お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

大沼・隠れ窪

聖高原の山の方へ行けば、古い別荘が建ち並んでいた。

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大沼って場所まで来た。

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スズラン湖ともいい、深い谷をせき止めて造った湖だそうな。

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東南方の堤防は「ハイドロック、カーテンクラウト」という特殊工法により強固に造られているそうだ。ちなみに、山の中をウロウロしたせいでどこが東南方向なのか分からなくなっており、それっぽい部分を写真に収めてみた!

「ハイドロック」「カーテンクラウト」共によく分からず。それとなく似たような単語を探してみた。

  • ハイドロリック=油圧関係かな?
  • カーテングラウト=ダム基礎岩盤にボーリングで穴を開け、グライト(薬剤の名称らしい)を注入して設けカーテン状にし水を遮っている

特殊な薬剤を使い固めた堤防ということなのかしら? もっと分からない事に、ココの分類は「フィルダム」だそうで。つまり、ここはダム湖ってことなの? 説明板の内容分かりやすくしてよ。

 

フィルダムとは、コンクリートを使わず自然の土砂・岩を盛って造ったダムのことだそうだ。着工100年で話題になっていた台湾の烏山頭ダムセミハイドロリックフィル工法というもので造られている。ハイドロリックとかフィルとか関わり合う単語が使われているから、きっと烏山頭ダムと同じような造り方なんだろうと勝手に思った。

 

水量は8万㎥。昭和39年完成。平成13年に改修工事が行われているようだ。

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本当は北山ダムのダム湖をなんとなく目指していただけど(ダムの下からしか見たことなかったのよね)、どうやら道を間違えてしまったらしい。だけど、なんかもう十分な気がした。

 

この大沼から「福満寺」というお寺さんまでの4キロ半までの道、昭和43(1968)年から自衛隊が訓練を兼ねて敷設した道路だそう。塩那道路みたいなヤツかー。事前に知っていたら走っていたのに残念。

 

↓この道路らしい。

 

 

その時は知らなかったので、普通に元来た道を戻った。

 

途中、「かくれくぼ」という看板があったので、ちょっと車を止めた。年季の入った看板だわ。昭和39年だって。さっきのダム湖の整備と一緒に造ったんだね。

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  • 戦国時代の麻績城主服部氏は麻績城の背後が極めて脆弱であるため、この場所に度々兵を隠した
  • 「かくれくぼ」は、東北の栗林から南西の菅に至るV字の谷で下ると「地獄谷」、「佳香砥の滝」、麻績城に達する
  • 谷の長さは2km

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↑この方角に多分麻績城があるのかな。最近山に登ってないなー良い季節なので登りたいなー。

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色々な話を照らし合わせると、

  • 服部清信が領主となり麻績古城を築城
  • 子の清正が更に守りを固めるため麻績城を築城(隠れ窪は麻績城の守備用なので清正が設置?)
  • 諏訪頼重の側室の小見(麻績)の方は服部氏出身で諏訪御料人の母、武田勝頼の祖母にあたる
  • 服部氏自体は村上氏に属している
  • 菩提寺は「法善寺」だが、このお寺さんは武田家と繋がりがあるらしい(服部氏を滅ぼすためにまず法善寺を懐柔したとか)
  • 服部氏は武田方の青柳氏(青柳氏は隣の領主)に攻められ越後へ、青柳氏は麻績城と青柳城の城主となる(このタイミングで青柳氏は麻績氏を名乗る)
  • 服部氏は武田家が滅ぼされた後、上杉氏の支援を得て麻績城の城主に返り咲く(麻績清正こと服部清正)
  • 小笠原氏と上杉氏との争いになり、服部氏は青柳氏と共に小笠原氏についた
  • 麻績城は上杉氏に攻められ、服部氏は滅ぼされる
  • 青柳氏もまた小笠原氏により力を失う

という流れのようだ。

隣の領主だった青柳氏が一時麻績も支配していたものの、麻績周辺は「服部氏」一色のようだ。菩提寺の法善寺の他、海善寺というお寺さんも服部清信の兄弟が住職で。海善寺は麻績神明宮の神宮寺じゃないかとも言われているらしく、当の麻績神明宮も宮司家の養子として服部清信の兄弟が入っているそうだ。

菩提寺の法善寺は信濃三十三観音霊場の第1番札所となっている。聖博物館の現在のメインテーマである信濃三十三観音霊場ですよ。麻績村で一番大きなお寺さんじゃないのかな?

こんな服部好きっぽい場所なのに、多分服部氏は村から完全にいなくなってそうな雰囲気。隣の領主だった青柳氏とは違うね(確か青柳宿本陣家として存続していたはず)。寂しい。

 

あと、ハットリっていえば忍者でしょ…? 麻績村誌の目次だけ見られたんだけど、その中に「服部氏・伊賀氏の入部」とか「服部伊賀守」とかいう文字が踊ってた。やっぱり忍者なのか!

 

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兵を隠したとかいう谷だけど、とにかくスケールが大きく。数千人いけるんじゃないの? という規模のように思えた。谷底に別荘らしき建物が点在しているんだけど、今居る場所からだと相当下に見える。広いんじゃないかなー? これじゃ隠した兵士も迷子になるんじゃない?

