいるの初めて見たから、やっぱりちょっと嬉しかった(第4通信大隊と書いたトラックも数台見かけた、遠い福岡から有り難いことだ)。

ちなみに決壊箇所はココで、リンク先の画像はもう…。お空きれい状態だよ。

 

f:id:henrilesidaner:20191017104033j:plain

中俣城に行ってみた。

ここは住宅地で、お城の雰囲気0だった。

f:id:henrilesidaner:20191017104221j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104027j:plain

名残として、看板があるだけ。その内容は

  • 朝日将軍・木曽義仲(1154~1184)が生きた時代、築城されたと伝わる
  • 応永31(1424)年に井上氏が築城した平城(天守閣や石垣はない)
  • 砦として使われており、代々井上氏が住んでいた
  • 現在、この場所には城山稲荷明神社が鎮座している
  • ここは本丸の辰巳(南東)の位置にあたる
  • 築城主の井上氏をはじめ、応永年間(1394~1428)の井上左馬之助光頼の舎弟・遠江守、弘治永禄年間(1555~1570)の武田氏家臣・保科氏、井上氏、栗田氏など、天正年間(1573~1592)の織田氏家臣・森長可の舎弟・森忠政、上杉氏家臣の本多安房守等が崇拝していた
  • 上杉氏の会津移封に伴い、廃城
  • しかし霊験あらたかだったため、お参りにくる者が絶えない
  • 大正13(1924)年、社殿再建
  • 昭和5(1930)年、社殿再々建

 

築城時期が

木曽義仲が生きていた頃

②応永31年

の2つ書かれている。二つの時期は250年程の開きがある。城主だった井上氏は木曽義仲方として源平の合戦に参加しているので、①井上氏が木曽義仲と共に戦う為に簡単な砦を用意した→②大塔合戦後の混乱で砦を改めて整備した、というのもあるかもしれない。

 

資料によると、お城の規模と郭の位置関係は以下の通り。

主郭 東西32間ほど(約58m)、南北33間ほど(約60m)

二の郭 主郭の東

    東西27間ほど(約50m)、南北55間ほど(約100m)

三の郭 北西

    東西38間ほど(約70m)、南北33間ほど(約60m)

 

主郭の周りの堀は既に埋め立てられている。主郭は周囲より30センチほど高いままを維持しているので見つけやすいとのこと。

中俣氏という氏族も存在しており、この一族は応永7(1400)年の大塔合戦に井上光頼とその弟・遠江守(名前は伝わらない)に従い出陣しているとも言われている。

 

記述からすると城山稲荷明神はお城の守護神だったようだ。

f:id:henrilesidaner:20191017104040j:plain

本丸内なんだろうけど、目の前の道路と高さが変わらない。強いて言えば↓

f:id:henrilesidaner:20191017104143j:plain

稲荷社のお隣の家の方が、地面が高い?

f:id:henrilesidaner:20191017104214j:plain

 

歴代の城主もさりげなく書かれており、

井上氏

 →武田氏統治時代は保科氏・井上氏・栗田氏

  →織田氏統治時代は森長可の弟・忠政(後に松代藩主として戻ってくる)

   →上杉氏統治時代は本多政重(この人は徳川家康重臣本多正信という人の息子さんで、直江兼続の養嗣子だったために上杉家の家臣と書かれているみたい)

    →廃城(井上氏も会津へ)

という歴史を歩んでいるらしい。

 

f:id:henrilesidaner:20191017104129j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104124j:plain

f:id:henrilesidaner:20191017104120j:plain

 

 

★☆☆☆☆

何もないよー。

 

 

<中俣城>

築城年 応永31(1424)年?

築城主 井上氏

 

 

中條宮(中條埴志那神社)が元あった場所を探した。

f:id:henrilesidaner:20190925054418j:plain

現在の中條埴志那神社の場所に昔、寺尾氏の館があった。江戸時代に入る前後で館は廃止されて、今の神社がお引っ越ししてきたのだろうと思う。

信濃国埴科郡檞原庄中条宮弁財天由来記】にはやけに具体的な地名・人名が登場したことが非常に気になり。これもしかして場所特定できるんじゃね? と色々考えてしまった。

 

文書中では中條の地は7~8町ほどの藪だとあった。中條のヒントとして「小鮒沢・鰐沢という二つの川に挟まれる」があった。鰐沢はぐぐったところ、「関屋川」と呼ばれた川が昔は鰐沢という名前だったようだ。

