お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

米山城

矢沢城から約4km程離れた住吉地区にはお城跡が密集している地域がある。ここは上田と松代を結ぶ古い街道があったようで、上田側の出入り口(住吉地区)には狂ったようにお城を作ってあった。

 

調べて見ると、松代道は「上田城松代城を結ぶ道」だが途中でいくつか分かれているという。曲尾地区(旧真田町曲尾村)から地蔵峠、赤芝地区(旧松代町豊栄)を経て松代城下は共通で。曲尾村から長島村・金剛寺村(これらの村は明治初め合併して住吉村になり現在は上田市)を経て上田城下に至る道が主要道らしい。他にも矢沢地区を通過するルートもあったので、伊勢崎城と矢沢城も必要となってくる。

松代道は残っているようだが、車が通れるような道ではない。ほとんど使われなくなっているようだ。このエリアの城は村上氏が作ったものが多いとのことで、松代やその先の須坂市辺りから来る敵(高梨氏)への備えなんだろうなと思う。

住吉地区や殿城地区など辺り一帯は元々海野氏の領地だったが、天文10(1541)年の海野平の戦いで敗れた後に坂城の村上氏領地となっている。そのあと、お城群は村上氏により作られたと言われる。

この山だけでも稜線上に米山城砥石城・砥石本城・枡形城と4つ並んでいる。この地図でいうと金剛寺集落を挟んだ先の山の稜線にも似たようにいくつも城が並んでいるという。

神川を挟むと真田氏の本拠や真田氏のお城が建ち並ぶ。昔の大河ドラマ関係で作ったようだけど綺麗なままだった。こんな物が何故あるかというと、真田氏の出世のキッカケが砥石城攻略だから。少し時代が違うので真田丸には出てこなかったんじゃないのかな? と思うけど(大河ドラマはほぼ見ないから知らない。鎌倉殿みたいに殺伐としてないと見る気しない)。

 

この説明板によれば、

  • 天文17(1548)年の上田原合戦において村上義清に敗れた武田信玄は、天文19(1550)年に再び砥石城を攻めた
  • ここを破ると地蔵峠を越え、村上氏の本拠がある坂城の背後へ迫ることが出来るからだ
  • しかし砥石城は守りが堅く武田軍は攻撃を諦めたが、村上軍は追撃し武田軍を敗走させた、後に「砥石崩れ」と呼ばれる伝説的な敗走だった
  • 翌天文20(1551)年に、武田信玄の家臣・真田幸隆が調略しあっさりと落城させた
  • 真田幸隆はこの後も武田信玄の家臣として大いに活躍した

とあった。

 

一説によると真田幸隆は近隣の矢沢城主で親戚の矢沢頼綱と組み、砥石城を1日で落としたという。松代道は現在の長野県道35号と重なるようなルートだと思うが、村上氏領地の坂城とは深い山で隔てられている。県道35号はひたすら山の中を走っている。

途中の猿ヶ城、弥六城以外はめぼしい城もなく、傍陽地区を過ぎれば豊栄地区まで何もなかった山道だと思われる。

県道35号は数回車で走ったことがあるけど、山に分け入るような古道もほとんどなかった記憶がある。グーグルマップのコメントによれば猿ヶ城も登ることが難しい、素人不可の険しい場所のお城らしい。猿ヶ城と向かい合う形で設けられた弥六城も同じで、現在荒れて人が登ること難しくなっているようだ。猿ヶ城も弥六城も村上氏が関わるお城かどうか分からない(弥六城は原弥六築城と伝わるが、猿ヶ城は不明)。

坂城とは芝峠経由の道でしか繋がっていなかったようだ。現在は芝峠を越えて坂城に抜ける道はないよう(それらしき道はあるものの出入りがない状態)で、県道35号から分かれる古道らしきものにはすべて入り口に「入山禁止」の看板が立てられている。入山禁止の看板には松茸の文字はないが、多分松茸山なんだろう。

この先に芝峠があるんじゃないかと思った道。立ち入り禁止である。

航空写真見る限り、背後の松代道や猿ヶ城・弥六城辺りを押さえたとしても、なかなか攻めるのはキツいんじゃないかと思うような感じだけどね!

 

山に登る気はなかったが、矢沢城で楽しくなってしまいついここにも来てしまった。

米山城の入り口には古い石碑があった。

なんて書いてあるか分からず。どこからか移されたものだろうか。

お金かかっている記念碑、妙に恥ずかしくなった。時代を感じるなァという雰囲気。

石畳、オシャレ。

かなりマメにお金もかけて管理され、綺麗な状態を維持し続けている。

何か見えてきた。

中学生の頃書いていた二次創作の漫画が20年後発掘された時みたいな気持ちになる絵が掲げられていた。

復元(というのか?)された櫓門らしい。

なんと登れるようだ。

ちょっと木がボロボロかなと思ったが、登れる箇所はコンクリート作り。これなら安全だね。

ハシゴがあった。

櫓門を過ぎる。

ここでお爺さんとすれ違ったので「こんにちはー」と声をかけたら「えっもうそんな時間? ヤダもうお昼じゃない!」と驚きながらも颯爽と下りていった。お爺さん結構な早朝から山登っていたのかな? お爺さんは登山スタイルでやってきて、私は山登りではない軽装で壊れかけてる安物のスニーカー履いていたから「山を舐めるな」と怒られないかと内心ヒヤヒヤしていた。スニーカーはこのハイキングの末に壊れた(無事に下山出来て良かったよ)。

 

米山城はおまけで砥石城がメインである。

なだらかな坂道が続く。

よく人が訪れているようだ。今日も珍しく一人すれ違ったしな。

ただあまり景色が変わらないのが何とも…。

しばらくして案内があった。今度は木の奴だった。

少し雰囲気が変わってきたよ。

また木の案内板。

分岐点だ。まずは近い米山城へ。

これまでと同様、なだらかな坂道が続いていた。なので安心して登れそう。

こちらも向かう人が多いようで、しっかりした踏み跡がある。

ちょっと登山道の様子が変だと思ったが、自然なのか人工なのか分からず(細かい砕石で敷いた道のようにも見えたが、そんな面倒な手入れするかな?)。そのぐらい丁寧に手を入れているように思えたのだ。

そんな風に思えた道も当たり前だが長くは続かず。何故か二手に分かれている。姫道と武者道かー。

よし漢を見せてやる。武者道だ。

武者道はゴツゴツの岩場を通る斜面のルート。

野性味溢れてますわ。

虎ロープを伝って登れとな?

ここは敢えて虎ロープなしで! 意地で登ってやった。ソールがツルツルなので滑る。

またしても分岐点。今度は姫道・武者道の表記ではなく「ゆるやかな坂道」。険しい方で行くよ!

どうやら頂上も近いらしいな。ここも虎ロープ付き。

見えてきたぞ!

米山城に到着。やったー。

城というより物見台の役割なのか、ここに来る途中に堀とか全く見なかったわ。それでも県の史跡に指定されている重要な城。

米を馬の背に流して水に見せかけたという悲しい話。米も水が無いと炊けない。米だってもったいないだろうに。この伝説が元となり米山城という名前なのかしら?

米山城の城っぽいところは今のところ、ここしか見てない。広い郭。

そして見晴らしもいい。上田盆地がよく見える。

ストレス解消ついでに大きな声を出しておいた。ただ今回久しぶりに運動し爽快な気分だったため「嫌いな人死に絶えろ」と叫ぶに留めた。

石碑や石塔があった。石塔は供養塔かな?

石碑はなんと村上義清を讃えるものであった。上田といえば真田一色。東北信ではお隣の坂城町だけが村上推ししている雰囲気なのに。彼は冷遇されている気がしていたのでちょっと嬉しい。

揮毫した人は「輝虎十四代孫従二位伯爵藤原茂憲」と読めた。輝虎=上杉謙信十四代下った孫の上杉茂憲が書いたようだ。この人が「従二位」の官位に任ぜられたのが明治40(1907)年。調べたら石碑が建てられたのが明治42(1909)年だった。

上杉氏は藤原北家勧修寺流支流ということで藤原姓なんだそうな。村上義清も上杉氏の血を引いている。武田氏に追われて新潟に亡命し、山内上杉氏の当主だった上杉謙信の庇護を受けた。村上義清の息子の国清は謙信の養子となり、山内上杉氏の分家で断絶していた山浦氏を復興させた。という関係で、上杉茂憲に記念碑の揮毫をお願いすることになったのかな?

切岸かな?

さすがに富士山は見えないだろうと思ったら、なんと見えるというのである。

平成16(2004)年に国土交通省の「関東の富士見百選」に選ばれていたそうだ。ここと太郎山から見えるそう。凄いな!

