本来の目的地→青柳城
リベンジをしようと思ったが、諸事情(主に怖がられた為)で奥への探索を諦める。
クマよけなのか、イノシシよけなのか分からないが、ゲートができてた。「開けたら閉める!!!」的なことが書いてあったので。私もコレにビビった。なんだか怖いよねえ(しかも天気があまり良くなく、ちょっと降りそうだし)。
写真を振り返って見ても、特に怖さはなさそうだが…仰々しいゲートのせいか?
せっかくここまで来たので、何も見ずに帰るのもなんかなー? と思ったので。館跡のほうを見に行くことにした。館跡は集落に残っているらしい。
ここの集落は「青柳宿」として多くの旅人が行き交う宿場町だった。地元のボランティアさん作成なのか、↓の地図を配布していた。
青柳宿に犬がいない理由が気になるー! 地図の内容から察するに、お狐様のたたりを恐れてかしら?
調べてみると、お稲荷さんの狐が昼夜3回見回りしてくれているので、この地区には災難がない。と言い伝えが残っているのだそう。なので、お狐さまに害を与えぬよう犬は絶対飼わないというお話。3匹の狐がそれぞれ1日1回づつ見回りしてるのかねー。
お稲荷さんの狐というので、3匹の狐のボスは里坊稲荷神社のおじょろさま狐になるのかも? おじょろさま狐って名前的に女の子っぽい。小女郎様→おじょろさま? この里坊稲荷神社では7年に1度、「狐の嫁入り」という、文字通り狐の嫁入り行列を再現する伝統のお祭りがある。花嫁の狐がでかい油揚げを咥えて嫁入りする、このあたりでは奇祭として有名らしい。御柱の翌年開催ということで、じゃ来年やるのかな?
地図を手に、駐車場を探しつつ細い道を走る。
目的地は畑と畑の間の細い道の上にあった。「寺小路」という名前の道は細いが、駐車場はばっちり準備されていて、車を停めるのも楽々。駐車場が侍屋敷跡らしい。その他の区画も田畑や空き地ばかりなものの、綺麗に分けられているので元は何かの建物とかあったのかな?
一本道をずーっと上がった、突き当りにこんな石碑が。地図によると現在は「清長寺」というお寺さんになっているようだが? 周りに民家が全くないので、とてもさみしい場所に思える。
この清長寺さんは青柳学校という学校も併設されていたらしい。明治7(1874)年に清長寺を借りて学校としたものの、当初から手狭だったようで翌年には校舎を新築して改めて開校したという。後ろの白壁の建物がそのとき新築したものっぽい。明治19(1886)年には廃校となった。せっかく新築したのに、短い命だったな。
清長寺は、天正元(1673)年に青柳頼長の創建。元は少し離れた場所(前述の里坊稲荷神社)にあったが、青柳氏を滅ぼした小笠原氏が青柳氏の館跡に移したものという。頼長さんの父・清長さんの菩提寺ということで、その名をとって「清長寺」という。
お寺は石垣の上に建っている。
まったく読めず。
さてお寺さんは↓
おしゃれな鐘楼。ただし戦時中、鐘を供出してしまいその後は鐘なし。
廃寺じゃないですか…。しかし名前も地図に残されているし、裏手に墓地も残っていたので、単に住職がいないだけなのか? 大昔流行った「杉沢村」思い出しちゃった。中を覗く勇気はないものの、廃屋自体は好きよー。
奥の墓地には清長さん・頼長さんの奥さまのお墓があるそうです。清長さんと頼長さんのお墓は碩水寺にある。清長寺は碩水寺の末寺にあたる。
↓前回見に行った碩水寺
ここからも青柳城への登山道があるが、少し荒れてる? 上にも駐車場もあるし、わざわざ登っていく物好きな人もいないよね。
侍屋敷跡(駐車場)より見た青柳氏館跡。木がボーボーだー。
さて、青柳宿。
栄えた雰囲気のある宿場町。↑は本陣・問屋跡の青柳家。元領主の青柳家は江戸時代にはここに住んでいたようだ。元は青柳氏の城下町として発展したらしく、慶長年間(1598~1615)に松本城主だった小笠原秀政が善光寺街道を整備したときに、ここを宿場と定めたみたい。青柳宿の長さは東西約600m。善光寺(長野市)側で左に曲がるが、その折れた辺りの「横町」という地区を含める。家数は89軒という。
真ん中が善光寺街道。両側の家々は新しいものもあれば往時を偲ばせる古民家もある。公民館らしき建物もあった。ほぼすべての建物の玄関に屋号の札がかかっていた。
この宿場町の特徴として、こんなものが。
石組用水路と呼ばれるもので、坂道に並ぶ家の生活用水路らしい。地図を見ると、ちょうど坂の上に川が流れていて、そこから取水しているようだ。下にも川があり、石組用水路と接続しているように見える。町内にはこの他に井戸4、湧水1、鉱泉2と山の中とは思えない水資源の充実ぶり。このあたりは山の中で平らな土地を確保することが難しかったらしく、このような石垣を作ってその上に屋敷を建てたらしい。なんか…相当お金持ってた匂いのする村だねえ。うらやましい。
横町を更に進むと、もう一つ名所がある。
切通し。削り跡も生々しい。路面に近い下の部分は昭和30(1955)年に適当な感じで削ったもので、他はノミを使い人力で削っている。切り開かれた年は天正8(1580)年、領主の青柳頼長さんによる。元禄11(1698)年の記録では「長さ約25.15m、横2.58、高さ3m」という規模。これが享保元(1716)年、明和6(1769)年、文化6(1809)年、昭和30(1955)年と拡張されてきた。現在は「長さ27m、幅3.3m、高さ6m」。
軽トラでちょうどいいサイズかなぁ?
この切通の両側あちこちに「磨崖仏」が。ここの崖を削ったり、露出している岩を彫刻して仏の姿を造る。石仏とは違う、磨崖仏は移動ができない。十数年前にタリバンがバーミヤンの大仏を爆破したが、あれの小さい奴がここにはいっぱいある、ということです。
右側上部には普請記録と馬頭観音、周辺には百体観音が安置されていた。とあった。
この切通しは「大切通し」といい、道の先の麻績村側に「小切通し」があるとのこと。
宿場町は見どころが多く、全部回りきれなかったわ残念。
★★★★☆
青柳氏館よりも切通しのほうが見ごたえあった。
<青柳氏館>
築城年 不明
築城主 青柳氏
構造 平城