お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

善光寺近くで散歩

数年ぶりに善光寺界隈を歩いた。善光寺までは行かなかった。

f:id:henrilesidaner:20210131102843j:plain

用事があったけど、思いの外早く着いてしまい、ウロウロすることにした。雪降っていて寒かった。

曹洞宗黄梅山栽松院というのが正式名称で、しまんりょとも呼ばれているらしい。通るだけでマジマジ見たのは初めて。ずっと神社かお堂だと思っていたのに、実はお寺さんだった。

f:id:henrilesidaner:20210131102942j:plain

非常に古そうなお寺である。創建は戦国時代まで遡るらしい。「しまんりょう」というのは嶋の寮(寺)が訛ったものらしく、その意味は「島の観音堂」だそう。このお堂の両側に川が流れており「島のようだったから」らしい。

お堂を建てたのが名主で造り酒屋の菊屋(山嵜家)というおうちで。菊屋稲荷を屋敷神としていた家らしい。

 

↑菊屋稲荷

善光寺近くに大邸宅を構えていた菊屋は強運のおうちで、大火事(桜屋火事・善光寺門前町が丸焼けした)にも地震善光寺地震震度7で死者八千人以上)にも被害があまり無かったらしい。セントラルスクエアの北側にあったという菊屋さんが明治以降どうなったのか分からないが、山嵜家の邸宅ってひょっとしてアレじゃないかな? という心当たりはある。その建物は「明治時代の商家」だと紹介されていたが、菊屋さんの邸宅だったものかどうかは分からず。

菊屋稲荷は菊屋跡地から1kmぐらい離れている。

 

f:id:henrilesidaner:20210131103005j:plain

↑嶋の天神

なんだかよく分からず。頭良くなりますように。

 

f:id:henrilesidaner:20210131103105j:plain

↑尾上出世不動尊

詳細分からず。戸隠から移転してきた?

 

f:id:henrilesidaner:20210131102853j:plain

↑地元商店街の守護社?

 

f:id:henrilesidaner:20210131102954j:plain

↑石碑

 

f:id:henrilesidaner:20210131103113j:plain

↑子育て赤地蔵尊

赤いのは魔除けで塗っているらしい。お地蔵さんは地獄から救ってくれる存在だそうで。六地蔵はそれぞれが地獄の六道におり人々の代わりに責め苦を受けてくださるらしい。また、賽の河原で石積みしている幼気な子供達も守ってくれるそうで、子供の守護神にもなっているそうな。

 

f:id:henrilesidaner:20210131103147j:plain

↑摂社たち

 

f:id:henrilesidaner:20210131103153j:plain

↑石碑

 

社も石碑も古そうだけど、街の開発などで行き場を失い一カ所に集めて祀っている感じもする。

 

f:id:henrilesidaner:20210131103129j:plain

↑古い倉庫もあった

 

f:id:henrilesidaner:20210131103221j:plain

門前には黄梅も咲いていたよ! 寒そう。

 

権堂方面へ。

f:id:henrilesidaner:20210131103853j:plain

↑於菊稲荷社

おどろおどろしい。「お菊」っていうと播州皿屋敷の人というイメージが強すぎなんだろうか。

この場所は菊屋跡地のすぐ近くで、もしかしたら菊屋さんと関係があるのかもしれない。

 

住宅地の真ん中の、とても分かりづらい場所にあった。

 

 

f:id:henrilesidaner:20210131103912j:plain

↑延命庵

こちらも於菊稲荷、菊屋さん邸宅跡のすぐ近くにあった。

経読み地蔵とも言われる。むかし菊屋のご主人が目の病気で寝込んでいた。蔵の中からお経を読む声が聞こえた為に蔵の扉を開けたら、小さなお地蔵さんが熱心にお経を唱えていた。で、ご主人は全快したという。以来、目の病気を治すお地蔵さんとして信仰を集めているそうだ。

菊屋の一族はお稲荷さんにもお地蔵さんにも愛されているのか。そりゃ大火事にも大地震にも強いよなー。

 

f:id:henrilesidaner:20210131104920j:plain

秋葉神社まできた。

f:id:henrilesidaner:20210131104907j:plain

勢獅子というのは明治4年に長野県誕生を祝って始まった獅子舞だそうだ。

秋葉神社軻遇突智命(火の神様)を祀っている。

権堂は歩けるが、大通りを越えて東にある鶴賀新地は未だに行ったことがない。子供の頃、一度大通りを渡って向こう側まで行ったことがあるけど、なんか空気感がおかしくて戻ってきた。その後鶴賀新地のことを知ったが、もう行こうと思わなくなったよ。長野市民なら一度は新聞で映画上映案内をチェックしたことがあるはずのニュー商工も鶴賀新地のどこかにあったはず?

 

f:id:henrilesidaner:20210131105101j:plain

権堂にあった遊郭は鶴賀新地に移転した後、消滅したみたい。鶴賀新地の遊郭は現在も廃墟となって残っているらしい。

f:id:henrilesidaner:20210131105146j:plain

 

f:id:henrilesidaner:20210131105520j:plain

権堂のアーケード街にはお寺さんもあった。

往生院というそうだ。説明板には

  • 大同2(807)年に弘法大師善光寺参りに来た際寶乗寺を創建
  • その後の正治元(1199)年に同じく善光寺参詣の法然がこの場所に逗留し浄土宗往生院と改めて現在に至る
  • 権堂という地名も往生院由来で、建久8(1197)年源頼朝善光寺再建のために御本尊をこのお寺に移し仮堂(権堂)としたからだそうだ。

権堂に遊郭が出来る前からずーっとあるお寺なのね。

f:id:henrilesidaner:20210131105610j:plain

本堂らしき建物は御影堂(法然上人を祀っている?)になっている。

f:id:henrilesidaner:20210131105618j:plain

f:id:henrilesidaner:20210131105645j:plain

宇賀神大弁才天という名前の神様で、長野県内最古と書かれていた。宇賀神大弁才天は中世以降に信仰された神様らしく、宇賀神と弁財天が習合したとされる。

 

f:id:henrilesidaner:20210131105649j:plain

f:id:henrilesidaner:20210131105655j:plain

こちらも石碑や石塔がひっそりと置かれていた。

 

f:id:henrilesidaner:20210131111400j:plain

時間になったので、ご飯を食べたよ。とにかく美味しかった。このお店は1年ほど前から行ってみたかったんだけど、なかなか善光寺界隈をうろつく機会が無く…大満足だよ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12月から1月にかけて元々忙しく、そのうえオタクな活動も数年ぶりに再開し休みはほぼ家に居た。数年ぶりにゲーセン行ったが、びっくりするぐらい何も取れなかったからもう行かない…。

真っ当な生活をしていた数年間のうちに昔ハマっていた作品の20周年記念的な新作コミックスが出ていて驚いたり、休眠していたヤフオクのアカウントを覗いたら気持ち悪いぐらい女の子のフィギュア買いあさっていた履歴に震え上がったりした。