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説明板にあった「佳香砥の滝」は風光明媚な滝だそう。

 

 

 ★★☆☆☆

大沼の説明板、少し考え直した方がいいんじゃないかと思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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近所の隠れている豚カツ屋さん。場所は下調べしなければ辿り着けない。その反面、非常に有名な店。平日行ったにも関わらず客が多め。1/3くらいが予約客っぽい(予約しないと食べられないと考える常連さん達だろうか)。

良い肉であることはもちろん料理の腕が良くないとここまで美味しくならないよね、と確信した。どうやったら料理って美味しく作れるようになるの? まずは肉叩き買ってみようかな。

聖高原

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昔よく見に来ていた聖博物館がリニューアルした。平成24(2012)年と平成26(2014)に行ったようだ。

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昔、雪が降る猿ヶ馬場峠を6人の旅人が歩いていたが、道を踏み外し聖湖にドボンして死んだ。不憫に思った村人は道標兼供養塔として6基の地蔵を建てた。という内容の案内板があった。

外の公園は無料で入り放題。

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ここには他にも石仏がいらっしゃる。

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↑なんて書いてあるのか分からない石碑。村境碑かなー? なんか埋まっちゃってない?

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↑井戸?

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馬頭観音とか。

峠にはたくさん石碑がある。多ければ多いほど難所だったんだろうな、思う。元は別の場所にあったようだが、すべて博物館の敷地内に移動させてきているらしい。

 

外には飛行機さんたちがたくさん!

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↑F86セイバー

1944年よりアメリカ空軍が開発を始めたジェット戦闘機。1947年初飛行。1950年代以降世界中の空を飛び(もちろん日本にもいた)、朝鮮戦争で活躍し、その後は空対空ミサイルを配備した機体が成果を上げたので9860機も生産された名機だそうだ。日本では1955年より配備され始め、航空自衛隊主力戦闘機として435機も運用された。愛称は「旭光」。ブルーインパルスとかで使われたらしい。1982年退役。

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前は乗れた気がする。さすがに劣化酷すぎてカバーかけたんだな…。

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↑T-34 はつかぜ

レシプロ機。Tが示すように練習機、しかも航空学生が初めて乗る飛行機らしい。1948年初飛行。コレをベースに改良していった練習機が国産されている。現役はT-7というタイプで2003年から。今はターボプロップエンジンを積んでいるようだ。
 

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軍艦陸奥(主砲のみ)。

この軍艦、戦時中に謎の爆発で沈んだ後、戦後引き上げられ日本各地で部品が展示されているみたい。こんな山奥にも一部運ばれた。ここまで運ばれたいきさつが書かれていた。

  • 戦争で日本国土のすべてが悲惨な不幸に遭ったが、その代表の一つが戦艦陸奥の爆発
  • 原因不明(人為的と結論づけられた)で爆発し、乗員1221名が艦と共に瀬戸内海に沈んだ
  • 27年後に変わり果てた姿で引き上げられた
  • 戦争の犠牲は繰り返してはならぬ、戦争が起きなければ目にすることはない悲惨な事実を「戦争を起こさない平和を願う象徴」としたい
  • 戦艦陸奥の主砲を展示すること=悲惨な事実=平和を願う象徴
  • また、戦艦陸奥は我が国の造船技術の粋を集めた世界最強の軍艦のひとつ(当時は戦艦ビッグ7のひとつに数えられた)であり、技術の結晶である陸奥の一部を展示することで我々の技術を誇りたい

ということらしい。

陸奥長門と交代で連合艦隊の旗艦となっていたし、ワシントン海軍軍縮条約で問題視されたとかいう戦艦でもあるため当時は知名度が抜群であったらしい。私のような者ですら長門陸奥は聞き覚えがあるしねー。

軍事技術が民間転用されたものなんて山ほどあるし(むしろ軍事と一切関わりなく開発されたものは存在しなさそう)、軍事関連排除すると生活出来なさそう。多分、陸奥を造ったときの技術は今もどこかで役立ってるんじゃないかなー。

 

最後に「平和を欲するならば戦争を理解せよ」というリテルハートという人(バジル・リデル=ハートのことかなー? ナイトの称号を持つイギリスの軍事評論家)の言葉で締めくくられていた。リデルハートは「間接的アプローチ」という戦略を提唱した人として知られるらしい。これは、武力を行使し正面から敵とぶつかるのではなく、経済封鎖したり物資の輸送を邪魔したり兵站や指揮系統を壊したり、武力衝突以外のあらゆる手段で相手を弱体化させ、戦争をせずに勝つ方法のことのようだ。現代的な感覚・考え方に近い感じなのかな?

 

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↑Fー104 スターファイター

説明板には「この飛行機はマッハ1.5級の某国爆撃機を迎撃する目的で開発されたマッハ2級の要撃飛行機である」と書いてあった。某国かあ。ちなみに、使用国として「西ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、カナダ等」とあった。察して欲しい、というやつか。つまり「マッハ1.5級の某国爆撃機」=MiGー15なのね。

1954年初飛行。F-104を開発したアメリカではあまり使用されずに西側諸国メインで配備されていって、2004年のイタリア軍で退役を迎えた。一方、MiGー15は運用中かも(北朝鮮)というところ。

製造はロッキード社で、展示機体は日本国内でライセンス生産されたものだそう。自衛隊でも1961年から計230機導入したけど事故が起きたりで、1974年には後継機選定作業が始まる。1986年退役。後継機のF-15Jは1981年配備で近代化改修されつつ現役だってさ。

その後はこの機体はアメリカに返還されたり、バラして他の武器にされたり、「標的機」として無人化改造された。「標的機」は1997年に最後の機体が撃墜。これはこれですごい一生だわ。

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エンジンは抜かれていた。屋内展示されていた。

 

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↑D51 蒸気機関車

ひっそりとこんな奴までいたよ。

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昭和11年、国鉄の技術の粋を集めて誕生したそうで。計1115両の、日本における機関車の形式で最も造られたタイプだそうだ。

このD51ー769は昭和18年生まれ。東北本線北陸本線中央西線と走って昭和47年使用停止。当時の金額で400万円余りをかけて、麻績駅(聖高原駅)からこの場所に安置された。麻績駅からは随分離れているが「どうやって持ってきたか」については屋内展示に答えがありました。

 