砥石城米山城はほぼ一体運用されていたのか、現地にあった年季の入った案内図には一括りにされていた。
私が登ってきた道はこの図にない。後から設置された道なんだろう。
この図には米山の由来が書かれていた。米や麦の焼かれたものが見つかったので「米山」というんだそう。

ほとんど消えかけている「小宮山」とは、おそらく古い時代の呼び名だと思われる。砥石米山城跡保存会が発行している「米山城の里 金剛寺 歴史散策マップ」には文明年間(1469~1487)に海野氏配下の小宮山氏が築城、とあった。それって小宮山が米山に訛っただけじゃないの? と思ったけど…。

 

米山の麓に「向屋敷」という地名があるので、その辺りに居館があったのかと思っていたら違うらしい。米山城の居館とされる場所は「長島の堀之内」と呼ばれる辺りのようだ。

東條建代神社の西側の道路が旧松代道だそうで、それを監視するような位置に居館がある。向屋敷もお城関係の施設があったんだと思うが。

 

また「城代屋敷」と呼ばれる区画もある。

金剛寺公民館から西側、道路で囲まれている広い区域。この区域内にあった城代屋敷は村上義清の家臣・石井喜左衛門の屋敷だそうで、土塁などが残っているらしい。この辺りのお城を管理していた武士かな。

真田信之が元和4(1618)年に発給した文書の中に「小県郡本原(上田市真田町本原)の石井喜左衛門代官所」という文字が見え、この頃には真田家家臣となっていたらしい。本原は真田の本貫地周辺にあり、住吉とは米山城砥石城を擁する山の向こうの地区となる。この地域の有力者だったんだろうな。

石井さんは真田家の松代移封には従わずに当地に留まり帰農したとされる。また、この方のお墓は祟りを成したので後に「石井荒神」として祀られた。そして「石井荒神」は明治41(1908)年に米山城の頂上に遷座されたという。

 

村上義清の顕彰碑の左右に、確かにあったわ。

どっちだろうか?

どちらも普通に供養塔と思っていたのに…。

石仏は地蔵菩薩像で安政2(1855)の銘が彫ってあったので、石仏じゃない方かー。現地では知らなかったので手を合わせてきたかも覚えてないや…祟られたらどうしたらいいんだ。そして改めて(写真で)見るとおどろおどろしさがあるような気がしてきた。

 

古い感じの看板は、私が来た方の道を指していなかった。古地図でも上田市街地に向かって郭など配置されている様子だった。こちら側に何かあると思われる。

帰り道はこちらから。

本郭を振り返って見ました。下りてすぐにも広い郭がある。

この先は荒れているというか怪しい感じがした。何しろ軽装備なので(武者道で懲りました)。麓の金剛寺集落まで降りる道があったが、細い獣道で気が進まず。降りた先は金剛寺公民館・城代屋敷がある辺りなので、本来の大手道はこっち。

まあ、これで麓に降りちゃったら砥石城とか他の城には行けなくなるしな。

僅かに本郭の方が高い程度。本郭の周りには石積みもあったらしいが、気がつかなかった。

場所はココでした↓

青丸で囲った部分に石積みあったわ。

 

来た道とは違い、「何かある」感じなのよ。

お城の入り口?発見。あれここもお城が現役だった頃から使われている道だったのか?

土塁かな? この辺りも郭になっているのかもしれない。

切岸があるようだ。

これのことだろうか。

少し薮が濃くなってきた。

この虎ロープは人間用ではなく薮除け。この辺りまで下ると城域からは外れたようだ。

ここまで苦もなく下りていた。分岐点の標識を見つけた。今まで下りてきた道が「姫道」だったようだ。ひょっとして姫道が正解の道だった? わざわざ武者道で登ったのにショックだな。

更に歩きやすい道となり、軽快に下ったよ。

米山城砥石城の分岐点まできた。





★★★☆☆

かなり整備されているようだった。



米山城
築城主 小宮山氏?
築城年 文明年間(1469~1487)?

矢沢城

矢沢城は名前の通り、矢沢氏のお城。

元々この辺りは海野氏の領地で、その傍流である矢沢氏が治めていたそうだ。矢沢氏は諏訪氏の一族だという話も残っているらしい。まぁ婚姻や養子縁組で色んな血が混じってくるだろうしねー。

長野縣町村誌によれば、矢沢氏は天文年間(1532~1555)頃に真田氏から養子を迎えたそうだ。真田幸綱(幸隆)の弟・源之助が矢沢頼昌の養子となり、長じて矢沢頼綱と名乗り、真田幸綱と共に武田家に属して活躍したそうだ。

ちなみに真田家の祖は(幸綱の父である)真田頼昌とも言われているが、「矢沢頼昌」と同一人物かどうかは確証がない。だけど名前も一緒だし官途名も右馬介で同一なので、真田頼昌=矢沢頼昌じゃないかなと思った。そうすると幸綱が矢沢氏の出身で真田領をもらって「真田」姓を名乗ったのかな、真田家の養子に幸綱が入ったのかな? とか疑問がわいてくるけど、伝わっているのは「幸綱の弟・源之助が矢沢氏の養子となった」事だけのようだ。

 

真田頼昌という人物も何をやってきた人なのかイマイチ伝わっていない。この人は初代と「推定されている」という曖昧な立場の人で、江戸時代中期に真田家が編纂した「真田家系図書上案」は真田頼昌の子と言われている「幸綱」を真田氏の祖としており、真田頼昌なる人物は現れない(幸綱は海野棟綱の子であり、真田郷を領したため「真田」と称したとしている)。ちなみに滋野通記という真田町教育委員会が出版した本では源之助(頼綱)も棟綱の子で、矢沢家の初代となっている。

通字といえば、真田氏も「昌」という字を持つ人が多いけど、これは武田信玄に臣従して気に入られると貰える字らしいよ。武田信玄の家来に大量発生したとされる。なので真田氏の通字ではないようだ。

 

一方、矢沢氏の菩提寺過去帳「良泉寺矢沢氏系図」には「真田頼昌」という人物が存在し、この人の子供から矢沢氏が始まっていた。wikiによると頼昌の名前の初出である系図は元禄9(1696)年に作られたとされ、戦国時代の真田氏の通字が「綱」だから頼昌という名前ではないかも? とあった。

 

真田氏の戦国時代の通字「綱」の始まりは分からないが、真田氏が仕えていた海野氏の当主・棟綱から来ているのかもしれないなと思ったりもする。

海野氏の通字は「幸」「氏」であるため、両方入ってない海野棟綱がなんなのか気になるよ。彼は海野幸棟の子だそうだが、戦に敗れて落ち延びているうちに海野姓(宗家の家督も?)を分家の羽尾氏に取られているし(何かあったらしい)。名前に「幸」の字がないのでひょっとしたら元は正当な後継者ではなかったかもしれないかな、と思った。そのぐらいに通字は大事なもので、真田氏は海野氏後裔を称した為に通字も変わり、江戸時代以降は「幸」「信」になった。真田氏は最近の研究によれば、滋野御三家の禰津氏の傍流説が強いらしい。

滋野御三家は、海野(長男家)、禰津(次男家)、望月(三男家)で一応海野=嫡流ということになっているらしいが、ほぼ同格の家柄であるようだ。

 

真田氏も矢沢氏も室町時代にはいたんじゃないかとされているものの、その業績については資料がほぼないという。「意図的に隠されている」という陰謀論もあったりするぐらいだよ(本家の海野氏は武田氏の信濃侵攻により没落してしまうが、それを幸綱が悪用して「ウチは海野棟綱の直系子孫だ」と系図を乗っ取ったという説があるらしい)。

真田家にしても幸綱の後半生以降が判明しているだけだし、もうこの人が真田家祖でいいんじゃない? という感じらしい。近世の大名達も似たような状況らしく、一番有名なのは新田さん後裔のおうちから家系図買い取ったと言われる徳川家康かなー?

 

謎の多い真田氏だが、真田氏の本拠地と矢沢城は目と鼻の先程度の距離感しかない。

もともと矢沢氏も真田氏も弱小領主だったとされている。ちなみに真田頼昌の嫡男は綱吉という人物だそうだが、この人は若くして死んでいるらしく。海野氏の与力だったことぐらいしか分かっていない。綱吉の子は綱重という人らしいが、こちらも歴史の中に埋もれてしまって不明。「なんか江戸幕府の将軍と同じ名前の人達じゃん」と思った。

矢沢城は仙石氏館の極近く(歩いても5分程度)の場所だが、中世の矢沢氏の館はどこにあるか分からないそうだ。仙石氏館の前身が矢沢氏館かもしれないし、違うかもしれない。

入り口には大日堂があった。建物は新しいが、並ぶ石仏は年季が入っている。どこからか集められたものかもしれない。

大日堂。

 

近くにお城の説明板があった。

手作り感のあるものだった。

 

入り口は坂だった。

急なので杖が用意されていた。親切。

こちらも手作り。

城の前には川が流れている。お堀代わりの川だったのかな? それともお堀だった川かな?