最盛期には数百冊ほどあったマンガ本を実家へ取りに行ったら一冊も残っておらず(恐らく薄い本共々処分したらしい)、その代わり大量のチョコエッグのおまけの動物達、ガチャガチャやゲーセンの戦利品のフィギュア・ぬいぐるみが残されており「宝の山だ!!」とテンション上がる。が、連れ帰ることに関しては家族に嫌な顔された為に断念。

今の家も家捜ししたところ、昔買ったようなマンガ本は岡田あーみんとか家族が読まないであろうものしか残っておらず、オタ活を止めてから買ったコウノドリとか真面目な作品しかない。その代わり古いゲーム機(サターンから初代DS・DS Liteまで)や大事にそうにプチプチに包まれた小さいフィギュアの女の子達(ヤフオクで買いあさっていた大事なお人形さん達だよ!)、未開封のゲーセンで取ってきたガンダムの機体とかが出てきた。

今となっては何がキッカケで止めちゃったのか覚えていないが、何か物凄くショックなことがあったに違いない。止めた大体の時期は分かったが心当たりがたくさんありすぎたわ。とりあえず今回買った某作品の20周年記念コミックスのために本編(TVアニメが原作でキャラの設定等が異なる劇場版がある→コミカライズ全5巻+劇場版1巻→記念新作マンガ1巻という流れ)アニメのDVD全巻買うしかないかなー?

 

食べ歩きはしていたよ! 

f:id:henrilesidaner:20210121125224j:plain

f:id:henrilesidaner:20210206115514j:plain

 

林道猿ヶ馬場線

f:id:henrilesidaner:20210721122722j:plain

中身はほぼ北国西脇往還善光寺西街道)らしい。善光寺西街道は塩尻市洗馬と長野市篠ノ井を結ぶ道でもあり、国道403号線が一応、後継路線となっている。が、善光寺西街道を踏襲している部分は千曲市筑北村との間のみとなっている。しかし403号は筑北村麻績村の間も青柳宿を通らない等かなり差異がある。千曲市内でも善光寺西街道部分は林道化されており、その名称が猿ヶ馬場線というそうだ。

 

ちなみに403号分岐点はここ↓

善光寺西街道(旧道)は左の狭い道、現国道403号は右へ。

左へ進むと立峠がある。

 

筑北村西条から先は旧東川手村(潮村・潮山中村・潮沢村などが明治に合併して誕生した村)を通過していた道を改良したものらしい。旧東川手村の木戸という地籍で川手道(現国道19号線)とぶつかり、403号は松本方面に向かう。

 

川手道は国道19号の前身となっている。↓分岐点

 

国道19号は左。国道403号は右。真ん中は…国道19号と最終的に合流するみたい。

 

木戸と西条を結ぶ道は酷い山道でサグラダ・ファミリアみたいに延々と工事し続けている。安曇野IC~麻績ICで通行止めになった場合の代替道路に指定されているので改良し続けているようだ(実際、安曇野IC~麻績ICで通行止めになっちゃったとき、その道を通らされた。九十九折りの狭窄な道路が賑やかになった。その中には品川ナンバーのキャデラックとかポルシェとか大都会からやってきた高級外車もいっぱいいた。あの人達こんな山道通ったことないだろうなと思った)。昔は重要な道ではなかったようだが、山奥には平家の落ち武者伝説が残る集落もあったりするので人は昔から住んでいたらしい(この近くには縄文人骨300体ほどが発掘された遺跡もあるとか)。

国道403号の元になった古い道は一応まだ残っている気がする(グーグル先生の地図では分断されているが、古地図と照らし合わせるとこれかなー? って感じの道がある)山深いので荒れてそう。街道(里道らしい)ですらないので今後とも整備されないだろうねー。

 

善光寺西街道という古い街道の後継路線とはいえ、この辺りは明治以降に切り開いた幹線が多いので、古い道は放置されてきた感じがする。それが良かったのか、文化庁の「歴史の道百選」にまで選ばれてしまった。林道猿ヶ馬場線も歴史の道百選に指定されている。

 

f:id:henrilesidaner:20210721122725j:plain

全線舗装路となっているらしい。それなりに需要があるようで、グーグルカーは踏破している。探せば動画でも出てくる。

f:id:henrilesidaner:20210721123127j:plain

この道、とにかく杉が多い。即位記念で杉を植えやがったようだ。林道は昭和38年に開設されたそうなので、紀念林って平成での即位した記念なのかな? とにかく杉の香りが濃厚。これ、春に通ったらアレルギー反応で死ぬんじゃないかと真剣に思う。

f:id:henrilesidaner:20210721123211j:plain

轍があるので誰かが頻繁に通っている様子。

 

猿飛池という忍者っぽい池とか。

f:id:henrilesidaner:20210721124150j:plain

 茶屋もある。

f:id:henrilesidaner:20210721123217j:plain

↑火打石茶屋跡

  • この辺りには多い時で9戸の茶屋があった
  • うち3戸は松代藩命により茶屋を営んでいた
  • 藩命というのは、山賊撃退と旅人の面倒を見ること
  • 3戸のうち名月屋という茶屋は本陣の格式があり、屋敷の門や屋根に六文銭をあしらい、お殿様がお越しの際休憩宿泊も出来た
  • 名月屋には芭蕉の句碑が建てられていた

この狭い場所に屋敷があったらしい。

句碑というのは

f:id:henrilesidaner:20210721123237j:plain

↑これのようだ。

こんな場所に茶屋が点在するとか。店員さんが泊まり込みで働いていたのかなと思うと…ちょっと働くの躊躇するなー。夜なんか真っ暗だよ。

句碑・盛り土の奥に道らしきものがあるが、その奥に屋敷があったのだろうか。この林道も正確に善光寺西街道をトレースしている訳ではなさそうなので、旧道かもしれない。

 

f:id:henrilesidaner:20210721123609j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721123624j:plain

↑どう見ても道です、というモノが林道の横に現れたりしている。状態がかなり良いやつなので頻繁に整備している感じよ。

f:id:henrilesidaner:20210721124049j:plain

↑こういうのもあった。一里塚だそうだ。

  • 近世の主要街道の両側に一里(約4km)毎に土を盛り、里程の印とした塚
  • 塚上に榎や松を植えることが多い
  • こちらの塚は「火打ち石の塚」という
  • 塚は昭和38年の林道開設の際、四カ所に分断し、特に西側の塚は排除されてしまう
  • 現存する東側の塚は直径6m高さ3m
  • 他にも「稲荷山」「一里山」「市野川の一里塚」があったが、現存しているものはない

 

f:id:henrilesidaner:20210721124150j:plain

松崎茶屋跡も林道から少し外れた、奥まった場所に跡地があった。

 

 

ここまで来たら、ナビが右行きを示した。いやいや、どう見たって左じゃないの!? ナビは「左は行き止まり」と言い出す。この林道で行き止まりとなったら詰む。しかし先の桑原宿まで行けるはずなんだがねー。

色々考えたところ、戻ることにした。

ちなみに、この場所は「のぞき」という場所で、大井茶屋と展望台があったらしい。お金を貰い設けた望遠鏡から善光寺本堂を覗かせた場所だそう。タワーの展望台に備え付けられた、100円入れると使える望遠鏡的なヤツだね!

