お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

小坂城

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架道橋を見に行ったのに花見客のふりをした日から三日後。まだ少し咲いていたものの見物客もおらず。代わりに鉄道マニアが電車の写真を撮っていた。

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小坂城はここから上がっていくらしい。

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見知らぬ墓場を通っていくので何か変な感じ。墓参りするような雰囲気だよ。

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墓場の中を表示の通りに歩いていく。いよいよ山道となる。片隅に看板があった。有名な人のお墓らしい。

  • 小林迎祥
  • 安政6年 稲荷山に没す
  • 54才

ざっくり↑のようなことが書いてあった。誰? なんか寺子屋の師匠で俳人の方らしい。この辺の有名な人なのだろうか。

その墓からピンク色のテープを辿っていく。

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登山道はこのような雰囲気だった。急に変わったよ。それなりに人の手が入っているらしく、荒れていなかった。

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それでも獣道みたいなもんだけどねー。

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笹ゾーンを1,2分進むと視界が開けた。笹藪は墓場と城を隔てる門みたいな役目なのかな? 笹ゾーンを過ぎればただの、その辺によくある里山

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里山にありがちな倒木だって勿論ある。

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まだロクに進んではいないものの、親切なピンク色のテープはそこら中にあり、道を迷うこともなさそう。

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↑下界の見え方

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最初の笹藪は多少の不気味さがあったものの、それさえ過ぎてしまえば登る易い山だと思った。

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景色は普通で、珍しさもない。春先だけど花は全く咲いていないし(この時期山にありがちな水仙がいない。春の山は水仙が咲いている印象を持っているけど、私の頭がおかしいだけで、普通は咲いていないものなのかねー?)。

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ダラダラと単調な登り道が続いていく。

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何かありそうで、何もない山道。ちょっと飽きてきた頃、ようやく何か怪しげな風景に出くわした。

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何かあるのかなー? 平場っぽいんだけど。

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だいぶ高くまで上がってきており、そろそろ城域に達するのかな! とワクワクした。

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しかし上の平場までまっすぐな道ではなく、何故か迂回して進まされている。

(後で調べたところ、頭上に見える平場っぽいやつ、やっぱり段郭の一部だったようだ)

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これはもしかして、私のワクワクを裏切る自然地形かしら? トキメキを返して欲しいな。平場はあっという間に越してしまった。

その後、またしても怪しげな平場らしきものが頭上に現れた。今度こそ何かあるのかな?

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ここでもやはり迂回するような形で道が続く。

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地形と歩いてきた道の関係がよく分からんので、どう歩かされているのかこんがらがってきたわ。

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カーブした道の先が急に怪しいよ。これは期待してもいいのかな! 虎口に見えちゃう。

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ウキウキしますよ。

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杉の木がたくさん植えてある、雑木林だった。地形がおかしい、多分郭だな。

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私の天敵・杉がこんなにも!

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ちなみに、杉の近くにいても離れていても花粉症の症状自体はさほど変化がない。考えてみれば春は「杉ヤバイ」という理由で山を避けていたが、それは意味の無い行動だった。

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それなりに広い郭だった。最初に見た変な平場はここだったのだろうか…もう方向感覚おかしいのでよく分からない。

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なんとこの郭には石垣もあった。

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崩れてボロボロである。

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石垣は奥の方が綺麗に残っていた。

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こういう場所は蛇いそう。足がないのに動きが素早い蛇もまた、私の天敵である。

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あまりに綺麗なので、放棄された耕作地風でもある。この郭跡、人の手入りまくりの様相だしな。

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↑おそらく本郭方面。分からない感じの地形だよ。見張り台かな?

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古墳みたいだよ。

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ここには郭が3,4個くらいありそうだけど、結構な勢いで崩れている。また杉の枝葉なのか枯れたシダなのか分からんヤツで地面がフカフカしており、足下も不明瞭。石垣は見事だよ。

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郭を出て、元の道に戻った。

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そういえば、龍洞院からの登り口には「小坂城」の表示があったものの、以降見かけていなかったな。ここもどう見ても郭だけど、特に表示が無かった。小坂城は千曲市の史跡に指定されているけど、入山城みたいな扱いで「史跡には指定したが、それ以上はなにもない」感じで、説明板もなく整備されてもいない状況なのかしら? もっとも入山城は入り口に表示もなかったしなー。

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あんなところにも石垣あるぞ。

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下の広い郭で見上げてた変な地形がここにある↑

どうやら本郭みたいだ。

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下の郭も広かったが、こちらは更に広い雰囲気ある。

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蛇いそう。

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さっきの郭の石垣同様、本郭周りも非常に綺麗。ピシッとしている。

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そして、到達した。

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先ほどの郭達が見える。本郭から見れば、ここもクッキリ残っているのね。

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とはいえ、崩落している箇所も多い。

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さて本郭内部の様子は。

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さっきの郭とは違い、新しめの木柱が立っているぞ。

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入山城とは違うね!

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蟹沢川というのがあり、そっちからも登れたらしい。大手道は龍洞院からの道である。

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また、立派な説明板まで備えている。最初「ちゃんとしていないタイプの城かな」って思っちゃってごめん。

 

小坂城址

  • 建武2(1335)年の「船山の乱」で、官軍(小笠原貞宗軍)が勝利し塩崎・桑原は小笠原氏の所領になった
  • 塩崎城主・赤沢氏は村上氏に備え、土豪桑原氏(左近大夫)を小坂城主として置いた
  • 陣ヶ窪番城址は小坂城の外廊
  • 天文22(1553)年の合戦の後、当地は武田領となる
  • 小笠原氏に対抗するため、小坂城に保科義昌を置く
  • 保科氏は清和天皇後裔・井上頼秀の子孫である
  • 井上忠正が保科に移り、保科氏と称した
  • 忠正より六世が保科正利で、その子・正則と共に永享年間(1429~1441)村上顕国と戦ったが敗れ、伊那郡高遠へ落ち延びる
  • 正則の弟・保科左近尉は永禄年間(1558~1570)の始め頃、武田氏の配下となる
  • 天正10(1582)年、武田氏滅亡後に上杉景勝が本郡に侵攻し、保科氏は上杉氏に降り小坂城は上杉に帰す
  • 保科義昌が保科正則の弟と同一人物かは不明
  • 小坂城は篠山の南東側にあり、東に竜川・西に地獄沢が流れる
  • 標高640mにある本郭は周囲141m、46m×29mの広さ
  • 戦後、耕作されたために原形をとどめていないが、水源を西に流れる蟹沢から取っている
  • 本郭の南側と西側にはいくつか郭があり、当時の石垣も存在し壮大な城址を思わせる
  • また、数多くの掘割により、仕切られている

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建武2年の「船山の乱」とは、青沼合戦のことを指しているようだ。現在の千曲市役所付近で起こった合戦。中先代の乱というのに含まれるようだ。身内が以前うちで昔の大河ドラマ太平記を見ており、私も少し見てたけど、主人公がぼんやりした人だった。ドラマの内容は、主人公が糞だなーという感想以外忘れちゃったよ。もう頭に残らないくらい話がややこしくて難しかったんだと思うよ!