ぐいぐい登っていく。見晴らしが良くなる。正面の山は虚空蔵山といい、頂上にはお城(伊勢崎城)がある。

交通の要衝だったようで、お城の入り口付近にはこんなものもあった↓

ごく最近の物だけど、街道の石標だよ。

「←左 伊勢山ヲ経テ上田市街ニ至ル」

「→右 本原ヲ経テ地蔵峠鳥居峠ニ至ル」

この他に経度・緯度が刻まれていた。この辺りは町おこしに熱心な人がいるのかな。地蔵峠は旧真田町と旧松代町を結ぶ峠、鳥居峠は旧真田町から長野県と群馬県の県境となっている峠である。

 

公園に着いたよ。段郭らしきものがたくさん見える…? 公園整備で随分地形が変わっている印象。そもそも道路が舗装されているしね。

昔の登城口かもしれない小道があったよ。

公園内はどう進めば良いのか分からない状態になっていた。

左は緩やかな坂道、右は急な坂道。
右へ行くと何か小さな建物?がある。

建物はトイレだった。便意・尿意を催した場合は真っ直ぐトイレに向かえるようになっている。入り口の変な看板は「ココはひょっとしたらハーフマラソンのコースなのかもしれない」と思わせたが、新型コロナウィルス関連の注意書きが貼られていただけらしい。必要がなくなったから剥がされたのか、自然に剥がれたのか謎だけど、要らないなら撤去しなよ(面白いからいいけどさ)と思った。

 

先ほどの分かれ道、左側はこんな感じ。

景色を楽しむコースとなっていた。

公園は広く、まだ先がある。

段郭?

右手に行けば本郭に向かえそうだが、あえて左側に行ってみる。

公園整備されてる部分以外は、そこそこ荒れた様子の里山ですよ。

たくさんの段郭らしきものが見えている。

多分藤棚だな。

石積みを見つけたよ。

積み方が粗いけど、時代はいつ頃かな。古そうに見えないが…? 分からん。

こちらにも僅かに石積みらしきものがあったよ。

 

長野縣町村誌によれば、

  • 代々海野氏の領地であり、矢沢氏(諏訪氏一族という説もある)の所領である
  • 矢沢氏が衰えた中世の頃に真田幸隆の弟・源之助が矢沢昌頼の養子に入った
  • 源之助は矢沢城に入り、矢沢頼綱下之郷の起請文に真田頼綱の名が見える)と称し、幸隆と共に武田氏配下となった
  • 天正10年の武田氏滅亡では頼綱は真田氏配下となっており、上州沼田城におり織田信長に下った
  • 織田氏の家臣・滝川一益の配下となり上州厩橋城の将となったが、信長が死んだ後は旧領回復し真田家家臣となり、上州の沼田城城代にもなった
  • 矢沢頼綱は慶長2年死去、子供の頼康が跡を継いだ
  • 慶長5年、真田昌幸の次男・信繁と共に西軍に属した(関ヶ原の戦い)が、長男の信幸が徳川氏に属した為に頼幸も東軍へ行った
  • 信幸が上田城主になり、頼幸は本領を安堵された
  • 慶長19年、元和元年の大阪の役にて頼幸が信幸の子、信𠮷・信政をよく補佐したという功がある
  • 元和8年、信幸が松城(松代城)へ移封となり、それに従い頼幸も松代へ

とあった。主を失った矢沢城は廃城となったようだ。

 

地形を生かして? 植物が植えられている。郭がたくさんあるように感じ、複雑な地形になっているようだ。

だけど、どこまでお城の地形を生かしているのだろうか…? なんとなく道っぽいものはあるので、なんとなく歩いている。

不思議な城になっているぐらいなので、多分重要な城だったんじゃないかなと思う!

矢沢氏と真田氏の関係は養子縁組から始まっているらしいが、その後については↓

  1. 真田家含めた海野一族が天文10(1541)年の海野平の戦いで、武田・村上・諏訪連合軍に駆逐される
  2. 矢沢氏は元々諏訪神党の一族でもあったので、諏訪氏により特別に許された(同じ理由で滋野御三家なのに禰津氏は許されて、本領安堵されている)
  3. 矢沢氏は村上氏に、禰津氏は武田氏に臣従する
  4. 海野平の戦いが終わってすぐ、武田家で内紛があり当主が晴信になった。晴信に禰津氏の娘が嫁ぎ、晴信の妹が禰津氏に嫁いでいる
  5. 禰津氏の紹介で真田氏が武田氏の家臣となる
  6. 武田氏と諏訪氏が敵対し諏訪氏滅亡、武田氏は他の地域の豪族も滅ぼしたので、村上氏の領地を狙ったが、上田原の戦い→砥石崩れで2連敗した
  7. 村上氏が守る砥石城が硬すぎたので、真田氏は近くの領主・矢沢氏が親戚だし誘って仲間にし、矢沢氏を使って砥石城を乗っ取る
  8. その後も矢沢氏は真田家の重臣として、明治維新まで頑張る

という感じだったようだ。

禰津氏は武田氏に臣従したが、海野氏や真田氏と一緒に群馬へ落ち延びた人もいた。その人(禰津政直)も戻ってきて武田氏の家臣となり、武田晴信の妹を正室に迎えている。政直が禰津氏の次期当主となる。

wikiでは禰津政直の母は真田信之の乳母って書かれており、つまり真田信之とは乳兄弟の関係になるはずだが、禰津政直(?~1597)と真田信之(1566~1658)では年齢離れている気がするから嘘だと思うわ。早世したという政直の嫡男・月直(1555~1575)ですらちょっと合わないしな? でも根拠があるんだろうし、謎だわ。

禰津氏も真田氏の親戚だけあって、戦国時代に主君を次々乗り換えたり分家したりで、本家は真田氏家臣となり、分家は豊岡藩主家(ただし三代で終わった)となった。武田家と姻戚関係を結べる禰津氏、真田氏より家格は上だったのに、江戸時代には家来か。戦国時代は怖いなあ。

 

神社の付属みたいな石柱やらが見える。

石碑も点在している。

誰かの住処っぽい穴が木にあったりする。

神社あったよ。奥の本殿には狐がたくさんいた。お稲荷さんらしい。麓は大日堂だったのに不思議だわ。お参りした。

この神社がある郭は二の郭だそうで、本郭はまだ先にあるようだ。

拝殿の裏には高い平場があり、これが本郭のようだ。

周りの郭の石碑はお城に関係ない顕彰碑が多いようだ。

本郭へ。

城内で一番高く、広い。ここの特徴は細々した郭なのかしら? と思っていたけど、本郭は広くて良いな。

奥までずっと続いている。

先ほどのお稲荷さんのお社。裏手には古そうな祠がたくさんあった。いつのものか分からないが、矢沢城は戦場になっている。その頃の供養のための祠もあるかもしれない。

新たな石碑が見えてきた。

ちょうど郭と郭の境になっているらしく、堀切らしきものがあった。歩いてきた郭より低いので、二の郭なのかな? 稲荷社がある郭が二の郭かしら? よく分からないわ。

とりあえず、一番高い場所だけ分かった!

石碑は何かというと。

矢沢城跡を公園整備した記念碑だった。細かい意味は(文体が古くさいのか、癖がすごいのか、どうしても読めない字がいっぱいあったの)読み取れなかったが、

  • ここは風光明媚なので公園にします、後世まで変わらず保存してくれ
  • 信濃国小県郡矢沢城は矢沢氏の居城で、天文年間に真田領主の真田幸隆の弟・源之助が矢沢頼昌の養嗣子となり、幸隆と共に武田氏に属した
  • 武田氏滅亡後は真田氏に属した
  • 元和八年九月に真田信之が上田から松代へ移った時に矢沢頼幸と子の頼康も従ったので廃城となった
  • その後は仙石政勝の領地となり、城址は荒れた
  • 真田も矢沢も仙石も武勇に優れた名族で名を残している
  • 公園整備したのでその記念に真田と矢沢と仙石の経歴を記した、また公園も村人さん達に末永く楽しんで欲しい

みたいな感じなのかなー? 表題の「城山遊園記」は正三位伯爵真田幸民という人が書いている。この人は松代藩の最後の藩主で明治36(1903)年になくなっている。碑が建てられたのが明治34(1901)年8月なので、御本人が亡くなる数年前だ。松代城を公園整備したり、妻女山招魂社を創建したりしている。

顕彰活動に熱心な人だったのかな? そもそも伯爵とか爵位を持っている貴族って明治時代は何をしていたんだろう? 働いているイメージが全くない。

 

真田幸民は松代藩主→松代藩知事となっていたが明治4(1871)年の廃藩置県により藩知事を辞め、特に政府関係の仕事もしていなさそうなので無職になったようだ。

なのに明治5(1872)年に真田幸民は欧米視察を行ったらしい。これは岩倉使節団や左院視察団とは別のようだ。ひょっとして私費で行ったのか?

