お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

布施氏館

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篠ノ井駅近くの普通の住宅地にある神社。鼻顔稲荷といい、佐久市にある鼻顔稲荷神社の御分霊を祀っている、とあった。

f:id:henrilesidaner:20160531134642j:plain ←鼻顔稲荷(佐久市

日本五大稲荷のひとつといわれ、創建は永禄年間(1558年~1569年)、商売繁盛を願う望月源八たちにより勧請された。伏見稲荷から勧請されたそうな。社殿は懸崖造り。文字通り、崖に社殿を懸けるというものだが、なぜかこの懸崖造りの寺社が長野県内で妙に多いらしい。理由は謎のまま。懸崖造りで最も有名なのが京都の清水寺

 

篠ノ井の鼻顔稲荷の周辺に、布施氏の館があった。広さは南北130m、北辺の東西幅120m、南辺の東西幅70mというちょっといびつな形。

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鼻顔神社周辺の様子。普通の住宅地、何も変わったことはない。

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↓(多分)堀跡たち。

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遺構は全くない、という話だけど、ほんとに何一つない。駐車場の隅っこに説明板がひっそりあるだけ。布施氏は川中島周辺に大きな勢力を誇った一族だというが、その面影がない。

 

大治4(1129)年に北面の武士をやっていた伊勢平氏の平正弘さんという方が、高田郷・市村郷(ともに長野)・野原郷(穂高)・麻績御厨(麻績)を与えられたのが始まりのようだ。彼の子が信濃にやってきた。11世紀末に布施惟俊さん(平正弘さんの息子さん)がこの地に土着し、彼が布施氏館の初代となる。ややこしいけど、「高田郷」は布施高田のことではなくまた別の場所。

「布施氏」はそれ以前は茶臼山城(篠ノ井有旅)にいたらしい。安和2(969)年、望月氏が移り住み布施郷を統治し氏も布施に改めたと言われている。望月氏は東信を拠点にしていた滋野氏の後裔とされている。

布施氏が最初に住んでいた有旅という場所には「有旅城」「有旅古城」という2つの城の存在をにおわす書物が残っているというが、この2つのお城は実在するかどうかも分からないようだ。他にも「須立之城」「篠ノ城」などのお城をいくつか持っていたらしい。他にも大塔合戦で使ったと言われる「宴の城」というお城の伝承も残っている。名前的に大塔合戦の戦勝祝賀会の会場のようだが、大塔合戦では布施氏は破れた守護方だったそうです(布施兵庫助さんが従軍、討死)。宴の城は布施氏の持ち物ではなさそうだ。

 

ごっちゃになってきた…平正弘さんの嫡男は別にいる(平家弘さん)ので、新しくもらった領地に元々土着していた豪族・布施家の名前を継いで新領地の経営を円滑に進めようとしたのか。

平正弘さん・家弘さんは保元の乱崇徳院側についた。正弘さん流罪、家弘さん斬首。もらっていた所領もすべて没収。が、近親者の布施惟俊さんにお咎めがあった形跡はなし。ひょっとしたら別の一族だよ、ということにするため布施氏の苗字を継いだのかもしれない、なーんて妄想も…。

布施さんが平家一門であったことは間違いないようだ。治承1(1177)年ころの平家一門の所領として、「布施御厨」「富部御厨」の名前が見える。布施御厨、富部御厨ともに伊勢神宮の荘園である。布施御厨の管理人が布施さん、富部御厨の管理人が富部さん。この二つの荘園は、11世紀末に伊勢神宮の造営のために臨時に課した税が払えず土地を物納したために成立した御厨。伊勢神宮の支配は甘いらしく、荘官(管理人)やると美味しい思いができたんじゃないかと思います。最終的には押領しちゃったみたいだし。

平家物語にも布施氏の関係者が出てくる。富部家俊さん(平正弘さんの孫、布施惟俊さんの子)は養和元(1181)年の横田河原の戦いで城長茂方(平家方)として従軍していた。富部(戸部)さんは長野市川中島御厨にかつてあった富部御厨を支配していた。ここには戸部氏の居館跡の戸部城と思われる遺跡がある。

