お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

須田城

ちょっと山に登ってみたくなった。今回のぼるのは須田城。 

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この山の頂上にある。山っていってもかなり標高は低く、お城まで行くのにあんまり時間はかからないらしい。

今回の入口↓

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右手のお寺さんは興国寺。しばらく興国寺さんが管理する墓地を通る(でも遊歩道になってるはずなの)。左はテニスコート

先客がいらっしゃった。先客のおじいさんは足が速く、だいたい同じくらいに遊歩道を歩き始めたにもかかわらず、あっという間に見えなくなる。

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出た、分かれ道。須田城はまっすぐ、臥竜山方面の右に曲がると、堀切跡を利用した橋があるようだ。おじいさんは遠目で右の臥竜山方面に曲がったが、私はそのまままっすぐ。

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石段が現れたー。

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石段をのぼると、途中で右曲り。しかし、まっすぐの道もあった。なんだ、この道は? 石段できる前の古い道か? と歩を進めたが。

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石仏が2体あった。で、道は分からなくなった。

元に戻る。

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石段の先には先ほどの看板にあった阿弥陀堂と思われる建物が。

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そして、さっきのおじいさんにまた会う。きっと石段を歩きたくなかったから、大回りしてきたのかな? ここまでの別ルートがあったのか。おじいさんは引き返し、おそらく臥竜山のほうへ消えていった。こちらは更に奥へ進む。

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また石段、その先に何かある。

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須坂藩第13代藩主・堀直虎(1836-1868)公霊廟、だそう。堀氏というと、信長さんに仕えて有名になった、なんでもこなせる名人の堀さんと同じ苗字だし、子孫かねえ? 調べたら、その名人さんのいとこの奥田(のちに堀姓)さんの子孫にあたるようだ。

堀直虎さんは幕末の大名で、大リストラやって須坂藩の財政再建に成功したり、早い段階で須坂藩に洋式軍制を取り入れたり、と革新的なお殿様だったらしい。その功績で外様の小藩主にも関わらず、外国総奉行という幕府の要職に就任。慶応4(1868)年に江戸城で自殺したそうな。時の将軍・徳川慶喜様に諫言した直後に、自害とかなんとか…。時系列としては、

慶応3(1867)年10月14日 大政奉還

          12月 5日 堀直虎若年寄兼外国総奉行に就任

              9日 王政復古の大号令徳川慶喜、政界を追われる)

慶応4(1868)年 1月 3日 鳥羽伏見の戦い始まる

              6日 徳川慶喜、逃亡(江戸到着11日)

             17日 堀直虎江戸城内で自殺

で、かなり展開が早くてクラクラしそう。

慶応4年1月に堀さんは江戸にもどった将軍に謁見し「敵前逃亡よくないし、しかも家来を見捨てて帰ってくるとかさ」と怒ったと言われている。その説教に耳が痛くなった慶喜様は席をぷいっと立って出ていってしまった、そして堀さん切腹。という経緯らしい。田舎から立身出世した30代前半の男が幕府高官になって1か月半、上司の将軍(将軍様も30代前半)と喧嘩して自殺か…凄い時代だ。なんか私、大政奉還したときの徳川慶喜って50歳前後のオッサンだと思い込んでた、意外と若かったのね。

この霊廟も、須田城の郭跡地に建てられているようだ。

 

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この看板では、この先一本道で須田城にたどり着きそう。

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道が…そこらじゅうで枝分かれしているのですが…。とりあえず景色の良さそうな方向へ向かおう…こんなしょぼい山で迷子になんかならないさー。

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眺めが良い感じになったところで、また高台へ上る段が現れる。

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予想では、この上が須田城主郭かな。のぼってみる。

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当たりだーやったー。「ぐるっと1周コース」と「のんびりロマンチックコース」があったらしい。自分はどっちのコースで来たのやら? あちこちで道が分かれていたのはそのせいなのか。