えーお金大丈夫かな? と心配していたら。明治政府は明治4(1871)年の廃藩置県後も旧武士階級の人々に禄を払う義務があったそうで。旧武士階級(華族・士族)の数は人口5%程度であったが、国家予算40%程度という金額だった。ただの士族だと維新前からずっと禄が削減されていたので明治以降も貰える額は少ないとされるが、旧藩主家レベルだと貰える禄の額が高めに設定(各藩の収入の1/10程度)だったため、気楽に生きて行けるようだった。

 

幕末の松代藩倒幕派が主流だったようで、戊辰戦争では新政府軍に早い段階で加入したようだ。松代藩には金児伯温という砲術家がおり、この人は江川英龍に師事したという当時有名な人だったようだ。この時代、松代藩には佐久間象山という学者がいて藩の命令により江川英龍の元で砲術を学ぶことになったものの、江川が佐久間を嫌っていたらしい。

  1. 江川側の要請で他の松代藩士も一緒に入門させた
  2. 金児伯温なども一緒に学ぶ(この間、佐久間象山は江川の門下生とも揉めて退学処分に、その後は江川の兄弟弟子の下曽根信敦に学んだ)
  3. 唯一江川に嫌われなかった?金児伯温が免許を貰い、松代藩砲術家になった

という流れみたい。国内でも近代的な軍備をしていたために松代藩士は会津まで大砲を転がしていき、会津戦争で戦功を立て、天皇から褒賞をもらったようだ。松代藩戊辰戦争で投入した兵は三千人以上で新政府軍の中でもかなり多い数だった。戊辰戦争後に褒賞として3万石追加。

松代藩の幕末頃の石高が10万石で維新の功労で3万プラス、なので廃藩置県後に政府から貰えた禄は1.3万石ほど。お米の量から今のお金に変換すると約9億7500万円程。以前は藩収入から借金返済と家臣への禄を払っていたが、維新後はない。何もせずにこの額貰えるなら働かないし、そりゃ自腹でヨーロッパ視察しちゃうわ。

禄も政府の財政逼迫のために途中でなくなるものの、基本的には旧大名家は資産が多く裕福な者が多く居たそうだ(逆に言えば旧大名家以外は経済基盤も脆弱で明治維新前から収入が少なかったりでわりとすぐ貧乏になったそうだ)。明治の後半になってくると何かしらの仕事(軍人が多いようで、他は実業家だったり政府関係の仕事とか)したり資産で投資を行うようになったらしい。

昭和恐慌や戦争で没落した華族も多いようだ。

華族の人って今何をしているんだろうと思ってwiki華族ゆかりの人物・団体の項目を見た。軍人、文化人、大学教授、実業家と錚々たる面々の中、スケベ椅子開発者がいた(浴室用プラスチック製品を作っていた会社の経営者)。名前のインパクトだけでテンション上がる。

本郭の奥には堀があるようだ。

堀はこんな感じだった。

一番深い堀かな。

古い祠があった。寛政5(1793)年と彫られている。長野縣町村誌には「矢沢城の本郭には神明社がある」と書かれていたが、この祠のことだと思う。

公園から外れた位置にあり、散策しにきた人には気付かれなさそう。この辺りは古い時代から変わらず残されている雰囲気がある。典型的な城跡だなと思った。

先には溜め池があった。比較的新しい池かもしれない、お城とは関係なさそうだ。

こちら側、麓にはお墓が何基か残されていた。お城に縁がある人達かもしれないし、ない人達かもしれない。(墓石すべて見てはいないが)彫られていた元号は江戸期のもので、武士階級の男女のお墓かなと思った。墓石が立派だったので。

数基のお墓は向かい合うように建てられており、俗名の苗字が違う人もいたりで血縁者ではないかもだが、何かで関係ある人達のようだった。手入れもされているかいないか微妙な雰囲気ではあるものの、墓石の状態は良かったからたまに訪れる人もいるのかもしれない。おどろおどろしさはなく穏やかだった。不思議な佇まいだった。手を合わせた。

よく見たら、本郭の下に石が積まれていた。

笹で隠されている。

一番城跡らしい堀切りや祠のある郭なども人目につかないように隠されているとはねえ…。

いや、開発の手を逃れるためにわざと隠したのかしらね? この公園、「城跡公園」と謳っているわりにはお城の図もないし。記念碑が1基あるだけの城跡公園だしな。

元来た道を戻った。

ここまで戻ってきた。ここにも古い祠があるのに、そういえば本郭の先にあった祠はなんで残されたままなんだろう。

この場所は矢沢城以外にいらっしゃった神様が集められているんだろうが、旧矢沢村内にはお稲荷さんはいなかったらしい。お稲荷さんは別の場所からいらっしゃったのか、それとも新たに祀られるようになったのか…? しかも覆い屋まで建ててもらって。

いろいろ謎だな。

城内の石碑も謎なの多いよ。

こちらは(多分)公園整備の際に寄付をした人達のご芳名を記していると思う。読めなくなってる。

御大典記念碑。昭和3年の昭和天皇即位記念かな。

英霊供養塔。いつに建てられたものか分からず。

誰かの顕彰碑。

石が崩れていたり。

立派な松があったり。

歌碑もあったよ。

ちなみに矢沢氏と真田氏が乗っ取る砥石城もここから見える。

正面にある小高い山じゃないかと思う。

帰ります!






★★★☆☆

本郭の奥、手つかずの郭と祠はボーナスステージみたいで面白かった

 

 

<矢沢城>

築城年 不明

築城主 矢沢氏

仙石氏館(矢沢陣屋)

運動不足を感じたので、久しぶりに山へ行ったよ。集落に極近い山だけど。熊とか本当に勘弁だからな。

まずはこういう感じの。現役の民家だよ。

 

寛文9(1669)年、上田藩主仙石政俊が幕府に隠居を願い出た序でに、政俊の弟・政勝が上田藩領約六万石のうち二千石を分知されて出来た矢沢領の陣屋である。仙石氏の分家ということになる。独立して旗本になっている。

上田藩主の仙石氏は宝永3(1706)年に但馬出石藩へ移封されたそうだが、この分家は当地に留まり明治維新を迎えるまで矢沢領を治めたという。この他にも飛び地で730石ほどの領地があるらしい。

二千石くらいだと旗本でも上級の家格になるらしく、陣屋とはいえ城みたいな石垣を作っている。調べたら現在でいうと年収5~6000万円ほどの家になるようだ。

でかくて近代的なお城だと、こういう感じの石垣あるよね!

↑祠っぽいが、とにかくここ民家なのでじっくり観察してない。

 

航空写真だと民家が3軒はあるみたい。御子孫なのかしら? ちなみに陣屋の主は江戸定府なのでここにはほとんど来ていないようだ。代わりに代官を派遣していたみたい。

石垣の周りは綺麗に整備されており、ちょっと歩いてみた。桜の木が並んでいるので春は美しいかもしれないね。

裏側はこんな感じだった。崖。そして川も流れている。

道路に面している豪奢な蔵も良かったが、こっちも古そうだわ。

戻るよ。

保存されているのか分からんが、蔵だけバンッと現れてびっくりする。ちなみに城内にある民家は現代的な建物だった。蔵は人目を引くものの、江戸時代の建物かは怪しい気もする…?

石垣は続くが、蔵周辺の鋭角な石垣じゃなくなってきている。

入り口と門があった。ここが陣屋の正門跡じゃないかと思う。

しかしながら、案内板などはない。さっきの石垣周辺にも仙石氏館とか矢沢陣屋とかそういった名前が分かる看板はなかったな。グーグルマップにはガッツリ載っているんだけど。

現地にあった看板はこれだけ↓

近くに「矢沢城」というお城があり、こっちを推しているようだ。

石仏?が並んでいる。陣屋があるぐらいだし、街道が通ってる地区だったんだろうなと思う。


矢沢陣屋近くの町並みはこんな感じだった↓

 

狭い道だが、閉店した古い構造の商店が並んでいた。多分、長野県道176号線の旧道じゃないかな? 旧真田町大屋駅を結んでいる。古地図ではこの道が主要道として太線で描かれていた。この道には矢沢村の道路元標もあったらしい。

 

周辺、石積みが多かったよ。一応城下町だしね、とても立派だった。

ここまでが陣屋かな?

 

左側は崖。一応堀的なもの?