平家だった布施さん、富部さんとも滅亡せず、その後も鎌倉幕府の書類など(御家人として合戦に従軍した記録、年貢未納の記録)に名前が登場する。戦国時代には両氏とも村上氏に属した。村上氏が武田氏に敗れると、布施氏は武田氏に下り、富部氏は村上氏とともに越後へ落ちていった。

武田氏も滅びると、布施氏は越後の上杉氏に従う。上杉氏の会津移封で布施氏も会津に移り、布施一族は信濃からいなくなってしまった。布施氏館は更級郡の中心地になっていたようで、布施氏館跡の近くには更級郡役所の跡地があった。主のいなくなった館は邪魔だったんだろう。壊して別の建物を。

 

布施氏の先祖・望月氏は滋野氏の後裔。滋野氏というのは、賜姓皇族だと自称している(祖先が皇族だというのは、かなーり怪しいと言われている)。しかし平安初期から名が記録されている古い名家であることは間違いない。

滋野氏は東信に大きな武士団を率いていた。それが「滋野党」である。後裔の海野氏、禰津氏、望月氏を「滋野御三家」と呼び、その他滋野家の親戚筋にあたる武家で形成されていた。この大きな武士団は滋野氏の当主が信濃国司に任ぜられた貞観12(870)年から天正10(1582)年まで存在していた。天正10年という年は信濃国が大きく変わった年、武田家が織田家に滅ぼされ、織田家も滅んで、近隣の武将たちがせーので信濃攻略しにきて、信濃の国人衆が右往左往した年。

滋野党はいつのまにか、滋野御三家が運営する武士団に変わっていった。どうやら本家の滋野氏は没落していったようだ。鎌倉幕府御家人になり台頭した海野氏が滋野氏嫡流と称し、御三家筆頭格だったようだ。本当に嫡流かは怪しく家系図乗っ取りかもしれない。禰津氏と望月氏は、海野氏から枝分かれしたとか、兄弟筋(長男家・海野、次男家・禰津、三男家・望月家)だったとか、いやむしろ望月氏から海野氏・禰津氏と分かれたとか、家系図によってまちまちで、こちらも怪しい。しかし滋野御三家はお互いに喧嘩せず助け合い、関係は相当良かった。

海野氏は村上氏や諏訪氏、武田氏など近隣の武将との戦いで徐々に弱体化していき、同じように禰津氏・望月氏も力を失っていく。滋野党は武田家に属することになった。そして武田家滅亡の年に、最後のリーダーだった望月家当主の望月信雅さんが滋野党解散、望月さんは責任を取ったのか世捨て人になってしまった。

海野氏の後裔と称するのが同じ家紋を使っている真田家、禰津氏宗家は真田の家臣、禰津氏傍系は大名に(3代で断絶)、望月家は滅亡、武士をやめた。

佐久の鼻顔稲荷を創建した商人の望月源八は、望月氏の子孫とされている。布施氏も望月氏の子孫とされている。布施氏領内にも鼻顔稲荷をわざわざ勧請したのは、こういう繋がりがあったせいだろうか。

 

「布施」の字が出てくるものはもうひとつ。

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第1次川中島の戦い、通称・布施の戦いである。今年で460周年。

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第1次川中島の戦いは、主にふたつの合戦から成るようだ。最初は八幡の戦い。八幡の戦いは、天文22(1553)年に武田さんに負けた村上さんが、越後の長尾さんの支援を受け、武水別神社付近で勝利するまで。居城(葛尾城)をいったん奪回した村上さんであったが、しかし再び武田さんに攻められた村上さん。こらえきれずに越後に逃れる。今度は長尾さん自ら兵を率いて武田さんと対決しようとし、まず布施の戦いで武田の先鋒を破る。小競り合いはあったけど、お互いにそれなりの成果もあったしー、ということで。けっきょく直接対決なく両軍は国に帰っていった。

 

 

★☆☆☆☆

布施氏の遺跡はない。

 

 

<布施氏館>

築城年 11世紀末

築城主 布施惟俊

構造 平城