お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

諏訪大社(上社)

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久しぶりに観光地へ行った。

今回ついに!

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↑これがやっと全部集まったんだよー!

プレミアムカードも毛無峠(グンマーを代表する秘境として有名)・釜トンネル(急勾配のトンネル)・碓氷峠トンネル(明治生まれの鉄道用トンネル)・大平トンネル(トンネル…?)もすべて貰った。

 

下諏訪駅に併設している観光案内所に鉄道グッズがいっぱいあった。ここもカードの配布場所だった。

 

案内所のお爺さんは人好きな様子で、色々話した。やはりコロナのせいで「やっとカードを集められるようになったんですよ!!」とカードもらいに来た人が、私の他にもたくさんいるようだ。下諏訪町の観光地について聞いていたが、私、諏訪湖周辺に来たらほぼ下諏訪をウロウロする。岡谷とか諏訪市内には行かない。しかし今回初めて来たように装った。

 

観光案内所の隣はこんなだった。

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マニアには喜ばれそう。

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↑これが分からなかったんだけど、国鉄の切符発券システムをマルスというらしく。この本?は1985年から稼働開始のマルス301のM型端末というものに付属している、到着駅を選ぶ機器のようだ。電話交換機みたいに到着駅の穴にピンを差し込んで発券させるらしい。原始的なモノだけど、初めてオンラインシステムで全国津々浦々の国鉄駅までの切符を販売出来るようになった記念すべき機器だそうだ。このシステム登場する以前はどんな感じで切符売ってたのか想像もつかない。全部手書きだったのかな、大変だね…。

 

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ようやく運行再開した新造船も乗ってきた。3月運行開始で4月の終わりから5月いっぱいまで運休だった。水陸両用バスに至っては6月末までやっていなかった。

 

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ちょっと波があるような気がするけど、観光船は当たり前のように動いていた。

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↑操舵室。先客がいて近づけず。

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ほぼ全員マスク。日本人は対人恐怖症の人が多い(文化依存症候群ということらしい)ので、周りがマスクしていると自分もやらないと気が済まなくなっているのかな。そんな私も落ち着かないから派手な布マスクで威嚇している。

 

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その後、諏訪大社上社の前宮に行った。諏訪大社に参拝と言っても秋宮と春宮ばかりなので、こっちは初めて来たよ。

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↑溝上社

高志奴奈河比売命を祀る祠のようだ。建御名方神の母親にあたる。

 

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こんな感じの場所。

神殿跡は現在何もない。元は諏訪大社大祝の始祖と伝わる有員が初めて職に就いて以来の、大祝代々の居館跡らしい。建御名方神が8歳の童男に自分の衣を着せて「この子供が私の依り代」と宣言し、子供自身を信仰の対象とした。この子供が初代大祝の有員とされる。代々の大祝職は建御名方神の化身(現人神)として崇敬されていたが、明治になってからは「御神体は守屋山」にされてしまった。「理由は察せ」という感じの、大人の事情なんだろうかねー。

守屋山は物部守屋ゆかりの地だそうだ。古代の有力氏族で蘇我氏に滅ぼされている。物部氏の本拠地は大阪だけど、何故長野に…?

蘇我氏物部氏の戦いは丁未の乱と名付けられているが、負けた物部守屋の次男の武麿という人が諏訪大社付近に落ち延びてきて、神長官家(守矢氏)に婿入りしたとされている。この辺りには物部守屋の後裔を名乗る家がいくつも存在しているらしい。

一方で、諏訪大社の元の祭神は洩矢神(もれやのかみ)とされ、これが守矢氏の先祖ともされる。名前似ているしね。洩矢神は出雲からきた建御名方神に敗れ、諏訪大社の祭神の座を譲ったと言われているようで。守矢氏も祭祀職を大祝家に譲って諏訪大社の事務を司る神長官となったと言われている。こんなところでもひっそり国譲りしていたようだ。

諏訪大社の4つの社のうち、最も古いものが前宮であることは、上記の内容でなんとなく気付いた。前宮→本宮→春宮・秋宮(2社は同格)の順で増えていって、4社の総称が「諏訪大社」だと言うことまでは分かるんだけど、なんのために4つになったのかまでは分からず。調べてみたら、誰も分からないらしい。仮説が20個以上あるという。

 

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日本国内で最古参とも言われるような神社だけあって、大木が多い。原始的な雰囲気で、何故か親しみやすさも感じる。明るいから?

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↑この建物は「十間廊」といい、中世まで諏訪祭祀の政庁の場だったそうだ。ここで貢ぎ物を受けたという。 

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前宮の本殿。前宮の位置づけは、本宮の摂社(諏訪信仰発祥の地とはいえ、社殿は本宮に移転したので旧地となる)だったらしい。仮屋という、大祝就任の前に精進潔斎する建物があったが昭和7(1932)年に取り壊し、代わりに伊勢神宮からの古材で作った本殿を建てたそうだ。式年遷宮があったのかな? と思ったら昭和4(1929)年に終わっていたらしく、伊勢神宮の内宮とかのお古ではなさそう。でも、伊勢神宮の神様達が勝者でお諏訪さんは敗者なのに伊勢神宮の部材は屈辱じゃないの?? と思っちゃう。

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ここにも立派な御柱が並ぶ。そういえば、前回諏訪にきたときは御柱の年だった。

古い神社らしく、お清めの川も流れている。「水眼(すいが)」という名前がついているそうだ。「山中より湧出する清流は云々」と説明板にあった。山中というのは守屋山のことみたい。さっきの看板にも↓