 

青沼合戦は建武の新政に不満を持つ四宮氏や保科氏などが船山守護所を襲撃し、それを小笠原貞宗の軍勢が鎮めるという内容らしい。この青沼合戦自体が陽動作戦だったのか、小笠原軍を引きつけている間に松本市内の国衙北条時行諏訪氏の軍が襲い、そこで勝利したのち鎌倉へ進軍した。

四宮氏は信濃国四宮ともされる武水別神社の神官家一族だったらしい。武水別神社は元々聖山の頂上にあったそうだが、現在地に移転している。wikiには白助五万長者)との関係を匂わせる記述があったよ。四宮氏は諏訪氏と繋がりがあるそうで、保科氏も一説には諏訪氏系とされる。両者親戚かも? ということのようだ。田舎だからか血縁が濃いのかなー?

青沼合戦は小笠原氏勝利なので、負けた側の領地を接収したようだ。小笠原氏傍流の赤澤氏(この時の赤沢氏当主の赤沢経興という人は小笠原貞宗の従兄弟に当たるそうだ)を伊豆国から呼び寄せ、新しく得た領地を統治させたみたい。赤澤氏の新しい館は筑摩郡浅間郷(松本市内)に建てられたが、四宮氏の領地も併せてもらったようだ。塩崎に居城の塩崎城を、桑原に小坂城を築いて小坂城には地元の土豪・桑原氏を置いている。

赤澤氏は小笠原宗家にとって執事みたいな一族のようで、小笠原=信濃守護、赤澤=信濃守護代という関係の家柄。赤澤氏は信濃国人衆との戦いに敗れたり、小笠原氏の内紛に巻き込まれたりで、弱体化したようだ。

 

あと、説明板の文中にある「陣ヶ窪番城」が何を指しているか分からない(外廊ってなんだろうね…)。

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「天文22年の合戦ののち、武田領となる」という内容については、村上義清を破り武田氏が信濃平定を果たしたことを指しているようだ。同年には第1次川中島合戦も勃発している。

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急に出てきた「保科義昌」が小坂城の城将となったようだが、この人は武田氏の家臣らしい。小笠原氏に対抗(ただ、その小笠原氏も武田氏に敗れ、信濃国から出奔しているから脅威になるのかね?)し、守備を固めるために保科義昌がきたらしい。

その後は保科氏の出自とかダラダラと書いてある。青沼合戦で四宮氏と一緒に小笠原氏と戦った保科氏のことらしい。

 

  1. 保科氏は須坂の井上氏(信濃源氏)の傍系だが、正則の代で村上氏に敗れ高遠に移住
  2. 正則の子・正俊は諏訪氏に仕官し、頭角を現す
  3. 正則の弟・左近尉(左近将監)は武田氏に仕える
  4. 天正10年武田氏滅亡→上杉氏が信濃侵攻→左近尉は上杉氏に仕える
  5. 小坂城は上杉氏支配となる=保科義昌が城を預かる
  6. 正則の弟=保科左近尉が保科義昌かどうか分からない

 

ざっくりと↑こうだった。

系図を見ると、正則の子に正俊と正保(左近将監)という人物がいるようだ。正俊の直系は飯野藩祖となり、正保の方は真田家家臣と書いてあった。私が見た系図には保科義昌という人物はいなかった。

他のサイトでは、保科正則の弟左近将監は村上氏→武田氏→(織田家家臣の)森氏→上杉氏と主君を変えたが、その間変わらず保科を領した、とあった。正則時代に高遠移住する系統・保科に残った系統と2種類あるらしい。

保科正則が高遠に移住した理由は「保科正利の弟が伊那の藤沢村に領地を得て引っ越しているため、彼らを頼ったから」のようだ。

 

また、この説明板は間違い多めらしい。文中の「永享年間(1429~1441)」ではなく「長享年間(1487~1489)」に村上顕国に敗れた保科正則が移住、が正しいようだ。上杉家に仕えている保科氏としては保科豊後守正信という人が稲荷山城代になっていた。この人は保科家の系図には出てこない。その後は上杉家の会津引っ越しについていった保科一族(たぶん保科豊後守正信の子孫)と、居残り組(保科正保の直系子孫で真田に仕えた一族)とまた分かれていったようだ。分裂しすぎだわ。

 

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↑古墳みたいに見えたヤツだ。

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↑眼下には崩れた石垣の残骸。

 

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北側には深い堀。

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下りる道があった。地図によれば↓

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この先にも郭がたくさんあり、一番北には「頂上の郭」というものがあるらしい。

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堀は4間(約7m)の高さだそうな。

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この看板の「小坂山」が頂上の郭だろう多分。25分かーどうしようかな、行くかな(当日ハイキングのハシゴをする予定だった)、と悩んだが。せっかくなので行くことにした。また登るのが嫌という理由で。

 

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細い道だったよ…。

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堀をよじ登り。

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尾根伝いを進む。

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もう目印のピンクテープはほぼないけど、なくても道が分かる。

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相変わらず人間には出くわさないが、それなりに人が通っているのだろうか。

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尾根の両脇はずっと斜面。

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なんだアレは。進んでみると、入り口らしかった。

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立派な門構えですね!

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門の先は明らかに人の手が入っている。

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連続した郭がある場所に到達したようだ。何故門があるのだろう…? ここから本郭に向かう道ですよ、という意味かしら?

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後ろを振り返り、門を見れば。背後の変なこんもりしている山?みたいなのも、なんか怪しい。あれも人工物なのだろうか。巨石の陰に隠れている兵にブスッとされそうな。見通し悪くて気持ちも悪い。

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堀が見えてきたようだ。図には、郭×4・堀割×3の表示があった。門の表示はなかったので、何か割愛されている気がする(門の周りだって色々あったのにさ)。

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木が倒れている。

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本郭北側の7mの堀に比べれば浅いが、それでもなかなかの深さ。

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2つめ。

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3つめ。

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4つめ。

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少し歩いて、5つめ。

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どうやら、この堀が最後だったようで。

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また普通の山道に戻った。

さっきの連続堀切と本郭の雰囲気が違う気がする。後付けなのかなー?

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尾根を歩いて行く。

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頂上の郭というものが現れない。

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堀なのかなー? 自然地形なのかなー? とりあえず怪しむが、だいたいが自然由来だろうと思う。

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平場あった。何かに使えそうだけど? もう分からないや。

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急に出てきた注意。

  • 小坂城址・龍洞院方面に行かれる方はこれより先、下り坂・左側急斜面・足下は凝灰岩で滑りやすく危険
  • 「昔から怪我と弁当は自分もち」です

だそうだ。

小坂城方面から来たから知ってる…。結構強めな警告だよ、危ない場所だったのかな。

で、看板の裏に何かあった。

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回り込んでみる。

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祠だった。山の頂によくあるやつ。

頂上の郭に到着したようだ。

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ご丁寧に三角点まである。

郭にしては非常に狭い。てっぺんの周りの方が広い。

後で知ったけど、このすぐ下辺りに桂馬平と呼ばれる場所があるようだ。名前からしてお城の一部じゃないの? 