 

聖湖までは急坂だった。車の横滑り警告灯がチカチカするー。路面に敷き詰められた杉葉で相当滑っている。道路幅は危険なほど狭くなかったが、警告灯の点滅は本当に気持ち悪い。

 

滑りはしたが、無事に林道入り口まで到着した。

f:id:henrilesidaner:20210721115716j:plain

 

 

★★★★★

滑った件も含めて、なかなか楽しかった

 

 

<林道猿ヶ馬場線>

開設年 昭和38(1963)年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大沼・隠れ窪

聖高原の山の方へ行けば、古い別荘が建ち並んでいた。

f:id:henrilesidaner:20210721121454j:plain

大沼って場所まで来た。

f:id:henrilesidaner:20210721121457j:plain

スズラン湖ともいい、深い谷をせき止めて造った湖だそうな。

f:id:henrilesidaner:20210721121505j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721121520j:plain

東南方の堤防は「ハイドロック、カーテンクラウト」という特殊工法により強固に造られているそうだ。ちなみに、山の中をウロウロしたせいでどこが東南方向なのか分からなくなっており、それっぽい部分を写真に収めてみた!

「ハイドロック」「カーテンクラウト」共によく分からず。それとなく似たような単語を探してみた。

  • ハイドロリック=油圧関係かな?
  • カーテングラウト=ダム基礎岩盤にボーリングで穴を開け、グライト(薬剤の名称らしい)を注入して設けカーテン状にし水を遮っている

特殊な薬剤を使い固めた堤防ということなのかしら? もっと分からない事に、ココの分類は「フィルダム」だそうで。つまり、ここはダム湖ってことなの? 説明板の内容分かりやすくしてよ。

 

フィルダムとは、コンクリートを使わず自然の土砂・岩を盛って造ったダムのことだそうだ。着工100年で話題になっていた台湾の烏山頭ダムセミハイドロリックフィル工法というもので造られている。ハイドロリックとかフィルとか関わり合う単語が使われているから、きっと烏山頭ダムと同じような造り方なんだろうと勝手に思った。

 

水量は8万㎥。昭和39年完成。平成13年に改修工事が行われているようだ。

f:id:henrilesidaner:20210721121526j:plain

本当は北山ダムのダム湖をなんとなく目指していただけど(ダムの下からしか見たことなかったのよね)、どうやら道を間違えてしまったらしい。だけど、なんかもう十分な気がした。

 

この大沼から「福満寺」というお寺さんまでの4キロ半までの道、昭和43(1968)年から自衛隊が訓練を兼ねて敷設した道路だそう。塩那道路みたいなヤツかー。事前に知っていたら走っていたのに残念。

 

↓この道路らしい。

 

 

その時は知らなかったので、普通に元来た道を戻った。

 

途中、「かくれくぼ」という看板があったので、ちょっと車を止めた。年季の入った看板だわ。昭和39年だって。さっきのダム湖の整備と一緒に造ったんだね。

f:id:henrilesidaner:20210721122011j:plain

  • 戦国時代の麻績城主服部氏は麻績城の背後が極めて脆弱であるため、この場所に度々兵を隠した
  • 「かくれくぼ」は、東北の栗林から南西の菅に至るV字の谷で下ると「地獄谷」、「佳香砥の滝」、麻績城に達する
  • 谷の長さは2km

f:id:henrilesidaner:20210721121656j:plain

↑この方角に多分麻績城があるのかな。最近山に登ってないなー良い季節なので登りたいなー。

f:id:henrilesidaner:20210721121702j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721122021j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721122024j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721122027j:plain

色々な話を照らし合わせると、

  • 服部清信が領主となり麻績古城を築城
  • 子の清正が更に守りを固めるため麻績城を築城(隠れ窪は麻績城の守備用なので清正が設置?)
  • 諏訪頼重の側室の小見(麻績)の方は服部氏出身で諏訪御料人の母、武田勝頼の祖母にあたる
  • 服部氏自体は村上氏に属している
  • 菩提寺は「法善寺」だが、このお寺さんは武田家と繋がりがあるらしい(服部氏を滅ぼすためにまず法善寺を懐柔したとか)
  • 服部氏は武田方の青柳氏(青柳氏は隣の領主)に攻められ越後へ、青柳氏は麻績城と青柳城の城主となる(このタイミングで青柳氏は麻績氏を名乗る)
  • 服部氏は武田家が滅ぼされた後、上杉氏の支援を得て麻績城の城主に返り咲く(麻績清正こと服部清正)
  • 小笠原氏と上杉氏との争いになり、服部氏は青柳氏と共に小笠原氏についた
  • 麻績城は上杉氏に攻められ、服部氏は滅ぼされる
  • 青柳氏もまた小笠原氏により力を失う

という流れのようだ。

隣の領主だった青柳氏が一時麻績も支配していたものの、麻績周辺は「服部氏」一色のようだ。菩提寺の法善寺の他、海善寺というお寺さんも服部清信の兄弟が住職で。海善寺は麻績神明宮の神宮寺じゃないかとも言われているらしく、当の麻績神明宮も宮司家の養子として服部清信の兄弟が入っているそうだ。

菩提寺の法善寺は信濃三十三観音霊場の第1番札所となっている。聖博物館の現在のメインテーマである信濃三十三観音霊場ですよ。麻績村で一番大きなお寺さんじゃないのかな?

こんな服部好きっぽい場所なのに、多分服部氏は村から完全にいなくなってそうな雰囲気。隣の領主だった青柳氏とは違うね(確か青柳宿本陣家として存続していたはず)。寂しい。

 

あと、ハットリっていえば忍者でしょ…? 麻績村誌の目次だけ見られたんだけど、その中に「服部氏・伊賀氏の入部」とか「服部伊賀守」とかいう文字が踊ってた。やっぱり忍者なのか!

 

f:id:henrilesidaner:20210721122030j:plain

兵を隠したとかいう谷だけど、とにかくスケールが大きく。数千人いけるんじゃないの? という規模のように思えた。谷底に別荘らしき建物が点在しているんだけど、今居る場所からだと相当下に見える。広いんじゃないかなー? これじゃ隠した兵士も迷子になるんじゃない?

f:id:henrilesidaner:20210721122034j:plain

説明板にあった「佳香砥の滝」は風光明媚な滝だそう。

 

 

 ★★☆☆☆

大沼の説明板、少し考え直した方がいいんじゃないかと思った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:henrilesidaner:20201218121659j:plain

近所の隠れている豚カツ屋さん。場所は下調べしなければ辿り着けない。その反面、非常に有名な店。平日行ったにも関わらず客が多め。1/3くらいが予約客っぽい(予約しないと食べられないと考える常連さん達だろうか)。

良い肉であることはもちろん料理の腕が良くないとここまで美味しくならないよね、と確信した。どうやったら料理って美味しく作れるようになるの? まずは肉叩き買ってみようかな。

聖高原

f:id:henrilesidaner:20210721095630j:plain

昔よく見に来ていた聖博物館がリニューアルした。平成24(2012)年と平成26(2014)に行ったようだ。

f:id:henrilesidaner:20210721095729j:plain

昔、雪が降る猿ヶ馬場峠を6人の旅人が歩いていたが、道を踏み外し聖湖にドボンして死んだ。不憫に思った村人は道標兼供養塔として6基の地蔵を建てた。という内容の案内板があった。