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守屋山の中腹に「水眼」って書いてあったわ。

守屋山を越えて行く峠は「杖突峠」という名前で、この峠道は古東山道の一部だったようだ。名前の通り、杖を突かないと登れない急坂だったみたい。最初の古東山道は神坂から信濃入りして伊那→諏訪→佐久→碓氷峠で上野へ。というルートだったようだが、大宝2(702)年には善知鳥峠(筑摩)経由となり、神坂→伊那→松本→上田→小諸→軽井沢→碓氷峠という今日よく知られたルートになってしまった。

ただ、杖突峠は日本百名峠にも選ばれるほど景色の良い峠として有名らしい。

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展望台は封鎖されていたが、峠の頂上は県外ナンバーの車・バイクが多く賑やかだった。

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上手くすれば諏訪湖も眺められたらしい。コロナのせいだ。

峠道は車の通りも多かったのに、タイヤ滑らせながら降りていくスポーツカーもいた。

 

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鎌倉時代の道も遊歩道として整備されているみたい。興味あったけど、「えっやだよ」の一言で行かれなくなった。

 

前宮は明るい素朴さが売りな神社だったけど。

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本宮はいかにも歴史ある神社という荘厳な雰囲気を漂わせていた。

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明治時代まではここの場所が表参道だったんじゃないかなー? 今は別ルートが表参道っぽくなっている。

神宮寺やお堂など多くは現在存在していない(神宮寺は地名で残っているだけ)。法華寺は数十年前に再興されたようだ。

 

法華寺は歴史あるお寺さん。

  • 弘仁6(815)年、最澄により開山と伝わる
  • 天正10(1582)年、織田信長が武田討伐戦の論功行賞を行った場所。ここで、織田信長徳川家康とか家臣が大勢見ているのにドン引きするレベルで明智光秀を殴る蹴るした。その恨みで本能寺の変が…? という曰く付き。なんだ大河の聖地だったのか。
  • 元禄14(1701)年、赤穂藩主・浅野長矩江戸城内で吉良義央に斬りかかった。有名な忠臣蔵のアレ。吉良義央の孫で養嗣子だった吉良義周という人物が眠る。吉良義央の奥様が上杉富子といい、上杉家の出身。上杉家では上杉富子の兄である綱勝(享年26)が胃潰瘍?で急死し、後継者がいなかったが慌てて甥にあたる吉良家の長男(当時2才)を養子に仕立てることにした。末期養子を禁止していた幕府も折れて上杉家の存続は許したが、反則の罰として上杉家所領を半分にした。ちなみに吉良家は足利氏の庶流だけど足利宗家の当主にもなれるという家格の家(権利を持っている名門ではあるが没落した)で、先祖を辿ると関東管領の上杉家・今川家・武田家・北条家という有名戦国武将のおうちとも繋がっている。上杉家に養子に出された長男・上杉綱憲の子は男子のいなくなった吉良家に養嗣子として戻され、吉良義周に。赤穂事件で吉良義周も罪を問われ、吉良家はこの人で断絶。諏訪に流罪となり諏訪藩に幽閉。自殺の恐れありとして厳重に管理されたが、21歳で亡くなる。法華寺に葬られた。
  • 平成11年放火された。

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明治時代にガッツリ神宮寺たちが壊されて、諏訪大社上社本宮の規模が半減してしまった感じ。ちなみに神宮寺の方は空海の開山と伝わるようだ。

 

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本宮も織田信長に焼かれてしまったので、現存する建物群は江戸時代以降に建てられたものが多そう。

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木は焼けずに残っていたようだ。

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建物修復中だった。

修復されているのは長い渡り廊下だった。布橋というそうだ。ストリートビューで見ると、布橋沿いにたくさんの祠が有り色々な神様が祀られているようだ。

 

↓この建物は「勅使殿」とあった。

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勅使をお迎えした建物らしい。元禄3(1690)年創建。

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ゴザが立てかけてある建物も安永2(1773)年建立の国重文だと。

その他、境内の中の建物がおそらくすべて国重文じゃないかという勢い。

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御柱がある。

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穢れを清める小川かな。

 

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↑工事中の布橋はここに繋がっているみたい

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↑拝殿

拝殿の奥に弊殿、左に片拝殿・右に片拝殿という独特な形式。

ここが一番大事な建物(諏訪大社は古い神社なので本殿を持たない)かと思いきや、どうやら別の建物の方が重要だったらしい。

 

東宝殿

 

 

↑西宝殿

 

この二つの建物は寅年・申年で交互に立て替えがなされるそうで。御神輿などを納めておく建物で、入れ替えで遷座祭も行われるみたい。現在、御神輿は東宝殿にいらっしゃるようだ。御神輿(神様)がいらっしゃるほうが所謂本殿になるみたい。伊勢神宮みたいなシステム?

御神体のような御神輿は織田信長の兵火から守屋山へ逃げ、無事だったそうだ。

 

東宝殿・西宝殿の中間には門がある。

 

四脚門といい、本宮では一番古く、慶長13(1608)年徳川家康が寄進したものだそうだ。

もちろん磐座もあり、布橋からは見えたらしい。

そう、布橋が通れないと大事なものが何一つ見れない。

 

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↑ここは勅願殿というみたい。

国の重要文化財で、元禄3(1690)に建てられた。名前とは裏腹に天皇関係ないようだ。古い図には「祈祷所」とあるそうで、守屋山に向かって祈りを捧げる場所だったそう。こんな場所にあるのは、個人的な祈りを捧げるために作られたからみたい。

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拝殿は秋宮と同じく、立川流の建物だったみたいだー。

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★★★★★

子供は本宮おみくじを引いてご満悦だった、小吉だったよ

 

 

諏訪大社上社

創建年 不明