小田切氏館はこの道の奥にあった。
周りは畑、宅地、そして小学校。小学校を造った時に結構開発されちゃったとか。
なので、小田切氏がここに館を作った当時の様子はどうだったのか、分からなくなっているらしい。小学校を建てるずっと以前から「古城跡」という話は知られていたようだが、特に正式な発掘を行ったということもないらしく。
この辺りの歴史をまとめた古い本を読んだところ、東西61.8m、南北58.2m、幅7.2m、高さ2m余の土塁が東西に続いていたという。西側は沢が流れており、これを堀としていたようだ。
小学校の開校が昭和47(1972)年なので、この年より前に土塁は壊されていると思う。昭和51(1976)年には小学校の東側で配水場と付属の道路工事が行われたらしい。そのとき多数の五輪塔が発掘されるとあったが、小田切氏館とどう関係あるかは分かっていないらしい。昔から知られていた割にはアバウトな。
坂を上りきると。
今はこんな↑ものが。このダムはごく新しく、平成22(2010)年竣工とあった。沢が氾濫したんだかで鉄砲水が出て小学校の体育館や近くの住宅が浸水したせいで、このダムが造られた。それまではただの平場だった。小学校辺りもお城に含まれていたんじゃないかと思われるものの、造成時にかなり削っているようなのでよく分からず。
ダム周りはというと。
また随分変わってしまったように思う。
ダムが出来る前にこの場所に来たことがあるが写真など撮った覚えもなく、画像なし。あやふやだが野兎のウンコがコロコロ転がっている林だった。なんとなく植林されているような記憶があり、人の手が入っていた印象。ダムがあるあたりが本郭だったかな、すぐに家を建てられるような感じのかなり平らな場所だった。
そうだなぁ、こんな感じの林だったかなぁ?
とふらふらと木の生えている方へ歩いていった。
なんかあるぞー?
端っこはなんか残ってたよー! びっくりしたよ。
そして、その端っこから山の方へ登る道も発見。
真偽不明だが、富士ノ塔山に抜ける古い道があるとか聞いたことがある(富士ノ塔の頂上には小田切氏の砦があったらしい)が、この道か? 富士ノ塔の砦は小田切さんの詰めの城ではなく、物見に使っていたとか。ちなみに富士ノ塔は子供でも簡単に登れるメジャーなお山。私も大昔登ってきのこ抱えて下りてきたことがあったけど、どこから登ったか覚えてない。
小田切さんの居城は吉窪城という。
小田切といえばコレ↓
小田切ダムである。吉窪城はこのすぐ近くの山にある。小田切氏館からは少し離れているかも。ダム周辺は景色が良い。
↑対岸に見える道は廃道となった旧国道19号線。
小田切さんというのは、元は佐久の豪族だったようだ。滋野系である。佐久から移ってきた時期など詳細は分からないが、鎌倉時代にこの辺りの地頭職となりそのまま居ついたとか。この辺りの領主様たちは軒並み滋野系らしい。ごっそり移ってきたのかなー?
足がかりとしてこの場所に城館を作り、徐々に支配地域を広めていったようだ。館は高台にあるが、ここから見える方向へどんどん侵食していった。
内後館(上屋敷)、於下館(下屋敷)という二つの館を作ったらしい。支配地域は結構広い。
小田切氏館の置かれた辺りは古墳群もあるし東山道支道(北陸道連絡道)が通っていた・亘理駅(読みの通り、川の渡し場)が置かれていたという噂もあり、どうやら古くからの集落があったらしい。小田切さんは近隣の滋野系領主のリーダー格に育っていったようで、戦国時代には春日、朝日、長嶺、久保寺(窪寺)、平林、布施、横山という7つの領主家を傘下に収めていた。当時の小田切さんは村上家に従っており、村上さんが越後に亡命した後も信濃の自分の支配地域に居残っていた。そして当然のごとく武田家と抗争中だった。
越後からの援軍が期待できない冬に武田さんは葛山城というお城を襲う。この葛山城の城主・落合さんも小田切さんと同じ立場(滋野系、近隣の領主を従えている)の親分だった。多分小田切さんと協定を結んでいたんだろうと思う。葛山城大ピンチなので小田切家当主の幸長さんが助けに行ったが、敢え無く戦死。小田切家の嫡男は吉窪城にいたものの逃げて行方知れずに(後に名乗り出て、武田に仕えたり、村上さんとこに復帰して朝鮮出兵に参加したがその地で亡くなったらしい)。その子孫は松代藩主の真田家に召し抱えてもらったものの、最終的にはこの場所を去ったようだ。
★★☆☆☆
年々破壊される遺構。そのうち無になりそう。
<小田切氏館>
築城主 小田切氏
築城年 不明
構造 平山城