外の公園は無料で入り放題。

f:id:henrilesidaner:20210721095840j:plain

ここには他にも石仏がいらっしゃる。

f:id:henrilesidaner:20210721095920j:plain

↑なんて書いてあるのか分からない石碑。村境碑かなー? なんか埋まっちゃってない?

f:id:henrilesidaner:20210721095932j:plain

↑井戸?

f:id:henrilesidaner:20210721100724j:plain

 

馬頭観音とか。

峠にはたくさん石碑がある。多ければ多いほど難所だったんだろうな、思う。元は別の場所にあったようだが、すべて博物館の敷地内に移動させてきているらしい。

 

外には飛行機さんたちがたくさん!

f:id:henrilesidaner:20210721100112j:plain

↑F86セイバー

1944年よりアメリカ空軍が開発を始めたジェット戦闘機。1947年初飛行。1950年代以降世界中の空を飛び(もちろん日本にもいた)、朝鮮戦争で活躍し、その後は空対空ミサイルを配備した機体が成果を上げたので9860機も生産された名機だそうだ。日本では1955年より配備され始め、航空自衛隊主力戦闘機として435機も運用された。愛称は「旭光」。ブルーインパルスとかで使われたらしい。1982年退役。

f:id:henrilesidaner:20210721100217j:plain

前は乗れた気がする。さすがに劣化酷すぎてカバーかけたんだな…。

f:id:henrilesidaner:20210721100405j:plain

 

f:id:henrilesidaner:20210721100522j:plain

↑T-34 はつかぜ

レシプロ機。Tが示すように練習機、しかも航空学生が初めて乗る飛行機らしい。1948年初飛行。コレをベースに改良していった練習機が国産されている。現役はT-7というタイプで2003年から。今はターボプロップエンジンを積んでいるようだ。
 

f:id:henrilesidaner:20210721100637j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721100648j:plain

軍艦陸奥(主砲のみ)。

この軍艦、戦時中に謎の爆発で沈んだ後、戦後引き上げられ日本各地で部品が展示されているみたい。こんな山奥にも一部運ばれた。ここまで運ばれたいきさつが書かれていた。

  • 戦争で日本国土のすべてが悲惨な不幸に遭ったが、その代表の一つが戦艦陸奥の爆発
  • 原因不明(人為的と結論づけられた)で爆発し、乗員1221名が艦と共に瀬戸内海に沈んだ
  • 27年後に変わり果てた姿で引き上げられた
  • 戦争の犠牲は繰り返してはならぬ、戦争が起きなければ目にすることはない悲惨な事実を「戦争を起こさない平和を願う象徴」としたい
  • 戦艦陸奥の主砲を展示すること=悲惨な事実=平和を願う象徴
  • また、戦艦陸奥は我が国の造船技術の粋を集めた世界最強の軍艦のひとつ(当時は戦艦ビッグ7のひとつに数えられた)であり、技術の結晶である陸奥の一部を展示することで我々の技術を誇りたい

ということらしい。

陸奥長門と交代で連合艦隊の旗艦となっていたし、ワシントン海軍軍縮条約で問題視されたとかいう戦艦でもあるため当時は知名度が抜群であったらしい。私のような者ですら長門陸奥は聞き覚えがあるしねー。

軍事技術が民間転用されたものなんて山ほどあるし(むしろ軍事と一切関わりなく開発されたものは存在しなさそう)、軍事関連排除すると生活出来なさそう。多分、陸奥を造ったときの技術は今もどこかで役立ってるんじゃないかなー。

 

最後に「平和を欲するならば戦争を理解せよ」というリテルハートという人(バジル・リデル=ハートのことかなー? ナイトの称号を持つイギリスの軍事評論家)の言葉で締めくくられていた。リデルハートは「間接的アプローチ」という戦略を提唱した人として知られるらしい。これは、武力を行使し正面から敵とぶつかるのではなく、経済封鎖したり物資の輸送を邪魔したり兵站や指揮系統を壊したり、武力衝突以外のあらゆる手段で相手を弱体化させ、戦争をせずに勝つ方法のことのようだ。現代的な感覚・考え方に近い感じなのかな?

 

f:id:henrilesidaner:20210721100929j:plain

↑Fー104 スターファイター

説明板には「この飛行機はマッハ1.5級の某国爆撃機を迎撃する目的で開発されたマッハ2級の要撃飛行機である」と書いてあった。某国かあ。ちなみに、使用国として「西ドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、カナダ等」とあった。察して欲しい、というやつか。つまり「マッハ1.5級の某国爆撃機」=MiGー15なのね。

1954年初飛行。F-104を開発したアメリカではあまり使用されずに西側諸国メインで配備されていって、2004年のイタリア軍で退役を迎えた。一方、MiGー15は運用中かも(北朝鮮)というところ。

製造はロッキード社で、展示機体は日本国内でライセンス生産されたものだそう。自衛隊でも1961年から計230機導入したけど事故が起きたりで、1974年には後継機選定作業が始まる。1986年退役。後継機のF-15Jは1981年配備で近代化改修されつつ現役だってさ。

その後はこの機体はアメリカに返還されたり、バラして他の武器にされたり、「標的機」として無人化改造された。「標的機」は1997年に最後の機体が撃墜。これはこれですごい一生だわ。

f:id:henrilesidaner:20210721100808j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721100911j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721100956j:plain

エンジンは抜かれていた。屋内展示されていた。

 

f:id:henrilesidaner:20210721100012j:plain

↑D51 蒸気機関車

ひっそりとこんな奴までいたよ。

f:id:henrilesidaner:20210721100057j:plain

昭和11年、国鉄の技術の粋を集めて誕生したそうで。計1115両の、日本における機関車の形式で最も造られたタイプだそうだ。

このD51ー769は昭和18年生まれ。東北本線北陸本線中央西線と走って昭和47年使用停止。当時の金額で400万円余りをかけて、麻績駅(聖高原駅)からこの場所に安置された。麻績駅からは随分離れているが「どうやって持ってきたか」については屋内展示に答えがありました。

 

この機関車も運転台まで覗けた気がする。この機関車にATS表示灯がついておりドン引きして鉄道マニアに話したところ、昭和40年代なんて普通にあったよATSって返された。どうやら、昭和41年に国鉄全線でATS導入されたようだ。どうやって電源取っているんだ…と思ったら発電機(タービン式)もバッテリーも積んでいるんだそう(前照灯とかでも電気必要みたい)。水と石炭だけで引退まで動いていたような、超アナログなイメージしかなかったので、蒸気機関車に申し訳ないと思った。

麻績駅のある篠ノ井線は昭和45年まで蒸気機関車が走っていたようだ。その年ディーゼル機関車が配備されたらしい。こちらも「科学と技術の変遷を探求する教材として」と書かれていた。

 

f:id:henrilesidaner:20210721095957j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721095937j:plain

 