現在の関屋川↓

f:id:henrilesidaner:20200515104724j:plain

川筋を付け替えて流れを変えられてしまった。今は一部残された(松代町内の泉水路の維持の為らしい)ものの、川としては死んでしまっている。上流の方で藤沢川という川と合流させられてしまった。グーグルマップを航空写真で眺めたところ、皆神山の麓にある某日帰り温泉施設の辺りで流路が切り替えられていた。関屋川(鰐沢)跡地は現在は道を作っている。

f:id:henrilesidaner:20200515104740j:plain

道は途中で、工事はまだまだ何年もかかるらしい。松代という場所は湿地帯だか沼地だかで、とにかく地盤が緩いそうだ。特にこの道の先は水が溜まりやすい場所だとかで中々進めることが出来ないとか聞いた。

道筋=本来の関屋川の川筋。関屋川がどこへ向かっていたのかというと。

f:id:henrilesidaner:20190818120008j:plain

中條埴志那神社付近である。この辺りが蛭川との合流地点だったようだ。地区によっては関屋川を蛭川とも呼ぶそうだが、基本は藤沢川と関屋川が合流してから蛭川と名前を変えるらしい。

f:id:henrilesidaner:20200515104827j:plain

関屋川跡地にはお移りになったばかり? の石碑達が。

f:id:henrilesidaner:20200515104804j:plain

養蚕の神様。

f:id:henrilesidaner:20200515104810j:plain

道祖神

f:id:henrilesidaner:20200515104823j:plain

????

↑この石碑の裏は「文化7年3月」という文字に寄進者らしき人々の苗字が彫られていた。何の石碑なのやら? 文化7年=1810年。

 

もう一つの川「小鮒沢」はわりと簡単に見つかった。現在も小鮒川という名前だったからだ。

f:id:henrilesidaner:20200515111818j:plain

↑小鮒川

これも「関屋川」とも呼んでいたらしい。

f:id:henrilesidaner:20200515113617j:plain

このしょぼい川に材木流すとか大変そう。

f:id:henrilesidaner:20200515111620j:plain

この辺りで電話の実験をしていたらしいよ!

f:id:henrilesidaner:20200515113559j:plain

この小鮒川もたまに悪さをしたらしく、何十年か前に荒ぶったとかで治水対策され、現在は暗渠となってしまった。しかも、地下に大きな排水溝みたいなのを埋め込んでおり、鉄砲水とか出ても地上の家々を壊さない仕組みがあるそうだ。東京・渋谷の地下貯留槽や放水路みたいなのが埋まってるのかねー?(当然、松代町の方がずっと規模が小さいだろうが)。

f:id:henrilesidaner:20200515111835j:plain

現在地↑から小鮒川を追いかけてみた。

f:id:henrilesidaner:20200515111856j:plain

f:id:henrilesidaner:20200515112109j:plain

f:id:henrilesidaner:20200515112115j:plain

↑この辺りから、小鮒川は道を離れて、家と家の間を縫うように進んでいくらしい。追いかけられなかったよ。グーグルマップでそれらしい川筋を追いかけていくと、長野IC辺りで蛭川と合流しているみたい。蛭川はその先で千曲川にぶつかる。

 

なので、「中條」という場所は松代町の東エリアだと思われる。

f:id:henrilesidaner:20190921223144j:plain

左の青線:小鮒沢 右の青線:鰐沢

江戸時代以前のものはなさそうだったが、古い地図はこんな感じだった↑

(実は伊勢社もあったけど、祭神からしてあり得ないので描いていない)

梅観音は神社というよりこの当時から史跡の扱いをされていたらしく、神社の記号すら描かれていなかった。

地図を眺めていて、その間にある神社を探す。怪しいのがいたよ、祝神社だ。

 

f:id:henrilesidaner:20190921223142j:plain

祝神社は慶長3(1598)年、海津城の二の丸に祀られていた健御名方神・八坂斗売神の2神と、松代町東条の古い神社(創建年不明、祝神社であるということになっているが、式内社の「祝神社」は現在の須須岐水神社であるともされ、いつもよく分からなくなってくる)から生魂命を勧請し、創建。現在地に祝神社?の里宮があったとも言われる。当初は諏訪大明神と呼んでいた(今もお諏訪さんと呼ばれている)が、宝暦元(1751)年に祝神社と改称。

中条宮弁財天由来記は慶長4(1598)年に作成されている。祝神社の創建と関係あるのかしら?