この機関車も運転台まで覗けた気がする。この機関車にATS表示灯がついておりドン引きして鉄道マニアに話したところ、昭和40年代なんて普通にあったよATSって返された。どうやら、昭和41年に国鉄全線でATS導入されたようだ。どうやって電源取っているんだ…と思ったら発電機(タービン式)もバッテリーも積んでいるんだそう(前照灯とかでも電気必要みたい)。水と石炭だけで引退まで動いていたような、超アナログなイメージしかなかったので、蒸気機関車に申し訳ないと思った。

麻績駅のある篠ノ井線は昭和45年まで蒸気機関車が走っていたようだ。その年ディーゼル機関車が配備されたらしい。こちらも「科学と技術の変遷を探求する教材として」と書かれていた。

 

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他に何か(Cー46らしい)のコックピットだけあった記憶があるんだけど、なくなっている。

 

室内展示にも行った。

ミニ博物館になっていた。なんと、中身は「善光寺街道と信仰」みたいなテーマで統一されていた。以前の雑多な雰囲気がなくなってしまい、すっきりした品行方正な優等生風になってしまった。昔はホルマリン漬けのケースや剥製が並び(これはおそらく麻績小学校で使われていたモノだと思われる)、村内の家々から寄付されたであろう昔の生活用品が並び、ごちゃごちゃしていた。航空博物館はパイロット候補生の教科書や細々したグッズが展示される一方、JALの昔のスチュワーデス制服だとかパラシュートとか訳分からんものがたくさんあった。それがないんだけど…あれが良かったんだけど…。

 

現在は仏像が多い。小さい仏像が凄い数並んでた。仏像を趣味で彫っていた人の作品だそうだ。一部しか展示されていないということだが、それでも大量だった。

あとは「信濃三十三観音霊場」の紹介で、その中のお寺さんをいくつか行ったことがあったね、ぐらいで終わる。さくっと見て回れる程度だった。12月から冬季休館に入るからと折り紙作品を色々とお土産で頂いた。

 

帰りに受付のお姉さんに話を伺ったところ。

  • ホルマリン漬けとかはどこかに仕舞ってあると思う
  • 軍関係は自衛隊にお借りしていたので返したと思う

JAL関係は聞かなかったが…こちらも返したのだろうか。軍関係のは充実してたんだよ、そりゃ自衛隊だって欲しいかも。JAL関連も然り。ホルマリン漬けだって欲しい博物館はあると思うわ。

お姉さんはこれ以上詳しく話したくなさそうだったが、昔の展示物の所在は訪問客からよく聞かれているような雰囲気。特にホルマリン漬けは「子供に見せたかった」という人が結構いるんで、と言っていた。昔の小学校にはありがちだったかもしれないが、私の小学生時分は学校で見た記憶が無いわ。

 

その後はランチですよ。

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S660は路駐だが、運転者がインスタ映えを狙ってあらゆる角度から車の写真を撮っていた。我々がその姿を眺めていたことを気付いていない。ここ景色がいいしね。

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子供は「そばを寄越せ」しか言わないので、メニューに悩むことがない。ネットで見かけたビーフシチューが食べたかったが現在はメニューになく。オススメのシードルで煮込んだロールキャベツを食べた。

 

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聖湖は物凄く寒かったのに釣り客がいっぱいいたよ。

 

 

★★☆☆☆

前が良かった…

 

 

<聖博物館>

開館 昭和40(1965)年

岩松院館

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小学校の遠足だか社会科見学で来た(記憶がある)岩松院。ここは葛飾北斎の天井絵「八方睨み鳳凰図」があることでも知られる。絵は「どこで見上げても鳳凰と目が合う!」という触れ込みだが、当時の私は「目ぜんぜん合わないんだけどw」と思った。その所為で天井絵・岩松院のことを覚えていた。まあ心の清い人だけ目が合うように設計されているのかもしれない。

 

ここは地元の土豪・荻野さんの館跡だと伝わり、詰めの城は背後に見える山中にある雁田城らしい。雁田城は雁田小城・雁田大城からなる複合施設のようで、岩松院の背後の瘤みたいに盛り上がった部分に雁田大城がある。

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雁田大城より奥に進むと「千僧坊」という表示がある。これは滝の入城の郭の一つ。千僧坊から姥石方面に曲がらず、尾根伝いに登ると滝の入城の本郭に到達できる。この地図には載っていないが、どうやら滝の入城の住所が隣村(高山村)になってしまうらしく、そのため小布施町のハイキングコースには含まれないようにしているのかも?

千僧坊現地の案内板には「岩松院の前身である千僧林念仏寺から名付けられているが、ここに念仏寺があった訳ではない。寺址ではなく城址の一部と思われる」と書かれているようだ。隣村の城「滝の入城」には触れない。滝の入城は近隣で最も高い所となるようだ。

滝の入城から、北西の尾根を麓に向かって下りていくと「二十端(つつはた)城」というお城がある。二十端城は一の城・二の城・三の城・四の城・五の城からなる。雁田山周辺はお城だらけ。やだー大規模要塞じゃないの。

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ちなみに雁田(苅田)城は、東条荘苅田郷の領主だった平(苅田)繁雅が造ったとも言われる。元暦元(1184)年、源頼朝が東条庄のうち高井郡狩田郷の領主職を平繁雅に戻すと認めた。源平合戦で旧領を失っていた平繁雅が嘆願を出していたらしい。平家(越後平氏)の傍流で、横田河原の戦いをもちろん平氏方(新潟から来た城氏の配下)として戦い、負けてしまったみたい。

