お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

広田城または藤牧城(東昌寺)

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広田城こと東昌寺に行ってきた。

ここはややこしい。長野市文化財データベースでは「藤牧城跡(東昌寺)」ということになっている。東昌寺から徒歩数分の場所に昌龍寺というお寺さんがあり、データベースでは「広田城跡(昌龍寺)」とあった。その根拠は分からない。

近所過ぎて「お城が2つ並んでいるはずがない」と世間では思われているらしく、「広田城跡は東昌寺から昌龍寺までの規模」と紹介されていたりもする。

当の東昌寺さんは「広田城跡です」と言っている。

 

城跡だと示すものは、一部残る土塁だけ。

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土塁の前には案内板があった。

・応永7(1400)年頃、広田・藤牧の領主であった広田氏が館を造る

・支配者が広田氏から藤巻氏に変わる

室町時代末期、藤牧氏(藤牧弥之助)が中野市へ移る

・天文21(1552)年頃、武田氏の砦として館跡を改修し広田城とする

・現在残されている土塁は武田氏時代に造られたもの

・江戸時代になり砦は廃止、元文4(1739)年観音堂が建立される

・宝暦9(1759)年長国寺の末寺として東昌寺が創建される

 

この案内板の記述だと、武田氏が「広田城」と名付けたように思える。

①広田氏が広田城(現・昌龍寺)を造る

②藤牧氏が、広田城を廃して隣に館(現・東昌寺)を造成し藤牧城を造る

 又は、既存の広田城を利用しつつメインの館を現在の東昌寺に置き藤牧城と命名

③武田氏に代わり、藤牧城を改修し広田城と改称

これなら色んな情報の整合性がとれるかなー? 地図上の形だと、昌龍寺・東昌寺は各々独立しているようにも見えるのよね。不思議だわ。

 

広田さんは村上支族だが、飯縄町の芋川さんとは姻戚関係にあったとかで芋川さんが断絶したときに飯縄に移り芋川の名を継いだそうだ。戦国時代の芋川さんは村上→武田→上杉と他の北信濃の国人領主と同じような流れで主君を替えていったらしい。米沢藩に芋川さんという家があるので、上杉氏に従い信濃から引っ越していったようだ。

藤牧さんは広田さんの親類だったらしい。身内だったので領地を継いだようだ。藤牧さんがよそへ行った理由は武田氏に追われたから。移住先で帰農したらしい。その子孫が和算家として名前を残している。

 

東昌寺の近くに藤牧神社という神社があった。

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この神社は創建年不詳となっていた。が、古い文献には寛永5(1628)年頃に地元の豪族・藤牧氏により建立されたとあったらしい。天文21(1552)年前後には、藤牧氏は武田氏に駆逐されていなくなっているはず。えー藤牧さん引っ越してないのー? 前述の和算家は貞享3(1686)年~宝暦2(1752)年の人で、その5代前には篠ノ井(東昌寺がある辺りは篠ノ井地区ではないが、その近くではある)に住んでいたとあった。和算家さんの系統とは別の藤牧さんがいるのかしら?

 

 

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東昌寺の創建時には堀も土塁も残されていた、とある。

↓図もあった。なかなか面白いお寺さんだったようだ。

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昭和48(1973)年に堀を埋め立てお寺さんを囲むように道路を作ったと書かれていた。なので堀跡を回ってみた。

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土塁も潰してしまっているので、言われなきゃ分からない感じに。

 

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東昌寺は真田家や長国寺と縁が深いということで、六文銭が随所にあしらわれていた。

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山門にも土塁とは少し異なる内容の案内板があった。先ほどの土塁前の案内板より少しだけ詳しい。

・藤牧氏は相当な勢力

・東西南北に400mの広大な敷地の城、方角は正確、正方形

・お寺が建てられた頃には堀にたくさんの蓮が咲き、美しかった

 

このお寺さん、土塁も堀も残されていたらパワースポットとして売り出せたかも。方角が正確なんて古代の宗教施設によくあるヤツだし、寺を取り囲む掘に咲く蓮はちょっと見てみたい。お寺とか神社にしようと思った気持ちが分かる。

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★★☆☆☆

藤牧城なのか広田城なのか、気になっているものの答えが見つからない

 

 

<広田城・藤牧城>

築城年 不明

築城主 広田氏

構造 平城