耕作放棄地のような場所にも石垣。

道路の向こう側にも石垣がある。お城跡ではないと思うけど。

ここの見所はこれよね! ってことで、蔵を最後によく見た。

おしまい。


★★★☆☆

陣屋にしては大変立派なものだった。




<仙石氏館>
築城年 寛文9(1669)年
築城主 仙石政勝

宮遺跡

皇足穂命神社諏訪社合殿の近くにある。この辺りは古くから「宮」と呼ばれる地区だったそうで、遺跡もその名前が付けられている。

ここは縄文時代中期~晩期の集落跡。この地域(西山地方=戸隠・中条・小川・鬼無里信州新町あたり、善光寺平の西側にある山間部。ローカルな言い方。ちなみに西山地方は年間1mmずつ隆起しており、逆に善光寺平は年1mmずつ沈降しているという関係)では珍しい時代の遺跡だそうだ。

 

縄文時代中期は日本の人口が26万人まで増えた頃で、特に関東地方+岐阜・長野・山梨に人が多く住んでいた(日本人の96%が東日本に住んでいたとか)。26万人でも当時の狩猟社会では養える限度の人口だったそうで、縄文時代終わりになると8万人まで減る。中期までは温暖な気候だったが、後期に気候変動で寒くなってきて縄文時代当時の主食だった木の実が採れなくなってしまったかららしい。後期には現在の関東地方に人口が集中していたが、どんどん減って晩期には東北6県が他の地域より少し人口多いかな? ぐらいの状況になってしまったようだ。

つまりこの遺跡は縄文時代の栄枯盛衰を表しているヤツだわ。人が増えすぎて新しい集落を作って、今度は食物が採れなくなって集落が消滅しちゃったってことだねえ。

弥生時代には大陸から稲作技術が持ち込まれ(造船技術自体は縄文時代からあって、縄文土器風の遺物がエクアドルで見つかる→縄文人が南米に移住した可能性が高い→アメリカ先住民の祖先は縄文人説が昔あった)、西日本を中心に人口が増えていった。東日本はさほど人口が増えなかったようだ。理由は「寒かったから」。気候が稲作に適さなかったらしい。西日本を中心として弥生時代60万人→奈良時代600万人になった。米パワー凄い。

 

縄文時代の集落の特徴として、

  • 中央に墓がある
  • 墓を中心にして倉庫を置く
  • 倉庫を取り囲むように住居を並べる

という墓を中心とした同心円上に建物があるという環状集落である。この他にゴミ捨て場(使われなくなった住居跡がゴミ捨て場と化すようだ)とか祭祀場とか、ストーンサークル作ったり、何かと円状に形成していく癖があったみたい。

ここも典型的な環状集落として、墓を中心に住居が取り囲んでいる感じなんだろうと思う。

お墓からは男性の人骨2体が発掘されている。うち1体は当時の成人の通過儀礼だった抜歯をしているそうだ。抜歯自体も、「大人なのにされていない」「抜歯で抜いた歯に違いがある(犬歯を抜く・前歯を抜く・上下の歯)」で様々なパターンがあり、東日本より西日本で多く行われていた儀礼とも言う。抜歯も結局「なんで歯を抜くのか」という疑問だとか、抜いた歯の差異(身分差や集落外から来たことを表すという説もあるようだ)とか、分からない事が多く。狩猟採集民族に多く残る通過儀礼だそうなので、今も残る狩猟民族の人達に理由聞くしかないよねー。

 

集落の大きさは発掘している部分がわずかなので不明。東西500m、南北300mと推定される。発掘調査は昭和48(1973)年夏に旧中条村教育委員会がメインで行われたという。

墓と住居跡の他に、玉を作る工房跡も見つかったという。糸魚川や白馬を流れる姫川流域で産出された翡翠を加工している途中のまま残されていたそうだ。集落の人々が段々と亡くなり、最後の一人が黙々と石材加工をしていたがついに力尽きて…という風に集落が終焉したのかなー? 切ないなー。

住居跡は6。墓跡は4。それぞれ番号は振られている。この遺跡の発掘調査報告書によれば、5・3・6→1・4→2という順番で新しくなっているそうで。お墓も4→2→3→1という順序。

他に集石跡(竈跡?)と土壙跡(穴が掘られた跡というザックリした意味のもの)があり、集石跡は縄文時代後期の半ば~終わり頃、土壙跡は縄文中期以降(近世のものかもしれない)という結論で、この辺りが川の氾濫、地滑りで地盤が弱い地域ということもあり、「きちんとしたことが分からないです」で終わっていた。

お墓に埋葬されていた男性二人も保存状態が悪くて、何か特別すごい発見があったという訳でもなかったらしい。それでもこの地域では珍しい遺跡なので公園整備されている。

当時のおうちも再現されていた。

竪穴建物は平安時代までは一般人の民家として普通に使われていた建物で、田舎だった東日本では平安時代中期頃に掘立柱建物という住居が普及しはじめたので竪穴建物は姿を消したそうだ。

掘立柱建物とは↓

 

縄文時代から平安時代まで少なくとも1200年間くらいはこういう家に住んでいた訳だし、懐かしさを感じる。

じゃあ住めよって言われても抵抗あるが。

屋敷の裏にはドングリの木もある。縄文時代の主食はドングリだったと思うが、現在ドングリなんてスーパーで売ってないし口にすることもない。米の方が美味しいからというか、それ以上にドングリが物凄く不味いんだろうなー。アクが強いそうで、調理するのは大変そうだ。

宮遺跡公園で整備されている部分、半分以上はただの公園で広い。ところどころ窪みがある(遺跡部分)が、立ち入らないでくれって標識もないし、公園整備される前はどうやら畑だったらしい。弥生時代に入って定住者がいなくなり、後から来た?人達が耕作地として利用していたこともあり、遺跡として全体的に状態がイマイチだからかな。

ただ、古い神社(皇足穂命神社諏訪社合殿)もあるし、民家が現在でもあるので住みやすい場所だったようだ。

ちなみにこの御屋敷とどんぐり林は河岸段丘上ということで、高台にある。どんぐり林の向こうは崖で下は土尻川が流れている。川の向こうは旧中条村中心部で小学校から高校、役場がある地区となる。

中心部に近いせいか公園は大変丁寧に整備されており、竪穴建物も綺麗だし今日この日が有意義だったな! と思えるほど満足してしまった。

 

★★★★★

子供も過ごしやすいし、大人もぼーっと出来る公園だった。

皇足穂命神社諏訪社合殿

長い名前の神社で、「すめたるほのみことじんじゃ すわしゃ あいどの」と読むようだ。皇足穂命神社と諏訪社が合併したということかな。


延喜式に白玉足穂命神社という神社の記載があるが、その論社のひとつである。他は長野市にある吉田神社と飯縄神社と皇足穂命神社(信州新町)。

飯縄神社は全国の飯縄社の総社であり、飯縄山山頂に270年ごろ大戸道尊という神様を祀ったことが起源と言われている。wikiによると大戸道尊は神代七代の神様たちのうち、第5代のオオトノヂ男神)・オオトノベ(女神)のオオトノヂのことだという。オオトノヂ飯縄権現と称し祀った山岳信仰の神様。飯縄山山頂の社を奥宮、麓に里宮がある相当古い神社である。

 

白玉足穂命神社という名前の神社が存在せず、正直4つの論社どれも違う可能性あるよなーと思う。本当の神社は消滅しちゃっているかもしれない。白玉足穂命も皇足穂命も神名(人名?)だろうし。

皇足穂命神社諏訪社合殿のうち、皇足穂命神社の御祭神は、

となっている。

 

ちなみに吉田神社の御祭神は天照大御神豊受大御神、飯縄神社の御祭神は飯縄権現保食神信州新町の皇足穂命神社は瓊瓊杵尊。見事にバラバラ。

世間的には「白玉足穂命神社=飯縄神社」ではないかと言われているようで、明治6(1873)年に飯縄神社の奥宮・里宮共に皇足穂命神社という神号を得ている。飯縄信仰も相当古いしね。

 

ただ、他の神社もそれなりに古かったり由緒あったりするようだ。

吉田神社の辺りには古い時代の御牧が置かれて昔から人が住んでおり、文政2(1819)年に皇足穂命神社という社号をもらっている村社である。移転しており、元の社地は現在地から1kmほど離れた所。

 

吉田の大銀杏が御神木だったと言われている。お引っ越しした際に近隣の神社も全て連れてきたそうで、摂社はかなり多い。古い名前が分からない(どうせ吉田神社とか大神宮辺りじゃないかな?)が、引っ越しエピソードを考えてもこの辺りで最も御神徳が大きい神様だったのかなと思う。

 

中条村も古い時代から人が住んでいる。旧中条村(旧栄村)は中条村日高村・住良木村が合併して出来た村で、住良木は皇という字に変換出来る。神社がある辺りは「宮」という地名で、皇足穂命神社諏訪社合殿は周辺の村々の産土神、郷社という格である。安永2(1773)年に神号を受けた。神号を受けた順序は中条→吉田→飯縄なので、名前だけでいうと一番古いのが中条にある皇足穂命神社。安永2(1773)年以前は諏訪大明神と呼ばれていたらしいが、更にその前は皇足穂宮と呼ばれていたと伝わる。

 

信州新町里穂刈にも「皇足穂命神社」があるが、元は皇足山に瓊瓊杵尊を祀った神社だそうだ。江戸時代には名前を変えており、穂刈神留神社と呼ばれていた。明治26(1893)年に旧称である皇足穂命神社に改称。山が御神体という意味では飯縄神社並みに古そうだ。

 

ということで、どれも古そうだなと決め手に欠けるというか確定しないらしい。昔に戻る技術があれば、こういう話もすぐ分かっちゃうのになー。早くタイムマシン開発してほしい。

 