だが、この人は平家にも近いが鎌倉幕府源頼朝)にも近い北白河院(彼女の祖母は源頼朝の命の恩人であり、平清盛の継母である池禅尼)という女院の側近(平繁雅の奥さんが北白河院の乳母をつとめ、夫婦で養育に当たっていた)だったようで、その縁で旧領復帰出来たのかもしれない。平清盛の曾孫に当たる男子と平繁雅の孫が結婚しているという感じで、血縁では平家が濃く、源氏とは婚姻関係なし。

また東条庄は八条院領に含まれる。八条院領は北白河院の夫(後高倉院)から娘(安嘉門院)に相続されたが、実質的に管理していたのが北白河院らしい。八条院領は以仁王と源氏の挙兵と関係が深い。

平繁雅本人は皇族に仕える身なので、在京し続けたようだ。雁田城には関わりがあるようだが、麓の岩松院館とは関係ないっぽい。

 

二十端城は荻野氏(初代は荻野常倫というらしい)が造ったと伝わる。荻野氏は高井郡の名家・(信濃源氏)井上氏の庶流と言われる。

  1. 井上満実の三男・家光が、保元3(1158)年に丹波国芦田庄(兵庫県丹波市)へ配流される
  2. 以後、この系統は流刑先の地名「芦田」を名乗る
  3. 建保3(1215)、芦田為家が父から所領を分知され、移り住んだ地名から赤井氏を称する
  4. 赤井(芦田)為家の次男・重家(朝忠)は家督を継げなかったが為家から領地を分けてもらい、荻野家を興した
  5. この萩野一族出身・萩野常倫が小布施の地頭として赴任してきた?

という説があるそう。ああ里帰りかー。

  1. 太平記に出てくる「丹波国の住人荻野彦六朝忠」(この人は太平記の作者とも言われる児島高徳と行動を共にしていたので、”太平記”中では活躍する)
  2. 正慶2/元弘3(1333)年、後醍醐天皇挙兵に応じて参戦→敗北
  3. 足利尊氏の配下になる
  4. 貞和元/興国6(1345)年、足利尊氏と戦う→敗北
  5. 貞和4/正平3(1348)年、高師直の配下として新田と戦う
  6. 文和2/正平8(1353)年、新田と戦う→敗北→以後不明
  7. そんな萩野朝忠の子? 荻野常倫が小布施に赴任

 

小布施史では、室町時代初め荻野常倫が故郷の丹波国から栗の木を持ってきて植えたことから、栗の生産が盛んになった、とある。丹波栗は古事記日本書紀万葉集にも登場するほど歴史ある丹波国の名産品だそうだ。

小布施町公式では、貞治6(1367)年に荻野常倫が二十端城を築いたことになっている。ただ、荻野常倫本人は記録がほぼ無く謎の人物とされる。

 

永享2(1430)年、浄土教系の念仏寺が建てられ、その後の文明4(1472)年に同じ場所で改めて荻野常倫が開基となり、建てたお寺が曹洞宗の岩松院だという。えらい長生きだなと思ったが、恐らく荻野常倫と荻野氏歴代の菩提寺として建てられたんじゃないかなー?

 

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お寺の周りにはお堀の成れの果て? みたいなものもあった。

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山門。

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仁王さん。

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↑あの山の中に雁田小城があるらしい。

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雁田城登山道はお寺の脇道から↑

 

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お寺は周囲より高い。

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ゴツい石垣の上にある。

登り切った先には。

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小布施観音というらしい。永遠の平和を祈念。

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こちらが岩松院本堂。ちょこっと見える鳳凰図が件の「どこでも目が合うよ」という天井絵のレプリカと思われる。どうせ今日改めて見たって目が合うとは思えないわ。

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謎の石柱もあった。意味が分からなすぎるので調べると、「祭屋台の像”皇孫勝”が完成した旨の報告文」だという。皇孫勝(公孫勝)は水滸伝に出てくる道士で変な術を使うヤツらしい。

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五七桐の紋があしらわれている。これは内閣総理大臣の紋章でもあり、現在の日本国政府の紋章として使われているもの。歴史上大切な紋章で、室町時代室町幕府が貨幣に刻印して以降、天皇から賜った「政権担当者を示す紋章」とされているみたい。一応豊臣政権まで菊のご紋に次ぐ格式の紋として使われていた。江戸時代に徳川家が使用制限しなかったために菊のご紋と同様、自由使用となって庶民の間で流行ったみたい。その後、明治時代に入り「政権担当者=政府を示す紋章」として格式が復活した。

 

ただ、このお寺に桐の紋章があるのはこの人↓の菩提寺でもあるからと思われる。

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豊臣氏の家紋が五七桐で、この人豊臣姓を下賜されて公的文書での名前が「豊臣正則」だそうだから、桐紋も使ってるんじゃないかな。

 

福島正則公霊廟がある。標柱の側面には、

広島49万石より信越4万5千石に流され居ること6年、寛永元(1624)年歿す

と書かれていた。

負けたくないな負けるの嫌だな、と思わせる一文ね。

 

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本堂の裏。なんかあるよ。

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ここにも石垣が。

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本堂より高い位置にある。

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小布施は福島正則推しなのか? なんの関係の幟なのかと思ったら、福島正則の野外劇やった名残りみたい。

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霊廟は立派だった。

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その辺の墓地とは違うぞ。格式高い墓地。

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先ほどの雁田城に向かう登山道もあったよ。墓地へのスロープも兼ねているのかな。折角だからこちらの道を下ってみる。

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なんかの石碑あった。

高井鴻山の顕彰碑らしい。碑文の内容を記した説明板もあったが、文章が長くて長くて…頭に入ってこなかったよ。公爵徳川家達が揮毫、文学博士三島毅が撰文ぐらい読まなかった。

 