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むしろ、見えてる平場が桂馬平じゃなかろうか?(すぐ近くらしい) 先達の山歩き記録によれば、人工的な段差がいくつもあったとか。

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頂上の郭=見張り台という位置づけらしいが、本当にその通りだわ。特に、松が生えてる盛り土のあたりとか。でも見張り台作るほど開けて見通せるかというと、そこまででもないような?

 

また注意看板の内容から察するに、どこからかこの祠を経由して小坂城・龍洞院にいけるようだった。これも後で調べたことだが、越将軍塚古墳からここまでの道があったようだ。ひょっとしたら塩崎新城からも来られたかも。

ここから先「遊歩道」的なものが存在していて、標識なんかも整備されていたけど、現在は荒れ果ててしまった様子。

祠があるぐらいだから相当昔からある道路を遊歩道にしたのかな? どことどこを結んでいる道だったのかは分からなかったわ。

 

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見張り台やこの先にあった郭&堀も、塩崎新城から来る敵を警戒しているとかなのかね? 「頂上の郭」周りは兵士おけそうな場所もあるし。

この場所、頂上にしてはさほど見晴らしイマイチ。景色が良い場所だと「急に隕石が落ちてきて全部燃える」という妄想でひとしきりぼーっとして、日頃のストレスを解消することも出来るのに、ここではそれが叶わなそう。

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先に進むつもりはないので、ここで折り返し。

 

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一度通った道だからかすごく早く通り過ぎている気がする。この後の予定もあるし、夕方で少し肌寒くなってきたせいもあるかもしれない。

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あっという間に連続堀切に到達。

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例の門も見えてきた。

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初めてこの区間を通る人は、頂上の郭の注意書きの通り、キツいかも。

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あの区間以外は苦労ない気がするよ。

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そして、本郭に辿り着く。 

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この深い堀を通って。

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やはり誰もいない。

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さっき見たから満足しているので、さっさと通り過ぎます。

この下、高速道路が貫いているためうるさい。

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この辺の石垣はもう一度見たかったので、しばらく堪能した。

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下りるよー。

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笹藪まできた。ここを抜けると。

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墓場。

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おしまい。
今回一番驚いたのが、筋肉痛出なかった事。年を取ると骨折しても気付かない程、痛みに鈍感になる。って聞いたことがある。ひょっとして筋肉痛に気付いていない? やだ怖い。

 

 

★★★★☆

連続堀切面白かった。なんであんな場所にあるんだろう。

 

 

 

<小坂城>

築城年 康正年間(1455~1457)?

築城主 赤沢氏

鳥羽館

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5月に入っても北アルプスには雪が残ってるー。

 

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鳥羽館というのを見てきた。

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ここは史跡だけど、民家でもある。安曇野市内の館跡は私有地(人が住んでいる民家)が多いように感じる。

安曇野市が設置している杭には略歴も書いてある。

 

  • 熊倉街道の要衝で鳥羽郷開発の拠点としての館

  • 本郭は、東西84m・南北72m
  • 北西隅に堀と土塁が残る
  • 15世紀末、生坂の日岐氏の子孫にあたる丸山肥後、丸山将監が居住 

 

こちらは平成4(1992)年に発掘されており、調査報告書があった。

それによると、

 

  • 南北約80m、東西約90m
  • 北西隅に堀と土塁が残る
  • 東には土塁に囲まれた副郭(大字古屋敷)がある

 

 

↑の地図で「鳥羽城址」の表示がある部分が北西隅。副郭というのは県道316号線(太い道路)や「松原ニット」さんを含むらしい。副郭は完全消滅ということなのかな?

 

  • 東北に稲荷社、北に山の神が祭られ、西側には阿弥陀堂があったとされる

 

とのことで、グーグル先生に教えを乞う。

松原ニットさん近くにはこんなものがあるそうです↑

土塁の成れの果てに見えなくはない茂み。一生懸命見ていたら、茂みの中に祠が隠されていたよ。これが稲荷社なのかも?

 

報告書添付の図には、「山の神」と「阿弥陀堂」の位置も示されていた。

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↑山の神があった辺り

大きな木に囲まれた、森のような場所。古そうな屋敷?があるようだ。木とかで見えないが。報告書添付の図には、その辺りが「山の神」って書いてあった感じ。

鳥羽館を分断する県道316号線は近年出来た道路のように思える。古い道は田んぼの畦道として残っているように思った。

 

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阿弥陀堂の方

非常に見通しが良い。何もないことがよく分かる。

 

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こんな感じの位置関係かなー? 

 

  • 館の主は平瀬氏配下で、後に笹賀に移った丸山将監と推定される
  • 天正7(1579)年の諏訪大社「下宮春宮造営帳」に代官・丸山管三という名があり、天正年代には鳥羽に居住していたことが分かる

 

近隣の吉野町館吉野の堀屋敷は丸山氏の館だったようだ。つまり、丸山一族が支配範囲がそこそこ広い。そして、法蔵寺の開基も丸山氏かも? と報告書に書いてあった。法蔵寺は元は梶海渡という場所にあったそうだが、そこも丸山氏の息がかかった地区。丸山氏は地元のごく普通の土豪だとされるけど、領地経営が上手くて財を成している印象が以前から強い。シムシティ得意みたいな。隣の飯田郷の領主・飯田氏はそういうイメージないんだけど、ここの丸山氏だけはヤリ手一族っぽく感じる。なんでなの?

 

鳥羽館15世紀半ばくらいに築城で、吉野町館は16世紀後半? とこちらの方が古いという。

 

  • 丸山氏は松本市笹賀(神戸の館)に転居

 

 

↑多分ココがお引っ越し先。おそば屋さんがある。名前がずばり…。

 

  • 江戸時代の上鳥羽村庄屋は鳥羽館跡にあった
  • 20世紀初めまで屋敷があったと思われ、明治末に水田・畑になった
  • 不用の家財が東側の堀に捨てられた痕がある

 

丸山氏は日岐村(生坂村北陸郷日岐)の領主から安曇野市に進出し、吉野や鳥羽を開発したり武田の家来したり、武田滅亡後は小笠原氏の家来となり松本へ。小笠原家の転封に従ったり、従わなかったり(土着した)で、あちこちに分散したらしい。

 

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ここの堀跡はどういう訳か、水が溜まっている。本当にどこから水が入ってきているのか? 周りは田んぼだが、堀の水は流れていないように感じる。

あと、思いっきり民家なので気まずい。

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隣の田んぼで作業している人はいたが、民家の人は見かけなかった。庭木はよく手入れされている様子。

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だが、堀・土塁に関してはそうでもない???

