現在の相木城の面影は↑これだけ。このモサモサの藪の中に城跡を示す石碑や神社があるらしいが、周りはフェンスで取り囲まれており入れなさそう。入口が分からない。
昔は城跡の名残、土塁やら堀やらあったらしいが、ほぼ全部学校建設のために潰したらしい。
昭和32(1957)年に城跡を取り壊して高校が建てられる。しかも女子高。たまたま休みの日でJKも全くいなかったので助かったが、もし登校日にうろついていたら不審者情報に載っていたかもしれない。
土塁の一部は記念に残しておいたものなのか、元々神社があったせいなのか、そのまま放置されている。モサモサの中の石碑には、「相木市兵衛政友之城跡」と彫られているとか。
相木さんは佐久の国衆・大井氏の家老一族で、元は小県の依田氏の流れを汲むおうちだそうな。そして本拠地は北相木村・南相木村(永禄8(1565)年に相木村が南北に分裂した)。なんでこちらにも城を造ったのかというと、永禄4(1561)年の第4次川中島の戦いに武田方として参加した相木昌朝という人がおり、武田晴信さんに命じられて引っ越してきたためだそうだ。相木昌朝こと相木市兵衛政友、ということらしい。この人、「まさとも」という名前の音は気に入っていたものの、字面がいまいちだと思っていたのか、昌朝・正朝・昌友・政友・正友と色んなパターンの名前が残っている。ややこしい。
相木昌朝は1567(永禄10)年にこの地で亡くなったそうで。本家の北相木村の相木城は子の頼房・信房という2人が継いだらしい。信房の奥さんが美女剣士・更科姫で、二人の子が尼子氏再興運動を頑張った山中鹿之介なんだそうだ。そのため島根県松江市に相木信房(盛之助)と更科姫のお墓があったり、相木氏発祥の地の長野県南相木村には山中鹿之介の記念館があるらしい。
えーなんかこれトンデモっぽくないかしら? 武田氏旧臣の息子が所縁もなさそうな尼子氏になんで執着するんだろう、意味分からないわ。などと思い調べて見たら、やはり史実ではないらしい。更科姫は文化8(1811)年から10年にわたり刊行された「絵本更科草紙 」という本の主人公で、「山中鹿之介の母親=更科姫」という設定だった。これが当時流行ったらしい。で、山中鹿之介の地元に相木夫妻のお墓が作られたりしたんだろうか。
という出来事があり、相木氏は全国に散っていった。
長野市の相木城は天正10年の時点で廃城にはなっていそうな気がする。
今日は怪しまれなさそうなので、ちょっと周りを撮ってみた。
土塁の周り↓
女子校の校舎はまだ新しく、平成25(2013)年に完成したという。新校舎の建て替えに先立ち平成24(2012)年に発掘調査が行われ、1900年~1500年前の集落跡が見つかったらしい。
48軒の住居跡を確認。とあったので、そこそこデカい集落だったらしい。
↓女子校の隣には宇達神社。
この神社は宇逵神が主祭神で、健御名方神と八坂斗売神も祭られている。創建年は不明で式内神社ではないものの日本三代実録に名前が載っているという。
神社の説明板には、
とあった。1900年前の集落のすぐ横の、この地の開拓神を祭る神社。もしかして弥生時代からあるのー? という妄想が広がる。「逵」の字が難しくて「宇達」になったのかと思いきや、よく見れば現在の社号も見たことない字を使っている。
古そうな木がたくさーん。御老体なのか丁寧に世話されているようだ。
★★☆☆☆
相木城のことより、宇達神社が1900年前に創建された相当古い神社じゃないのかとワクワクした
<相木城>
築城年 永禄4(1561)年?
築城主 相木氏
構造 平城