お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

格致学校

今年は暑くて例年以上に死人が出ている。毎日スマホに「熱中症の恐れあり・屋外原則運動禁止」などというアラートが来る。そんなの目にすれば外に行くのはやめようと思うけど、さすがに毎日引きこもる訳にもいかず。

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擬洋風建築というジャンルの建築物が結構好きで、わりとあちこち見に行っていたけど。最近まだ見に行っていない建物が近くにあるということに気づいた。

格致学校というらしい。

明治8(1875)年の中込学校、明治9(1876)年の開智学校に触発されて建てられた明治11(1878)年竣工の小学校だそうだ。

明治5(1872)年に学制という日本初の教育法令が発布されたことがキッカケで日本各地に文明開化な感じの学校の建設ラッシュがあったようだ。山梨・静岡・長野の3県は特に擬洋風の学校を造ろうと盛り上がっていたとか。ただし名称は洋風ではなく地名だったり何かの文章から採ったりと、昔ながらの感じ。せっかくだからセントバーナード学校みたいな海外っぽい名前つけようなどというはっちゃけた文明人はいなかったのだろうか。

格致学校の名前の出典は中国の古典・大学で、「致知在格物、物格而知至」=「格物致知略して格致」からだそうな。儒教の四書(大学・孟子・中庸・論語)のうち大学は儒教の思想をまとめた本だそう。儒教を学ぶときには真っ先に大学を読め、四書の中で一番読みやすいから、と朱熹という人が言っていたぐらいに体系的な書物らしいが。実は「格物」「致知」という項目を設けていたにも関わらず、この二つの言葉の意味を全く言及せずに終わってしまっているという。この難しい言葉は昔の中国でも色々な解釈・論争を生んでいたようで。儒教の宗派で解釈が違い、しかも読み方まで変わってくる恐ろしいモノらしい。一応、格致学校の説明文には「物事の道理を究めて自分の知識を完成させる、という意味」とあった。

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明治5(1872)年の学制発布を受けて、格致学校は2つの村の組合立の学校として発足、当初は西念寺というお寺さんを仮校舎として使う。明治11(1878)年に一行寺跡に新校舎が完成したとあった。

学制では義務教育という概念はなかったらしい。明治33(1900)年まで授業料を徴収していたそうで、「小学校のわりには小さくね?」などと思ったもののお金が払える家の子だけ通学していたんなら、校舎はこの程度の規模で十分なのかと少し納得した。

小学校運営は地元民の寄付・生徒の授業料で賄われていたものの、教員は1校あたり1~2人、生徒も40~50人程度が標準だったらしい。格致学校みたいに校舎新築も地元の人間からまずお金を徴収するというスタイルなので、反対されれば寺(小学校全体の40%)や一般住宅(全体の30%)で開学となる。新しい校舎(しかも擬洋風という新ジャンル)で建てるような地区は金持ちや教育に熱心な人々が多かったんだろう。小学校設置は国策とはいえ維持費などの金を出すのは地元民だからか、政府批判の矛先が学校に向かい焼き討ちされることもあったとか。

明治19(1886)年の小学校令で「4年制の尋常小学校が義務教育」というのを初めて明文化したようだが、明治33年の小学校無償化まではやはり就学率が低かったみたい。明治6(1873)年の就学率が男子約40%、女子約15%、平均約28%。小学校設置と共にそれまであった学校(郷学校・寺子屋等の庶民教育機関、藩校など武家子弟教育機関)を全廃したとのことだが。大多数が庶民向けの教育機関だったために寺子屋等をそのまま小学校にと転換した例が多く、学制発布当初の学校規模や内容、就学率も寺子屋時代と大差ないらしい。寺子屋も授業料を取っていたそうだ。寺子屋の場合は経営者の裁量で授業料が定められ(都市部は現金払い、地方部は物納。基本的に安い)、寺子屋は家が裕福かそうでないかで授業料が変わり、江戸市中の相場が3750~12500円。藩校や郷学校は経営者が藩なので基本的に無料。明治の小学校は月50銭(10000円くらい)。お高いじゃない。寺子屋の先生というのは理想を掲げていたようで、未来ある子供達が今よりもっと良い生活が出来るようにと願い学問を教えていたとか。なので授業料は親の負担にならないよう安く、各家庭の経済状況も考えてお金のない家からはあまり多く取らず、授業料滞納した程度では追い出さなかったらしい。

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入り口。明治の創建当時のままを移築復元したということで、冷暖房なしだそう。管理の方に熱中症にならないよう、気を付けるように言われる。

まず二階へ。

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広い。この部屋は試験場らしい。

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今は坂城町の観光名所や歴史などのパネル展示があるだけだった。

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床は板張りなのにキシキシしなーい。

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↑窓の外。

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↑これ見たい。こんな感じの用水遺産というものが数カ所あるらしい。イギリス積みだのと説明文にあるので、明治時代に造った水路なのかなー?