 

祝神社はこんな感じだった↓

f:id:henrilesidaner:20200515105714j:plain

左:諏訪社(本殿) 右:宗形社(弁財天)

中条宮弁財天由来記の御祭神と一緒である。一緒に祀られている神様も多々いらっしゃるが、池の中に造営されているのはこれだけ。あと、主祭神のはずの生魂命がいなくなっている。どこ行った!?

f:id:henrilesidaner:20200515105630j:plain

f:id:henrilesidaner:20200515110731j:plain

諏訪の神様と弁天様は池の中にあり、他のお社は境内に散らばっている。

拝殿は文化9~12(1812~1815)年に再建されており、弁天社の覆屋は比較的新しいものらしい。

弁天社だけが何故池の中にあるのか聞いたが、さぁ?と返されてしまい、色々探したけど理由は分からなかった。弁天様は水の神様だから?

この池は錦鯉も泳ぐ立派なものだった。

f:id:henrilesidaner:20200515105950j:plain

f:id:henrilesidaner:20200515105824j:plain

本殿と宗形社の並び的に、弁天様はこの神社でかなり重要な地位の神様じゃないかと思うのだが…境内の案内看板でもサラッと紹介されているだけで、何か残念よ。

この神社が出来た当時は例の文書の内容も偉い人みんな知っていただろうし、霊験豊かな神様を城下に招いて(この場所に元からいたかもだけど)守護神になってもらいたいよねえ?

 

地図上の、諏訪大明神と同じ敷地内の「練光寺」というお寺さんは慶長13(1608)年、祝神社の別当寺(神社に付属して建てられた寺院)となり松代町東条より移築された。

元は蓮光寺という名前で平安時代からあったらしく、

海津城を築いた武田信玄がお城の守護祈願寺として保護

 →慶長13(1598)年移築、このときお寺の名前を練光寺に変える

  →明治24(1891)年火事で焼失(廃寺)

   →蓮光寺跡地に建てられた等覚院が練光寺の色々を継ぎ、等覚院から東光寺に改名

    →現在

という流れらしい。

東光寺は蓮光寺~練光寺時代の文書や仏像を受け継いでおり、中には長野市の指定文化財になっているものもある。そして、このお寺さんには「中条宮 弁財天坐像」という仏像が伝わっている。

この仏像は文化財の指定を受けていないものの、大変古いものらしい。室町時代に遡る佳品で、東光寺への伝来は不明と紹介されていた。底には上田別所などと書かれているそうな。

ちょっと! 名前がまんまじゃないの。

ますます、祝神社が文書のありがたい弁財天様がいらっしゃる(いらっしゃった?)神社じゃないかと疑惑を深めたが。

 

残念なことに、古地図上にいた。

f:id:henrilesidaner:20190921223139j:plain

2つの川の間といえば、間よね…。

↑このあたりが 「中條 諏訪大明神」と地図上に描かれていた場所で、今は何も無かった。お墓があった(中には神道式のようなお墓も)が、そのお墓は文書を書いた宮司?と同じ苗字が彫られていた。

 

地蔵峠に向かう旧道っぽい。

f:id:henrilesidaner:20200515145433j:plain

f:id:henrilesidaner:20200515145427j:plain

ちなみに、文中で弁財天が現れたという「多田山」がよく分からなかったのだが、松代町には多田越えという場所があり、現在の象山配水池あたりを言うらしい。離山か象山を「多田山」と呼んでいたのだろうか。ちょっと探せなかったわ。象山には清野氏配下の西条氏のお城がある。

 

やっぱり個人的には中條宮=祝神社だと思うわ。誰か教えて下さい。

 

 

<祝神社>

創建年 慶長3(1598)年

御祭神 生魂命

    健御名方神

    八坂斗売神

寺尾氏館?(中條埴志那神社)

