この半ば隠れているような、ひっそりしているお地蔵さまが長い間気になっていました。
これのせいかね? この記念道路を見守るお地蔵さんなのかね?
裏に大正4年11月と刻まれており、どうやら大正天皇の即位を記念した道路みたいだが…杏で町おこししてる森に続く、こんな道↓
この付近には、屋代城への上り口が。前回は別ルートで本丸のみ見に行ったが、今回は正式な入口から行けるところまで行ってみよう、と。
上る前に周りを観察したよー。入口左横奥は平場が。
こちらにも謎の石碑があった。顕彰碑らしい。市川なんとか山先生とか本村佐五郎さんとか…もちろん誰だか分からない。本村さんのほうはともかく、市川先生は樹木に覆われてしまっており目立たない状況。
この平場は兵士さんの詰所みたいになってたのかなー? と思った。
上にあがってみる。
石段を上った先にはお堂があった。
一重山不動尊という。明治18(1885)年に千葉から成田不動尊を勧請し、そういう名前になったようだ。成田不動尊は歌舞伎の世界で成田屋の屋号を持ってるあの一家が信奉している成田山新勝寺のことらしい。明治18年以前は「山ん堂」と呼ばれていたようで、鼻取り地蔵なるお地蔵様を祀るお堂だったようだ。
説明板に書かれている話によれば、雨乞いの地蔵である。日照りになると鼻取り地蔵をお堂から引きずり出して五十里川の念仏土井というものに投げ込んでは「雨降れ」と祈願したという。石仏だそうだが度々放り込まれるので、鼻がそげ両手はなく体もボロボロになってしまったという。鼻がないから「鼻取り地蔵」という名前になったようだ。高さ60cm・幅40cmというからそれなりに重そう。神事とはいえ、毎回石仏落とす→拾ってお堂に戻す、っていうの大変だねー。まぁ、人間を落とすよりは良心的か。お地蔵様は天正3(1575)年にこちらに安置されたと言われている。
↓一重山不動尊からの景色。
一重山不動尊の横から更に続いていく道。
遊歩道はコンクリ敷き。整備されており、非常に歩きやすい。
宝暦7(1757)年の石碑。奉納大乗なんとか…。
御嶽神社。数年前噴火した御嶽山への山岳信仰に基づく。天地開闢のときに現れた日本初の神・国常立尊、国譲りの神様・大国主(大己貴命)、大国主の国づくりを手伝った小さい神様・ 少彦名命の3柱を主祭神としているようだ。
これなんだろね? 頭ないし。
ときどき郭跡のようなものが現れ、そこはすべて墓場になっている。ちょうどお彼岸だったので墓地周辺は綺麗に草が刈られていて歩きやすかった。
途中で郭が3段になっている場所もあった。もちろんお墓がいっぱい。
細長いお城なので…尾根上を進む道と郭跡を利用している墓地や神社以外は斜面となっている。それも、わりと急な。
まだまだ道は続いているよー。
右・休憩所?
何か見えてきたぞー。
矢代神社。屋代城で一番大きな郭である。北側の防御の中心となっている郭らしい。見晴しもいい。
ここも草を刈ったばかりらしい。
この先の道は左かなー? 右かなー?
右側↑
左側↑
左が正解のようだ。が、綺麗に草を刈ったのは矢代神社まで。コンクリ敷きも矢代神社の鳥居まで。この先の道はあるものの草が伸びている。一人なら問題なく歩けそう…しかし子供は無理だなぁ。この先採石場もあるしな、ということで引き返した。
すぐ先に慰霊碑→堀切→郭→堀切→郭(馬の背と呼ばれ、急に下り斜面になる)→採石場(虎口があったらしい、今は遺構なし)→上り急斜面→郭→堀切→郭→堀切→郭→堀切→郭→堀切→郭→本郭という長い道のりが待っている。前回のように初冬か春先に本郭へスルッと上って4つ目の郭辺りまで下りたほうが満足しそうだし、絶対楽だわ、と思った。
一重山不動尊まで下りてきた。
せっかくなので、屋代城の真横を歩いてみることにした。
ちょうど一重山に沿って細い道があったので。
横っちょは崖。攻められませんねー。
何かの遺構? と思ったら墓地予定地。
何かあるぞ! と上ったら。
墓地でした。この山、墓だらけじゃーん。
もういいか、と引き返す。
↑一重山。今回は右端の部分まで行けたか行けないか(たぶんそこまで行けなかったかなー?)。一番高いとこが本郭跡になると思う。
反対側に回る。
満照寺というお寺さんがある。このお寺の開基は屋代政国で、お寺の名前は政国さんの爺さんの名前・満照から取ったそうだ。屋代氏は村上一族であるので、お寺さんの屋根には「〇に上」の家紋がばっちりついていた。
ここが屋代氏の居館跡と言われている。
このすぐ後ろに屋代城本郭がある。昔はこのお寺から本郭へ行ける小道があったとか。
★★☆☆☆
邪道かもしれんがやっぱり本郭からいったほうがよい、というのが分かった。
道のり長いよぅ。
<屋代城>
築城年 永正~天文年間(1504~1555)
築城主 屋代氏
構造 山城