吉野館跡とごくごく近い。徒歩圏内なので、お城のハシゴをした。
外観はこんな感じ。もちろん民家、人が住んでいる。杉の木々は昔のままなのかな?
堀跡は吉野館跡より残っている感じ。
遺構が残っていたのはこの部分のみだが、ものすごく原風景に近そうというのか、濃い印象だった。
館跡の周りをぐるっとまわってみた。
大きな木! この木も昔からあるのかしら?
反対側。これ以上は立ち入らなかったが、もう何もなさそう? 奥の林のあたりが気になるものの…。
吉野の堀屋敷も丸山(日岐)氏により築かれている。現地の説明板には、
永正年間(1504~1520)に丸山氏が吉野郷の開発をするため、この地に居住した。丸山氏は小笠原氏の家臣平瀬氏に寄子として仕えた。
とあるので、吉野館よりも古い時代のものらしい。しかし、先達のブログを見ていると「天正年間」とあったりして、同時代とする人もいてよく分からない(地方の豪族の資料なんかあんまり残っていないから、仕方ないのか)。
ここから15キロ離れ出身地の生坂村日岐からこの地を開発しにきたらしい。飛び地というのも変だから、(多分)15キロ四方の広大な領地を持っていた丸山さんが新たに吉野という地をもらいうけ開拓してさらに領地を広げようと目論んで…という感じのアグレッシブな一族なのかな。
安曇野市が設置している案内板にも「館主は丸山丹波守」とあり、吉野館跡の説明文にも「丸山日岐丹波守により建設された」とある。同一人物なの? と一瞬思った。どうやら別人のような気がする。吉野の堀屋敷跡、吉野屋敷跡の2つの説明板の記述を時系列で並べてみると。
吉野の堀屋敷の主・丸山丹波守は小笠原家の家来である平瀬氏の寄子(与力)である。天文19(1550)年、武田さんが小笠原さんを滅ぼしたとき、丸山氏は小笠原家の陪臣。武田さんは小笠原家の残党狩りを熱心に行っている。天文20(1551)年には平瀬城を攻め、城主の平瀬氏を自刃させている(平瀬氏滅亡?)。
吉野屋敷の主・丸山丹波守は天正11(1583)年当時上杉家に仕えていた。小笠原氏に居城を攻められ、のちに帰参する。小笠原氏より吉野郷の本領を安堵してもらう。
ということらしい。
じゃあ吉野の堀屋敷って武田信玄の小笠原残党狩りによって焼かれちゃってるのかな? と思った。吉野郷に戻ったときに改めて吉野屋敷を建設したのかも?
★★☆☆☆
吉野館跡より雰囲気は残っている気がする。杉林は良かった。
<吉野の堀屋敷跡>
築城年 永正年間(1504~1520)?
築城主 丸山氏
構造 平城