見て歩こう。

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濁ってはいるものの、死んでる水の雰囲気なし。さすが安曇野

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↑土塁は北側からの方がよく見えた。

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土塁上にすっくと伸びる私の天敵・一本杉。もう花粉は治まったので、全然怖くないから。

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ここまでで土塁も堀も消えてしまう。

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途切れた堀の辺りには、石柱が残っていた。恐らく「鳥羽館址」って書いてあるんじゃないかな…。

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杉の花の残骸が浮いてるー! この子たちは雌花(しかも種を飛ばし終えた残骸で、まつぼっくりみたいな存在だという)なので、花粉出さないそうだ。でも「杉」ってだけで嫌な気分になるよ。

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僅かしか遺っていないので、アッという間に気が済んだ。

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元の場所に戻った。

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★★★☆☆

堀に水が溜まっている場所あんまりないと思うが、どうして水があるのだろう?

 

 

<鳥羽館>

築城年 15世紀半ば

築城主 丸山氏

龍洞院架道橋

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龍洞院というお寺に来た。

ここは地元の土豪・桑原左近大夫という人と、たまたま当地の「小坂の観音堂」に逗留し、たまたま神様のお告げを受けたという信濃国出身の高僧・恕仲天闇(貞治4/正平20(1365)年~永享9(1437)年)という人が意気投合して作ったとかいうお寺だという。元は龍燈院という寺号だったが兵火で焼失したために、永正元(1504)年桑原左近将監が現在地に移転し「龍洞院」と改称したらしい。紅葉が美しい庭園があるので有名だそうだ。

私は基本的に花が綺麗とか庭が素晴らしいとか、関心が薄いので。「今は秋じゃないから観光客もいなさそう」としか思わなかったわ。

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花の美しさより、この松の根っこの方が気になる私。

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山門↑ 長い参道が続いている。

私のお目当てが見えてきた。

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トンネルですよ。

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明治33(1900)年完成のもの。鉄道を敷くのに必要となったらしい。

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どうやら鉄道敷設のため龍洞院の参道をぶった切ることになってしまったから作ってみたものらしい。トンネル付近は切り下げ、トンネル部分は切り通しにして。その上に線路敷いたという感じだな。

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トンネルではなくてこれを「架道橋」というようだ。参道の上に列車用の橋を架けているという構造。

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珍しいものなので、国の文化財となっている。文化庁HP「龍洞院架道橋」にはトンネルとは一切書いていないが、ビジュアルはトンネルにしか見えないよ。

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本来ならまっすぐ斜面を登っていったはずの参道が強引に迂回させられている。溝も掘ってあるし、これも明治時代の遺物なのかなー?

 

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どうやら、少し改修してあるようだ。トンネル坑門(にしか見えない)付近と中間地点では様子が違う。

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コンクリ部分はどう見ても後の時代じゃない? 補強してあるんだよね。

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この辺りが明治期に作られた部分らしい。煉瓦造り単アーチ橋と分類される構造で、明治時代に主に用いられていたが、大正時代に入り関東大震災で煉瓦造りは地震に弱いことが分かったために煉瓦を用いた建築が激減したそうな。

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中程までは石を積み上げて支え(橋台だってさ)、天井のアーチ部分は煉瓦だった。

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天井が凄く高い。車道幅ではないので、あえて天井を高くして圧迫感をなくしているのかな。通っていてもしんどくない。

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短い区間だった。

橋の長さは7.4m、幅は21mとある。橋の下をくぐる道の長さ21mとなるのかな?

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本堂側はこんなだった。トンネル坑門にしか見えないアレも本来なら…。

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この煉瓦造りの見た目ならギリギリ「橋」に見えるよ。

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貨物列車きた。

手前の煉瓦造り風の橋は車道だった。

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本当なら、この姿を皆に見せたかったに違いない…車道の橋の陰となり見づらくなっている。勿体ない。

焼煉瓦・赤煉瓦で外観に変化を付けているという。私が見ても焼煉瓦と赤煉瓦の区別も付き辛い。暗くて。

 

とりあえず本堂の方へ。山門が見えている。

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本堂は桜が満開だった。写真を撮りに来たのか老夫婦が何組もいた。

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鄙びた寺院という雰囲気だ。本堂は安永元(1772)年再建。龍洞院の移転元の場所は「小坂の観音堂」とされているが、現在だとどの辺りだろう?

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寺域内はこんな感じで、あちこちで桜が咲いている。賑やかだった。花なんか1ミリも興味なかったけど、なんとなく「架道橋を見に来た」という自分が恥ずかしく思えて必死に桜の写真を撮ったよ!

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龍洞院の墓地を抜けると、小坂城址に至る。小坂城までのルートはいくつかあるそうだが、龍洞院の墓地を抜けていく道が大手道とされる。また、小坂城の麓に根小屋が置かれた豪族居館型山城です、という紹介を千曲市文化財資料で見たけど。館跡が神社やお寺になっているの、よくあるし…もしかしてココ館跡なのかなー? と思った。お城・お寺に関すること、特に説明板もないので分からなかった。

 

★★★★★

庭園が広くて良かった

 

 

<龍洞院>

創建年 応永年間(1394~1428)

科野大宮社

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やーっと資格試験の結果きた。春ですよ。実務経験いつ積むか・もう少し関連資格取っておくかで悩み中。どちらが転職するのに楽なのだろうか。

 

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科野大宮社にきた。こちらの御祭神は大己貴命事代主命の二柱と健御名方神も祀られているという、長野によくあるような神社だと思った。

ここは長野県内でも相当古い部類の神社であるそうだ。延喜式以前からあったらしいが、延喜式には載っていないとか書いてあった。「総社」というタイプの神社だとも言われいるとかで。

 

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総社というのは、

  • 国司が任国へ下向してまずやること=任国内の神社を順に参拝していく
  • あちこちの神社を参拝するのが大変
  • 国府の近くに神社建てて、国中の神様合祀すれば楽なのでは?

という理由で創建されたものらしい。国中の神社を巡るとものすごい時間がかかって面倒だから簡略化しよう、ということ。

 

最初の信濃国府が上田市内にあったそうなので、推定「信濃国総社」となっている。その後は松本市国府が移ったので、松本市に新しく信濃国総社を建てたと推定されている(上田市のものはそのまま残されたようだ)。

  

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市街地にあるためか、境内は広くない。ただし幹がぶっとい木が何本かあるよ。

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摂社もなんかいっぱいあった。子安社とか稲荷社とか。

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大きな石碑があり、そこに縁起が書かれているようだ。

「科野大宮の碑」というタイトルで、大勲位彰仁親王という人が題字を書き? 文章は枢密院顧問官正三位勲一等伯副島種臣が書きました。というような感じの仰々しい石碑だった。