ここのところ全く、山の中をうろつけない。里山の獣道を辿り、尾根沿いの景色の良い開けた場所まで登って、遠くの方から聞こえてくる車とかの音を聞きながら、私は独りぼっち。としんみりしたい。常に誰かいる環境、人間がギャーギャー騒いでいる生活していると苛々する。ぼっち生活に戻りたくて仕方ないわ。

 f:id:henrilesidaner:20190818115825j:plain

以前登った寺尾城の主・寺尾氏の館跡をスルーしちゃったので、行ってみた。中條埴志那神社という神社の辺りがそうらしい。寺尾氏館というのか寺尾屋敷というのか、館をどういう名称で呼んでいたか知らないが、館の名残として「屋敷」「北堀」「金堀」という地名で残っているとのこと。

f:id:henrilesidaner:20190818115811j:plain

実際、寺尾氏なんてマイナーな豪族の館跡(城跡なら趣味の人もいるだろうけど)に関心を持ちにくいと思う。なので、寺尾城跡には案内看板もあったのに、館跡付近には一切ない。

 

中條埴志那神社に関しても、特に由緒や御祭神について書かれた看板もなく。家でぐぐったりしてみたけど、どんな神様をお祀りしているのかさっぱり。

ただ、「続群書類従」という江戸時代の国学者塙保己一という人が企画(途中で本人が亡くなったため、弟子達が志を継ぎ刊行)した古文書の資料集みたいな奴に、

信濃国埴科郡檞原庄中条宮弁財天由来記】中条埴志那神社の末社弁財天社の由来書

というものが収録されているようだ。

群書類従塙保己一が集めた古文書を元に編纂、41年かけて世に送り出した666冊のシリーズ本。続群書類従は続と銘打っていながら、群書類従の倍ほどあるボリュームだった。この続編は1885冊。塙保己一の生きている間には版木が出来上がらず、明治35(1902)年からやっと出版され、完結したのは昭和47(1972)年。wikiの記述だと、色々あって大変だったらしいよ! シリーズの続きとして「続々群書類従(1969~1978)」「群書解題(1960~1988)」がある。

国立国会図書館のデータベースに続群書類従の写本が公開されていた(しかし該当の記事が載っている巻は収蔵されていないようだ)。塙保己一は和学講談所という学問所を設立しており、彼の死後も学問所は存続、明治元(1868)年まで75年間続いたというので、その学問所で学んだ人達が写本を作り、事業を受け継いでいったんだろうなー。合計で何冊あるのか知らんが、手書きで全部写すとか…うわああああああってなりそう。

 

続群書類従自体がマニアックなので大きめの図書館にしかなさそう。だがラッキーなことに、出先の近くの図書館に収蔵されているのを発見し、コピってきたよ。平日昼間の図書館はお爺さんばかりだった。

家に帰って内容を読んだよ。ちょっとした伝奇物語だった。

 

