お城跡は神社になっていることが多い気がする。神社になっていなくても、ほぼ祠はあるような? 合戦で使われるものだから、慰霊のために神社や祠をたてているのだろうか。
湯入神社も昔は「夏目城」という名前のお城だったという。
二ツ柳城のご近所さん。夏目氏というのは二ツ柳氏から分かれた一族なんだそうだ。こちらも早い段階で廃城となり、夏目氏は三河国に移住している。移住した時期は室町時代前期らしい。三河国に六栗城というお城を築城している(このお城は永禄年間(1558~1570)に築城されている)。戦国時代には徳川家の家来となっていた。家康の命を救った夏目吉信がいる。さらに時代は下り、小説家の夏目漱石さんや漫画評論家の夏目房之介さんも子孫にあたる。
元は同じ一族だった人たちが築城したためか、二ツ柳城と夏目城はよく比較される。双子のようだと評される。
個人的にはこちらのほうがより強固なお城に見える。二ツ柳城の周りは畑だらけになってしまったから、元のお城とだいぶ改変されてしまっているかもしれないけど、ぱっと見は夏目城のほうが攻めるの難しそうな気がした。
階段は直線で伸びている。石段を排除すれば、なんとなく元のお城の風景が想像できる気がした。階段の形状が二ツ柳城にすごーく似てるんですけど!
ふたつのお城、どちらが先かと考えたら、多分二ツ柳城かな? 夏目氏初代は夏目国平(1175(安元元)年?~1125(嘉禄元)年)という方で、お父様の二ツ柳国忠が軍功によりこの地(夏目郷)をゲットしたそうな。国平は二男だったので分家し、夏目郷をもらって夏目氏を称した。普通に考えれば、その時には二ツ柳城が存在していたと思う。見た感じもこちらのお城の方が強固だし、見本がありそれを改良して堅くしたならすんなり納得できる。
石段がようやく終わり、神社本殿に到着。
ごく普通の神社だー。本殿がある場所が本郭だろう。わりと広い。本郭跡の平場の隅っこにちょっと高くなっている場所があった。
あったのは祠が数前。
裏側はこんな感じ↓
二ツ柳城にもこんな感じのものがあったな、そういえば…。こちらは見晴らしのいい場所(盆地が見渡せる側)にあるが、二ツ柳城はお城の奥まった方(山側)にあった。
全体的な広さでいえば、夏目城の方が広い。
神社裏には。
土塁があった。その後ろ、山側は畑だった。
帰りは石段ではなく、別のルートで降りる。舗装された九十九折の道。神社とその近くの畑まで車で上がれる。1車線幅でちょっと狭い。右側が本郭側。
ちょっと改変してあるかもしれない。が、雰囲気はよい。
夏目城と二ツ柳城。似ている部分が多い。違うのは、二ツ柳城は石垣があった。夏目城にはない(そもそもあの石垣は後世のものだと思うが)。
大塔合戦で守護方が逃げ込んだ「大塔の古要害 」とは二ツ柳城という説の他に、この夏目城も有力視されている。
大塔合戦に参加した人が「二柳城における戦功」により恩賞を要求した記録が残っているため(ただしこの記録も、大塔合戦での戦功かどうか定かではない)、最も有力な説は二ツ柳城ではある。しかし、二ツ柳城で確定、とならないのはあのお城が素人目で見ても貧弱だから。
・こっちの方が堅そう
・夏目城と二ツ柳城はかなり近い
・城の構造がかなり似ている
・夏目氏はもともと二ツ柳氏であり、お城の名前も混同された可能性?
と、私でも思いつく理由を並べたが、そんなこと他の人も当然考えているだろう。で、決着できないのだろう。古文書やお城発掘で何か出てくるような発見がなければ、ちょっと無理かも。個人的には、まだこっちのほうが籠城には向いているかな、と思う。守護方が目指していた塩崎城も夏目城のほうが近い。
あと、二つとも使われたと考えている人もいる。二つセットだったとしても、メイン利用のお城はやっぱり夏目城ではないかと思う。
ちなみに大塔合戦の「大塔」というのは、地名とされている。現在の地名では「大当」といい二ツ柳城の方が近い位置にある。
★★★★☆
車で楽々行ける、雰囲気も壊されていないお城。
<夏目城>
築城年 鎌倉時代?
築城主 夏目氏
構造 平山城