お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

柏王神社

f:id:henrilesidaner:20160613164458j:plain

以前、当てもなく歩いてみたところ。この祠に呼ばれたのか、たどり着いた。石に彫られた文字はよく読めないが、元禄とか辛うじて分かったので古いことは古いらしい。綱吉の治世で、江戸時代で一番景気よかった時期だったっけ?

f:id:henrilesidaner:20160613164500j:plain

良いお顔。

何かのご縁なので、ちょくちょくお参りさせてもらっている。が、この祠の詳細は分からず…。

f:id:henrilesidaner:20160613164232j:plain

f:id:henrilesidaner:20160613164231j:plain f:id:henrilesidaner:20160613164459j:plain

祠の右側は畑のような感じだけど、山に入る道っぽい感じもする。祠は山の神様を祀っているものなのかも。道は草ボーボーなので、夏場の探索は無理なご様子。ちなみに左側は墓地だった。

 

一体自分はどこに行ったのだろうか。グーグル先生(地理担当)に訊ねる。先生はすぐ場所を教えてくれた。そして「この近くに神社がありますよ、柏王神社」と教えてくれた。

柏王とか。王様だし。

f:id:henrilesidaner:20160613164226j:plain 別名「信濃宮」とおっしゃるようだ。皇族なのか。

明治時代に建てたものらしい。ちょうど北国街道沿いだった。観光名所にしようと考えての建立だろうか。

f:id:henrilesidaner:20160622153134j:plain

↑北国街道

江戸幕府により整備された主要幹線道路。前田のお殿様はじめ11家が参勤交代で通った道、佐渡の金山から金輸送路、という結構重要な役割のある街道だったようだ。旅人も多かったかも?

 

柏王神社に到着。

f:id:henrilesidaner:20160613164227j:plain

柏王神社の御祭神は伊弉諾命、相殿に相良親王、とあった。イザナミは知ってる。相良親王とは? どうやら、柏王こと信濃宮こと宗良親王のことらしい。名前がたくさんあるなー自分でも訳分からなくならないのだろうか。

 

宗良親王後醍醐天皇の息子で、この場所で病気になった。神社の説明板では「髻をお薬師様に供物し祈ったら治ったので、髻を埋めて塚にした」とあった。髻ってバカ殿の髪型じゃないかな? 貴族って確かあんな髪型してたような。

f:id:henrilesidaner:20160622153138j:plain

信濃宮髻塚」と書いてあった。

 

おすがりしたというお薬師様もいらっしゃった。お薬師様の制作年代は不詳だそう。南北朝のころには存在していたんだろうし、けっこう古いものかもしれない。

f:id:henrilesidaner:20160622153135j:plain

↑薬師堂。お薬師様は非公開だった。特に、首から腰の脊椎関係にご利益があるとのこと。そういえばお参り後、ヘルニアのせいなのか分からぬ腰痛がなくなった…気がする!

 

宗良親王は応長元(1311)年のお生まれで、元中2/至徳2(1385)年薨去信濃国には興国5/康永3(1344)年から文中2/応安6(1373)年まで住んでいたようだ。この近くには船山守護所がある。宗良親王南朝方として信濃を拠点にし、各地へ転戦したとあったが、ここは小笠原氏の守護所があるくらいだし、北朝方拠点のひとつではないのかー?

船山守護所が善光寺へ移転した観応2/正平6(1351)年以降なら、南朝方の信越地区攻略責任者がこっそり病気で寝ていても、襲撃されないかもしれない。

ワインで有名な桔梗ヶ原で宗良親王軍と小笠原軍との合戦が文和4/正平10(1355)年に起こったと言われている。南朝方と北朝方との戦いで、どうやら南朝方が敗れたようだ。というのも、その年を境に諏訪氏など有力氏族が南朝から手を引いたからだ。けっこう大きな合戦だったらしい(京在住の人が日記につけていたそう)が、京にまで情報がもたらされるほどの大戦だったわりには勝敗に関する記録がないらしい。

船山守護所近辺で青沼合戦に参加していた豪族の多くが諏訪氏庶流という。諏訪氏にならって、1355年以降こちらも北朝に下ったと思われる。とすると、神社の伝承にある「宗良親王が当地で臥せっていた」時期は1351年から1355年の4年間かな?

f:id:henrilesidaner:20160613164229j:plain

本殿は質実剛健、といった構え。もともと神社じゃなく、宗良親王の療養所として作ったかのような様子。建物がなんか神社っぽくない雰囲気もあるような…ないような? まぁ、この建物が宗良親王の生きた時代のものじゃないと思うけど。f:id:henrilesidaner:20160613164230j:plain 