信濃国埴科郡檞原庄中條宮弁財天由来記

  • 信濃国川中島海津の南、中條宮弁財天女の勧請由来を申し上げる。
  • 寛正(1461~1466)文明(1469~1486)の頃より、信濃国押領使(治安維持のお仕事)のお役目だった大豪族から小豪族まで、それぞれ好き勝手やっており国中が乱れていた。
  • そんな中、千曲川の東にある寺尾郷の領主「寺尾前豊後守業升」は神仏を敬い善政を施し立派に領土を守っていた。彼は智力と武勇に優れた人格者であった。その家来に坂井、田中、富岡という武芸に優れた者達がおり、寺尾氏に忠義を尽くしていた。領内は豊かで人々の暮らしぶりも良かったので、遠国から商人などが多く訪れた。近隣の領主達とも親しく交流し、争い事はなかった。
  • しかし、鞍骨山の城主「清野氏」とは以前から諍いがあり、ちょっとしたことでも戦いに発展した。寺尾氏の家来達はこれを嫌がった。特に富岡は神仏を敬い民を大事にする者だったので、清野氏との諍いを深く嘆いていた。寺尾郷の産土神である諏訪大明神に参拝し、清野氏との抗争が終わり平和になるよう祈願していた。
  • ある夜、富岡はお告げの夢を見た。白髪の老人が「あなたもあなたの主も、至誠心(神を信じる真心)があり、領地の治め方も民への接し方にも真心があることは神様もご存じである」「これより南に行くと、2つの川がある。西の方は小鮒沢、東の方は鰐沢という名前で、その二つの川に挟まれた中條という場所がある。ここに茅屋(あばら家)があり、1人の女性と大勢の童子が居る。彼女に戦の吉凶を問うてみなさい、勝利をたちどころに得よう」と言う
  • 主君の寺尾氏と同輩の坂井・田中両名と相談し、お告げの通り中條に行ってみた。7~8町(約764m~約873m)の距離をうろついてみたが、肝心の茅屋が見つからない。とりわけ大きな木があったのでよく見れば、藤や葛の陰に神殿の柱のようなものが見えた。梁などが朽ちかけ、薄や萩が屋根代わりに上に載っていた。これこそお告げの夢に出てきた茅屋だろうと思い、一心に祈った。
  • 城主の武威が更に増しますように、領地内がますます繁栄しますように、敵が退散しますように、この願いが叶いますように、とにかく祈る。
  • そして赤塚山(寺尾城山)に戻り、数百の兵を出し清野氏を攻めた。清野氏も、笠井、近藤、倉島といった老練の兵から若い勇士を集めて防戦をした。
  • 数日後、敵味方の境にあった多田山の嶺に1人の女性が現れた。女性は空の彼方からたくさんの童子と共にやってきて、清野軍と対峙した。そして、清野軍に対し雨のように石つぶてを降らせた。この石の雨により清野軍は総崩れとなり、詰めの城に立て籠もってしまった。
  • 女神と童子達は中條の森に降り立ち、「宗像宮弁財天女と15の童子を祀り、城主の寺尾氏を始め、富岡、田中、坂井その他の兵士に至るまで我々を深く信奉しろ。神は人の信心が深ければ霊威を増し、人は神の加護により輝き運命を好転させるのだ」と告げた。
  • 後に清野氏と和睦し、人質を取り交わし昔の確執を忘れて今の平和を誓い、親しく付き合うことになった。
  • 富岡は老齢に達し、家督を子供に譲った。思うところがあって中條に社を建立し、諏訪大明神と田心比女を勧請した。修行し、この社で神に仕えることにした。田心比女は天孫降臨の太古より地上にいた33の神様の1柱で水の神様でもある。
  • とにかく信奉すべきは慈悲深い弁財天女だ。この天宮を信仰することで「武運長久」「七福即生七難即滅(7つの幸福がやってきて7つの不幸が消えてなくなる)」といった神のご加護が得られる。
  • 諏訪大明神は当国(信濃国)の一の宮であり、昔から寺尾郷の産土神でもあるため主祭神とした。弁天天女と諏訪大明神が不可思議な霊力で人々を守る。不思議で奇妙な由来でした。
  • 慶長4年 辛丑 閏月 乙丑の日 中條宮 富岡駿河

 

神主の富岡さん、さりげなく自分の出自や神主になった経緯も書いていた。これが誰に当てた文書なのかまでは分からない。単に子孫に中條宮についての覚え書きを伝えたかったのかもしれない。

 

この物語で分かったことが、

  • 健御名方神諏訪大明神)と弁財天を祀っている
  • 寛正(1461~1466)文明(1469~1486)ぐらいで建立されている
  • 寺尾氏の家臣だった富岡氏が代々神主を世襲している(ようだ)

ということ。

寺尾氏は諏訪氏の一族だそうで、最終的には上杉氏に帰属して慶長3(1598)年に信濃から会津に引っ越したようだ。清野氏(信濃源氏村上氏の支流)と争ったと語られていたが、当の清野氏と一緒に早い段階で武田氏に仕えたり、武田滅亡後は両家とも上杉氏に帰属して、仲良く会津に引っ越していった。

ちなみに清野氏の詰めの城である鞍骨城の築城年代は不明となっているが、この文書によれば1400年代後半には存在していたことになる。永正年間(1504~1521)に清野勝照が築城と書いてあるものもあったけど。もしかしたらそれより古いのかも?

あと、文書では弁財天女=田心比女(タキリビメ宗像三女神の一柱)のようだが、本地垂迹ではイチキシマヒメ宗像三女神の一柱)が弁財天になっている。これはちょっと間違えて勧請してしまった感があるわ。

 

f:id:henrilesidaner:20190818120004j:plain

その弁天社というのがこれ↑なのかしら?

末社らしいが、それっぽいのがコレのみなのよね。お社のお隣の石碑は道祖神。あの文書の霊験あらたかな神がこれとは…。

祠がやけに高い台座の上にあるのは、このすぐそばに川があるからだ。

f:id:henrilesidaner:20190818120010j:plain

この神社に限らず、松代町内にある祠の台座はヒステリックな感じを受けるほど高い。

 

寺尾氏が館を構える場所として、目の前は川・背後は山(詰めの城)という理想的な立地条件。安土桃山時代までここに屋敷があったはずなので、「中條埴志那神社」がここお移りとなったのは江戸時代に入ってからかなー?