他に何か(Cー46らしい)のコックピットだけあった記憶があるんだけど、なくなっている。

 

室内展示にも行った。

ミニ博物館になっていた。なんと、中身は「善光寺街道と信仰」みたいなテーマで統一されていた。以前の雑多な雰囲気がなくなってしまい、すっきりした品行方正な優等生風になってしまった。昔はホルマリン漬けのケースや剥製が並び(これはおそらく麻績小学校で使われていたモノだと思われる)、村内の家々から寄付されたであろう昔の生活用品が並び、ごちゃごちゃしていた。航空博物館はパイロット候補生の教科書や細々したグッズが展示される一方、JALの昔のスチュワーデス制服だとかパラシュートとか訳分からんものがたくさんあった。それがないんだけど…あれが良かったんだけど…。

 

現在は仏像が多い。小さい仏像が凄い数並んでた。仏像を趣味で彫っていた人の作品だそうだ。一部しか展示されていないということだが、それでも大量だった。

あとは「信濃三十三観音霊場」の紹介で、その中のお寺さんをいくつか行ったことがあったね、ぐらいで終わる。さくっと見て回れる程度だった。12月から冬季休館に入るからと折り紙作品を色々とお土産で頂いた。

 

帰りに受付のお姉さんに話を伺ったところ。

  • ホルマリン漬けとかはどこかに仕舞ってあると思う
  • 軍関係は自衛隊にお借りしていたので返したと思う

JAL関係は聞かなかったが…こちらも返したのだろうか。軍関係のは充実してたんだよ、そりゃ自衛隊だって欲しいかも。JAL関連も然り。ホルマリン漬けだって欲しい博物館はあると思うわ。

お姉さんはこれ以上詳しく話したくなさそうだったが、昔の展示物の所在は訪問客からよく聞かれているような雰囲気。特にホルマリン漬けは「子供に見せたかった」という人が結構いるんで、と言っていた。昔の小学校にはありがちだったかもしれないが、私の小学生時分は学校で見た記憶が無いわ。

 

その後はランチですよ。

f:id:henrilesidaner:20210721104558j:plain

S660は路駐だが、運転者がインスタ映えを狙ってあらゆる角度から車の写真を撮っていた。我々がその姿を眺めていたことを気付いていない。ここ景色がいいしね。

f:id:henrilesidaner:20210721110058j:plain

子供は「そばを寄越せ」しか言わないので、メニューに悩むことがない。ネットで見かけたビーフシチューが食べたかったが現在はメニューになく。オススメのシードルで煮込んだロールキャベツを食べた。

 

f:id:henrilesidaner:20210721115707j:plain

f:id:henrilesidaner:20210721115716j:plain

聖湖は物凄く寒かったのに釣り客がいっぱいいたよ。

 

 

★★☆☆☆

前が良かった…

 

 

<聖博物館>

開館 昭和40(1965)年

岩松院館

f:id:henrilesidaner:20210614150817j:plain

小学校の遠足だか社会科見学で来た(記憶がある)岩松院。ここは葛飾北斎の天井絵「八方睨み鳳凰図」があることでも知られる。絵は「どこで見上げても鳳凰と目が合う!」という触れ込みだが、当時の私は「目ぜんぜん合わないんだけどw」と思った。その所為で天井絵・岩松院のことを覚えていた。まあ心の清い人だけ目が合うように設計されているのかもしれない。

 

ここは地元の土豪・荻野さんの館跡だと伝わり、詰めの城は背後に見える山中にある雁田城らしい。雁田城は雁田小城・雁田大城からなる複合施設のようで、岩松院の背後の瘤みたいに盛り上がった部分に雁田大城がある。

f:id:henrilesidaner:20210614150915j:plain

雁田大城より奥に進むと「千僧坊」という表示がある。これは滝の入城の郭の一つ。千僧坊から姥石方面に曲がらず、尾根伝いに登ると滝の入城の本郭に到達できる。この地図には載っていないが、どうやら滝の入城の住所が隣村(高山村)になってしまうらしく、そのため小布施町のハイキングコースには含まれないようにしているのかも?

千僧坊現地の案内板には「岩松院の前身である千僧林念仏寺から名付けられているが、ここに念仏寺があった訳ではない。寺址ではなく城址の一部と思われる」と書かれているようだ。隣村の城「滝の入城」には触れない。滝の入城は近隣で最も高い所となるようだ。

滝の入城から、北西の尾根を麓に向かって下りていくと「二十端(つつはた)城」というお城がある。二十端城は一の城・二の城・三の城・四の城・五の城からなる。雁田山周辺はお城だらけ。やだー大規模要塞じゃないの。

f:id:henrilesidaner:20210614152738j:plain

ちなみに雁田(苅田)城は、東条荘苅田郷の領主だった平(苅田)繁雅が造ったとも言われる。元暦元(1184)年、源頼朝が東条庄のうち高井郡狩田郷の領主職を平繁雅に戻すと認めた。源平合戦で旧領を失っていた平繁雅が嘆願を出していたらしい。平家(越後平氏)の傍流で、横田河原の戦いをもちろん平氏方(新潟から来た城氏の配下)として戦い、負けてしまったみたい。

だが、この人は平家にも近いが鎌倉幕府源頼朝)にも近い北白河院(彼女の祖母は源頼朝の命の恩人であり、平清盛の継母である池禅尼)という女院の側近(平繁雅の奥さんが北白河院の乳母をつとめ、夫婦で養育に当たっていた)だったようで、その縁で旧領復帰出来たのかもしれない。平清盛の曾孫に当たる男子と平繁雅の孫が結婚しているという感じで、血縁では平家が濃く、源氏とは婚姻関係なし。

また東条庄は八条院領に含まれる。八条院領は北白河院の夫(後高倉院)から娘(安嘉門院)に相続されたが、実質的に管理していたのが北白河院らしい。八条院領は以仁王と源氏の挙兵と関係が深い。

平繁雅本人は皇族に仕える身なので、在京し続けたようだ。雁田城には関わりがあるようだが、麓の岩松院館とは関係ないっぽい。

 

二十端城は荻野氏(初代は荻野常倫というらしい)が造ったと伝わる。荻野氏は高井郡の名家・(信濃源氏)井上氏の庶流と言われる。

  1. 井上満実の三男・家光が、保元3(1158)年に丹波国芦田庄(兵庫県丹波市)へ配流される
  2. 以後、この系統は流刑先の地名「芦田」を名乗る
  3. 建保3(1215)、芦田為家が父から所領を分知され、移り住んだ地名から赤井氏を称する
  4. 赤井(芦田)為家の次男・重家(朝忠)は家督を継げなかったが為家から領地を分けてもらい、荻野家を興した
  5. この萩野一族出身・萩野常倫が小布施の地頭として赴任してきた?

