矢沢城から約4km程離れた住吉地区にはお城跡が密集している地域がある。ここは上田と松代を結ぶ古い街道があったようで、上田側の出入り口(住吉地区)には狂ったようにお城を作ってあった。
調べて見ると、松代道は「上田城と松代城を結ぶ道」だが途中でいくつか分かれているという。曲尾地区(旧真田町曲尾村)から地蔵峠、赤芝地区(旧松代町豊栄)を経て松代城下は共通で。曲尾村から長島村・金剛寺村(これらの村は明治初め合併して住吉村になり現在は上田市)を経て上田城下に至る道が主要道らしい。他にも矢沢地区を通過するルートもあったので、伊勢崎城と矢沢城も必要となってくる。
松代道は残っているようだが、車が通れるような道ではない。ほとんど使われなくなっているようだ。このエリアの城は村上氏が作ったものが多いとのことで、松代やその先の須坂市辺りから来る敵(高梨氏)への備えなんだろうなと思う。
住吉地区や殿城地区など辺り一帯は元々海野氏の領地だったが、天文10(1541)年の海野平の戦いで敗れた後に坂城の村上氏領地となっている。そのあと、お城群は村上氏により作られたと言われる。
この山だけでも稜線上に米山城・砥石城・砥石本城・枡形城と4つ並んでいる。この地図でいうと金剛寺集落を挟んだ先の山の稜線にも似たようにいくつも城が並んでいるという。
神川を挟むと真田氏の本拠や真田氏のお城が建ち並ぶ。昔の大河ドラマ関係で作ったようだけど綺麗なままだった。こんな物が何故あるかというと、真田氏の出世のキッカケが砥石城攻略だから。少し時代が違うので真田丸には出てこなかったんじゃないのかな? と思うけど(大河ドラマはほぼ見ないから知らない。鎌倉殿みたいに殺伐としてないと見る気しない)。
この説明板によれば、
- 天文17(1548)年の上田原合戦において村上義清に敗れた武田信玄は、天文19(1550)年に再び砥石城を攻めた
- ここを破ると地蔵峠を越え、村上氏の本拠がある坂城の背後へ迫ることが出来るからだ
- しかし砥石城は守りが堅く武田軍は攻撃を諦めたが、村上軍は追撃し武田軍を敗走させた、後に「砥石崩れ」と呼ばれる伝説的な敗走だった
- 翌天文20(1551)年に、武田信玄の家臣・真田幸隆が調略しあっさりと落城させた
- 真田幸隆はこの後も武田信玄の家臣として大いに活躍した
とあった。
一説によると真田幸隆は近隣の矢沢城主で親戚の矢沢頼綱と組み、砥石城を1日で落としたという。松代道は現在の長野県道35号と重なるようなルートだと思うが、村上氏領地の坂城とは深い山で隔てられている。県道35号はひたすら山の中を走っている。
途中の猿ヶ城、弥六城以外はめぼしい城もなく、傍陽地区を過ぎれば豊栄地区まで何もなかった山道だと思われる。
県道35号は数回車で走ったことがあるけど、山に分け入るような古道もほとんどなかった記憶がある。グーグルマップのコメントによれば猿ヶ城も登ることが難しい、素人不可の険しい場所のお城らしい。猿ヶ城と向かい合う形で設けられた弥六城も同じで、現在荒れて人が登ること難しくなっているようだ。猿ヶ城も弥六城も村上氏が関わるお城かどうか分からない(弥六城は原弥六築城と伝わるが、猿ヶ城は不明)。
坂城とは芝峠経由の道でしか繋がっていなかったようだ。現在は芝峠を越えて坂城に抜ける道はないよう(それらしき道はあるものの出入りがない状態)で、県道35号から分かれる古道らしきものにはすべて入り口に「入山禁止」の看板が立てられている。入山禁止の看板には松茸の文字はないが、多分松茸山なんだろう。
この先に芝峠があるんじゃないかと思った道。立ち入り禁止である。
航空写真見る限り、背後の松代道や猿ヶ城・弥六城辺りを押さえたとしても、なかなか攻めるのはキツいんじゃないかと思うような感じだけどね!
