秋のお天気な日に、遠出した。目指すは筑北村の青柳城。そこは公園として整備されているらしく、駐車場まで完備されている良さげなお城。が畑の真ん中で迷ってしまい、その辺にいた住民らしき方に道を尋ねてしまう。
なんかものすごく景色がいいところ。
だいたいの方角がつかめたので、向かったら意外と簡単な道筋だった。
門のみ復元されている。
説明板によると、この地の豪族だった青柳一族のお城だそう。武田信玄が攻めてきたときには青柳さんすでに滅亡していた風に書いてあるが、実際はもっとあとに滅亡したとする話もある。
青柳さんは麻績を治めていた麻績氏の氏族で、麻績氏は小笠原氏の庶流であるという。突き詰めていけば、青柳さんも小笠原さんの遠い親戚となりその関係で信濃守護小笠原さんの家来やってたらしい。ちなみに、この小笠原氏というのが礼儀作法の話で良く出てくる小笠原流の宗家でもある。
小笠原さんは天文17(1548)年から天文19(1550)年の間、武田信玄との戦に負け続けた。青柳さんは武田に従うことにした。この時の当主が青柳頼長さんという方。この人自身は仁科氏からの養子であるとされているが、青柳さんの本家である麻績氏から、信玄さんの側室の諏訪御寮人の母親(つまり信玄さんの義母?)がでているという。武田家ともちょっとした親戚だったのか。ややこしい。
武田さんは青柳城を拠点のひとつとし、大規模改修を行って実際数日滞在したという。やがて天正10(1582)年、武田が織田により滅ぼされ、同年織田も滅亡したあとは上杉氏の家来になっていたが、元の主君である小笠原氏と上杉氏とで争いが起きる。天正11(1583)年から1年かけて麻績城・青柳城の取り合いをし始めたのだ。
この当時、青柳頼長さんは武田家に仕えていたころ麻績城も奪取しており麻績姓を名乗っていて、どうやら麻績一帯を取り仕切っていたご様子。当時の小笠原家当主は小笠原貞慶という方で、この人の母が青柳頼長さんの姪っ子という間柄。ややこしい。近い親戚いるからと安心したのか、頼長さんは貞慶さんと和議を結ぶ。そして天正15(1587)年、貞慶さんのいる深志城までお出かけする。で、暗殺されて青柳(麻績)氏は滅んだ。
という歴史のあるお城だ。
さて、肝心のお城跡だが。
取り合いになるほどの重要拠点ということで、結構広そう。しかし「公園として整備されている」「駐車場完備」という文言に油断した私は、山歩きできるような格好で来ていなかった。城跡は見るからにやぶが深い…。ということで断念する。
近くには林道ゲートが。こちらも魅力的。
林道で面倒な目に遭う予感もあったので、普通にもと来た道をくだる。
途中のお寺さん、かなり立派であった。
これも青柳頼長さんが中興したお寺だそう。このお寺が目印!
★★★☆☆
どうやらそれなりの格好が必要のようだ。せめてスニーカー持参だ…。中は整備されているだろうし、規模も大きいので見応えはありそう。
<青柳城>
築城年 建暦年間(1211年~1213年)頃?
築城主 青柳氏?
構造 山城