彰仁親王小松宮彰仁親王のことで、伏見宮邦家親王の第8王子(親王宣下を受けている)だったが出家→仁和寺の門跡→勅命で還俗する→軍人→活躍したので家格が世襲親王家にランクアップ(もともと一代限りの皇族だったのが永世皇族になった)→軍人としてさらに出世(陸軍中将→陸軍大将→初代近衛師団長→参謀総長征清大総督→元帥)→英国王戴冠式に出席(現英国女王の祖父のエドワード7世)→後継者で揉めたため(最初は実弟を養子としたが、長年かわいがっていた甥を後継者にしたいと考え色々工作したが叶わず)彰仁親王薨去後は小松宮家が断絶してしまう という人生を送った人。

副島種臣佐賀藩士の出身で、藩校の教授(槍術)を代々勤める家に生まれる→実兄は佐賀藩内に尊王と討幕を布教する政治結社「義祭同盟」を主宰していたので、それに参加する→江戸時代には英語を勉強している→明治維新後いろいろあって出世し外務大臣に→政変で政治家辞める→中国大陸に渡って3年くらい旅行する→帰国後は天皇の家庭教師→枢密院(天皇の最高諮問機関)のメンバー入り→内務大臣で政界復帰→3か月弱で失脚→枢密院顧問官復帰→在職中に死去(76歳) という感じだった。

立派な人たちなんだろうが、両人ともなんとも言えない人生を送っている…。石碑は2代目で、初代は漢文(副島種臣は中国で3年生活する程度、中国語をマスターしている)だと書いてあった。初代の碑は彰仁親王さんが陸軍大将・副島さんが枢密院宮中顧問官と、上り調子だった頃の明治22年11月に建てられたようだった。

 

明治頃の石碑って高名な人物に揮毫とか頼んじゃっている場合が多いように思ったけど、お金積めば書いてもらえたのだろうか? ってつまらないことを考えてしまう。中央の政治家より地方の名主達の方が、意外と金持っていたのかなー?

 

内容はこんな感じかな↓

  • 崇神天皇7年、科野国造の五百建命が創建
  • 主祭神大己貴命大国主)と事代主命
  • 科野は後に信濃と名前が改められたが、科野と呼ばれた頃から社があったためにその名が冠されている
  • この常田は古須波と称され、近くに国衙があったので須波ヶ岡または国衙台と呼ばれていた
  • 天武天皇13年、都を科野に移そうと三野王(美濃王)と采女朝臣筑羅(采女竹羅)に地形を調査するよう命じ、この地に来て社に祈願した。天武天皇は社に土地を寄進した
  • 文治年間、常田は八須波条院(八条院)暲子内親王領であり、常田荘と称した。華表(鳥居?)を山の上に建てている。南にある鳥居場という場所はその旧跡。
  • 康安2年、鎌倉管領足利基氏が「彗星が現れた、何事も起こらないように」という願文を奉納。この頃には社の規模が南北8丁(約873m)東西6丁(約655m)となっていた。
  • 承平の乱では、平将門が兵を連れこの地に現れた。小県の国造だった他田大鴨(万葉集収録の「防人の歌」の作者の他田舎人大嶋)の子孫である他田真樹(小県の郡司)は平貞盛に加勢し将門と国衙台の下常田の河原で戦ったが、このために社域が荒廃してしまった
  • 享禄・天文年間、小県郡の豪族の上田、常田、海野、真田が隣郡(更級郡)の村上一族と争い止まず、天正元年ようやく再建された
  • 真田氏と徳川氏が度々争ったために再び荒廃し修復するものもおらず、古例にのっとり租賦(=穀物奉納と労働力提供)を取り立て修復していた
  • 毎年正月15日(上田)藩主自ら儀式を行っていたが、明治になり廃止された
  • 常田の人々はこの事跡が忘れ去られることを恐れ、私に「事のあらましを述べ銅の碑に彫って後世に残したい」と許可を求めてきた

 

付記

  • この碑文は銅碑に漢文で彫られていたが、太平洋戦争時の昭和18年8月政府の金属類回収令で献納されたために初代は失われた
  • 有志により再建がかない、広島大学名誉教授正四位勲二等文学博士手塚吉道氏・門下の文学士小林勝人氏に依頼し、国文に改め石に彫り長く伝えるものである
  • 横関豊龍書 藤澤群黄刻
  • 昭和33年4月29日

 とあった。

 

付記に登場する人物は、

手塚良道さん

手塚さんは有名な方だったらしい。昭和3年の紳士録が閲覧可能だったので、手塚さん分を見たけど。家族の情報や住所まで載っていたよ。昔は大変だなー。

小林勝人さん(多分↓)

横関豊龍さん

  • 地元の書家?
  • 大正時代には信濃黎明会という団体に参加する青年だったらしい

藤澤群黄

  • 群馬県にある石材店の号
  • 初代が長野県出身の石工

 

戦後になると、戦前より人選が落ち着いている感じがした。戦前はキラキラ系人物だったのに。

 

江戸時代に入ってからは上田藩の庇護下、地元民にも大切にされていた神社だったようだ。

 

 

★★★★★

場所が良い。飽きたらイオン行けばいいから。

 

<科野大宮社>

創建年 大昔

御祭神 大己貴命事代主命健御名方神

 

 

近くにはこういうのもあった↓

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国指定重要文化財「常田製糸場」というらしい。

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群馬の富岡製糸場の仲間だー!

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↑常田館(事務所兼住宅)

↓4階繭倉庫

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↓創業者住宅・奥帳場・賄い倉

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↓守衛所・(奥)5階繭倉庫

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↓事務所兼住宅の一部分

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古い建物が残っている。

 

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↑5階繭倉庫の近くまで見学が出来る?

 

…ようだったが、守衛所に「見学は終了しました」とか書かれていた。後で見たけど、「内部の見学は行っていない」ということらしい。つまり、建物には入れないが敷地内は受付すれば入れてくれるようだ。

 

この場所は会社(製糸場を創業した一族が経営しているみたい)の私有地だが、人の姿は見えない。車は出入りしていたので、人は居るはず。

 

ちなみに築年は

  • 5階繭倉庫 明治38(1905)年
  • 常田館 明治39(1906)年
  • 4階繭倉庫 明治45(1912)年(現在の建築基準法に適用させるため改築する)
  • 5階鉄筋繭倉庫 大正15(1926)年

↓左にある5階鉄筋繭倉庫(ベージュ) 

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大正時代に鉄筋の五階建てビルかー。明治末から大正時代にかけて鉄筋コンクリート造りの技術が日本に入ってきたそうだ。元々あった建物が火災に遭い、翌年完成させた建物らしく、景観的にはベージュの部分だけ異質だわ。

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近くの広い駐車場に怪しい看板あった。

狐坂の嫁入り桜という、伐採されずに残された桜が。

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裏手は高台だし、狐坂とかいう坂道でも昔あったんか。

  • 昔、信濃国に子狐を助けた老人がいた
  • 子狐は成長し、嫁入りを迎えた
  • 老人に「あのときのお礼」と素晴らしい引き出物を持参した

という話から、この桜を嫁入り桜と呼んで「縁結び」「子宝」に恵まれる桜と言われる。と書いてあった。そういう看板があるわりには祠とか一切ないです。素晴らしい引き出物も中身は金銀財宝系なのか未来の繁栄を約束する系なのか、はたまたドングリとかの残念品なのか…?