文書では中條の地は7~8町ほどの藪だとあったが、現在でいうとどの辺りなんだろう? 中條のヒントとして「小鮒沢・鰐沢という二つの川に挟まれる」があったけど、この二つの川は松代町西条にあるようだ。

f:id:henrilesidaner:20190818115903j:plain

額の揮毫は真田家12代の真田幸治さん。重要な神社なのかもしれない。

 

f:id:henrilesidaner:20190818114825j:plain

寺尾城の周りには、他にも祠があった。なんの祠なのかは知らないよ。

f:id:henrilesidaner:20190818115209j:plain

↑グーグルマップに「供養塔」とあったので、探したらコレだった。

川中島合戦の戦死者を弔う供養塔らしい。しかそも、何故か道しるべでもある。

右 川田駅道 中 柴弥陀道 左 善光寺

と書いてある。

川田駅道というのが、あの鳥打峠に向かう道だ。

f:id:henrilesidaner:20190818115227j:plain

先日鳥坂峠に行ったときの案内看板に「鳥は死者の魂を云々」と書いてあった。鳥=死者の魂を打つという不吉な名前。鳥打峠は慶長16(1611)年に海津城代の花井吉成という人が開いたと伝えられる。それ以前は可候峠という峠道を使っていたが、この峠は曲がりくねっている難所だったらしい。鳥打峠が出来たらこちらが主要道となってしまい、可候峠は廃道化。

鳥打峠の途中には慶長7(1602)年に600人を磔にしたという記録が残っている中世からの処刑場がある。その処刑場に関連して、鳥打峠なんて名前を付けたのだろうかね?

 

ついでだから鳥打峠辺りまで行ってみた。上の写真の雰囲気みたいな、陰鬱な峠道から急に砂利道だけど広い道路に変わる箇所がある。砂利道は途中で終わるし処刑場付近まで行けないよ、とグーグルマップは語ったが。航空写真にすると行き止まりはなく、どこまでも続いている様子。

これは行くしか無いか!? と砂利道を走らせようとしたところ。作業服姿のおじさんが駆る軽自動車がやってきて、不審そうにこちらをチラ見し、砂利道の奥へ消えていった。盆休みでも仕事してるのか…。奥は採石場があるらしい。怖い物見たさでいつか行ってみたいな処刑場。

 

 

★★★★☆

神社としては広い、由来記が面白くて満足した

 

 

<寺尾氏館>

築城年 不明

築城主 寺尾氏

鳥坂峠~小田原神社~桑原宿

f:id:henrilesidaner:20190814135335j:plain

気の向くままに車を走らせていたところ、史跡っぽい看板を見つけた。

f:id:henrilesidaner:20190814135320j:plain

鳥坂峠という古い峠道があるらしい。やはり夏は峠よね! ということでちょっと走ってみようということになった。

  • 標高差130mを約800mで登る塩崎の峠道
  • 天保3(1832)年の犀川通船開始で松本や西山(信州新町など)からの物資集積地として栄えた稲荷山宿への古道
  • 新町新道竣工による新鳥坂峠は昭和前期の交通の重要路線(鳥坂峠旧道がどこかにあるというの?)

  • ↑看板のある場所(左奥へ進む道が鳥坂峠旧道?と思うような位置関係、地図上の鳥坂峠はこの看板をすぎてから、県道の看板に従い左折し細い道に入るという分かりづらさ)
  • 鳥坂峠(とっさかみち)は千曲川流域・善光寺平と西山地方・安曇野やその先の日本海沿岸地方との交易の道として重要視された峠道
  • 神坂(神坂峠、信濃国美濃国を結ぶ、大宝2(702)年開通の古道)と同じように「峠」を付けずに鳥坂(とっさか)と呼ぶ(古代においては坂=峠なので「峠」はいらない)
  • 鳥坂は雁沢(山沢)という川に沿って登る
  • 沢の下流には鳥坂・鶴前・鶴萩など、鳥に関わる地名が残り、古来「鳥は死者の魂を運ぶ」と言うが、鳥坂の峠道付近には古墳が残り、多くの石仏が安置されている
  • 犀川通船(松本~信州新町、約60km)を利用した物資を信州新町から稲荷山宿まで運ぶ道として、稲荷山宿発展を支えた
  • 大正5(1916)年の鳥坂里道開通により、新町街道(県道70号線)への枢要道路となる
  • おかげで塩崎村が豊かになっていった