三島毅は幕末から大正にかけて活躍した漢学者で、松山藩の藩校の教授→東京帝国大学の教授→東宮御用掛(東宮の家庭教師)を歴任した凄い人らしい。

公爵徳川家達は徳川宗家の第16代当主。徳川家達の母親は高井武子(生家は津田氏で津田梅子の伯母)というそうだけど、ひょっとして高井鴻山と関係があるのだろうか?  単に母方の姓と同じだね☆ってだけで揮毫してくれたのかな(徳川家達の生家の田安家の家臣に高井氏がおり、高井氏は田安徳川家が創設された際に召し抱えられた家柄らしい)? 太っ腹なのかな? そもそも高井鴻山って本名「市村健」ってwikiに書いてあったわ(石碑の横の石柱には「贈従五位 高井健」の文字が)。

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↑何一つ頭に入らなかった文章

 

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↑こちらは本堂落成記念?(読めなかった)

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山門の近くまで下りてきた。

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湧き水がある様子。

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案内板には、

  • 弁天池清水
    この池の水は雁田山の沢に集まった水が崩壊した溶岩岩塊の中を通り抜けて湧き出してきたもの
    中性で鉄分を含まない
    お茶の水としては最高で、旨味を倍加する
    珪酸の微粒子を含むので白濁しているが、逆に胃腸の健康維持には良い
    まさに霊泉だ

とあった。わりと水量少なめ。持ち帰っている人もいないのでは…? という雰囲気ではある。

 

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夕方に近かったが、疎らに人影はあった。そしてタクシーで乗り付けてきた、慌てた風の若者に「ここって天井絵ありますよね? まだ見られます?」などと話しかけられた。本堂に券売機あったけど…? って言っただけで若者は風のように走り去っていった。あの人、鳳凰と目が合うといいね! と思いつつ帰途についた。

 

 

★★★★☆

「49万石から4万5千石に減らされた流人」という短文が一番心に響いた

 

 

<岩松院館>

築城年 不明

築城主 荻野常倫?

小布施陣屋

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栗の季節。小布施は物凄く混んでいた。

 

元禄14(1701)年から15年間、小布施陣屋という代官所が置かれたそうだ。

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この祠(稲荷社)がある場所が陣屋の入り口らしい。

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この小道の先が谷街道(現国道403号線)で、昔からのメインストリートである。小道は陣屋小路と呼ばれていたそうだ。

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小布施陣屋があった場所は↓

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現在は駐車場となっている。

説明板には、代官「市川孫右衛門」なる人物の名前しか出てこないが、この人が15年間面倒みたということなのかな? 全く同時期に佐久郡の前山陣屋・高野町陣屋も支配していたようで、あちこちの天領の代官を兼務しているっぽい。

陣屋の規模は46坪、支配地域は「高井郡の六川・清水・中子塚・松村新田・雁田・福原新田・大島・小布施(以上、現・小布施町)、駒場・中山田・奥山田・牧・黒部(以上、現・高山村)、桜沢(現・中野市)、塩野・亀倉・栃倉・村山・米子・中島・井上・相之島(以上、現・須坂市)、そのほか水内郡の16ヶ村(現・長野市)」で石高1万9千石余りだそう。

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↑左側が駐車場。

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江戸時代の家は間口(玄関)の 広さに応じて税金をかけていた(天明6年、間口税)そうで、小布施陣屋周辺の住宅地図も細長い家が建ち並んでいる。よく見ると元陣屋って書いてあった。さすがに代官所だった土地には税金かからないのかな、敷地が細長くないねー。

 

陣屋跡に隣接する建物↓

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古そうに見えるけど、新しいのかも。某栗菓子店の団体客が専用で使えるものらしい。

 

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↑旧小布施陣屋。長野ナンバー車なんて私ぐらいだった。

 

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ちなみに、旧小布施陣屋は周りより低い?ようだ。

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古いのか新しいのかよく分からない建物が混在。ここは妻籠宿や奈良井宿みたいな「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されておらず、景観に溶け込めるなら新しい建物でも何でもOKみたいな世界観らしい。

 

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谷街道を渡っていくと、

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左側の市村家(小布施を統べるだいじんこ)は古いだろうが、右側の各種土産物屋は古くなさそう。

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「朱雀」期間中は通れません。と書いてあった。じゃあ、朱雀期間終わったら通れるのかね?

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入り口はココだった。朱雀、今年度分はすべて終了だと。今年は新型コロナのせいで席はすべて前売りで整理券配布方式ではなかったようだ。

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アレ一度食べてみたいけど…並ぶとかがね…。

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市神という神様。元は延暦14(795)年、京都の官設の市場である東市・西市に建てられた宗像三女神らしい。要は市場の神様で、小布施にも市があったから建てられたのかも? というニュアンスの説明板が傍らにあった。谷街道と谷脇街道の交差点という人通りの多い場所に鎮座。

 

脇街道長野市と小布施を繋ぐ道で、谷街道をショートカットする(須坂を経由しない)道だったようだ。

 

★★☆☆☆

目当ての飲食店は軒並み1~2時間待ち。こんな時期に行っちゃいけないわね。

 

<小布施陣屋>

築城年 元禄14(1701)年

 

 

 

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初めて入った近所のレストランにて。

デザートのボリュームが凄かった。やっと1人で外食出来るようになった嬉しい。

伊勢社(東福寺)

子供を連れて製作体験しに行き、公園の無料駐車場に車を止めておいた。体験終了後は公園で遊んでいて。満足したので車まで戻ろうとしたら、近くで路駐している車とその周りを忙しくウロウロしているおじさんがいた。おじさんは私の車を妙に気にしていることに気付いた。よく見れば公園の無料駐車場の位置が以前と少し変わっており、止めた位置が月極駐車場?になっているような?