 

まんが日本昔話(1980年5月3日放送分)に「きつねのお礼」という話が放送されており、内容が似ていた。というか、具体的な民話はコレしか出てこなかった。元ネタは「信濃の民話(1957年刊)」収録の「きつねのお礼」で、南佐久郡八千穂村で聞き取ったものらしい。

  • おじいさんが雨でびしょ濡れになった子狐を家に入れ、雨宿りさせた
  • 子狐は雨が止んだ頃、山に帰っていった
  • 子狐は毎日おじいさんのところに来るようになり、おじいさんは時々所用で町に出かけたが帰りを待つ子狐のためにお土産の油揚げを買ってくるようになった
  • ある日、町から帰宅したおじいさんは雨に遭い、寝込んだ
  • 子狐はおじいさんの看病をし、全快したおじいさんは子狐にお礼を言った
  • 町へ出かけるおじいさんは子狐に「油揚げ買ってくるから待っててね」と声をかけた
  • 子狐は、その日母狐と一緒に帰りを待っていた
  • 母狐は持参した折り詰めをおじいさんの所に置いた
  • 子狐は寂しそうな様子で母狐と山に帰っていった
  • 折り詰めは豪華な料理が入った婚礼用のだった
  • その日、少し離れた村では大きな婚礼があった。折り詰めが一つなくなって大騒ぎになっていた

お礼の品も盗んだものか! おじいさんが泥棒の疑いかけられなくてよかったよ。

 

看板に書かれた内容のものは「そういう話が信濃国にある」程度しか分からなかった。

海野宿

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ここは千年ぐらい前から存在している古い街らしい。

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ここから山の方へ進むと、石器時代の遺跡だのノノウ巫女の墓などがあるようだ。ノノウ巫女が気になる。信濃巫と呼ばれた歩き巫女の一種らしい。歩き巫女とはあちこちさすらう巫女さん(後継者として見目麗しい少女を各地で探してきて育てるそうで、当然活動している巫女さんはアラサーまでの美女揃いで金品をばらまきつつ祈祷をこなし春も売ったとか)で、平和な時代には各地で歓迎を受けたとwikiに書いてあった。

それ以前の、平和でない時代は信濃巫は武田信玄に仕える訓練された女忍者とされるようだ。つまりかげろうお銀みたいなー?

とりあえず、家族に「ノノウ巫女ってなんだろね!?」と言ってみたが「ハァ?」と返されたので行かないことになった。

 

まずは海野宿に入ってみる。

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この祠辺りから街域になるのかな?

先へ行くと古い建物が現れ始める。

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海野宿のメインストリートにはこんな場所が↑

以前来たときもあった気がする(確か10年近く前だったような?)。その当時見かけたとき(これ高く売れそう)と思ったが、もうサビサビで買い手つかなそう。もったいない。

 

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人気無し。

海野宿に隣接する保育園のお散歩でワーワーしていたが、観光客はほぼいない。

 

この場所には案内看板があった。

この場所は宿場町の真ん中辺りだろうか。

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元は海野氏の城下町だったらしい。賑やかな場所だったのが、上田城に城下町を造るにあたりそちらに人を移すこととなったらしい。

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街の真ん中には用水路が流れていた。

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家屋の玄関先には用水路への階段があり、生活用水だった。今は当然使われておらず、汚い。

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本陣はこの場所にあったようだ。宿場町になった時は田中宿と上田城下町の間の宿扱いで本陣は田中宿にあったそうで。寛保2(1742)年の大洪水で田中宿が壊滅状態となり、田中宿一時廃止→海野宿が本宿に昇格したときにここが本陣となったようだ。

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明治7(1873)年進善学校は、脩斉学校と夏目田学校と共に公立学校として誕生したそうだ。海野宿から1kmと少し離れた田中小学校に統合されたそうだ。

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本陣は他の建物とはやっぱり造りがちょっと違う。

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大きい蔵もある。

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蔵も分厚い壁で出来ているけど、卯建もあった。これも火事除け。

海野宿が本宿に格上げされた後、田中宿は復興して数回の海野宿側との交渉後にまた宿場町となった。本陣も海野宿・田中宿両方に置かれ、「どちらに泊まるかは旅人次第」という決まりとなった。しかし、慶応3(1867)年に田中宿は燃えた。その後も再建されるものの。災害が多い田中宿に泊まらず、海野宿を選ぶ人が多かったらしい。

千曲川のすぐそばにありながら、江戸時代からの建物が残されるほど火災も自然災害も少ない地区だったのね。

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ちなみに田中宿跡は現在の田中駅周辺のようだ。あちらは跡形もなさそうね。

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マンホールの蓋(旧東部町仕様)も海野宿だった。

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↑こんな子もいた。2020年、どれほどの日本人はこの子を甘エビと呼んだだろうか。見た目甘エビとほど遠い、人魚かどうかも謎の生き物だよなーカテゴリは妖怪らしい。

手に持っている物は蚕らしい。

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養蚕も盛んだったから、という理由で。

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ここには媒地蔵という縁結びのお地蔵さんがいた。

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  • 加賀国の殿様には年頃の娘がいたが、なかなか良縁に恵まれなかった
  • 縁結びの地蔵尊が海野にいると聞き、参勤交代の折りにお詣りしていった
  • すると立派な男性と結婚することが出来、殿様は大変お喜びになった
  • 海野氏家臣の赤石藤治友信が媒地蔵を安置したことが始まり→天文年間衰退→寛永2年地蔵寺として再興→元禄4年現地移転→昭和26年焼失→廃寺
  • 廃寺となったが、平成7年山門と常夜灯は再建した

 

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田中学校支校跡という碑もあった。進善学校・風声学校が田中小学校となる過程にあった小学校なのかな?

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↑こんな表もあり、家族も何故か喜んでいた(こういうの好きなのかもしれない)。

 

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白鳥神社に来た。

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白鳥神社という名前は全国各地にあるが、ヤマトタケル由来が多いらしい。この神社も、「東征の折りにヤマトタケルがこの地に滞在されたことから白鳥神社と称し」と書いてあった。ヤマトタケルは父の景行天皇の命令で西征・東征を繰り返し帰京の途中で倒れ、白鳥となり天へ還ったという人であるそうだ。ちょっと可哀想な人生の人らしい。白鳥になった日本武尊がこの場所にも降り立ったので、神社が建てられたようだ。

主祭神日本武尊だけど、この地域を治めた豪族の海野氏の祖とされる、貞元親王清和天皇第三皇子)・善淵王・海野広道も祭神としているそう。 ちなみに、清和天皇第四皇子の貞保親王を祖先としているものもあるらしい。貞保親王の母親は有名な藤原高子だそう。貞元親王や貞保親王は9世紀と10世紀に跨がる時代に生きていた人達であるようだ。善淵王は貞保親王の孫で滋野氏の祖、海野広道は滋野氏後裔で海野氏初代だと書いてあった。ややこしい。

海野氏という一族が有力なので、治承5(1181)年の白鳥河原の勢揃もこの場所を選んでみたっぽい。

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すぐ近くに千曲川がある。こういう河原でエイエイオーってやってたんだろうか。

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実は、今回は白鳥河原や海野宿をメインにしていたわけではない。

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落ちた海野宿橋を見たかったのだ。ポッキリいっちゃってる!