山に登る気はなかったが、矢沢城で楽しくなってしまいついここにも来てしまった。
米山城の入り口には古い石碑があった。
なんて書いてあるか分からず。どこからか移されたものだろうか。
お金かかっている記念碑、妙に恥ずかしくなった。時代を感じるなァという雰囲気。
石畳、オシャレ。
かなりマメにお金もかけて管理され、綺麗な状態を維持し続けている。
何か見えてきた。
中学生の頃書いていた二次創作の漫画が20年後発掘された時みたいな気持ちになる絵が掲げられていた。
復元(というのか?)された櫓門らしい。
なんと登れるようだ。
ちょっと木がボロボロかなと思ったが、登れる箇所はコンクリート作り。これなら安全だね。
ハシゴがあった。
櫓門を過ぎる。
ここでお爺さんとすれ違ったので「こんにちはー」と声をかけたら「えっもうそんな時間? ヤダもうお昼じゃない!」と驚きながらも颯爽と下りていった。お爺さん結構な早朝から山登っていたのかな? お爺さんは登山スタイルでやってきて、私は山登りではない軽装で壊れかけてる安物のスニーカー履いていたから「山を舐めるな」と怒られないかと内心ヒヤヒヤしていた。スニーカーはこのハイキングの末に壊れた(無事に下山出来て良かったよ)。
なだらかな坂道が続く。
よく人が訪れているようだ。今日も珍しく一人すれ違ったしな。
ただあまり景色が変わらないのが何とも…。
しばらくして案内があった。今度は木の奴だった。
少し雰囲気が変わってきたよ。
また木の案内板。
分岐点だ。まずは近い米山城へ。
これまでと同様、なだらかな坂道が続いていた。なので安心して登れそう。
こちらも向かう人が多いようで、しっかりした踏み跡がある。
ちょっと登山道の様子が変だと思ったが、自然なのか人工なのか分からず(細かい砕石で敷いた道のようにも見えたが、そんな面倒な手入れするかな?)。そのぐらい丁寧に手を入れているように思えたのだ。
そんな風に思えた道も当たり前だが長くは続かず。何故か二手に分かれている。姫道と武者道かー。
よし漢を見せてやる。武者道だ。
武者道はゴツゴツの岩場を通る斜面のルート。
野性味溢れてますわ。
虎ロープを伝って登れとな?
ここは敢えて虎ロープなしで! 意地で登ってやった。ソールがツルツルなので滑る。
またしても分岐点。今度は姫道・武者道の表記ではなく「ゆるやかな坂道」。険しい方で行くよ!
どうやら頂上も近いらしいな。ここも虎ロープ付き。
見えてきたぞ!
米山城に到着。やったー。
城というより物見台の役割なのか、ここに来る途中に堀とか全く見なかったわ。それでも県の史跡に指定されている重要な城。
米を馬の背に流して水に見せかけたという悲しい話。米も水が無いと炊けない。米だってもったいないだろうに。この伝説が元となり米山城という名前なのかしら?
米山城の城っぽいところは今のところ、ここしか見てない。広い郭。
そして見晴らしもいい。上田盆地がよく見える。
ストレス解消ついでに大きな声を出しておいた。ただ今回久しぶりに運動し爽快な気分だったため「嫌いな人死に絶えろ」と叫ぶに留めた。
石碑や石塔があった。石塔は供養塔かな?
石碑はなんと村上義清を讃えるものであった。上田といえば真田一色。東北信ではお隣の坂城町だけが村上推ししている雰囲気なのに。彼は冷遇されている気がしていたのでちょっと嬉しい。
揮毫した人は「輝虎十四代孫従二位伯爵藤原茂憲」と読めた。輝虎=上杉謙信の十四代下った孫の上杉茂憲が書いたようだ。この人が「従二位」の官位に任ぜられたのが明治40(1907)年。調べたら石碑が建てられたのが明治42(1909)年だった。
上杉氏は藤原北家勧修寺流支流ということで藤原姓なんだそうな。村上義清も上杉氏の血を引いている。武田氏に追われて新潟に亡命し、山内上杉氏の当主だった上杉謙信の庇護を受けた。村上義清の息子の国清は謙信の養子となり、山内上杉氏の分家で断絶していた山浦氏を復興させた。という関係で、上杉茂憲に記念碑の揮毫をお願いすることになったのかな?