強引に見れば、本殿を高くしてちょっと要塞っぽくなっているようにも! 「防御」として考えたら相当弱いと思うから違うな。

f:id:henrilesidaner:20160613164228j:plain

背中に山をしょっている、道の奥というような場所なので静かだった。療養するにはいいところね。

この辺りは古いおうちが多い。昔の街道筋なので、おうちも立派。

f:id:henrilesidaner:20160622153133j:plain

 

★★★★☆

謎の祠と薬師如来にお参りするようになってから、体調が良くなってきている気がする。ありがたや。

 

<柏王神社>

 

 

宗良親王の母方の実家は古今伝授でおなじみの二条家、本人も和歌が得意だったらしい。出家し天台三門跡のひとつ妙法院に入り、天台宗で一番偉いお坊さん・天台座主になった。が、お父様の起こした元弘の乱のせいで失脚して島流しの刑を受けた。そのうちお父様が政界に復帰すると、天台座主に返り咲く。お父様がクーデターで京から吉野に行くと、お父様のお仕事を手伝うため還俗した。

後醍醐の当面のお仕事は、北朝と幕府・武士を滅ぼしてまた政権を奪還することである。後醍醐は自分の息子たちを各地に派遣して、勢力を盛り返そうとした。

今まで後醍醐は武士を煽動して鎌倉幕府を倒したり、配流先から武士の助けを借り京に戻ったりして革命を成功させてきたものの、実は武士を差別しており捨て駒として扱った。武士がこれまで後醍醐を助けてきたのも、「俺の思想に心酔している」とか思っていたくさい。大多数の武士は「機能しなくなった鎌倉幕府をなくしたい」と思っていただけで、特に後醍醐の思想信条には関心なかったようだ。

後醍醐の武士使い捨て的な態度が武士層を怒らせてしまったが、本人はあんまり反省していなかった感じ。そういう態度からなのか、今では後醍醐(笑)みたいな扱いにされてしまっている。

後醍醐は尊良親王恒良親王を北陸、懐良親王を九州、義良親王を奥州、宗良親王を東国へ軍団とともに送り込む。

宗良親王中先代の乱で蜂起した親北条の国人が多い信濃に住みついた。伊那在住の香坂さん(滋野氏支流望月氏の一族)という方に呼ばれて、やってきた。気に入ったらしく、30年くらい住んだ。東国の拠点となり、あちこちから追われてきた南朝方の武将を匿ったり、他国へ呼ばれて出陣したりする。

九州に行った懐良親王はほぼ全土を勢力下に治めることに成功し、中国皇帝から「日本国王」に冊封された。義良親王はいろいろ上手くいかず、空位になっていた皇太子に。尊良親王恒良親王は北陸で新田さんとともに挑んだ合戦で敗れ、自害したり捕まって殺されたり。

桔梗ヶ原の戦いで敗れたとされる文和4/正平10(1355)年以降は信濃国の有力氏族が離れていき、徐々に南朝方の勢いが弱まっていき、宗良親王は文中3/応安7(1374)年に東国の拠点を引き払い、吉野に戻ることになってしまった。その後、またお坊さんに戻った。

一番うまくいってた懐良親王も室町3代将軍義満が送った討伐軍に敗れ、九州は幕府の勢力下となった。が、すでに薨去している懐良親王が「日本国王」と中国の皇帝に認められていたために、他人が「日本国王ですけどー」などと言って皇帝にお手紙書いたりすると、「お前は王位を簒奪しようとしている不逞の輩か」と疑われてしまう事象が発生。仕方なく「懐良親王です」と詐称して書状を送ったり、「懐良親王は国王ではない」と説明したりと大変だったようだ。これは懐良親王もあの世で小さくガッツポーズしてそう。一矢報いた…かな? ぐらいは思ってそうだ。

義満が日本国王として朝貢(中国に「宗主国さまー」と平伏しながら、なんでもいいので貢ぐと、中国は「野蛮な国の連中が見たこともないような素晴らしいものをやろう」と言いながら、ものすごく高価でイイモノをお返しにくれるみたい。その贈り物を転売すればぼろ儲けできる)がしたかったのに、そこまでたどり着くのに苦労したらしい。朝貢貿易って一方的に中国が損するものだったのか。まぁ、そんなぼろい商売あるなら皆やりたがるね。

そういえば南朝は田舎住まいの男所帯だからなのか、下世話でドロドロした話がなかった。期待してたのに。つまらないガッカリ残念。