ここは川筋を変えるとか、かなり大がかりな工事をしており、新しい橋ができるまで何年かかるんだろう? 急ピッチで工事してたせいか、杜撰施工もバレてしまったので大変なことになったらしい。

 

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 この日のご飯はこれだった。

 

 

<海野宿>

 開設 寛永2(1625)年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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↑コレに行った。

事前情報では「わりと難しい」と聞いたけど…本当に小学生・幼稚園児向けかと思っていたのよ。そのぐらいの年代の子が居る家族連れが1~20組ほど冊子を片手に歩いているのを見かけた。これで1日潰せたけどさ、私はノーヒントじゃ解けなかったわ。今は反省してクイズ雑誌買って解いている。うちの子供は問題一切解かなかった、考えたくないと言っていた。

善光寺近くで散歩

数年ぶりに善光寺界隈を歩いた。善光寺までは行かなかった。

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用事があったけど、思いの外早く着いてしまい、ウロウロすることにした。雪降っていて寒かった。

曹洞宗黄梅山栽松院というのが正式名称で、しまんりょとも呼ばれているらしい。通るだけでマジマジ見たのは初めて。ずっと神社かお堂だと思っていたのに、実はお寺さんだった。

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非常に古そうなお寺である。創建は戦国時代まで遡るらしい。「しまんりょう」というのは嶋の寮(寺)が訛ったものらしく、その意味は「島の観音堂」だそう。このお堂の両側に川が流れており「島のようだったから」らしい。

お堂を建てたのが名主で造り酒屋の菊屋(山嵜家)というおうちで。菊屋稲荷を屋敷神としていた家らしい。

 

↑菊屋稲荷

善光寺近くに大邸宅を構えていた菊屋は強運のおうちで、大火事(桜屋火事・善光寺門前町が丸焼けした)にも地震善光寺地震震度7で死者八千人以上)にも被害があまり無かったらしい。セントラルスクエアの北側にあったという菊屋さんが明治以降どうなったのか分からないが、山嵜家の邸宅ってひょっとしてアレじゃないかな? という心当たりはある。その建物は「明治時代の商家」だと紹介されていたが、菊屋さんの邸宅だったものかどうかは分からず。

菊屋稲荷は菊屋跡地から1kmぐらい離れている。

 

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↑嶋の天神

なんだかよく分からず。頭良くなりますように。

 

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↑尾上出世不動尊

詳細分からず。戸隠から移転してきた?

 

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↑地元商店街の守護社?

 

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↑石碑

 

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↑子育て赤地蔵尊

赤いのは魔除けで塗っているらしい。お地蔵さんは地獄から救ってくれる存在だそうで。六地蔵はそれぞれが地獄の六道におり人々の代わりに責め苦を受けてくださるらしい。また、賽の河原で石積みしている幼気な子供達も守ってくれるそうで、子供の守護神にもなっているそうな。

 

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↑摂社たち

 

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↑石碑

 

社も石碑も古そうだけど、街の開発などで行き場を失い一カ所に集めて祀っている感じもする。

 

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↑古い倉庫もあった

 

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門前には黄梅も咲いていたよ! 寒そう。

 

権堂方面へ。

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↑於菊稲荷社

おどろおどろしい。「お菊」っていうと播州皿屋敷の人というイメージが強すぎなんだろうか。

この場所は菊屋跡地のすぐ近くで、もしかしたら菊屋さんと関係があるのかもしれない。

 

住宅地の真ん中の、とても分かりづらい場所にあった。

 

 

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↑延命庵

こちらも於菊稲荷、菊屋さん邸宅跡のすぐ近くにあった。

経読み地蔵とも言われる。むかし菊屋のご主人が目の病気で寝込んでいた。蔵の中からお経を読む声が聞こえた為に蔵の扉を開けたら、小さなお地蔵さんが熱心にお経を唱えていた。で、ご主人は全快したという。以来、目の病気を治すお地蔵さんとして信仰を集めているそうだ。

菊屋の一族はお稲荷さんにもお地蔵さんにも愛されているのか。そりゃ大火事にも大地震にも強いよなー。

 

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秋葉神社まできた。

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勢獅子というのは明治4年に長野県誕生を祝って始まった獅子舞だそうだ。

秋葉神社軻遇突智命(火の神様)を祀っている。

権堂は歩けるが、大通りを越えて東にある鶴賀新地は未だに行ったことがない。子供の頃、一度大通りを渡って向こう側まで行ったことがあるけど、なんか空気感がおかしくて戻ってきた。その後鶴賀新地のことを知ったが、もう行こうと思わなくなったよ。長野市民なら一度は新聞で映画上映案内をチェックしたことがあるはずのニュー商工も鶴賀新地のどこかにあったはず?

 

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権堂にあった遊郭は鶴賀新地に移転した後、消滅したみたい。鶴賀新地の遊郭は現在も廃墟となって残っているらしい。

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権堂のアーケード街にはお寺さんもあった。

往生院というそうだ。説明板には

  • 大同2(807)年に弘法大師善光寺参りに来た際寶乗寺を創建
  • その後の正治元(1199)年に同じく善光寺参詣の法然がこの場所に逗留し浄土宗往生院と改めて現在に至る
  • 権堂という地名も往生院由来で、建久8(1197)年源頼朝善光寺再建のために御本尊をこのお寺に移し仮堂(権堂)としたからだそうだ。

権堂に遊郭が出来る前からずーっとあるお寺なのね。

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本堂らしき建物は御影堂(法然上人を祀っている?)になっている。

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宇賀神大弁才天という名前の神様で、長野県内最古と書かれていた。宇賀神大弁才天は中世以降に信仰された神様らしく、宇賀神と弁財天が習合したとされる。

 

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こちらも石碑や石塔がひっそりと置かれていた。

 

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時間になったので、ご飯を食べたよ。とにかく美味しかった。このお店は1年ほど前から行ってみたかったんだけど、なかなか善光寺界隈をうろつく機会が無く…大満足だよ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12月から1月にかけて元々忙しく、そのうえオタクな活動も数年ぶりに再開し休みはほぼ家に居た。数年ぶりにゲーセン行ったが、びっくりするぐらい何も取れなかったからもう行かない…。

真っ当な生活をしていた数年間のうちに昔ハマっていた作品の20周年記念的な新作コミックスが出ていて驚いたり、休眠していたヤフオクのアカウントを覗いたら気持ち悪いぐらい女の子のフィギュア買いあさっていた履歴に震え上がったりした。