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何かの建物跡。

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↓主郭のすぐ下に桝形の跡があるらしい。

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桝形は主郭と二の郭の間に作られていた。二つの高台から一斉射撃し、下まできてる敵兵を桝形で一網打尽にする、という戦略らしく。確かにここから下の方は見やすかった。このお城の見どころは桝形らしいが…行くのはちょっと嫌な感じがしたのでやめました(主郭直前でヘビに出くわしたのよね)。

 

設置されている説明板によると。ここは須田さんのお城で、大岩城の出城ではなかったか、と推定されているそうな。言われてみれば、狭いし本拠城ではなさそうな感じは確かにする。山城はこんなもん、と言われても私は納得してしまいそうだが。 

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祠? 屋根と台座しかない。

 

須田さんというのは、平安時代須坂市井上に土着した井上氏の分家とのこと。井上満実の子・為実を祖としていると伝わる。

井上さんは信濃源氏の中で最も早く信濃に土着した家系で、源平合戦の頃には北信濃における源氏の代表格であったらしい。横田河原の戦いでは木曽義仲の軍に参加したが、上洛にはついていかずに源頼朝の軍に入っていったようだ。そのせいで代表格扱いなのだろうか。ただ、頼朝軍に加入した当主は頼朝に怪しまれて殺されたり、その後も武士団を上手く作れず、弱体化してしまったようだ。信濃から他国に引っ越す者も出て、日本各地に井上氏の子孫を名乗る一族が散ったとか。

須田さんは井上さんの分家でありながら、衰退した井上家をよそにどんどん発展していった。須田郷に攻めてきた井上氏を逆に打ち取ったという記録もあるらしい。その後も井上領を奪ったりして、大きく成長していった。

この須田城は大岩城の出城だったかも? と書いてあったが。須田さんは須田城を本拠とする系統、大岩城を本拠とする系統に分裂した。両須田家は当時勢いのあった村上さんの傘下に入る。が、村上さんも武田さんに負けて越後に亡命してしまう。大岩城の須田さんも越後に亡命したようだ。須田城の須田さんは居残り→武田さんの家来になったらしい。よく見るパターンだ。武田さんの家来になった後、福島城という城をつくり、そちらに移ったとも言われる。

須田城の須田さん、武田家滅亡後には上杉景勝さんに従った。しかし天正13(1585)年、徳川に臣従していた真田昌幸の誘いに乗って、徳川に内応した。と上杉に攻め滅ぼされたという。その後の須田家は大岩城の系統に統一されることとなった。

 

須田さんは上杉さんの家来として大活躍した。天正16(1588)年時点で須田さんは上杉家NO.3の座におり、須田満親さんは豊臣秀吉から豊臣姓を賜うという名誉に浴した。が、満親の長男は失脚し、上杉家から追放される。満親さんの跡をついだのが次男の長義さんで、この人は地味に凄い。

徳川家康会津征伐に呼応した最上軍(+伊達さんが出した援軍)が北から上杉を攻めた(徳川軍は関ヶ原に向かったので挟み撃ちにはならず)。関ヶ原の戦いが最上・伊達の属する東軍勝利で終わり、上杉さんは最上さんに敗れ、戦闘は終わったものの。伊達政宗さんは「ついでに領土を奪おう」と自ら軍を率いて上杉領に侵攻。

この時、須田長義さんは梁川城の城主となっていた。この梁川城、元々は伊達家のお城だった。伊達政宗初陣の時の伊達軍拠点であり、正室の愛姫さんがお輿入れの際の受け渡し場所だったりと思い出がたくさんのお城。なので長義さんは「絶対ここにくる」と思っていた。しかし伊達軍はお隣・福島城(←福島県福島市にあるお城。現在は福島県庁)に向かってしまった。長義さんは軍備を完璧に整えていたので、お隣にいった伊達軍を追いかける。福島城にいる本庄さんにも連絡して、伊達軍を挟み撃ちにした。で、伊達さんぼろ負け。政宗は悔しかったのか、その後もたびたび福島城を襲いにきたものの、上手くいかず。じゃあ、ということで梁川城を落としにきたが、やっぱり負けた。3,4回ほどの襲撃全部で負けてしまい。結果的に不問に付されたものの、この戦闘が家康に無断で行われた為、政宗の恩賞は少ない。(偉そうだったり、調子に乗った)有名人が無名の小物に負ける話、私は好きです。「バーカ」とか思います。