皇足穂命神社諏訪社合殿の駐車場。

田んぼが広がる。民家は点在している。

玉垣も立派よ。

「郷社」の上の部分、何か書いてありそうな気もするが分からないや(他人のブログの写真を漁ってみたが、どうやら「延喜式内」と書いてありそうな気がする)。

鳥居と社殿。

奥に見える拝殿は1つだが、その先の本殿で「皇足穂命神社」(東宮)「諏訪社」(西宮)とそれぞれ分かれているという。二社の本殿も覆屋で見えないのでよく分からん。

皇足穂命神社本殿は舞良戸式両開き扉、諏訪社本殿は両開き板戸とあるが、大体似た感じの様式のようだ。長野市文化財サイトの画像見ると朱くベンガラが塗ってあるっぽい。そのサイトの説明には「寛文5(1665)年火災のため焼失し、寛文10(1670)年再建したと伝わる。皇足穂命神社本殿に続き、諏訪社も再建されたと考えられ、両宮とも寛文頃の特徴をよく残してある」と書いてあった。ただし当時は諏訪社の方が格上だったらしく、皇足穂命神社は本殿のみ、諏訪社は祝詞殿兼拝殿なども付随してあり、どこかのタイミングで皇足穂命神社<諏訪社と立場が逆転していたようだ。

 

皇足穂命神社の御祭神は倉稲魂命という農業の神様というか、お稲荷さん。そこに気長足姫命と誉田別命も合祀されている。

接点のない神様だが、神功皇后(気長足姫命)の三韓征伐の際、神功皇后信濃国一ノ宮である諏訪大社を訪れ、その時にたまたま出仕していた神官が諏訪大社の御神木を移して祀った(西宮・諏訪社の起源)という伝説が残っているからだという。それで神功皇后(気長足姫命)と子の応神天皇誉田別命)も祀ったというが、神功皇后って熊襲征伐(九州)からの三韓征伐なイメージが強くて、諏訪まで来るような暇があったかちょっと気になる。あと約25kmほど離れた治田神社の御祭神の子孫が神功皇后にあたるので、ひょっとしたら何かしらの縁もあったかもしれないが…昔の伝承って謎なのあるよねえ、早くタイムマシン開発して!

 

諏訪社は健御名方命事代主命。これは神功皇后応神天皇が皇足穂命神社に祀られた経緯で分かるように、皇足穂命神社より後に出来た、相殿神のような立場だった。

天文2(1533)年、地元の豪族・春日氏(この一族は越後国春日山から来たので春日氏と称していたという。周辺の村々を代々治めていた。元は坂城の村上氏配下だったが、天文22年に村上氏が武田氏に敗れたため武田氏に従っている)が社殿を修復したとある。この時期に諏訪社の立場を上にしてしまったかもしれない。治田神社方式で「甲斐の武田軍が侵攻してきた→神社が燃やされないように信玄が信仰している諏訪大明神のお宮にしよう」ということで戦国時代から諏訪社メインになったのかもしれない。江戸時代には「諏訪大明神」と呼ばれる。

 

鳥居の前は広場になっており、筆塚とかあった。

顕彰碑は字読めない。

何か面白い配置になっている。祠が鳥居の外とは。

杉だッ!!

拝殿。諏訪社を示す梶の葉の紋が見える。

お参りをしました。

諏訪社の祝詞殿兼拝殿は弘化4(1847)年の善光寺地震で崩れ、安政4(1857)年再建された。

善光寺地震では中条村周辺も、五十里という地区で山が崩れて土尻川が堰き止められ、五十里より上流側の村々が水没した記録がある。

善光寺地震の報告書のひとつで、松代藩士が残した「むしくら日記」という書籍がある。この書籍のタイトルの「むしくら」とは中条村のシンボルのお山である虫倉山周辺の被害が大きかったし、震源地は虫倉山かなー?とちょっと思ったから、という理由だそうで。拝殿の再建まで10年かかっている、生活再建も相当な時間がかかっていたかもしれない。

 

御神木?と何かの碑がある。「皇紀二千六百年境内拡張記念碑」とあった。昭和15(1940)年の皇紀2600年記念行事の一環で境内を整備していたらしい。狛犬や鳥居もこの時に造られたのかな?

境内、獣の足跡とても多かった。周りに民家も点在しているのにね…猪かしら?

今年、存在感を増した熊か?

社殿の奥にも何か鳥居がある。ちょっと不気味。
子安荒神社。

なんか怪しいが、行ってみよう。

鳥居の入り口にある古ぼけた案内板には、どうやら子安荒神社の由来が書いてあるようだが?

  • 御祭神 奥津日子命・奥津比売命
  • ご利益 かまどの神・安産の神
  • 戦国時代の坂城城主、村上義清の奥方、加治の方(文章の内容から正室の小笠原長棟の娘と思われる)が難産となり村山子安荒神長野市)に祈願したところ、男子が生まれた。この男子(源吾)が後の村上国清である。
  • 跡継ぎの男子が生まれたことに喜び、城主(義清)が村山子安荒神を篤く信仰した
  • 中条平の先人がそんな村山子安荒神を勧請したと伝わる

 

この子安荒神は中条平に住むすべての人を見守り、子のない人には健児を与えるとされる。また、村山子安荒神様だけでは片参りになるとも言われる。

 

村山子安荒神というのは、恐らく長野市篠ノ井布施村山という地区にある三宝寺(荒神堂)のこと。このお寺さんには三宝荒神と子安大荒神の二体の仏像が御本尊となっている。三宝荒神行基の作と伝わる、村上義清の念持仏だった。奥さんの出産時に熱心に祈っていたところ、息子が生まれた。そして息子の夜泣きが酷いので困っていたところ、ある夜急に静かになった。息子を見たら知らん女が授乳し、あやしていたというので驚き、「あの女性は三宝荒神だ」ともう一体仏様を造らせた。それが子安大荒神村上義清が戦争に負け、新潟へ落ち延びるときに仏様を川中島にあった蓮香寺に預けていった。その後、やはり蓮香寺も戦火を逃れて疎開することとなり、篠ノ井山布施という山の中に10年いた。疎開から戻ることになったが、10年間に三宝荒神・子安大荒神の人気が爆発してしまい、荒神さまを現地に残して欲しいという要望が多数来てしまう。荒神堂を建て、蓮香寺は川中島の元あった場所に移転したという。

子安大荒神は旧国宝→国重要文化財の指定を受けている。胎内から村上義清直筆の日付入り書き置きが見つかったからかな?

 

三宝荒神は日本特有の仏様。聖徳太子の言葉「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」の三宝を守る仏様として発展したという。火と竈の神様でもある。源頼義が康平6(1063)年に前九年の役を勝利した記念に鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)と大宮八幡宮(東京都杉並区)を建立した時、三宝荒神も一緒に祀ったらしく。それを考えると平安時代後期には知られた神様だったかもしれない。とはいえ行基はその仏像を作ってないと思います。

 

こちらも覆い屋で保護されていた。入り口が絶妙に暗かっただけで、鳥居を潜ってしまえば普通の神社だったよ。

東宮・西宮の覆い屋。覗くこともできそうな気がするが、ちょっと出来ないよねえ。

 

御大典で杉を植えたのか。5年前かと思う。杉は植えないでほしい。

 

 

★★★★☆

地域を見守る親しみある神社という感じだった。

 

 

<皇足穂命神社諏訪社合殿>

創建年 不明

 

 

 

 

 

やだ長船派に好きな声優さん集結してる

福島も報酬で来るしがんばろー(今やっと1万ちょい集めたぐらい、先長過ぎ)

長野県発祥の地

明治4(1871)年、長野県が発生したようだ。

  1. 明治元(1868)年、江戸幕府消滅のため信濃国内の旗本領・幕府領がまとめて伊那県となる(県庁は飯島町の飯島陣屋に置かれた)
  2. 明治3(1870)年、伊那県のうち東北信地域の旧旗本領・幕府領が中野県として分かれる(県庁は中野市の中野陣屋に置かれた)
  3. 明治3(1870)年暮れに明治政府の増税に怒った民衆が一揆を起こし、中野県庁を焼いたり色々する
  4. 明治4(1871)年、中野市内で県庁を建て直すことを断念し移転を決意、善光寺領を併合して長野県が発生

という経緯で長野県が発生したようだ。

どさくさ紛れで善光寺領をゲットしたため、善光寺に縁の深い西方寺というお寺さんを間借りして庁舎とした。

西方寺は正治元(1199)年に法然善光寺詣りに来たときに創建したとか、大同2(807)年に空海が創建した宝乗寺という寺を浄土宗に改宗して西方寺になったとか、伝わるようだ。

この辺りの地籍が「善光寺領長野村」と言ったらしい。長野村でも善光寺門前町にかかる部分とそうではない部分に分かれていたらしく、善光寺が大きくなるにつれ門前町にかかる部分以外のわずかな農村部について長野村という呼ばれ方になってしまい、人々は「長野村」という村名すら忘れてしまったとか。ただし公的な台帳では長野村とその村域がきちんと掲載され続けて明治を迎える。

明治4(1871)年の長野県発生時ついでに飲み込んだ善光寺領長野村の名前を改めて周知し、県庁舎がある地区名を取り「長野県」と称したのが最初らしく、とても小さな村名から発生している。色々と失敗しちゃった中野県や善光寺県という特定の寺の名前を冠した県名を称する訳にはいかなかったんだろうねえ。

