お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

水沢氏屋敷

水沢氏館跡を見に行ってきた。

水沢さんというのがどういう人達で、いつ何をしてきたのかは分からず。館も残っておらず。

f:id:henrilesidaner:20171219144810j:plain

館関連で残っているのは↑この竹藪のみだとか。

f:id:henrilesidaner:20171219144813j:plain

これは土塁跡だそうで、確かに言われればそんな感じかな? とも思える代物。

f:id:henrilesidaner:20171219144811j:plain

f:id:henrilesidaner:20171219144812j:plain

竹藪の手前は堀跡なのかねー?

この土塁から公民館・神社付近まで屋敷があったというので、神社まで歩いてみた。

f:id:henrilesidaner:20171219144809j:plain

↑公民館

f:id:henrilesidaner:20171219144805j:plain

↑槌井神社

 f:id:henrilesidaner:20171219144808j:plain

この近くに杵渕氏という古い豪族の館跡がある。杵渕さんが出てくる記録は源平合戦にさかのぼる。槌井神社から杵渕氏館跡までは1.3kmほど。その道の途中(槌井神社からは1kmの地点)に荒掘内記屋敷跡というのもあり、こちらは杵渕氏の家来の家。そんな感じで館が並んでたから、きっと水沢さんというのは杵渕氏関係の家の人なんだろうなと勝手に思っている。

典厩寺は槌井神社から徒歩1分くらい。このお寺さんは元々「鶴巣寺」というお名前だったが、承応3(1654)年松代藩主の真田信之武田信繁(典厩)の名前をいただいて「典厩寺」に改名して、武田信繁さん以下川中島合戦の武田・上杉両軍の戦死者を弔った。典厩は日本でいうと左馬頭・右馬頭等馬寮の官職を唐風に言ってみたものらしい。この人は左馬助という役職をだったそうだ。馬寮職は武士憧れの官職だったらしい。

 

重要なお寺さんに古い豪族のお屋敷もいくつか並ぶ。槌井神社も何やら気になる存在に思えてきた。お名前ちょっと変わってるし。

f:id:henrilesidaner:20171219144806j:plain

f:id:henrilesidaner:20171219144804j:plain

f:id:henrilesidaner:20171219144802j:plain

f:id:henrilesidaner:20171219144807j:plain

f:id:henrilesidaner:20171219144759j:plain

f:id:henrilesidaner:20171219144758j:plain

f:id:henrilesidaner:20171219144800j:plain

↑この透かし彫り、凄いと思った。

どうもこの神社は古い街道筋にあったらしい。神社のすぐ横が千曲川。近くに大きな渡し場(寺尾の渡し)があったらしい。松代へ向かう道だったようだ。交通の要衝なので館がいくつかあったということなのですねー。水沢氏館は街道の監視やってたのかしら?

 

 

★★☆☆☆

槌井神社が思いの外、面白かった

 

<水沢氏館>

築城年 不明

築城主 水沢氏?

構造 平城

 

 

 

 

槌井神社にこんな石碑があった↓

f:id:henrilesidaner:20171219144803j:plain

石碑のタイトルは「槌井神社移転記」。しかし槌井神社自体は昔からこの場所にあるらしいし、典厩寺も多分移動していないだろうと思う。

ひょっとしたら、江戸時代以前は別の場所にあったとか? しかし石碑には「昭和五年」とあった。ひょっとしたら水沢氏館のことも書いてるかもしれない。昭和5(1930)年くらいの文章なら私にも読めそうと安易に考えた。

頑張って解読してみたよー。

 

槌井神社移転記

大審院正三位勲一等法学博士横田秀雄題額
槌井神社在長野県更級郡西寺尾村大字杵淵字北村祀事代主神
杵神神域一千五百歩古松老杉翁○敬天盛夏涼風不絶寶村中之別
天地也大正八年官命改千曲之河道以止洪水之恵神域變爲堤防存
者僅二百五十餘歩耳於是村人請官新○○接之地四百八十餘歩移
社殿華表更加修理又建社務所至大正十二年二月八日竣功雖惜無
老樹爽涼之趣亦可以喜有新殿浦灌之観其経営之費鬻彼古松老杉
充之而尚有餘社礎盆固民福○加神徳之所致可謂洵大矣住是村者
安得不厚景仰之念哉

昭和五年六月
学習院教授従四位勲三等文学博士飯島忠夫撰○

 

 細かいところは違ってるかもしれない。

・槌井神社御祭神は事代主神

・大正8年国により治水事業(堤防を造る)を行うことになった

・それに伴い住んでる人たちを移動させた

・槌井神社の社殿を改築、社務所を造る(大正12年竣工)

・改築費用捻出で境内の木々を売ったので、お金は充分に集まった

・槌井神社の神の功徳は隅々まで行きわたり、移住者たちの信仰も篤くなった

 

「槌井神社移転記」題字は横田秀雄(文久2(1862)年ー昭和13(1938)年)さん。松代藩士の家に生まれ、大審院最高裁判所の前身)の一番偉い人になった。

飯島忠夫(明治8(1875)年-昭和29(1954)年)さんは文章を手掛けたらしい。松代町出身の東洋史学者。

2人とも仰々しく肩書きが並んでいる。我が郷土から立身出世した方々のようだ。

 

槌井神社やっぱり移転していないようだ。石碑のタイトルは嘘をついている。千曲川河川事務所のサイトにこの辺りの話が載っていた。

千曲川流域の住民は大正時代まで長らく大洪水に悩まされていた。大正9(1920)年国は護岸工事を始めた。当初の予定では10年で工事終了だったが、第1次世界大戦の資材高騰・日中戦争などで工期が延びてしまう。昭和16(1941)年頃にようやく竣工。槌井神社付近とその対岸の地区は築堤により移転したおうち39戸と小学校1校という犠牲を払ったそうな。槌井神社本殿は辛うじて移転を免れた(確かにすぐ脇は堤防だった)。あの石碑が建立された時期はまだ工事終わってなかったのね、移転する予定になっていたのかしら?

 

松代藩七渡しのひとつであった寺尾の渡しは明治6(1873)年船橋(川に船を浮かべ、その上に板をわたした橋)に、明治25(1892)年寺尾橋(木製)、昭和10(1935)年川中島橋(コンクリ)、平成6(1994)年松代大橋に変化していった。石碑の頃の工事で造られたのが川中島橋だったようだ。

川中島橋通ったことある。私も知らず知らずに恩恵を受けていたらしい。

 

広告を非表示にする