まずい、もしかして借り主がいる駐車区画に止めてる!? 怒られちゃう!! と内心慌てていた。子供を急き立て乗せていたが間に合わず、おじさんはこちらに来てしまった。

「ねーこの車、オタクの?」

「ハイすみません」

緊張が極限に達した。が、おじさんは怒らなかった。

「ちょっとクラッチ踏ませてもらえない?」

よーく話を聞くと、お子さんが私と同車種同グレードの車に乗っているが最近調子が悪く(クラッチがどうとか)おじさんもお子さんの車をいじったりしたが原因がよく分からないので、他の車の踏み具合がどんな感じなのか知りたかったそうだ。

おじさんはこの時、会社名の入った車&会社制服で来ていたので、少し安心して話をした。私のものとは製造年や細かい部分が違うので、参考になったか分からないが何か満足していった様子で良かった…というか、私の車なんかよく見かける車種でスポーツカーの類いじゃないのに、よくもMT車だと見破ったな。同グレードのを見かけるたび中を覗き込んでいたのかな? お子さんもわざわざMT探して買ったらしい。とにかくトラブルにならず良かったよ。

 

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東福寺村で唯一合祀されなかった伊勢社。 葡萄畑が広がる場所にあった。

 

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美味そう。

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何かの記念碑があったが、何の記念碑か分からず。句碑かなー?

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境内には摂社がズラリ。祠や石仏自体は古そうなのに土台は新しめ。

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こちらの養蚕社・天神社も覆い屋とか新しめ。

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金毘羅さんとか。

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本殿はこちら。

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やっぱり新しめ。

 

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説明板には、

  • 中澤村の村社で大日霊尊(天照大御神)が御祭神
  • 第二十二代清寧天皇雄略天皇の皇子)が草創
  • 大同3(808)年、坂上田村麻呂により造営
  • 安元2(1176)年、布施八郎が一部造営
  • 永禄4(1561)年9月10日、兵火により社殿焼失
  • 永禄6(1563)年10月8日、武田晴信(信玄)が自軍の基地として再建、勝利を伏して祈願し「八幡原」に出征したと伝わる
  • 中世末期には庶民の間で「一度は伊勢に参拝すべき」という概念が生まれ、村人達がお金を集め代表者が参拝するなどした(らしい。この辺りは字が読めなくなっていた。お蔭参りの説明だと思われる)
  • 当神社も地域の人々からの信仰を集めた
  • 寛保2(1742)年、洪水で社殿・宝物が流出
  • 延享3(1746)年、氏子により再建
  • 平成12(2000)年、千曲川堤防工事のため現在地に移転

 

説明板、水跡でボロボロになっており(去年の台風のせいかもしれない)、下半分がほぼ読めない。多分上記のような内容だと思う。

 

創建は雄略天皇の次代、清寧天皇らしい。雄略天皇は中国の「宋書」にも出てくる倭王・武だとされ、出土品からもその他資料からも武=雄略天皇がほぼ確実である、とされる。471年には天皇位にいたらしい。雄略天皇は日本国内の有力豪族を駆逐しヤマト政権を成立させ、朝鮮半島まで出兵し高句麗新羅と戦った(広開土王碑)り、百済国と関係を結んで色々やっていたらしい。どうやらこの時期の日本はイケイケドンドンで、元々朝鮮半島の南にあった任那を足がかりに滅亡しそうな百済とかを併合しようとしたようだ。また雄略天皇伊勢神宮外宮を創建した。

その次代の清寧天皇は若くして髪の毛が真っ白だったようで、白髪皇子と呼ばれていたらしい。普通と違うから「凄い力があるんじゃないか」という理由で皇太子になった。清寧天皇アルビノだったんじゃないかと思った。アルビノは人間・動物に限らず、吉兆の印とかで信仰の対象だったらしい。白蛇信仰みたいな。在位5年間子はなく、(雄略天皇を恨んでいると思われる)ハトコ2人を養子にしていた。二十歳ぐらいで崩御。すべて5世紀末の出来事らしい。

 

大同3(808)年の坂上田村麻呂はもう東北平定を終えていた。都にいたらしい。

東北へ進軍する途中で神社建ててみたよ、ということではないらしい。

 

安元2(1176)年に増築したらしい布施八郎というのは、布施御厨の主かなー? 鎌倉時代に編纂された歴史書吾妻鏡の中の、文治2(1186)年3月の記事に「布施御厨」が出てくる。コレが初出らしい。当該記事の内容は<朝廷より、源頼朝知行国のうち「朝廷への年貢が未納」という荘園等の名簿が到着した。そこで官吏らに催促させた><添付の名簿(荘園名が羅列)>だった。

保元の乱(1156)で崇徳上皇方に付き、破れた平正弘の息子・布施惟俊が父の旧領のひとつ布施御厨に土着したそうなので、年代的に布施惟俊本人かその息子が「布施八郎」だと思われる。

 

「永禄4年9月10日」は第4次川中島合戦当日で、ここには上杉軍の部隊が展開されており。武田軍本隊から分かれて、上杉軍を挟み撃ちする予定の部隊が八幡原へ向かう途中の東福寺地区で上杉軍とぶつかったそうだ。で、社殿が焼失したのかな。

 

永禄6(1563)年は第4次川中島合戦と第5次川中島合戦の間の年。「八幡原」は第4次における主戦場だった。第4次以降「八幡原」で戦うことはない。また、この年は群馬県で両者は戦っていた。誤記かね? と思ったけど説明板には「永禄6年10月8日」と具体的な日付まで書かれている…多分戦勝祈願かなんかやった日かなー? だけど激しい戦闘が起こった場所なら拠点化して備えるのは当たり前の事なのかも。

 