という説があるそう。ああ里帰りかー。

  1. 太平記に出てくる「丹波国の住人荻野彦六朝忠」(この人は太平記の作者とも言われる児島高徳と行動を共にしていたので、”太平記”中では活躍する)
  2. 正慶2/元弘3(1333)年、後醍醐天皇挙兵に応じて参戦→敗北
  3. 足利尊氏の配下になる
  4. 貞和元/興国6(1345)年、足利尊氏と戦う→敗北
  5. 貞和4/正平3(1348)年、高師直の配下として新田と戦う
  6. 文和2/正平8(1353)年、新田と戦う→敗北→以後不明
  7. そんな萩野朝忠の子? 荻野常倫が小布施に赴任

 

小布施史では、室町時代初め荻野常倫が故郷の丹波国から栗の木を持ってきて植えたことから、栗の生産が盛んになった、とある。丹波栗は古事記日本書紀万葉集にも登場するほど歴史ある丹波国の名産品だそうだ。

小布施町公式では、貞治6(1367)年に荻野常倫が二十端城を築いたことになっている。ただ、荻野常倫本人は記録がほぼ無く謎の人物とされる。

 

永享2(1430)年、浄土教系の念仏寺が建てられ、その後の文明4(1472)年に同じ場所で改めて荻野常倫が開基となり、建てたお寺が曹洞宗の岩松院だという。えらい長生きだなと思ったが、恐らく荻野常倫と荻野氏歴代の菩提寺として建てられたんじゃないかなー?

 

f:id:henrilesidaner:20210614152418j:plain

お寺の周りにはお堀の成れの果て? みたいなものもあった。

f:id:henrilesidaner:20210614152453j:plain

山門。

f:id:henrilesidaner:20210614152425j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614152443j:plain

仁王さん。

f:id:henrilesidaner:20210614152504j:plain

↑あの山の中に雁田小城があるらしい。

f:id:henrilesidaner:20210614151035j:plain

雁田城登山道はお寺の脇道から↑

 

f:id:henrilesidaner:20210614151042j:plain

お寺は周囲より高い。

f:id:henrilesidaner:20210614151104j:plain

ゴツい石垣の上にある。

登り切った先には。

f:id:henrilesidaner:20210614151139j:plain

小布施観音というらしい。永遠の平和を祈念。

f:id:henrilesidaner:20210614151318j:plain


こちらが岩松院本堂。ちょこっと見える鳳凰図が件の「どこでも目が合うよ」という天井絵のレプリカと思われる。どうせ今日改めて見たって目が合うとは思えないわ。

f:id:henrilesidaner:20210614151432j:plain

謎の石柱もあった。意味が分からなすぎるので調べると、「祭屋台の像”皇孫勝”が完成した旨の報告文」だという。皇孫勝(公孫勝)は水滸伝に出てくる道士で変な術を使うヤツらしい。

f:id:henrilesidaner:20210614151444j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614151449j:plain

五七桐の紋があしらわれている。これは内閣総理大臣の紋章でもあり、現在の日本国政府の紋章として使われているもの。歴史上大切な紋章で、室町時代室町幕府が貨幣に刻印して以降、天皇から賜った「政権担当者を示す紋章」とされているみたい。一応豊臣政権まで菊のご紋に次ぐ格式の紋として使われていた。江戸時代に徳川家が使用制限しなかったために菊のご紋と同様、自由使用となって庶民の間で流行ったみたい。その後、明治時代に入り「政権担当者=政府を示す紋章」として格式が復活した。

 

ただ、このお寺に桐の紋章があるのはこの人↓の菩提寺でもあるからと思われる。

f:id:henrilesidaner:20210614151512j:plain

豊臣氏の家紋が五七桐で、この人豊臣姓を下賜されて公的文書での名前が「豊臣正則」だそうだから、桐紋も使ってるんじゃないかな。

 

福島正則公霊廟がある。標柱の側面には、

広島49万石より信越4万5千石に流され居ること6年、寛永元(1624)年歿す

と書かれていた。

負けたくないな負けるの嫌だな、と思わせる一文ね。

 

f:id:henrilesidaner:20210614151603j:plain

本堂の裏。なんかあるよ。

f:id:henrilesidaner:20210614151612j:plain

ここにも石垣が。

f:id:henrilesidaner:20210614151631j:plain

本堂より高い位置にある。

f:id:henrilesidaner:20210614151649j:plain

小布施は福島正則推しなのか? なんの関係の幟なのかと思ったら、福島正則の野外劇やった名残りみたい。

f:id:henrilesidaner:20210614151735j:plain

霊廟は立派だった。

f:id:henrilesidaner:20210614151901j:plain

その辺の墓地とは違うぞ。格式高い墓地。

f:id:henrilesidaner:20210614152022j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614152037j:plain

先ほどの雁田城に向かう登山道もあったよ。墓地へのスロープも兼ねているのかな。折角だからこちらの道を下ってみる。

f:id:henrilesidaner:20210614152116j:plain

なんかの石碑あった。

高井鴻山の顕彰碑らしい。碑文の内容を記した説明板もあったが、文章が長くて長くて…頭に入ってこなかったよ。公爵徳川家達が揮毫、文学博士三島毅が撰文ぐらい読まなかった。

 

三島毅は幕末から大正にかけて活躍した漢学者で、松山藩の藩校の教授→東京帝国大学の教授→東宮御用掛(東宮の家庭教師)を歴任した凄い人らしい。

公爵徳川家達は徳川宗家の第16代当主。徳川家達の母親は高井武子(生家は津田氏で津田梅子の伯母)というそうだけど、ひょっとして高井鴻山と関係があるのだろうか?  単に母方の姓と同じだね☆ってだけで揮毫してくれたのかな(徳川家達の生家の田安家の家臣に高井氏がおり、高井氏は田安徳川家が創設された際に召し抱えられた家柄らしい)? 太っ腹なのかな? そもそも高井鴻山って本名「市村健」ってwikiに書いてあったわ(石碑の横の石柱には「贈従五位 高井健」の文字が)。

f:id:henrilesidaner:20210614152104j:plain

↑何一つ頭に入らなかった文章

 

f:id:henrilesidaner:20210614152143j:plain

↑こちらは本堂落成記念?(読めなかった)

f:id:henrilesidaner:20210614152200j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614152222j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614152234j:plain

山門の近くまで下りてきた。

f:id:henrilesidaner:20210614152251j:plain

湧き水がある様子。

f:id:henrilesidaner:20210614152259j:plain


案内板には、

  • 弁天池清水
    この池の水は雁田山の沢に集まった水が崩壊した溶岩岩塊の中を通り抜けて湧き出してきたもの
    中性で鉄分を含まない
    お茶の水としては最高で、旨味を倍加する
    珪酸の微粒子を含むので白濁しているが、逆に胃腸の健康維持には良い
    まさに霊泉だ

とあった。わりと水量少なめ。持ち帰っている人もいないのでは…? という雰囲気ではある。

 

f:id:henrilesidaner:20210614152346j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614152351j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614152405j:plain

夕方に近かったが、疎らに人影はあった。そしてタクシーで乗り付けてきた、慌てた風の若者に「ここって天井絵ありますよね? まだ見られます?」などと話しかけられた。本堂に券売機あったけど…? って言っただけで若者は風のように走り去っていった。あの人、鳳凰と目が合うといいね! と思いつつ帰途についた。

 

 

★★★★☆

「49万石から4万5千石に減らされた流人」という短文が一番心に響いた

 

 

<岩松院館>

築城年 不明

築城主 荻野常倫?

