お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

戸部城+鍛冶屋敷

布施氏の庶流・戸部氏のお城「戸部城」。「鍛冶屋敷」は戸部氏とは関係ないらしいが、ごく近くにある。

まずは「鍛冶屋敷」。

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現在は伊勢社となっている。おたや祭りというお祭りで有名らしい。

「おたや祭り」というのは豊受大神(食物の女神様・伊勢神宮外宮に祀られている神様)の例祭という。伊勢神宮の御師(お伊勢参りの勧誘で全国回ったり、伊勢神宮参詣者のガイドや宿泊などの世話をする人)が布教の旅で利用した伊勢社の宿泊施設「旅屋または田屋(読み方はどちらも”たや”)」から来ているようだ。たぶん、これは大きな伊勢社にしかなかったんじゃなかろうか。この施設がある伊勢社のお祭りを「おたや祭り」と呼ぶそうだ。

鍛冶屋敷と伊勢社、どう関係があるのかというと、全く分からない。というか、「鍛冶屋敷という建物があった」ということ以外ナゾらしい。誰の持ち物で、どういう使用目的があったのかも分からんそうな。ただ、この場所に規模の大きな伊勢社があったことと、現在の伊勢社(以前は違う場所にあって、鍛冶屋敷跡地にお移りになってきたのでは? という話も。元の伊勢社もどこにあったかよく分からんということ)がこの地にあること、などから「鍛冶屋敷は伊勢社の付属施設じゃないのかな」という説が有力であるらしい。お堀や土塁の跡が見当たらないので城館ではなさそう、とのこと。伊勢社神官の居住館、伊勢神宮などからの使者をお迎えするための館、という二つの説がある。お旅屋はまた別の場所にあったようだ。

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趣ある神社。あんまり神明神社にお参りする機会がないような気がする(諏訪大社があってそのせいなのか、健御名方さんばっかりな気がする…今ちょっと調べたら、諏訪神社北条氏の所領に特に多いそうだ)、なのでこのスタイルの神社が新鮮な感じ。

「御厨」というのは、神の台所という意味。神様のお供え物を供給するための所領。ここは伊勢神宮の御厨だったので、大きな伊勢社があったのだ。

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↑天水釜というそうだ。元々は防火用水として雨水を溜めていた大釜だったそうで、現在は神格を現す神具のひとつだそう。

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こちらは伊勢社の造営に協力した人々の名前を書いた銅の塔?があったそうで「大東亜戦争の折に金属として供出しちゃって土台しかないです」と下の方に書かれていた。石碑はあまり関係なさそうな「玉垣改修記念碑」。

 

鍛冶屋敷から少し離れたところに戸部城跡。

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今はこれだけ。↑写真の中、グレーチングがあることで分かるが、手前の道路は暗渠になっている。これ、お堀跡だそう。

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鳥居は綺麗だけど、ぱっと見には古い祠があるだけで何が何だか…。一応、説明板があった。それによると、

・付近一帯は富部(戸部)三郎家俊の城跡

・家俊は平家方の武将、治承5(1181)年の横田河原の戦いで戦死し、館も焼けた

天正時代(1573~1592)、ここに郷蔵が建てられたので「御蔵屋敷」とも呼ばれる

・戸部御厨があったので、多くの寺社が集まり小城下町として栄えた

とあった。

戸部氏は最終的に上杉さんの家来になったはずなので、治承5年以降はどこか別の場所に城館作って引っ越していたのかも。天文22(1553)年、武田さんに敗れた村上さんと一緒に越後へ行ったらしい。この年から武田家滅亡の天正10(1582)年まで、この地は武田領となる。同年の天正壬午の乱のあと慶長3(1598)年まで上杉領となった。おそらく、上杉領になって戦乱が落ち着いたから郷蔵建てたんじゃないかな?

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戸部城跡のごくごく近く、更級斗女神社がある。

元々はこのあたりの土着神を祀る神社だったらしい(最初のお名前は斗女郷精霊地主神)。それが戸部家俊の支配地になったために、元歴元(1184)年に戸部家の氏神として諏訪大明神健御名方神)を勧請した(ただし諏訪大社の分社ではない)。御祭神は健御名方命、奥様の八坂斗賣命(八坂刀売神)。

神社の説明板では、斗女(とめ)→戸辺→斗賣→戸部→富部と転訛していき、富部から戸部に戻って落ち着いたようだ。この内容から考えると、神社の創建は相当古そう。

そして応永7(1400)年には村上氏領地になっていたという。どうやら戸部さんは、その年までには村上さんの家来になったようだ。

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参道に沿った並木が雰囲気ある。

大きな木が1本。

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でかい欅。戸部さんのお城が横田河原の戦いで焼失したとき、この神社も兵火に巻き込まれたが欅だけは焼け残っていたので目印にして神社を再興した、という言い伝えがある。この欅の樹齢は1200年以上だそう。1200年前というと、奈良時代末になるのかな? 早良親王が祟っている頃かしら?

 

平家方だった戸部さんだが、更級斗女神社の境内に八幡神が祀られていた。

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勝鬨八幡社というお名前で、元は少し離れた別の場所にあったが明治時代にお移りになってきたようだ。養和元(1181)年の横田河原の戦いで勝った木曽義仲がこのお社の前で勝鬨をあげたので、「勝鬨八幡社」と呼ばれるようになった、という。

 

神社の裏手には用水路があった。

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ここで暗渠になって、戸部城前の堀跡と合流しているみたい。ひょっとしたらココも堀跡だったりしてー。

 

戸部城の説明板でも見たが、ほんとに寺社が集まっている。なんでもない住宅地だが、その辺を徘徊しているだけで4つぐらいお寺さんを見かけた。「小城下町」というだけあって、街並みも古い。

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★★★☆☆

更級斗女神社が雰囲気良かった。古い神社はやっぱりなんか違うなー。住宅地の中の城跡で遺構ほぼないけど。街歩きと思えば見どころがあり楽しい。

 

 

<戸部城跡>

築城年 治承5(1181)年以前

築城主 富部(戸部)家俊

構造 平城