最盛期には数百冊ほどあったマンガ本を実家へ取りに行ったら一冊も残っておらず(恐らく薄い本共々処分したらしい)、その代わり大量のチョコエッグのおまけの動物達、ガチャガチャやゲーセンの戦利品のフィギュア・ぬいぐるみが残されており「宝の山だ!!」とテンション上がる。が、連れ帰ることに関しては家族に嫌な顔された為に断念。

今の家も家捜ししたところ、昔買ったようなマンガ本は岡田あーみんとか家族が読まないであろうものしか残っておらず、オタ活を止めてから買ったコウノドリとか真面目な作品しかない。その代わり古いゲーム機(サターンから初代DS・DS Liteまで)や大事にそうにプチプチに包まれた小さいフィギュアの女の子達(ヤフオクで買いあさっていた大事なお人形さん達だよ!)、未開封のゲーセンで取ってきたガンダムの機体とかが出てきた。

今となっては何がキッカケで止めちゃったのか覚えていないが、何か物凄くショックなことがあったに違いない。止めた大体の時期は分かったが心当たりがたくさんありすぎたわ。とりあえず今回買った某作品の20周年記念コミックスのために本編(TVアニメが原作でキャラの設定等が異なる劇場版がある→コミカライズ全5巻+劇場版1巻→記念新作マンガ1巻という流れ)アニメのDVD全巻買うしかないかなー?

 

食べ歩きはしていたよ! 

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林道猿ヶ馬場線

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中身はほぼ北国西脇往還善光寺西街道)らしい。善光寺西街道は塩尻市洗馬と長野市篠ノ井を結ぶ道でもあり、国道403号線が一応、後継路線となっている。が、善光寺西街道を踏襲している部分は千曲市筑北村との間のみとなっている。しかし403号は筑北村麻績村の間も青柳宿を通らない等かなり差異がある。千曲市内でも善光寺西街道部分は林道化されており、その名称が猿ヶ馬場線というそうだ。

 

ちなみに403号分岐点はここ↓

善光寺西街道(旧道)は左の狭い道、現国道403号は右へ。

左へ進むと立峠がある。

 

筑北村西条から先は旧東川手村(潮村・潮山中村・潮沢村などが明治に合併して誕生した村)を通過していた道を改良したものらしい。旧東川手村の木戸という地籍で川手道(現国道19号線)とぶつかり、403号は松本方面に向かう。

 

川手道は国道19号の前身となっている。↓分岐点

 

国道19号は左。国道403号は右。真ん中は…国道19号と最終的に合流するみたい。

 

木戸と西条を結ぶ道は酷い山道でサグラダ・ファミリアみたいに延々と工事し続けている。安曇野IC~麻績ICで通行止めになった場合の代替道路に指定されているので改良し続けているようだ(実際、安曇野IC~麻績ICで通行止めになっちゃったとき、その道を通らされた。九十九折りの狭窄な道路が賑やかになった。その中には品川ナンバーのキャデラックとかポルシェとか大都会からやってきた高級外車もいっぱいいた。あの人達こんな山道通ったことないだろうなと思った)。昔は重要な道ではなかったようだが、山奥には平家の落ち武者伝説が残る集落もあったりするので人は昔から住んでいたらしい(この近くには縄文人骨300体ほどが発掘された遺跡もあるとか)。

国道403号の元になった古い道は一応まだ残っている気がする(グーグル先生の地図では分断されているが、古地図と照らし合わせるとこれかなー? って感じの道がある)山深いので荒れてそう。街道(里道らしい)ですらないので今後とも整備されないだろうねー。

 

善光寺西街道という古い街道の後継路線とはいえ、この辺りは明治以降に切り開いた幹線が多いので、古い道は放置されてきた感じがする。それが良かったのか、文化庁の「歴史の道百選」にまで選ばれてしまった。林道猿ヶ馬場線も歴史の道百選に指定されている。

 

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全線舗装路となっているらしい。それなりに需要があるようで、グーグルカーは踏破している。探せば動画でも出てくる。

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この道、とにかく杉が多い。即位記念で杉を植えやがったようだ。林道は昭和38年に開設されたそうなので、紀念林って平成での即位した記念なのかな? とにかく杉の香りが濃厚。これ、春に通ったらアレルギー反応で死ぬんじゃないかと真剣に思う。

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轍があるので誰かが頻繁に通っている様子。

 

猿飛池という忍者っぽい池とか。

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 茶屋もある。

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↑火打石茶屋跡

  • この辺りには多い時で9戸の茶屋があった
  • うち3戸は松代藩命により茶屋を営んでいた
  • 藩命というのは、山賊撃退と旅人の面倒を見ること
  • 3戸のうち名月屋という茶屋は本陣の格式があり、屋敷の門や屋根に六文銭をあしらい、お殿様がお越しの際休憩宿泊も出来た
  • 名月屋には芭蕉の句碑が建てられていた

この狭い場所に屋敷があったらしい。

句碑というのは

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↑これのようだ。

こんな場所に茶屋が点在するとか。店員さんが泊まり込みで働いていたのかなと思うと…ちょっと働くの躊躇するなー。夜なんか真っ暗だよ。

句碑・盛り土の奥に道らしきものがあるが、その奥に屋敷があったのだろうか。この林道も正確に善光寺西街道をトレースしている訳ではなさそうなので、旧道かもしれない。

 

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↑どう見ても道です、というモノが林道の横に現れたりしている。状態がかなり良いやつなので頻繁に整備している感じよ。

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↑こういうのもあった。一里塚だそうだ。

  • 近世の主要街道の両側に一里(約4km)毎に土を盛り、里程の印とした塚
  • 塚上に榎や松を植えることが多い
  • こちらの塚は「火打ち石の塚」という
  • 塚は昭和38年の林道開設の際、四カ所に分断し、特に西側の塚は排除されてしまう
  • 現存する東側の塚は直径6m高さ3m
  • 他にも「稲荷山」「一里山」「市野川の一里塚」があったが、現存しているものはない

 

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松崎茶屋跡も林道から少し外れた、奥まった場所に跡地があった。

 

 

ここまで来たら、ナビが右行きを示した。いやいや、どう見たって左じゃないの!? ナビは「左は行き止まり」と言い出す。この林道で行き止まりとなったら詰む。しかし先の桑原宿まで行けるはずなんだがねー。

色々考えたところ、戻ることにした。

ちなみに、この場所は「のぞき」という場所で、大井茶屋と展望台があったらしい。お金を貰い設けた望遠鏡から善光寺本堂を覗かせた場所だそう。タワーの展望台に備え付けられた、100円入れると使える望遠鏡的なヤツだね!

 

聖湖までは急坂だった。車の横滑り警告灯がチカチカするー。路面に敷き詰められた杉葉で相当滑っている。道路幅は危険なほど狭くなかったが、警告灯の点滅は本当に気持ち悪い。

 

滑りはしたが、無事に林道入り口まで到着した。

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★★★★★

滑った件も含めて、なかなか楽しかった

 

 

<林道猿ヶ馬場線>

開設年 昭和38(1963)年