お蔭参り(伊勢神宮参拝の旅)は、

  1. 戦国時代が終わりに近づき、荒廃した伊勢大社を立て直すために各地で布教活動する
  2. 庶民の移動制限はキツかったが、伊勢神宮参拝などの寺社参拝目的なら簡単に通行手形がもらえる
  3. 皆で少しづつお金を積み立てて代表者を決めて旅行させる(積み立てている参加者が必ず旅行できるような仕組み)
  4. 日本各地から参詣者が集まる伊勢大社のお土産は、農産物の種とか最新の農機具などの品物だけでなく、有益な知識技術、流行、音楽芸能、工芸品、いろいろな話題。農村発展に寄与していた
  5. もし途中でお金が尽きたり或いはお金ないのに旅行しても、道中至る所で施しが受けられ、そんなに困らなかったらしい
  6. 信心からの旅行なので誰も止めてはならない、ある日突然お蔭参りしに出かけてもOK

庶民にも神社側にも利益があったため、盛んに行われたらしい。失踪しても伊勢神宮の御札持ち帰れば誰も咎めないし、(道すがらクレクレすれば多分)タダで旅行出来るなんて最高だよ。

 

寛保2(1742)年8月2日、所謂「戌の満水」で社殿宝物が流出したようだ。去年の台風19号と同じような経過で、江戸(東京)も台風直撃し、利根川荒川多摩川が氾濫→長野県内も大雨であちこちの川が氾濫する、長野県の東北信や中信の一部河川は最終的に千曲川に集約される、主な河川と合流後の千曲川が無敵状態→皆流される、な感じ。

多分、現代より治水技術が劣っているだろうから去年の台風なんかより被害はずっと大きかっただろうし。

 

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この近くでは「洪水怖い」という感じの祠があったよ。

 

2年後に社殿再建。

 

 

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武田信玄が拠点化したという話は有り得る気がするけど、神社の元の場所は現在堤防の下らしい。

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こんな御神木みたいな巨木も残っているので、ひょっとしたら一部昔の伊勢社跡も残っているかもしれないが。土塁・堀みたいなのは分からなかった。

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★☆☆☆☆

もし土塁とか残ってたら良かったなー。

 

<伊勢社>

創建年 5世紀?

 

 

 

 

 

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商工会が主体になって運営している(多分)カフェの企画レストラン。

「秋刀魚のグラタン」というメニューがあり、食べる前から恐れおののいていたが…この中で一番美味しかった。あまりにも美味しすぎて、そのお店で売っていた中東の民族衣装を買い、LINEで家族に報告するも「イスラム…?」と引かれた。

東福寺神社

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昔の東福寺村にあったから「東福寺神社」というみたい。村の中心が東福寺というお寺だったとか? 東福寺なかった。

大昔には存在していたそうで。養和元(1181)年の横田河原の戦いで、東福寺という寺が燃えてしまい以後再建されず。ただ地名として「東福寺」が残っているらしい。

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東福寺観音堂に安置されている観音像が東福寺の御本尊だったと言われている。

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十一面観音像で池田宮(現在の東福寺神社)にあった樅の木で行基(668~749)が造ったとか書いてあった。

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まだ新しいお堂で、物凄く良い匂いを漂わせていた。

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東福寺村は千曲川のほとり(横田河原にも近い)にあるため度々氾濫していたようだ。

去年の台風19号(正式名称・令和元年東日本台風)も近隣の小森地区や横田地区、対岸の松代町千曲市雨宮も氾濫。昔から氾濫しやすい場所は変わらないようだ。

氾濫しやすいので土壌が豊からしく、物凄く昔から人が住んでいる地区でもある。東福寺神社も古いのか? と期待したがこちらは新しい。明治40年の内務省訓令で村社合併しろというお達しがあったようで、明治41年に東福寺村に散らばっていた4つの神社を合祀して新しく「東福寺神社」を創建したそうだ。

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現地の案内板には、各地区の村社をまとめたとあり

  1. 東福寺村上組:南宮社、健御名方神
  2. 東福寺村中組:池田社、健御名方神
  3. 東福寺村下組と上庭:鹿島社、御雷
  4. 東福寺村北小森:諏訪社(勘助宮)、健御名方神

を合祀したと書いてあった。

 

訪れた当日、神社の境内に氏子さんたちがいて少し話をした。で、東福寺神社のチラシをいただいた。そこには、

  1. 上組:南宮社、金山彦神
  2. 中組:池田社、健御名方神
  3. 上庭:鹿島社、御雷
  4. 北小森:猿田彦社、猿田彦神

の4神を祀っているとあった。看板の内容とは御祭神が変わっている。明治時代の古地図では東福寺村内に「池田社」「南宮社」「鹿島社」「勘助宮」「伊勢社」の5社があったようだ。伊勢社は現存している。池田社だった場所に新しく東福寺神社を創建。

勘助宮跡地には来歴を示す石碑があり、そこには「北小森集落の氏神健御名方神を祀る諏訪社があった」「明治期に東福寺神社に合祀された」とあった。

 

 

美濃国一宮に南宮大社という大きな神社があり、その神社の御祭神が金山彦神だった。そこから勧請したのが南宮社という説明がいただいたチラシに書かれていた。猿田彦社は…ちょっと探したけどなかったです。勘助宮(諏訪社)の摂社だったのかも? 東福寺神社は4社合祀だけど3/4は健御名方神だしね。

各神社の摂社が集まってる。

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御神木もあった。ボロボロだったが、葉っぱを生い茂らせている。

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この日はお祭りだったようだ(台風災害除けを願う祭日)。だから氏子さんがいたのね。

 

★★★★★

長野オリンピックスタジアムの横にあり、南長野運動公園氏神様であるそうだ

 

 

東福寺神社>

創建年 明治41(1908)年

御祭神 健御名方神金山彦神御雷神・猿田彦神

観龍寺

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↑こういうのを見に行った。

実は子供が発表してきた「楽しかった夏休みの思い出」が「家でテレビを見たこと(特に金ローでやってたトトロ)」だったらしいので、自分の中でモヤってしまい、とにかくどこか連れて行かなきゃという気分になった。ご時世的に「家で過ごした」は大正解なんだろうけど。