小布施陣屋

f:id:henrilesidaner:20210614115801j:plain

栗の季節。小布施は物凄く混んでいた。

 

元禄14(1701)年から15年間、小布施陣屋という代官所が置かれたそうだ。

f:id:henrilesidaner:20210614115749j:plain

この祠(稲荷社)がある場所が陣屋の入り口らしい。

f:id:henrilesidaner:20210614115822j:plain

この小道の先が谷街道(現国道403号線)で、昔からのメインストリートである。小道は陣屋小路と呼ばれていたそうだ。

f:id:henrilesidaner:20201022130707j:plain

小布施陣屋があった場所は↓

f:id:henrilesidaner:20210614115805j:plain

現在は駐車場となっている。

説明板には、代官「市川孫右衛門」なる人物の名前しか出てこないが、この人が15年間面倒みたということなのかな? 全く同時期に佐久郡の前山陣屋・高野町陣屋も支配していたようで、あちこちの天領の代官を兼務しているっぽい。

陣屋の規模は46坪、支配地域は「高井郡の六川・清水・中子塚・松村新田・雁田・福原新田・大島・小布施(以上、現・小布施町)、駒場・中山田・奥山田・牧・黒部(以上、現・高山村)、桜沢(現・中野市)、塩野・亀倉・栃倉・村山・米子・中島・井上・相之島(以上、現・須坂市)、そのほか水内郡の16ヶ村(現・長野市)」で石高1万9千石余りだそう。

f:id:henrilesidaner:20210614115709j:plain

↑左側が駐車場。

f:id:henrilesidaner:20201022130707j:plain

江戸時代の家は間口(玄関)の 広さに応じて税金をかけていた(天明6年、間口税)そうで、小布施陣屋周辺の住宅地図も細長い家が建ち並んでいる。よく見ると元陣屋って書いてあった。さすがに代官所だった土地には税金かからないのかな、敷地が細長くないねー。

 

陣屋跡に隣接する建物↓

f:id:henrilesidaner:20210614115924j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614115848j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614115911j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614115839j:plain

古そうに見えるけど、新しいのかも。某栗菓子店の団体客が専用で使えるものらしい。

 

f:id:henrilesidaner:20210614115941j:plain

↑旧小布施陣屋。長野ナンバー車なんて私ぐらいだった。

 

f:id:henrilesidaner:20210614120035j:plain

ちなみに、旧小布施陣屋は周りより低い?ようだ。

f:id:henrilesidaner:20210614115951j:plain

 

f:id:henrilesidaner:20210614120019j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614120024j:plain

古いのか新しいのかよく分からない建物が混在。ここは妻籠宿や奈良井宿みたいな「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されておらず、景観に溶け込めるなら新しい建物でも何でもOKみたいな世界観らしい。

 

f:id:henrilesidaner:20210614120123j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614120141j:plain

 

谷街道を渡っていくと、

f:id:henrilesidaner:20210614120534j:plain

左側の市村家(小布施を統べるだいじんこ)は古いだろうが、右側の各種土産物屋は古くなさそう。

f:id:henrilesidaner:20210614120628j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614122615j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614122635j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614122647j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614134428j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614134530j:plain

f:id:henrilesidaner:20210614134553j:plain

「朱雀」期間中は通れません。と書いてあった。じゃあ、朱雀期間終わったら通れるのかね?

f:id:henrilesidaner:20210614135538j:plain

入り口はココだった。朱雀、今年度分はすべて終了だと。今年は新型コロナのせいで席はすべて前売りで整理券配布方式ではなかったようだ。

f:id:henrilesidaner:20210614135552j:plain

アレ一度食べてみたいけど…並ぶとかがね…。

f:id:henrilesidaner:20210614135353j:plain

市神という神様。元は延暦14(795)年、京都の官設の市場である東市・西市に建てられた宗像三女神らしい。要は市場の神様で、小布施にも市があったから建てられたのかも? というニュアンスの説明板が傍らにあった。谷街道と谷脇街道の交差点という人通りの多い場所に鎮座。

 

脇街道長野市と小布施を繋ぐ道で、谷街道をショートカットする(須坂を経由しない)道だったようだ。

 

★★☆☆☆

目当ての飲食店は軒並み1~2時間待ち。こんな時期に行っちゃいけないわね。

 

<小布施陣屋>

築城年 元禄14(1701)年

 

 

 

f:id:henrilesidaner:20201030121017j:plain

初めて入った近所のレストランにて。

デザートのボリュームが凄かった。やっと1人で外食出来るようになった嬉しい。

伊勢社(東福寺)

子供を連れて製作体験しに行き、公園の無料駐車場に車を止めておいた。体験終了後は公園で遊んでいて。満足したので車まで戻ろうとしたら、近くで路駐している車とその周りを忙しくウロウロしているおじさんがいた。おじさんは私の車を妙に気にしていることに気付いた。よく見れば公園の無料駐車場の位置が以前と少し変わっており、止めた位置が月極駐車場?になっているような?

まずい、もしかして借り主がいる駐車区画に止めてる!? 怒られちゃう!! と内心慌てていた。子供を急き立て乗せていたが間に合わず、おじさんはこちらに来てしまった。

「ねーこの車、オタクの?」

「ハイすみません」

緊張が極限に達した。が、おじさんは怒らなかった。

「ちょっとクラッチ踏ませてもらえない?」

よーく話を聞くと、お子さんが私と同車種同グレードの車に乗っているが最近調子が悪く(クラッチがどうとか)おじさんもお子さんの車をいじったりしたが原因がよく分からないので、他の車の踏み具合がどんな感じなのか知りたかったそうだ。

おじさんはこの時、会社名の入った車&会社制服で来ていたので、少し安心して話をした。私のものとは製造年や細かい部分が違うので、参考になったか分からないが何か満足していった様子で良かった…というか、私の車なんかよく見かける車種でスポーツカーの類いじゃないのに、よくもMT車だと見破ったな。同グレードのを見かけるたび中を覗き込んでいたのかな? お子さんもわざわざMT探して買ったらしい。とにかくトラブルにならず良かったよ。

 

f:id:henrilesidaner:20200906115619j:plain

東福寺村で唯一合祀されなかった伊勢社。 葡萄畑が広がる場所にあった。

 

f:id:henrilesidaner:20200906114916j:plain

f:id:henrilesidaner:20200906114957j:plain

美味そう。

f:id:henrilesidaner:20200906115638j:plain

何かの記念碑があったが、何の記念碑か分からず。句碑かなー?

