お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

保科氏館

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保科御厨と呼ばれていた土地なので、保科氏も当然いた。川田氏と違いビッグネームだとか。保科という名前は承平年間(931~938)頃から存在していたらしい。保科氏は治承4(1180)年の文書に出てくるみたい。その後も名前はちょくちょく現れているようだ。

途中どこかで保科一族は絶え、近隣の大豪族の井上氏が保科氏を名乗り再興したとか。この頃の大きな事件は建武2(1335)年の中先代の乱という反乱の緒戦、青沼合戦で反政府軍として蜂起したものの、負けてしまったことらしい。永正10(1513)年には村上氏に敗れて本貫地を追われ、高遠に移住したそうだ。その後は諏訪氏の家来→武田氏の家来→徳川氏の家来と主人を替えていったが、運が開けたのか主君が替わるたびに出世していく感じに。

広徳寺は保科氏館跡に天文2(1533)年に建てられたお寺。

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このお寺さんの総門は焼け残った保科氏館の裏門を移築したものだと言われている。広徳寺は永徳元(1489)年保科正利により開創、というのを見つけたんだけど。近隣から移転してきたのかしら。

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保科氏の館があった、ということより↑こっちのほうが派手に主張している。南禅寺の初代和尚の大明国師という人がが保科一族の出身で、その生誕記念の碑のようだ。ただし、御本人はこの地で生まれたものの、生母が新潟出身ですぐに越後へ引っ越してしまっているらしい。

南禅寺の公式サイトでは保科一族とあるのに、wikiだと大明国師は井上一族と書かれている。もしかしたらこの人が生まれた建暦2(1212)年以前に井上氏が保科の名跡を継いでいるということなのかも?

南禅寺は日本国内の禅寺の最高位。格式が高いわりには、疎水とか旧財閥の別荘群とか癲狂院とか近代に大きく関わっているお寺なので、何度か見に行ったことがあるけど。こんなところで南禅寺情報に触れるとは思わなかったわ。

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いかにもお寺という感じの妙香が。匂いは結構キツめ。

このお堂のお向かいには弁財堂というのがあった。武田氏所縁のお堂なんだそうだ。武田信玄の守護神=弁財天ということで安置したものらしい。武田信玄って色んな所で願掛けとかしているみたいだし、意外と信心深い人だったんかねー?

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↑保科川

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↑保科氏の居城・霜台城のある山だと思う。自信ない。

 

保科氏の中で保科正之という人が一番有名らしい。徳川家3代将軍家光の腹違いの弟で、保科家に預けられ育ち、家督も継ぎ、会津藩の初代藩主になったという人。

名君という評判で、保科家次期当主を廃嫡させてまで家を継いだんだから凄い。時の将軍・家光様からも絶大な信頼を得ていたのに、驕らず臣下の礼を尽くして「松平姓」ももらったが名乗ることを固持した云々。どうしよう、こういう評価の人物あんまり好きになれないかも。

会津藩と言えば、イケメン傭兵集団というイメージの新撰組(私2次元で一番愛しているのが「燃えよ剣」の土方歳三なのよね、あの見た目で人格が正統派なツンデレだなんて素敵過ぎる)と少年兵中心の白虎隊を思い出す。前者はファンも多いのに、後者はそうでもない。内容的には人気が出てもおかしくないと思うんだけど、なんでかね。イケメン隊員がいたとかの話がないから? この当時の会津藩主の松平容保という人もイケメンで有名なんだそうだ。京都市中で新撰組を引き連れ練り歩くと、女子にキャーキャー言われたとか。会津藩の人達は好きになりそうよ。この地にいた保科氏と幕末のイケメン藩主とが血縁関係ないの残念。

保科正之が幕府に松平姓使用の許可を得ていたので「いずれ保科氏なくなっちゃうかも、それは困る」という話になったらしく。保科氏は別の系統でも存続したらしい。飯野藩の藩主やってた。保科氏は徳川家康の妹さんがお嫁に来ていた関係でかなり優遇されていると思った。

 

 

★★★☆☆

館跡関係ないけど、風光明媚だった

 

 

<保科氏館>

築城年 不明

築城主 保科氏

構造 平城