明治7(1874)年、間借りしていた西方寺近くに長野県庁舎が完成した。

明治11(1874)年、明治天皇行幸されたようだ。「明治天皇行幸之処」碑がある県道37号と国道406号の交差点部分から赤煉瓦館がある辺りの長方形の敷地が旧県庁舎の置かれたところらしい。「明治天皇行幸之処」碑は昭和12(1937)年に建てられたとか。碑には長野県庁跡とも書いてあったらしい。

 

現在の信州大学教育学部の敷地は旧県庁・旧師範学校・旧付属国民学校だった場所みたい。昔の県庁狭かったんだな。

 

明治天皇の碑に関しては、明治天皇聖蹟保存会というものが昭和5(1930)年に発足し「明治天皇行幸で訪れた建物や場所を残そう」という運動があったそうで。昭和8(1933)年から昭和23(1948)年まで377件指定された。うち長野県は22件、全国で二番目に多い。旧県庁の裏手にあった松本裁判所長野支庁跡にも碑があったそうだ。

 

昔の人って石碑好きよね。

 

ただ、県庁跡だったという石碑はあまりなかった。

教育学部の正門付近にある石碑ぐらい? これらも教育者を顕彰するものばかりだった。

皆さん幕末生まれ。

教育学部内。初めて入った。

 

長野県庁は明治7(1874)年竣工、明治41(1908)年焼失。

↑これが旧長野県庁の建物群のうち燃え残った書庫である。明治7(1874)年に最初の庁舎が落成の後も他の建物を増やしていき、明治28(1895)年に完成した書籍庫である。現在は国の登録有形文化財に指定されている。

この建物は現役で使われているそうだ。
平成26(2014)年の地震で内部が少し崩れてしまって書庫としては使えなくなった(それでも119年間書庫だったわけでしょ…)が、修復し多目的会館で利用出来るという。

外観は、入り口の庇がない事以外は変わってないそうな。

石垣も明治時代に積んだんだろうな。石加工してある。旧県庁時代の建物配置は謎だけど、書庫の位置は校舎より高い。赤煉瓦館周辺以外は造成されちゃってて、雰囲気が変わってしまった。

ちなみに旧長野県庁があった時代、隣の敷地に長野県師範学校があった。県庁が燃えて1ヶ月も経たないうちに師範学校もよく分からん(校舎が燃えれば休校するから恋人に会える、というサイコパスな)理由で放火され焼失。師範学校は同じ敷地に再建されている。

書庫入り口。

何がなくなっているか、分かりやすい。

ちょっと傷んでいるがコレ直しにくいかもねえ。鉄扉の向こうにも扉があるっぽい。

煉瓦も火災の熱風を浴びたりしているのかねー?

この窓も、鉄扉の中にガラス窓がいるんだろう。

 

 

★★★☆☆
この建物、なかなか見つからなかったのよ…。ひっそりしすぎ。

<旧長野県庁書籍庫>
竣工年 明治28(1895)年



治田神社(下宮)

治田神社の下宮は意外と近い場所にあった。ひとつの村だったのが、規模が大きくなった為に分裂したという経緯だからかなー? 歩いても20分かからないようだ。1km程度しか離れていない。

溜池がある。桜の木が並んでいるので、春はお花見で賑わうのかもしれない。

池は並んで2つある。2つ合わせて治田池とも呼ぶらしい。どっちがどっちか分からないが、慶安元(1648)年に上田藩直轄工事で造成した池を上池または女池、明和2(1765)年に地元民が作った池を下池または男池と呼ぶそうだ。

 

ここは姥捨山冠着山)の遙拝所にもなっているらしく、石碑がいくつもあった。明治22(1889)年に「冠着山=姥捨山」と確定されたものの、昔は別の山だったなどとハッキリしない。ちなみにこの運動を起こした人は更級村初代村長だそうだ。

 

明治8(1875)年から編纂が始まった長野縣町村誌には、冠着嶽(羽尾村)・冠着山(上山田村)・姥捨山八幡村)という3つの山を紹介している。

まず、現在の冠着山は頂上付近で旧羽尾村と旧上山田村に分かれている。

八幡村にあるという姥捨山の記事には、

とあり、冠着山と姥捨山は別とはっきり書いてあった。麻績村の項には姥捨山という山の記載はなく、挙げられている山も八幡村が記載している姥捨山の特徴に一致しない。また「八幡村」名勝の項目にも姥捨山の記載があり、それによると、

  • 山については山の項に、寺(姥捨山長楽寺)については寺の項に記載してるが、山の中腹に「姥石」という巨石がある
  • 観音堂、観月堂があり、東には鏡台山があり観月の名勝地として古来より名高い

とのことで、どうやら長楽寺や姨捨棚田がある付近を指しているようだ。姨捨SAから西へ行けば麻績村だしね…。ただ、山っていうほどの場所でも無く、普通に民家が点在する見晴らしの良い高台の地区である。

姨捨地区と冠着山はまあまあ離れた場所にあるが、同じ山地の中にあって繋がっている。

 

旧更級村は羽尾村・若宮村・須坂村の3つの村からなり、初代村長は羽尾村から出た。元々の羽尾村は冠着山に対して執着心があったようで、明治16(1883)年に冠着山が村有林として下付されたあと、その経営を若宮、羽尾、須坂、上徳間、内川、千本柳の6つの村で行うことになったが、羽尾村は山の単独所有権を主張し、翌年には他の5つの村と訴訟に発展した。明治18(1885)年に6つの村の共同権が確定したものの、争いは泥沼化して明治20(1887)年に戸倉村の県会議員の調停により、ようやく沈静化したという。で、明治22(1889)年に旧羽尾村出身の更級村長による中央の関係機関へのロビー活動により「冠着山=姥捨山」となり、姥捨山の業績まで奪おうとした感じ。個人的には酷いと思います…。とはいえ、今も「姨捨」といえばJR姨捨駅・高速道路の姨捨SAや「田毎の月」の棚田がある地区のことをいうので、姨捨のすべてを奪われなかったので良かったと思う。

 

初代更級村長は「冠着山=姨捨山」事業に対して並々ならぬ熱意があったらしく、遙拝所の説明板には、

  • 冠着山山頂冠着宮奥宮、更級村中心の郷嶺山に冠着山里宮を建立
  • 遙拝所碑を、稲荷山の荒町・麻績の上町ガッタリ・坂城の刈谷原の3カ所に設置
  • 稲荷山宿の料亭、松葉屋の店先にも遙拝所碑を設置

とあった。少々皮肉っぽく「後年、この遙拝所碑は、(治田神社に隣接する)治田公園に移設されました。(初代更級村長塚田)雅丈の思惑とは異なる場所で、現在も冠着宮を遙拝しています」と締められていた。初代更級村長、やっぱりちょっと強引だったと思われていたかなー?

石碑は明治27(1894)年に稲荷山に建てられたもののようだ。説明板にあるように冠着山に向かっている訳でもなく、全く関係ない。

月見れば 衣手さむし さらしなや 姨捨山の みねの秋風 鎌倉右大臣(金槐和歌集 二八四)

信濃なる 富士とは言わむ 冠着の 峯に一夜は 月を見むとぞ 西行法師

という冠着山・姨捨山ゆかりの句が彫られている。西行法師の句は「伝・西行法師の歌」という扱いになっている(西行が詠んだという根拠がないらしい)。

 

「菅公廟」とあり、菅原道真を祀る。奥には平場があるものの建物はなく、取り壊されてしまったのかな?

このちんまりした祠が道真公霊廟かもしれないけど。

 

招魂殿もあった。

明治40年代(1907~1912)に更級郡で戦没者を慰霊するために建立されたが、太平洋戦争の終戦で1度取り壊された後に昭和30年代(1955~1964)に再び建立されたという。日清戦争(1894~1895)、日露戦争(1904~1905)、太平洋戦争(1941~1945)で殉死した英霊千十余りの柱を祀っているという。

治田公園内には「建物があったかもしれない」という雰囲気を醸し出す区画が多々あり、不思議な感じがする。

歌碑。読めなかった。

 

枯れた彼岸花。近年は彼岸花を見かけることが少なくなったな。子供の頃はあちこちに咲いていた気がする。

 

隣接する治田神社下宮に行く。

本来の参道ではないが、綺麗だった。

鳥居は池に向かって建っていた。鳥居の近くにも句碑があり、源三宜という人が安政5(1858)年に詠んだという。大層な名前だが誰だか分からん。

 

更級や 治田の神に ぬさむけて 里やすかれと 祈りつるかな

千曲川が度々氾濫し、稲荷山と杭瀬下新田との境界が分からなくなってしまい境界争いがしょっちゅう起こるため、安政5(1858)年に幕府から寺社奉行吟味役という役人の調査団が派遣された。そのメンバーの一人、高木源六郎源三宜が詠んだ歌の句碑。この人は静岡県静岡市の紺屋町陣屋の出張所である山梨県の「石川陣屋」で、文久2(1862)年に代官を務めていたらしい。

