小柴見城は現在、大部分が浄水場となっている。
その為お城までの道路状況はかなりよく、車でサクサク上れる好立地。
こんな感じの山道を上ったところにある。切通風の道だが、実は本郭と2の郭との間にあった堀切を流用した道路らしい。
右側が2の郭だった場所らしい。しかし、2の郭は浄水場化しており立ち入れないし跡もなくなってそう。では本郭はどうかというと、こちらはそのまま手つかずで残っているらしく。
↑コレが入口。
ちょっと行ってみる。コンクリで覆われた部分は土塁の名残であるらしい。
入ってすぐに、何やら急斜面が出てくる。実は現在道路になっている堀切跡の他にもうひとつ堀切があり、手つかずでそのまま残っていた。
道は細い。ごく普通の山道に見える。
しかし歩きやすく整備されているような? 知名度も低めで地味なお城だけど、もしかして展望台なんかに整備されてるとか? 入口も綺麗になっていたしな。
↑奥の高くなっている部分が本郭の土塁。
うーん、お城っぽいものもあるけど、なにか普通の里山の風景に見えるー。土塁・堀切にしても自然に還りつつある感じ。などと思いながら歩いていたら突如。
建物だぁ。
この場所が本郭跡地じゃなかったかな…人気はない。見た感じ私有地のようだ。人に出くわしたら嫌なので、早々に引き揚げる。にんげんこわい。
小柴見城の来歴はよく分からないらしい。
戦国時代にこの辺の豪族に「小柴見氏」がいてその居城だったとか、小田切氏に属するお城だったとか、いやいや起源はもっと古くて南北朝時代の信濃守護所の詰城として造られたとか。どの説も確定的ではない。吹けば飛んでいくようなちっぽけな豪族だったらしい小柴見氏は、小田切氏の配下だった、栗田氏の配下だった、とアレコレ言われている。
小田切氏配下説。弘治3(1557)年に小田切氏と共に葛山城で戦い、武田軍に敗れて滅ぶ?
栗田氏配下説。栗田氏は武田方に属した→第4次川中島合戦で上杉のスパイやってたと言われる→永禄5(1562)年に武田軍に滅ぼされ小柴見氏・小柴見城消える。
という感じで、どちらにしろ結局は武田に滅ぼされてしまっている。時系列から考えると、小田切氏家来→栗田氏家来→滅亡という順序なのかなー?
お城の戦闘記録はこれといってないらしい。が、南北朝時代の元中4/嘉慶元(1387)年に地元の豪族連合軍が守護所を襲って勝利するという事件が起き、この時襲撃した守護所というのが小柴見城の近くにあったとされている (「平芝守護所」という名前で、今の平柴にあったと思われるが場所は定かではない)。この守護所と小柴見城が関係している(守護所の詰城=小柴見城だったのではないか)ということらしく。ひょっとしたらお城での戦闘があったのではないかと思われる。ちなみに正平24/応安2(1369)年にも守護と地元豪族の間で戦争が起き平柴に守護方が陣を置いたという記録がある。このとき小柴見城があったかは謎だが、もしかしたら原型はあったかもしれない…防御設備もない場所に陣なんか置かないだろうし。
南北朝時代は北信の豪族が信濃守護・幕府に対して反抗的な態度をとっていたそうな。大塔合戦以外にも揉め事はしょっちゅうで、幕府は手を焼いていたらしい。平芝守護所の記録はほとんどないらしく、これは北信平定のために守護が置いた前線基地のようなものだったからかも?
その後とりあえず浄水場へ向かう。こんな公園が併設されていた。
初めてきたのでよく分からないが、これもお城跡地に作られているのでは? とウキウキして入ろうと子供を車から降ろそうとした。
寝ていやがった。先ほどの本郭から車で3分くらいだぞ、寝るの早っ。
仕方ないので、入り口付近だけ写真に収めてみた。
何もなさそうだ…。
★★★☆☆
けっきょく公園には行き損ねたが、公園ついでのお城散策に良さそう。
<小柴見城>
築城年 不明
築城主 不明
構造 山城