東昌寺から細い道を歩いていくと、昌龍寺に至る。
お寺の周囲の道も元はお堀なのかしら? 東昌寺と同じく、お寺を囲むように道が続いている。折角なのでお寺の周りを回ってみた。
東昌寺よりも広いお寺のようだ。↑写真左の黒くて高い何かは「四面角塔鐘楼」という名前で15m程の高さだという。これは松代城にあった隅櫓を移築したものらしい。ということは、このお寺さんも東昌寺と同じように松代藩や真田家に縁があるのかと思ったら、そうではないようだ。
武田さんが広田城を改修したあと、武勲をたてた大日方直長さんという人にお城を任せた。この人は水内郡小川出身で、大日方一族というのは信濃守護の小笠原氏の流れを汲む名族だったそうだ。彼らは相当な力を持っていたらしい。武田さんの信濃侵攻のときに自分達のお城を一つを落とされたことがきっかけで、主戦派・恭順派に分かれて喧嘩した。結局恭順派が勝ち、武田さんに従うことになったみたい。
だが、徹底抗戦を訴える人が出てくるんだから、なんとか勝てるかもな程度の兵力あったんだろうなーと思った。wikiによると周辺の国衆と比べて突出した動員兵力(9千~1万)だったらしい。川中島合戦の規模は、上杉の兵力8千~1.3万、武田の兵力1万~2.3万だそう。大日方一族内で主戦論者が勝ち、死ぬ気で武田に抵抗して、運が良ければ武田に勝てたかも? とちょっと思った。優秀な一族で手柄を何度もたてたらしい。特に大日方直長さんは武田さんから感状をもらっていた。
天正10(1582)年に武田が滅亡した後、織田家配下になっていた木曽義昌さんを通じて、織田家から本領安堵を受けたものの、その後すぐに織田信長死んじゃったので有耶無耶になってしまった。結果、徳川方(直親)と上杉方(直家)と2つに分裂してしまった。が、最後は皆仲良く地元の小川に戻り帰農したらしい。
昌龍寺の縁起は2通りの話がある。
①
かねてから大日方直長さんは「広田にお寺をつくりたい」という志を持っていたらしい。それが叶わず亡くなった。後を継いだ子の直家さん(ちなみに徳川方についた直親さんは直長さんの弟)は父の菩提を弔うために天正5(1577)年に、広田城跡に昌龍寺を建立した。
②
広田にお寺を建立したい直長さんは他のお城(領地)にいた。子の直家さんが広田を守っていた。天正5(1577)年直長さんの命で昌龍寺建立、直長さんは天正12(1584)年没、昌龍寺に葬られた。
直長さんがお寺の創建より先に死ぬか、後に死ぬかの違いだけの話なのか。
どちらにしろこの場所は、天正5(1577)年にはお城の機能を失っていたようだ。東昌寺は江戸時代に入ってから前身の御堂が建てられているので、お寺としてはこちらの方が古いようだ。
とすると、昌龍寺・東昌寺はそれぞれ別のお城だった可能性が高いのかも? 天正5年頃はまだまだお城は必要だった気がするよ。「広田城=東昌寺」だったら昌龍寺付近は気にせずお寺にできそうだけど、広田城潰してお寺その他にする勇気ないと思うよ。長野市文化財データベースが正しいのかー?
山門は古さを感じる佇まい。
1周して元の場所に戻った。おしまい。
★★☆☆☆
結局、広田城の謎は解明できずじまい。
<広田城>
築城年 不明
築城主 広田氏?
構造 平城
最後に近くの御厨公園で遊んできた。ジャングルジム的な遊具が気に入ったらしく、子供は黙々と遊んでいた。