安政5(1858)年当時の肩書きは「御勘定評定所留役」だったようだ。この職種は勘定所(幕府の財政や民政を担当、時と場合によっては外交も担当するみたい)で勘定という役職の人が評定所(江戸時代の最高裁判所)へ出向しているという意味。就くには筆算の試験に合格する必要があるとwikiに書いてあった。世襲もあるが、才覚があれば下の身分からでも登用されるそうで、勘定所のトップである勘定奉行は叩き上げの実力者も数多くいたそうだ。

勘定職の人達が評定所へ出向し書記官にあたる評定所留役となり、裁判の審理を担当していたという。評定所のトップは、町奉行寺社奉行勘定奉行の三奉行と老中1名だったが、3つの奉行所だけで扱えない重要案件を裁く場であり、判決を決めるのは評定所留役に任じられた役人だったそうだ。法令や過去の判例を熟知している評定所留役は訴えの事実関係とその整理、関係者への聞き取りや容疑者取り調べ、書類作成をする役人。判決は三奉行や老中が下すものの、実際に捜査を担当した留役の意見が判決に大きく影響するという。今でいう特捜部みたいなもんかしらね? エリートじゃないの。

そんなエリートの句碑を建てようと思ったのだろうか。謂れが分からないものの、碑は新しそうに見えた。最近建てたように思える。

 

ここが↓

 

こんな感じで見えるらしい。

 

ちょうど本殿の前では地元の方が掃除をしていた。落ち葉がすごかった。相変わらずだが「転職成功しますように☆」と祈りを捧げた。

ここは桑原村から分離した治田村→稲荷山村の産土神である。桑原村は桑原宿という宿場があった栄えた村であったが、稲荷山村はそれ以上に栄えた地区である。明治8(1875)年に稲荷山町に昇格する更に栄えた地区であった。天正10(1582)年に稲荷山城が築かれ、その城下町として整備された稲荷山は昭和恐慌で没落する以前は北信濃の経済の中心地だったそうだ。


長野縣町村誌の「稲荷山町」治田神社の項には、

御祭神 治田太神・倉稲魂神事代主神

とある。勧請年月は不明なものの、白鳳5(665? 676?)年に再建→寿永2(1183)年焼失→永享8(1436)年焼失→天正11(1583)年修復→寛政2年造営と古い年号が並ぶ。昔から「元町」と呼ばれるこの場所にあったと言われる、と書いてあった。村落が大きくなると治田神社が分霊され、村落内に祠が点在するようになったそうだ。

天文年間、武田晴信が侵攻してきたために神社の焼失を恐れた氏子が隣村の桑原村にある治田神社を「一ノ諏訪明神」と改称し兵火を逃れたというので、この治田神社も合わせて上下諏訪明神(二社)とした。天正10(1582)年に治田村から稲荷山村に改称し、元和5(1619)年に2村(稲荷山村・桑原村)に分裂した。桑原村には上諏訪明神が属した。治田神社自体は位置変わってない。

と、「元々、治田神社はウチの村内にありました」と主張している。そのせいか、稲荷山の治田神社は縣社と格が高い。桑原村の記事には「治田神社はいくどか遷座している」としか書かれておらず、上宮が元だよと匂わせているものの、ふんわりした書き方とも思えた。遷座っていったら普通は移動したって意味だしさ…。

ちなみに、桑原村の記事は他にも「古い話は不明だが更級郡治田荘更級里桑原郷と称し、桑原村だった」としか書かれておらず、とにかく桑原を推している。二つの村は仲悪かったんかね…?

 

稲荷山の治田神社下宮はハッキリと「うちが最初なんで」と主張している。上宮と下宮とか、遷座っていう単語に惑わされて、旧桑原村の方が古いのかと勘違いしていたかもしれない。

じゃあなんであちらが上宮なのか? という疑問は上宮が出来た時期は向こうの方が栄えていたとか、兵火を逃れるアイデアを桑原村が思いついたからって起源が理由じゃないしれない、と思った。

 

上宮には健御名方命を祀り、下宮は兄の事代主命を祀っている。古地図だと、治田神社下宮を境に桑原村と稲荷山村が分かれているようだ。

長野縣町村誌の記事には、治田神社下宮の摂社についても紹介されていた。

ちなみに高市社は稲荷山町の守護神として中心部に祀られていたが、明治9(1876)年に今の地に移した、とあった。まあ、治田神社は事代主命も合祀されているしね、ちょうど良かったのかも。

 

事代主命は出雲の国譲り神話で、お父様の大国主命が「(国を譲る話については)うちの長男に聞いてくれ」と丸投げされ、海釣りをしている最中に国譲りを迫られたので「分かった」と答えて「天の逆手」を行い自殺しちゃった神様。「天の逆手」とは裏拍手(逆拍手)だと一般的に考えられているようだ。伊勢物語第96段「天の逆手」は内容は会う約束を破った女を男が深く呪うという内容の話。

事代主命は国譲りを迫った皇孫に対して呪いをかけて死んでいった神様らしい。「天の逆手」自体は呪いである説が通説となっているものの、本来は天の栄手であって天皇家の繁栄を願う祈りであるとかいう人もいる。

事代主命の娘・媛蹈鞴五十鈴媛は初代天皇神武天皇の皇后に立てられており、第2代天皇綏靖天皇を産んでいる。綏靖天皇妃も事代主命の娘である五十鈴依媛命で、第3代天皇安寧天皇を産み、安寧天皇の皇后は事代主命の子孫である渟名底仲媛。これでは、天皇家を呪う=自分の子孫を呪う、となってしまう。呪うに呪えない。可哀想だ。

この神様は釣りが趣味という設定で、釣り好き→豊漁の神様→商売繁盛の神様と進化していき、現在は七福神のえびす様と結びついてテンション高めで明るい感じになっている。大国主命も大黒様になっちゃったしな。

兵火回避のために健御名方命のお兄様、事代主命を祀っていたら大商都に発展したということか。これはとんでもないご利益ありそうだわ。

 

熊田社の熊田大神については、治田大神こと彦坐王の子孫である熊田氏のことだろうなと思う。

 

一際立派なお社が北野天満宮(北野社)。もしかしたら以前は、菅公廟と彫られた大きな石碑の向こうの空き地にあったお社かもしれないと思った。

他のお社も高市社が多く、祠のどれかが熊田社なのかもしれない。

祠の前には鳥居があったような跡もある。

 

何故か高市社らしき石碑が埋まっている。どうしたんだ。

 

もう一度鳥居をくぐった。お百度参りのやつある。

本来の参道である。

 

参道を歩いていたら、マダムに呼び止められた。マダムが言うには「友達が治田神社の池を週2ぐらいでランニングしている。今日ランニングしているはずなので会いに来てみた」とのこと。走っている人はいなかったが、そういえば私が駐車場で車を番長止めしてしまい、後からきたおばさんが迷惑そうな感じになってたな、って思い出した。ちょっと気まずいので「知らないし地元民じゃないですー」と去ろうとしたが、マダムは何故か私に色々聞いてくる。マダムはこの神社に初めて来たそうで、神社の話を知りたがった。いや私は地元民じゃないんだって。ご友人の連絡先は知らないのだろうか? ご友人には出会えたのだろうか? その後は分からない。

神馬が奉納されていた。さすが古い神社。

他にも石碑や神社の略年表など掲示物もあった。

茶道のお稽古のとき、よく部屋にかけられている掛け軸の言葉。碧巌録という中国の仏教書に載っている禅語で、「毎日が良い日だ」って意味かなー? 毎日がエブリデイみたいなノリを感じるが、心構えの話だと思います。

 

狛犬はなんかカワイイというか。

古い手水舎に使われていた瓦だそう。諏訪大社の紋である梶の紋を使用している。

現在の手水舎はこんな感じだった。

親しみやすいというか、まあ普通な感じ。

鳥居。この鳥居がある道は元町地区のメインストリートだと思われる。この先へ行くと旧桑原村になる。

この石標も新しい感じ。

 

玉垣には奉納者名がずらっと。

鳥居近くには宮司さんや大人物のお名前が。

倉石忠雄さんは地元出身の政治家(玉垣にも法務大臣の肩書きがある)。戦後国会議員になった人で同期は田中角栄鈴木善幸中曽根康弘等だって。明治33(1900)年生まれ、昭和61(1986)年没。

児玉幸多さんも地元出身で学者。学習院大学の名誉教授で昭和天皇上皇陛下に講義し、今上陛下はゼミの教え子と皇族と深い繋がりがあるので儀式に参加したりもしていた。明治42(1909)年誕生、平成19(2007)年没。

その他の人々も地元の名士だったり、神社に多大な貢献をしているんだろう。

 

玉垣倉石忠雄さんが法務大臣だった昭和54(1979)年11月から昭和55(1980)年7月の期間に竣工したのだろうか。

 

千曲市内だと合格鉛筆を貸し出してくれる(合格したら戻す)という岡地天満宮(毎年ローカルニュースでやってる)が有名なのかなって思っていたけど、ここも賑わうらしい。

ずらーっと人名が並んでるー!

 

 

★★★★☆

賑々しい雰囲気で、近所の人達がよく来ているようだ。

 

<治田神社 下宮>

創建年 不明