f:id:henrilesidaner:20200906115102j:plain

境内には摂社がズラリ。祠や石仏自体は古そうなのに土台は新しめ。

f:id:henrilesidaner:20200906115109j:plain

こちらの養蚕社・天神社も覆い屋とか新しめ。

f:id:henrilesidaner:20200906115402j:plain

金毘羅さんとか。

f:id:henrilesidaner:20200906115522j:plain

f:id:henrilesidaner:20200906115124j:plain

本殿はこちら。

f:id:henrilesidaner:20200906115137j:plain

やっぱり新しめ。

 

f:id:henrilesidaner:20200906115451j:plain

説明板には、

  • 中澤村の村社で大日霊尊(天照大御神)が御祭神
  • 第二十二代清寧天皇雄略天皇の皇子)が草創
  • 大同3(808)年、坂上田村麻呂により造営
  • 安元2(1176)年、布施八郎が一部造営
  • 永禄4(1561)年9月10日、兵火により社殿焼失
  • 永禄6(1563)年10月8日、武田晴信(信玄)が自軍の基地として再建、勝利を伏して祈願し「八幡原」に出征したと伝わる
  • 中世末期には庶民の間で「一度は伊勢に参拝すべき」という概念が生まれ、村人達がお金を集め代表者が参拝するなどした(らしい。この辺りは字が読めなくなっていた。お蔭参りの説明だと思われる)
  • 当神社も地域の人々からの信仰を集めた
  • 寛保2(1742)年、洪水で社殿・宝物が流出
  • 延享3(1746)年、氏子により再建
  • 平成12(2000)年、千曲川堤防工事のため現在地に移転

 

説明板、水跡でボロボロになっており(去年の台風のせいかもしれない)、下半分がほぼ読めない。多分上記のような内容だと思う。

 

創建は雄略天皇の次代、清寧天皇らしい。雄略天皇は中国の「宋書」にも出てくる倭王・武だとされ、出土品からもその他資料からも武=雄略天皇がほぼ確実である、とされる。471年には天皇位にいたらしい。雄略天皇は日本国内の有力豪族を駆逐しヤマト政権を成立させ、朝鮮半島まで出兵し高句麗新羅と戦った(広開土王碑)り、百済国と関係を結んで色々やっていたらしい。どうやらこの時期の日本はイケイケドンドンで、元々朝鮮半島の南にあった任那を足がかりに滅亡しそうな百済とかを併合しようとしたようだ。また雄略天皇伊勢神宮外宮を創建した。

その次代の清寧天皇は若くして髪の毛が真っ白だったようで、白髪皇子と呼ばれていたらしい。普通と違うから「凄い力があるんじゃないか」という理由で皇太子になった。清寧天皇アルビノだったんじゃないかと思った。アルビノは人間・動物に限らず、吉兆の印とかで信仰の対象だったらしい。白蛇信仰みたいな。在位5年間子はなく、(雄略天皇を恨んでいると思われる)ハトコ2人を養子にしていた。二十歳ぐらいで崩御。すべて5世紀末の出来事らしい。

 

大同3(808)年の坂上田村麻呂はもう東北平定を終えていた。都にいたらしい。

東北へ進軍する途中で神社建ててみたよ、ということではないらしい。

 

安元2(1176)年に増築したらしい布施八郎というのは、布施御厨の主かなー? 鎌倉時代に編纂された歴史書吾妻鏡の中の、文治2(1186)年3月の記事に「布施御厨」が出てくる。コレが初出らしい。当該記事の内容は<朝廷より、源頼朝知行国のうち「朝廷への年貢が未納」という荘園等の名簿が到着した。そこで官吏らに催促させた><添付の名簿(荘園名が羅列)>だった。

保元の乱(1156)で崇徳上皇方に付き、破れた平正弘の息子・布施惟俊が父の旧領のひとつ布施御厨に土着したそうなので、年代的に布施惟俊本人かその息子が「布施八郎」だと思われる。

 

「永禄4年9月10日」は第4次川中島合戦当日で、ここには上杉軍の部隊が展開されており。武田軍本隊から分かれて、上杉軍を挟み撃ちする予定の部隊が八幡原へ向かう途中の東福寺地区で上杉軍とぶつかったそうだ。で、社殿が焼失したのかな。

 

永禄6(1563)年は第4次川中島合戦と第5次川中島合戦の間の年。「八幡原」は第4次における主戦場だった。第4次以降「八幡原」で戦うことはない。また、この年は群馬県で両者は戦っていた。誤記かね? と思ったけど説明板には「永禄6年10月8日」と具体的な日付まで書かれている…多分戦勝祈願かなんかやった日かなー? だけど激しい戦闘が起こった場所なら拠点化して備えるのは当たり前の事なのかも。

 

お蔭参り(伊勢神宮参拝の旅)は、

  1. 戦国時代が終わりに近づき、荒廃した伊勢大社を立て直すために各地で布教活動する
  2. 庶民の移動制限はキツかったが、伊勢神宮参拝などの寺社参拝目的なら簡単に通行手形がもらえる
  3. 皆で少しづつお金を積み立てて代表者を決めて旅行させる(積み立てている参加者が必ず旅行できるような仕組み)
  4. 日本各地から参詣者が集まる伊勢大社のお土産は、農産物の種とか最新の農機具などの品物だけでなく、有益な知識技術、流行、音楽芸能、工芸品、いろいろな話題。農村発展に寄与していた
  5. もし途中でお金が尽きたり或いはお金ないのに旅行しても、道中至る所で施しが受けられ、そんなに困らなかったらしい
  6. 信心からの旅行なので誰も止めてはならない、ある日突然お蔭参りしに出かけてもOK

庶民にも神社側にも利益があったため、盛んに行われたらしい。失踪しても伊勢神宮の御札持ち帰れば誰も咎めないし、(道すがらクレクレすれば多分)タダで旅行出来るなんて最高だよ。

 

寛保2(1742)年8月2日、所謂「戌の満水」で社殿宝物が流出したようだ。去年の台風19号と同じような経過で、江戸(東京)も台風直撃し、利根川荒川多摩川が氾濫→長野県内も大雨であちこちの川が氾濫する、長野県の東北信や中信の一部河川は最終的に千曲川に集約される、主な河川と合流後の千曲川が無敵状態→皆流される、な感じ。

多分、現代より治水技術が劣っているだろうから去年の台風なんかより被害はずっと大きかっただろうし。

 

f:id:henrilesidaner:20200906120329j:plain

この近くでは「洪水怖い」という感じの祠があったよ。

 

2年後に社殿再建。

 

 

f:id:henrilesidaner:20200906115534j:plain

武田信玄が拠点化したという話は有り得る気がするけど、神社の元の場所は現在堤防の下らしい。

f:id:henrilesidaner:20200906115352j:plain

こんな御神木みたいな巨木も残っているので、ひょっとしたら一部昔の伊勢社跡も残っているかもしれないが。土塁・堀みたいなのは分からなかった。

f:id:henrilesidaner:20200906115259j:plain

f:id:henrilesidaner:20200906115309j:plain

f:id:henrilesidaner:20200906115317j:plain

f:id:henrilesidaner:20200906115206j:plain

 

★☆☆☆☆

もし土塁とか残ってたら良かったなー。

 

<伊勢社>

創建年 5世紀?

 

 

 

 

 

f:id:henrilesidaner:20200930130925j:plain

商工会が主体になって運営している(多分)カフェの企画レストラン。

「秋刀魚のグラタン」というメニューがあり、食べる前から恐れおののいていたが…この中で一番美味しかった。あまりにも美味しすぎて、そのお店で売っていた中東の民族衣装を買い、LINEで家族に報告するも「イスラム…?」と引かれた。