今年の花粉は酷い気がする。
信越放送旧社屋跡地の裏に、こんなものが。
本城→押鐘城跡である。信越放送のHPには開局頃の写真が載っていた。当時の信越放送の周りは田んぼだらけだったようだ。
現在はアパートが目立つ住宅地となっていた。
SBCの古い写真、社屋の裏手に林っぽいものが写っているものの、ソレが押鐘城跡か分からず。現在のように開発される前までは土塁も残っていたらしい。
今はこんな小っちゃい公園の名前にしか、押鐘城の名残を感じることが出来なくなっているようだ。
小っちゃい公園に小っちゃいキノコ。
本城公園から人しか行き来できない犬走りを通る。
本城公園より広い公園あった。
吉田公園というらしい。
何てことはない公園だ。
押鐘城は万刀美神社の西側にあったそうだ。ざっと歩いてみたけど、全く何もない。起伏もない。綺麗に整地しちゃったのね。
吉田公園と万刀美神社の境にあったベンチ。押鐘の文字。
↑万刀美神社
この神社所在地の旧住所表示も「押鐘本城」だったようなので、ひょっとしたら押鐘城跡地の一部だったのかも? 地図を見たところ、押鐘城の東境=吉田公園と万刀美神社の境、のようで。しかし吉田公園と万刀美神社の境界はフラットだ。
↑万刀美神社拝殿
↓境内の様子
白山社
社宮社・金毘羅社・弥栄社
↓万刀美神社本殿
由緒を書いた看板があった。
・御祭神は健御名方神・馬背の神(牧場の出入口に祀られた神)
・創建年不明、桐原牧(平安時代にあった牧)の牧官が祀った
・小鹿野村→押鐘村の産土神(小鹿野村は名前を変更し押鐘村となった)
・以前は別の場所にあったが、寛文6(1666)年この地に遷座
・文政12(1829)年社殿再建
・創建時より「諏訪大明神」と称していたが、弘化4(1847)年「万刀美神社」に改称
・万刀美神社とは、健御名方神の別名「南方刀美命」から採られている
ということで、なかなか古い神社らしい。
肝心の「押鐘城」の話はひとつも書いてなかった。
江戸初期に移転なら、押鐘城もまだ残っていそうだ。吉田公園が堀(と土塁の?)跡なのかねー?
押鐘城は、大永年間(1521~1527)に多田(押鐘)氏が居城として築いたらしい。周辺は古代から人が住んでいて、いたるところに遺跡があるようで。「浅川扇状地遺跡群」とひとくくりにされており、各遺跡の報告書もいっぱいあった。ただザッとタイトルだけ眺めた感じでは、押鐘城関係の調査報告は見当たらなかった…きっと調査してないのでしょうねー。
多田氏が最初に造った館は盛伝寺というお寺さんになっている。その後押鐘城の造営にあたり、居館を廃してお寺にしたようだ。扇状地というぐらいだから平らな場所だし、城ひとつで充分なのかな。
多田から押鐘に改姓した理由ははっきりと分からないが、
・「小鹿野」が訛って「押鐘」に変化説
神社の由緒書きにもあった古い地名「小鹿野」から
・村上義清さんに褒められた逸話から採った説
鐘を叩いて味方の兵を鼓舞してくれたから戦に勝てた有難う、と言われたから
という2説があるようだ。
旧姓の「多田」はなんだろー? この辺りの地名とは関係なさそう。どこからか来た一族だろうか。信濃源氏の祖先で源(多田)満仲という人を見つけた。この人は河内源氏・摂津源氏などの祖先でもあり、かなりのやり手で出世した。同輩に妬まれて自宅放火されてしまう人(とはいえ、多田さん本人も汚い手法で成り上がった模様)。
多田満仲→河内源氏→信濃源氏という別れ方で、信濃源氏の祖となるのは多田さんの孫2人がメイン(井上氏系統と村上氏系統)。多田満仲の嫡流は摂津源氏で「多田」を名乗れる、河内源氏は満仲三男の子孫。「多田」姓名乗ってない。摂津源氏の「多田」一族の誰かが「同じ源氏じゃないか」と村上か井上を頼って引っ越してきたとかねー違うかなー。
★☆☆☆☆
何もない、吉田公園は遊べた
<押鐘城>
築城年 大永年間(1521~1527)?
築城主 多田(押鐘)氏
構造 平城