龍洞院というお寺に来た。
ここは地元の土豪・桑原左近大夫という人と、たまたま当地の「小坂の観音堂」に逗留し、たまたま神様のお告げを受けたという信濃国出身の高僧・恕仲天闇(貞治4/正平20(1365)年~永享9(1437)年)という人が意気投合して作ったとかいうお寺だという。元は龍燈院という寺号だったが兵火で焼失したために、永正元(1504)年桑原左近将監が現在地に移転し「龍洞院」と改称したらしい。紅葉が美しい庭園があるので有名だそうだ。
私は基本的に花が綺麗とか庭が素晴らしいとか、関心が薄いので。「今は秋じゃないから観光客もいなさそう」としか思わなかったわ。
花の美しさより、この松の根っこの方が気になる私。
山門↑ 長い参道が続いている。
私のお目当てが見えてきた。
トンネルですよ。
明治33(1900)年完成のもの。鉄道を敷くのに必要となったらしい。
どうやら鉄道敷設のため龍洞院の参道をぶった切ることになってしまったから作ってみたものらしい。トンネル付近は切り下げ、トンネル部分は切り通しにして。その上に線路敷いたという感じだな。
トンネルではなくてこれを「架道橋」というようだ。参道の上に列車用の橋を架けているという構造。
珍しいものなので、国の文化財となっている。文化庁HP「龍洞院架道橋」にはトンネルとは一切書いていないが、ビジュアルはトンネルにしか見えないよ。
本来ならまっすぐ斜面を登っていったはずの参道が強引に迂回させられている。溝も掘ってあるし、これも明治時代の遺物なのかなー?
どうやら、少し改修してあるようだ。トンネル坑門(にしか見えない)付近と中間地点では様子が違う。
コンクリ部分はどう見ても後の時代じゃない? 補強してあるんだよね。
この辺りが明治期に作られた部分らしい。煉瓦造り単アーチ橋と分類される構造で、明治時代に主に用いられていたが、大正時代に入り関東大震災で煉瓦造りは地震に弱いことが分かったために煉瓦を用いた建築が激減したそうな。
中程までは石を積み上げて支え(橋台だってさ)、天井のアーチ部分は煉瓦だった。
天井が凄く高い。車道幅ではないので、あえて天井を高くして圧迫感をなくしているのかな。通っていてもしんどくない。
短い区間だった。
橋の長さは7.4m、幅は21mとある。橋の下をくぐる道の長さ21mとなるのかな?
本堂側はこんなだった。トンネル坑門にしか見えないアレも本来なら…。
この煉瓦造りの見た目ならギリギリ「橋」に見えるよ。
貨物列車きた。
手前の煉瓦造り風の橋は車道だった。
本当なら、この姿を皆に見せたかったに違いない…車道の橋の陰となり見づらくなっている。勿体ない。
焼煉瓦・赤煉瓦で外観に変化を付けているという。私が見ても焼煉瓦と赤煉瓦の区別も付き辛い。暗くて。
とりあえず本堂の方へ。山門が見えている。
本堂は桜が満開だった。写真を撮りに来たのか老夫婦が何組もいた。
鄙びた寺院という雰囲気だ。本堂は安永元(1772)年再建。龍洞院の移転元の場所は「小坂の観音堂」とされているが、現在だとどの辺りだろう?
寺域内はこんな感じで、あちこちで桜が咲いている。賑やかだった。花なんか1ミリも興味なかったけど、なんとなく「架道橋を見に来た」という自分が恥ずかしく思えて必死に桜の写真を撮ったよ!
龍洞院の墓地を抜けると、小坂城址に至る。小坂城までのルートはいくつかあるそうだが、龍洞院の墓地を抜けていく道が大手道とされる。また、小坂城の麓に根小屋が置かれた豪族居館型山城です、という紹介を千曲市の文化財資料で見たけど。館跡が神社やお寺になっているの、よくあるし…もしかしてココ館跡なのかなー? と思った。お城・お寺に関すること、特に説明板もないので分からなかった。
★★★★★
庭園が広くて良かった
<龍洞院>
創建年 応永年間(1394~1428)