そして何故か、酒の企画展に行くことにした。この施設には去年秋の国宝土偶展見てきた以来。あら私何気に通ってるわね。

常設展示も見てきた。子供は屋内展示初めてかも。室内は暗く、古代・中世・近世とそれぞれの住居を再現している。季節柄か、子供はお化け屋敷と勘違いしたらしい。最後までビクビクしていた。何も出てこないから。

 

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前々から気になっていた、某UMAの名前の店で優雅なランチタイムですよ。某UMAは日本酒が好きで、2メートルもの高さを飛び、降りは(高いところより転がってくるから)早いが登りは苦手。なにそれ怖い。長野県内から出土した縄文土器茅野市の尖石考古館にある土器のようだ)にもそれらしき生き物が描かれているそうな。じゃあ長野県内にも住んでいるのかー。食事は美味しかった。あんまりお腹空いていなかったにも関わらず、あっさり完食。

 

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お店の近くには古いお寺があるそうで。

 

長野県宝並びに市指定文化財 仏像2体を探しています 

「あんずの花」で知られる千曲市森地区の「観龍寺」に安置されていた長野県宝「木造聖観音菩薩立像」と千曲市指定文化財「木造不動明王立像」の2点が、平成12年9月に盗まれてしまいました。

千曲市教育委員会・観龍寺では、この2体の仏像を探しています。

 

こちらは無人のお寺さんだそう。残念だけど、仏像は日本から持ち出されていそうだなー。

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創建は坂上田村麻呂が東征の折り(約1380年前)という伝承が残っており、御本尊も古そうな感じよ。戦勝祈願で奥さん(高子さん)が寄進したとも。

坂上田村麻呂蝦夷討伐に出かけた初出は延暦10(791)年、延暦13(794)年には副将軍、延暦20(801)年には征夷大将軍として遠征している。延暦23(804)年にも征夷大将軍に任官されているが、それ以降は東北へ行っていないようだ。伝承通りなら791年~804年の間に創建されているのかなー?

ちなみに、現地の看板には大同年間(806~809)創建、と書かれていた。

 

坂上田村麻呂十一面千手観音を信仰していたと言われている。

上記の「盗まれています」のお知らせには聖観音と書いてあるけど、市の他のホームページの記事には「盗まれた木造千手観音像」とあったりする。別の記事には「御本尊が盗まれている」ともあり、話がぐちゃぐちゃだよ。

 

現地の案内板には

があるそうだ。

開基の坂上田村麻呂が信仰していた千手観音が御本尊で、盗まれたものが聖観音像と不動明王像だと書いてあった。

 

盗まれた聖観音平安時代の一般的な作風とは特徴がかなり違っているそうで、「地方造像の典型~」とあった。少し意味が分からなかったが、どうやら地方の仏師の手による「素朴で親しみやすい仏像 」ということのようだ。中央で活躍する有名仏師は自前の工房を持って宗派・寺派も越えて天皇家や貴族などお金持ちからの発注を受けていたらしい。地方の仏師は(きっとお金持ち以外からの注文も受けるだろうし、金銀財宝散りばめるゴージャスな仏像を造る機会もなさそうだし)都会の流行りや縛りに影響されない自由な仏様を造っていたということらしい。

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無人のお寺だけあって、荒れている。茅葺き屋根がボロボロだ。地元の人が管理しているとは言え、直す余裕ないのかも。
 

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こういう屋根って何年毎に葺き替えているんだろう? 調べると15~20年のサイクルで葺き替えが必要だそうで。古民家だと屋根全体の葺き替え費用は大体2000万程度で、このお堂の大きさなら1000万くらいでなんとかなる? クラウドファンディングで募れば意外と達成できる気もするけど、地域住民の集金だけなら厳しいのかもな。

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本堂改造記念の短歌会の額もあり、日付は平成元年8月になっていた。お堂に掲げられた額は他にもたくさんある。

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お面のついた額は文化5(1808)年と書いてあった。

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細長い額も平成元年の短歌会のものっぽい。

お堂は江戸時代に再建されているそうだ。

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近くにも、観龍寺の他に「坂上田村麻呂創建」と伝わる妙音寺というお寺さんがある。そちらの由緒は「京都の若い仏師が故郷・倉科の美しい恋人が忘れられず、思いを込めて娘の面影を宿した十一面観音像を彫り、蝦夷討伐に向かう坂上田村麻呂に託して故郷の地に安置してもらった」という内容。素敵な話ね(そんなに綺麗ならもう男いるに決まってるでしょ、娘もさぞかし迷惑だったろうな、と思うわ)。

 

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古い石仏も。

 

帰り、山門を出た先で湧き水?を見つけた。

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現地の案内板には「延命水といい、この水で身を清めると心にゆとりが生まれ晩年家庭に恵まれると言われている」とあった。枯れている。残念、四六時中イライラして家族にも見放されそうだわ。

お水が枯れた時期は分からないが、案内板の内容から察すると昭和62(1987)年はちゃんとお水が流れていたようだ。平成22(2010)年晩秋頃ココを訪れた人のレポートを見つけ、そこには「申し訳程度に流れていた」とあった。その後10年で完全に止まっちゃったのか。

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古墳があるような地形に見えたが違うようだ。
 

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参道の脇にも石仏がたくさん。
大きなお地蔵さんの横の石碑は天明元(1781)年と彫ってあるように見えた。
馬頭観音のひとつには安政3(1856)年とあった。江戸時代の観龍寺の栄華を感じたよ。
 
 
★★★★☆
桜で有名なお寺らしいです
 
<観龍寺>
創建年 不明
開基 坂上田村麻呂