ここまで車で上がってこられた。すぐ近くまで集落があるので舗装路だったんだろうけど、ここ数年で造られたと思われる駐車場もありで楽々。観光客もいて、駐車場がら空きではなく。新しいトイレまで整備されてて力入ってんな、と思った。真田氏館の対になる詰めのお城(の中でもメインのお城。他にも支城がたくさんあり真田氏本城を取り囲むように存在しているようだ)である。
真田氏本城はそれなりに高い場所にあり、元々峠のようだった。
達磨堂というお寺だかお堂だかがあるらしい(誰も向かう人はいない)。地元の守り神みたいなものかも?
この峠までは舗装されていたが、この先は砂利道だった。パッと見、古い時代からあるような道。轍があるので軽トラぐらいは行き交ってそう。
その道の先には学校らしき建物があったので、大きな集落があるのかな?
本城の中に入ってみる。
さっそく竪堀を発見。ここも観光客向けに案内板が散りばめられているようだ。
駐車場からは普通の公園のように見える(堀も1か所しか見当たらず、公園として整備されたため壊されているのかね?)。
この辺りはなんだかよく分からない…。更に先へ進む。
郭か? という感じの場所。
まさか、あの小山が本郭なのか? あ、これはちょっとガッカリ感あるよ…と思った。
小山の前にはまた竪堀。
えええ…本当にこれがそうなのか…俄かに現実味を帯びてくるしょぼさ。ここから見える周囲。
お花見にはいいかもね…。そして、説明板があった。
・本郭は東西8.6m、南北37mの大きさ
・南側に高さ2mの土塁がある
・北側に二の郭、三の郭と続く馬蹄状の形(3の郭の先は急な崖)
・天白城も同じく馬蹄形状
・お城の周りには天白城・砥石城・矢沢城がある、真田氏館も見下ろせる位置
・各城館の司令塔ともいうべき位置にあるので、おそらく上田城築城以前の本拠城
おや? ここまで見てきたものとはずいぶん違うぞ?
↓天白城(写真奥)
↓真田氏館方面
つまりこれが南側にある土塁なのか…なんか騙されてたぜ。
上りましょう。
しょうもないイタズラ。
土塁というか、単なる山道でした。
やっと抜けた。↑これが土塁跡だった。
本郭到着。
本郭・二の郭・三の郭の形状と真田氏本城の全体図。
駐車場辺りは段郭だったようだ(駐車場側は畑や宅地で随分人の手が入ってる様子)。等高線の間隔からも分かるように、駐車場側はなだらかだが他3方は急峻。しかし段郭もコソコソ造られているっぽい。
ここから洗馬城・尾引城・根小屋城・砥石城・米山城と見渡せる。他にも支城の名前が見え、松尾古城(上州方面)、横尾城(洗馬城・寝小屋城とともに松代方面の押さえ)、伊勢崎城・矢沢城(上田方面)、殿城山城(天白城と同じく真田氏本城の後詰)とあり相当厳重に守られている。さっきのガッカリ感は一気に吹っ飛んだよ。
二の郭方面へ。
二の郭と三の郭の間には虎口があった。
二の郭三の郭に跨る帯郭があるらしく、下りてみた。二の郭の下、敵さんが攻め上がってきそうな雰囲気。そして石積み。
ドン尻の三の郭へ。
ドン尻の端。ここでお城はおしまいー。
このお城は天文年間(1532~1555)に築城されたと言われている。築城主は真田幸隆。天文10(1541)年に海野平の戦いが起こり、真田家を含む滋野一族は信濃を追われた。その前から存在するお城なのか、真田氏が旧領を回復した天文20(1551)年以後のものか、確定する資料はないらしい。が、海野平の戦いで勝った村上氏が支配拠点用として改修し使ったお城が戸石城であり、これは真田氏支城だったことが分かっているらしく。そこから想像すれば海野平の戦い以前から真田氏本城があったんだと思う。ちなみに、真田氏最初の拠点は洗馬城だそう。
初代が幸隆かと思ったけど、その人の父親の真田(海野)頼昌という人が家祖だということになっているらしい。が、「真田」というおうちはずっと前から(1400年ごろには)あったという資料もあり(こちらも滋野氏後裔だが禰津系)もう訳が分からない。当初は禰津支族だったが、海野さんの子が真田家に養子に入った(海野本家は滅んだので海野後裔を名乗った)又は海野さんの娘と結婚した真田出身者によって海野氏後裔を名乗り始めたとかなのかねえ。真田頼昌は海野氏庶流の出身だとされているので前者が真実かしら?
そういえば、真田はなんで海野平の戦い(滋野一族VS村上・諏訪・武田連合軍)から一転武田家の家臣になってるんだろう、と思ってたけど。海野平の戦い時の武田家当主は信虎という人で、海野平の戦い直後にクーデターが起こり信虎追放→当主が晴信(のちの信玄)に代わっていた。一方、海野平の戦いの戦後処理で武田領となった佐久地方(滋野一族の旧領一部)はクーデターのドサクサで滋野一族の亡命先だった山内上杉氏に奪われた。ここには真田氏も身を寄せていたらしいが、真田の本領だった小県までは侵攻せずに終わってしまったので、イライラして武田氏に仕えることにしたらしい。代替わりしてたから、すんなり雇ってもらえたんだろうか。この時の伝手は色んな説があるらしく、誰の紹介かは秘密のようだ。
★★★★★
最初「しょぼい」と思ったせいなのか、最後には満足した
<真田氏本城>
築城年 天文年間(1532~1555)
築城主 真田幸隆
構造 山城