先日、良い天気だったので荒砥城を見に行った。ここは「史跡公園」として整備されており、荒砥城にあったであろう建物群が復元されている。駐車場もあるが、徒歩で麓の温泉街から上ってきても、そう大変ではない(数年前の夏に散歩がてら歩いたが、30分くらいで行けたかな?)。
今日は車で楽々と。
駐車場に着いた。六文銭の家紋入りの旗が。何かこの場所と関係あるのでしょうか、よく分かりません。
入口の門までちょっと上る。
門をくぐって、右側の道へ、公園のパンフだとその先の開けた展望台みたいな平場が四の郭とのこと↓。
てくてく山道をのぼる。歩道はすべて舗装されており、車いす・(さすがにいないだろうが)ベビーカーでも大丈夫そう。が、歩道を外れた道だと昔ながらの感じ。
←これが三の郭跡とのこと。道の先には鉄塔?があるようだ。
三の郭付近の山肌。原型とどめているような、とどめていないような。
歩道から外れる場所だと、ちょっと山城っぽい雰囲気が残っているような気がする。
もう少し先に行くと、祠があった。そして、石柱。
祠はまったく分からないが、石柱は戦前のもの。祠、古そうだったけどなぁ…石柱と同時代のものなのかも。皇紀2600年は、昭和15(1940)年のことで記念行事が全国で行われたようだ。
歩道沿いの茂みに怪しい石。近寄って調べたが、文字など見当たらなかった。気になるわぁ…。
櫓が見えてきた。
二の郭に到着ー。復元されているのは、二の郭と本郭である。
門をくぐるとー!
なんかカッコイイ! 石垣だと雰囲気よくなるな(ただし、本当に石垣積んであったか知らない)。
二の郭内部はこんな感じ。建物の屋根に石を載せてあるの、すごく好き。
本郭に向かう門。門をくぐって、また少し道をいくと、再びの門。
くぐるとやっぱりかっこいい景色。
道の先が見えない感じ、先ほどの二の郭のものより好みだ。
本郭の内部の様子。こちらには、二の郭にはないものが。
偉い人の詰所である。座るところが用意されている。記念撮影できるねっ。
長野方面。見晴しよし。
あの立派な門の上にいけるようになっていた。眼下には集落が広がっている。
城の腰というのだろうか。↓の説明だと普段はこの集落に住んでいたらしい。
荒砥城はけっこうな規模の様子。荒砥城の先尾根伝いに、他3つも城がある。昔は先のお城へ通じる道があったのだろうが、今はちょっとなさそう(封鎖してあるのかな)。先の尖がった杭でぐるっと荒砥城を取り囲んでいるので、探せなかった。
本郭から二の郭に戻ってきた。
櫓にも上ることができる。上ってみよう。
上田方面。矢印は適当につけた。ここから見えるお城の位置を示している(櫓備え付けの図からおこしたので、正直自信ない。多分こんな感じ)。
赤:葛尾城跡 村上氏の居城
ピンク:姫城跡 葛尾城の詰めの城
緑:虚空蔵城跡 村上氏の支城、5キロの米を背負ってやるマラソンが行われる山ではないようだ(同名のお城なだけ)
紺:高ツヤ城 虚空蔵城の支城
茶:和合城、岩鼻城 虚空蔵城の支城
黄:三水城、狐落城 以前のぼるのを断念した狐落城、そこからさらに登ると三水城(出浦城のある山の陰になっており見えない)、一説によると狐落城は三水城の詰めの城であるという
紫:出浦城 出浦氏(村上家の家臣)の城
黄緑:入山城 入山氏(村上氏傍系落合氏の家臣)?の城、ここから麻績地方へ抜ける古い道があり、その道を抑えるためのお城ではないかと言われている
こうやって見ると、お城だらけじゃないか!
支城を除外しても、5つも城あるぞーすごいな。
お城からおりながら、それっぽい雰囲気の場所をまた確認。
荒砥城から麓におりるまで、日本歴史館、観音寺、澳津神社と施設がいくつもある。
城内の説明板には、四の郭・観音寺、五の郭・日本歴史館となっている。史跡公園パンフの地図だと案内所の先が四の郭、多分駐車場が五の郭に比定されると思うが…どうやら正解は城内のほうらしい。じゃあ三の郭はどこなんだろう…四の郭が一番広そうだから、そこかなぁ?
参考パンフ↓
観音寺と日本歴史館は道路を挟んで向かいにある。
観音寺↓
善光寺さんの別院だそうだ。
日本歴史館↓
アヤシイが秘宝館の類ではなく、真面目なものらしい。
関連性に乏しい銅像たち。本当に怪しいが、違うそうだ…。
澳津神社↓のほうが、秘宝館ぽい。しかしこちらも真面目な神社。子授けの神社だそう(撮影禁止のご神体がまさに)。
荒砥城を築城したのは、山田氏という。築城年は大永4(1524)年。それから30年近く後の天文20(1551)年に、武田家の家臣・真田幸隆が戸石城を攻める。そこにいた荒砥城主の山田国政が戦死。2年後の天文22(1553)年、武田信玄により村上氏の本城・葛尾城が落城する。同時に山田氏も滅亡。
武田家に寝返っていた元村上家家臣の屋代氏が入城。ちなみに、山田氏・屋代氏ともに村上氏の一族である。屋代氏が入城した翌月、上杉謙信に攻められ荒砥城落城。翌年、再び荒砥城は武田家のものになる。
天正10(1582)年に武田家滅亡。この当時は村上氏・屋代氏ともに上杉氏に従っていた。徳川家康は屋代氏に密書を送り、寝返るよう勧める。(以前稲荷山城に出かけたときに勉強したが、上杉家は屋代氏を信用しておらず、屋代氏監視を理由のひとつに稲荷山城を築城している)
天正12(1584)年、突如屋代氏が上杉家に背き荒砥城に立てこもる。上杉氏に攻められ、荒砥城落城。屋代氏は徳川家の家臣となる。北信濃を掌握した上杉氏はそのまま荒砥城を廃城にした。
こう見ると、屋代氏ひどいという感想を持ってしまう。屋代氏は大名→上級旗本の身分で明治維新まで存続していく。うまく世の中渡ってやったぜ、というほうが正しいのか? 田舎の小豪族が出世したんだし…家を滅亡させず、大きくするのはいいことかもしれないけど。しかし、仕えてる人に信用されてなかったっていうのも切ないなぁ。じゃ裏切ります。っていう気持ち、多少は共感できるかも?
★★★★★
バリアフリーで気軽、しかも趣ある建物群と言うことなし!
<荒砥城>
築城年 大永4(1524)年
築城主 山田氏
構造 山城
大河ドラマの旗、お城と少し関係あるらしい。上杉さんの人質時代に屋代氏の旧領を真田幸村に与えたとか。このあたりの領主様だったのね。