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登ってきた階段↑

小学生の子供なら、毎年誰か1人くらいふざけて柵の間から落ちて怪我してそうだ。

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隣に一部屋、教場だそうな。

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こちらは長野県内の擬洋風建築小学校の紹介パネルが展示してあった。これを見ると半分くらいしか見に行ってない事に気付く。有名どころの中込学校、開智学校は何度か見に行っているが、和風に近い(屋根が瓦とか)校舎はあまり関心が向かず、しかしそれら建物も擬洋風建築にカウントされていたので(やっぱり一度見に行ったほうがいいのかなー?)とプレッシャーを私にかけてくる。

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ただ一時ハマって、定期的に見に行っていた聖博物館がない(ここには戦艦陸奥の主砲や自衛隊機のほか、JALのスチュワーデスの古い制服が数点展示されていたり、旧日本軍のパイロット養成課程の教科書も置いてある。昔の村長で、旧日本軍パイロット→JALパイロットという経歴の人がいたとかで、その伝手で集めたものなのかね?)。あれも擬洋風建築の小学校を移築したモノだったはずだ。調べたら、明治10(1877)年建築の旧麻績小学校校舎を昭和46(1971)年に移築とあった。格致学校より古い…。ただ、移築したときに規模を縮小しているそうで、その為このパネル上ではカウントされていないのだろうか。擬洋風小学校の是非仲間に入れておいて欲しい、と思う。 

 

一階の見学。いくつかの部屋には隣接する図書館の蔵書が置かれていた。

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古い本は展示してある。

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古い本と言ってもこんなものから↓

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こんなものまで↓

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古い教科書かなー?

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江戸時代の本がけっこうあった。

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文章規範は、漢と宋の時代の文章(散文)を古文と呼び科挙の受験対策用に名文を集めた参考書のようなものらしい。古文は唐の時代に主流だった華麗な駢体という文体に対して、古い時代の飾らない文体の方がいいんじゃないかと復興運動が起こり、科挙出身の官僚達に特にウケたものらしい。駢体は韻を踏んで美辞麗句を用い、如何に美しい文章を書くかに重点を置いたもので、文章の内容についてはどうでもいいことになっていたらしい。貴族がよく用いた文体。対して古文は史記などの歴史書などに使われた文体で、伝えたいことをハッキリ書くことに重点を置いている。

 

孟子↓も古文の時代の文章だとか。

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古文復興運動は儒教の復興運動と結びついているらしい。江戸時代には儒教朱子学)が推奨されており、その関係なのか「文章規範」は江戸後期によく読まれていたという。

 

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格致学校時代の大事なものも展示。学校の免状?許可証?みたいなものとか。何故だか釘も展示してあった。

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明治時代の有名な書家の字↑

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一階は教場5、事務所、面謁所、教員休息所、生徒休息所がある。

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一部屋、教室風にしてあった。

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開校当初のものではないとのことだが、非常に趣があり思わず「すげー」と言ってしまった。

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古いオルガンもあり、蓋を開けて少し弾かせてもらった。

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足でペダルを踏まないと音が出ないよ、と教えたにも関わらず。子供がキーを叩くも「音が出ない」とブツブツ文句言っていた。

 

一回りしたので外に出た。

外にも案内板が置いてあった。

  • 格致学校は旧埴科郡中之条村横尾村の組合立小学校として明治6(1873)年設立、仮校舎として西念寺を利用
  • 明治10(1877)年新校舎着工、工費約1381円、明治11(1878)年竣工
  • 擬洋風建築、木造二階建
  • 正面入り口のアーチ、窓、扉、石造りの基礎等が洋風。屋根、漆喰塗りの外壁等が和風。
  • 外観は装飾部分が少ない
  • 昭和37(1962)年まで使用
  • 格致学校→南条学校→安形学校→中之条尋常小学校→中之条国民学校→中之条小学校→中之条中学校→坂城中学校中之条部校 という変遷
  • 昭和57(1982)年文化財保存施設整備事業により移築復元を計画、昭和57(1982)年着工、総経費1億2070万円、昭和58(1983)年移築竣工

 

 

 

★★★★★

行って良かった、面白かった

 

 <格致学校>

創立年 明治6(1873)年