綺麗なアゲハチョウもいましたよー。

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眺めはこんな感じ↓

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↓主郭から階段下りて見上げる。たかーい。この上から矢を射かけられても、見えなさそうだー。

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ここから「あずまや」を目指してみる。

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今まで以上に道が入り組んでいる…。ところどころ広い場所もあり、そこからまた道が分かれていったり…地図が欲しいです。

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このあたり一帯には天明年間(1781~1788)に整備された「臥竜山百番観音」というものがあり、全部巡れば功徳があるよという霊場みたいになってるらしい。最初に見た石仏も、霊場に散らばった観音様の一部だったようだ。ひょっとしたらこの「臥龍山百番観音」を作ったために少し改変されてしまってるのだろうか。

↓こういう石仏が点在。この石仏の場所は二の郭だそう。

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もう少し行くとまた開けた場所が見えた。

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あずまや到着ー。ここは主郭の半分くらいの広さかな? 主郭から見えるのは本家の井上領や、武田家が進軍してくる方角。こちらはそれとは逆方向の眺め、上杉家の進軍してくる方角が見渡せた。

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あずまやを過ぎると、下り道のみ。が、ますます道が増えてる感じ。

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池が見えてきた。池に向かって進めば出られる(はず)。

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なんだかじめじめした、ちょっと気味の悪い場所…。日が当たらないせいなのだろうか。

ちなみに、私は裏から入ったと思っている。こちら側が敵さん攻めてくる設定になっていると思われます、というのも私が入った側には天然の堀になりそうな川が流れていたので。敵さんあんまり攻めてこないでしょう、なのでちょっと手薄でのどかな雰囲気だった。日も当たるしねえ。

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こちら側には、薄暗いけどBBQ会場にできそうな細長い平場(後で調べたが、帯郭というやつかもしれん)があった。やはり防御施設とかの遺構はこちら側のほうがたくさんあるようだ。

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つづら折りの道を下りてきた。この道にはなんと。

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塹壕があったらしい。何気なく下りてきたが、戦時ならもう死んでるな私。茂みだらけで、兵士が隠れられそうな場所いっぱいだった。

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池側の入り口に到着ー。

 

滝というのがこれ↓

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「弁天滝」といい、農業用水を使って滝に見せているそうだ。人工物なのね。

山の上の方から見えていた、大きな池は「竜ヶ池」という、これまた人工池。

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竜ヶ池の前身は、須田さんの館跡だとか言われていますが…。だとしたら、めちゃくちゃでかい家ですねー。

ちょっとポケゴを起動させたら、コイキングがたくさん跳ねてた。さっきの弁天滝のあたりにもピチピチ。とりあえずコイキングを数匹捕まえておいた。ひょっとするとここには滝登りに成功してギャラドスに進化したやつが出てくるのかもしれない…夢のある話ね。

 

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帰りに地図を発見。しかし、我々がたどった道はこの地図に載ってないと思う。

 

 

★★★★★

遺構全部見ることができなかったけど、大満足だあ!

 

 

<須田城>

築城年 不明

築城主 須田氏

構造 山城

 

 

 

 

 

車のある駐車場まで、動物園内を通行。

アカカンガルーのハッチで有名になった須坂市動物園。(私はミーハーなので)ハッチを見に2回ほど来たことがある。それからずいぶん経っている。だいぶ様変わりしていた。

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トラ兄妹は御健在。

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ペンギンやフラミンゴもいた。有名になったアカカンガルーはいない(どうやら他園に行ったりお亡くなりになったりしてしまった模様)。猛獣好きなのでトラ見られれば充分ですがね。

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せっかくの動物園だが、子供は山歩きに疲れてしまい、途中から寝てしまう。ごめんよ。

 

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