若槻団地の中にある小さな公園。名前の通り、お城跡。
住宅地のオアシス的な公園になっている。名前と記念碑がなければ、その辺の公園と大差ないねー。
このお城についての説明板も設置されていた。内容は↓
- 12世紀後半(鎌倉時代初頭)、若槻頼隆により築かれたと伝わる
- 若槻頼隆=源頼隆、源義家の孫で清和源氏直系
- 頼隆の父・義隆は平治の乱に従軍、源義朝の身代わりとなり戦死
- 頼隆は従五位下の位を持ち、伊豆守と称した
- 鎌倉幕府御家人となる、若槻庄の地頭になりこの地に移住、若槻氏の祖となる
- 若槻里城は居館跡
- 城の規模は東西120m、南北180m、面積2.3ha
- 現在遺構は当公園と里城池のみ、昭和40(1965)年からの若槻団地造成で失われる
- 頼隆の子、頼胤・頼定兄弟が建治元(1275)年、京都六条八幡宮再建費用として十貫文(50~60万円くらい?)を負担した、当時十貫文以上払った人は信濃国御家人32人のうち5人しかいない
- 頼胤が若槻里城を継ぎ、押田氏や多胡氏の祖となる
- 頼定は真光寺に居館を構え、西条氏の祖となる
- 室町時代は高梨氏の家来に
- 応永11(1404)年、信濃守護代・細川慈忠に反抗した高梨氏に従ったため、若槻里城陥落
- 嘉吉元(1441)年、結城合戦に出陣、室町幕府軍5番陣旗頭を務める
- 善光寺平には城館跡が多く遺されているが、山城と対になっているものはここだけ
かなり情報量が多い。集約しすぎてさっぱり分からない。特に人名。誰だよー?
1.源(毛利)義隆
- カリスマ武将で河内源氏三代目棟梁の源義家(八幡太郎)の七男か六男
- 平治の乱当時の河内源氏棟梁は甥の源為義、義隆は長老格
- 義隆は源為義の長男である義朝に従い、平治の乱に参加
- 平治元(1160)年の平治の乱で源氏方敗れる→落ち延びる途中に義朝を庇い落命
- 相模国毛利庄の領主
2.源(若槻)頼隆
- 源義隆の三男
- 平治の乱後に源氏関係者の処罰が行われ、生後1ヶ月の頼隆も流罪
- 流された上総国の豪族で桓武平氏の後裔・千葉氏に育てられる
- 治承4(1180)年、源頼朝が平氏打倒の兵を挙げるが平氏方に敗れる
- 頼朝の敗走先は千葉氏の館で、頼隆と引き合わされる
- 頼朝は父・義朝と義隆の経緯からか、頼隆を重んじる
- 鎌倉幕府成立後も身内として頼朝を支えたが、頼朝死後は所領の若槻庄に移住
- 所領の名前をとって、若槻氏と名乗る
3.若槻頼胤
- 源頼隆の長男
- 千葉氏に仕える
- 子の押田頼広は押田氏の祖で千葉氏の一門格となる→江戸時代に旗本となる
- その他の子孫の若槻氏・多胡氏などは戦国時代まで信濃国に居住
- 戦国期は村上氏に仕えた→武田氏に追われた村上氏に従い、越後へ
- 若槻氏は以後、若槻庄に戻ることはなかった
4.若槻(森)頼定
若槻氏は宝治元(1247)年の宝治合戦に巻き込まれ、弱体化したらしい。源頼隆は三浦方となり討ち死に。とかあったけど、1160年生まれの87歳の爺が従軍かと俄には信じがたいがねー。
5.宝治合戦
- 鎌倉幕府の内乱、執権北条氏と有力御家人三浦氏との合戦
- 勝ったのは北条氏
- 負けた三浦氏は一族500人自害し滅亡、三浦氏と縁戚関係にあった千葉氏なども攻撃を受けた(千葉氏は163人自害)
- ライバルを根絶やしした北条得宗家の専政政治が確立した
千葉氏本家の滅亡は免れたものの、一族で実権を握っていた分家(この当主が三浦氏の娘婿だったらしい)が滅ぶ+当主は9歳ということで、何か大変だったみたい。この合戦に参加したのって、千葉氏に仕えていたという若槻頼胤じゃないのかなー?
若槻頼胤の子・押田頼広は宝治合戦の後千葉氏に匿われていたとか。若槻氏は源氏一門として扱われているので、北条氏にとって邪魔だったから滅ぼそうとしてたのかね? 押田って名乗りもかえているし、ずっと付け狙われていたのかなー?
しかし、こんな小さい公園のことで歴史の教科書に載ってそうな話を勉強する羽目になるとは思わなかったわ。疲れた。
今居る場所は↓の図の「北公園」。
里城池はもはや池ではなくなっていた。
閉鎖されているが、ここも公園ぽい?
閉鎖されているのは整備途中だからだったようだ。
公園内には段差があり、「一番高い部分が本郭かねー?」などと考えていた。ちょうど若槻里城の石碑・説明板がある辺り。
が、説明板の図では現在住宅地になっている部分が本郭、ニの郭にあたるようだ。
↓本郭方面
↓二の郭方面
「若槻里城」石碑のある辺りの方が一番の高地になっているような気がする。公園整備するときになんとなく高くしちゃっただけなのだろうか。
「山城と対になっている」と説明板にあったが。若槻山城は山の上にあるそうだ。施設としては若槻山城の他、番所というものもあるようだ。
番所は物見砦のようなものらしい。
若槻山城のある山なのかな? 地図では林道や遊歩道が整備されているようで、さあ今すぐ登りなさい。と誘っているようだ。若槻里城だけじゃ片参りだぞ、と。
ここと対になる城とはいえ、なんだか遠く思える。
★☆☆☆☆
多くの有名人の片鱗を感じたものの、テスト勉強させられている気分になった。
<若槻里城>
築城年 文治元(1185)年以降?
築城主 若槻氏
構造 平城