切岸かな?
さすがに富士山は見えないだろうと思ったら、なんと見えるというのである。
平成16(2004)年に国土交通省の「関東の富士見百選」に選ばれていたそうだ。ここと太郎山から見えるそう。凄いな!
砥石城と米山城はほぼ一体運用されていたのか、現地にあった年季の入った案内図には一括りにされていた。
私が登ってきた道はこの図にない。後から設置された道なんだろう。
この図には米山の由来が書かれていた。米や麦の焼かれたものが見つかったので「米山」というんだそう。
ほとんど消えかけている「小宮山」とは、おそらく古い時代の呼び名だと思われる。砥石米山城跡保存会が発行している「米山城の里 金剛寺 歴史散策マップ」には文明年間(1469~1487)に海野氏配下の小宮山氏が築城、とあった。それって小宮山が米山に訛っただけじゃないの? と思ったけど…。
米山の麓に「向屋敷」という地名があるので、その辺りに居館があったのかと思っていたら違うらしい。米山城の居館とされる場所は「長島の堀之内」と呼ばれる辺りのようだ。
東條建代神社の西側の道路が旧松代道だそうで、それを監視するような位置に居館がある。向屋敷もお城関係の施設があったんだと思うが。
また「城代屋敷」と呼ばれる区画もある。
金剛寺公民館から西側、道路で囲まれている広い区域。この区域内にあった城代屋敷は村上義清の家臣・石井喜左衛門の屋敷だそうで、土塁などが残っているらしい。この辺りのお城を管理していた武士かな。
真田信之が元和4(1618)年に発給した文書の中に「小県郡本原(上田市真田町本原)の石井喜左衛門代官所」という文字が見え、この頃には真田家家臣となっていたらしい。本原は真田の本貫地周辺にあり、住吉とは米山城砥石城を擁する山の向こうの地区となる。この地域の有力者だったんだろうな。
石井さんは真田家の松代移封には従わずに当地に留まり帰農したとされる。また、この方のお墓は祟りを成したので後に「石井荒神」として祀られた。そして「石井荒神」は明治41(1908)年に米山城の頂上に遷座されたという。
村上義清の顕彰碑の左右に、確かにあったわ。
どっちだろうか?
どちらも普通に供養塔と思っていたのに…。
石仏は地蔵菩薩像で安政2(1855)の銘が彫ってあったので、石仏じゃない方かー。現地では知らなかったので手を合わせてきたかも覚えてないや…祟られたらどうしたらいいんだ。そして改めて(写真で)見るとおどろおどろしさがあるような気がしてきた。
古い感じの看板は、私が来た方の道を指していなかった。古地図でも上田市街地に向かって郭など配置されている様子だった。こちら側に何かあると思われる。
帰り道はこちらから。
本郭を振り返って見ました。下りてすぐにも広い郭がある。
この先は荒れているというか怪しい感じがした。何しろ軽装備なので(武者道で懲りました)。麓の金剛寺集落まで降りる道があったが、細い獣道で気が進まず。降りた先は金剛寺公民館・城代屋敷がある辺りなので、本来の大手道はこっち。
まあ、これで麓に降りちゃったら砥石城とか他の城には行けなくなるしな。
僅かに本郭の方が高い程度。本郭の周りには石積みもあったらしいが、気がつかなかった。
場所はココでした↓
青丸で囲った部分に石積みあったわ。
来た道とは違い、「何かある」感じなのよ。
お城の入り口?発見。あれここもお城が現役だった頃から使われている道だったのか?
土塁かな? この辺りも郭になっているのかもしれない。
切岸があるようだ。
これのことだろうか。
少し薮が濃くなってきた。
この虎ロープは人間用ではなく薮除け。この辺りまで下ると城域からは外れたようだ。
ここまで苦もなく下りていた。分岐点の標識を見つけた。今まで下りてきた道が「姫道」だったようだ。ひょっとして姫道が正解の道だった? わざわざ武者道で登ったのにショックだな。
更に歩きやすい道となり、軽快に下ったよ。
かなり整備されているようだった。
<米山城>
築城主 小宮山氏?
築城年 文明年間(1469~1487)?