 

鳥坂峠は県道395号線にあり、新町街道(県道70号線)をショートカットするようなルートとなっている。どうやら県道70号線のうち、塩崎~篠ノ井石川の部分は鳥坂峠の道より後に出来たようだ(見つけた戦前だか戦中の地図には、上記の道がなかった)。信更町赤田から分岐して、善光寺方面・稲荷山町方面(鳥坂峠)と別れたところを、戦後になり塩崎~篠ノ井石川を付け足した感じだった。当然ながら、鳥坂峠を経由しない道の方が立派。

塩崎村の明治初期という古地図も見つけたので眺めたけど、鳥坂峠説明板の左へ向かう道はやっぱり怪しい…。明治初期の峠越えの道は中郷神社(諏訪社)の近く通ってなかったしな。相当昔からある(らしい)峠道、気になるわー。

説明板にも書いてあった「鳥は死者の魂を運ぶ」というの、墓地だったということなの? 京都の鳥辺野を思い出したわ。鳥葬でもやってたんか? 鶴萩古墳は見に行ったが、鶴前という場所は発掘している現場を何度か見かけた。古墳はなかったはず(中世の館が見つかったらしいが)。鳥坂だけは御遺体を捨てていた場所かもしれないけど。皆が使う道で死体ごろごろしているなんてイヤだなぁ。

そして「鳥坂は非常に古くからある峠道」というニュアンスを受ける書き方。あの案内板回りくどい言い方して、察してちゃんっぽい、気に入らない。

f:id:henrilesidaner:20190814135616j:plain

雰囲気は林道よ。

f:id:henrilesidaner:20190814135819j:plain

こんなカーブよ。昔の道よねぇ 。

f:id:henrilesidaner:20190814140005j:plain

素朴な峠過ぎて、あっという間に着いた。車の中で垂れ流していた音楽、1曲終わらないうちに着いたよ。車でも数分程度で走り抜けられるんだから、大正時代でもとても重宝されただろうな。

 

 

★★☆☆☆

だが、現代の自動車では物足りない気分。

 

 

鳥坂峠

昔からある?

 

 

 

 

 

これじゃつまらなすぎて、家に帰れない。そのまま適当に車を走らせた。信更町の点在する集落を見て回るようなルートに。思ったより田畑があり、休耕田は少なかった。

f:id:henrilesidaner:20190814142357j:plain

どこをどう走ったのか、かっこいい神社を見つける。

小田原神社というらしい。オダワラではなくコダワラと読むらしい。ここは一応長野市だが、隣の地区は千曲市大田原という名前で。その場所と何かしらの関係あるんだろうな、というところ。

f:id:henrilesidaner:20190814142434j:plain

この神社の御祭神は健御名方神、これ以上のことは分からなかった。創建年代も不明となっていた。こんな、映画で出てきそうな神社を見かけたのは久しぶりだった。

f:id:henrilesidaner:20190814142744j:plain

↑こんな感じの道を走ると、大田原地区に出た。

自治体が変わったせいなのか、急に道路状況が良くなった。それまでの道も悪いわけじゃないんだけど、急にオーバースペック感のある立派な道になったのよ。

大田原地区にも神社があった。「田原神社」といい、木花咲耶姫命を祀っているようだ。小田原神社とは系統が異なる神様だなー。田原神社も古いのか、創建年不詳となっていた。普通の集落のよくある郷社という見かけで、小田原神社見た後ではイマイチだなと思ってしまった。小田原神社よりずっと大きかったんだけどね…小田原神社の佇まいが尋常じゃ無いわ。

f:id:henrilesidaner:20190814143247j:plain

今まで昭和な道路を走ってきたけど、いきなり平成な雰囲気になったわ(そういえば、私まだ令和感のある道路に出会ったことがない)。

大田原地区を抜けてこんなところにも!? ループ橋まであった。

f:id:henrilesidaner:20190814143804j:plain

さらに下ると、今度は高速道路が交差する。近くまで行ける、車がビュンビュン行くよ。楽しいねー!

 

この道路の終点は旧桑原宿だった。山に近い田舎だからか、土塀で取り囲まれた立派なお屋敷がいっぱいあったよ!

 

 

★★★★★

途中の小田原神社、ホント良かった。