お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

犬甘城

なんとなく地図を見ていて、城山公園というものを見つけた。まず間違いなくお城跡だろうと思った。

行ってみたらこの通り↓

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六ノ郭まで存在しているようだ。

この松本市城山公園、ぐぐっても公園の成り立ちしか出てこないのよ。公園の中でもかなり古くからあるものらしく、またそれが誇りでもあるようだ。個人的には公園・庭園の類いはあまり関心がなく…。

  • 天保14(1843)年、松本藩主戸田光庸により開設、一般人にも開放
  • 明治8(1875)年の筑摩県布達により、日本初の太政官布達公園のひとつとなる
  • これに先立ち、明治6(1873)年には公園設置の条件を示した太政官布達が発布されている(太政官布達第十六号)

 

江戸時代には公園という概念がなかったものの、偉い人が景勝地を整備して民のための憩いの場にすることはあったらしい。江戸では、徳川吉宗が整備開放した遊園「隅田川堤」「品川御殿山」「飛鳥山」「中野の桃園」があり、地方でも水戸藩徳川斉昭という人が作った「偕楽園」が有名らしい。偕楽園は私いつも後楽園と間違えちゃってて、ボクシングの方かなって思っちゃう。

 

厳密に言えば遊園と公園は別物のようだ。

遊園=遊び場、憩いの場として設けられた庭園

公園=公衆が遊びを楽しむ、憩うために公開された場所、公共の施設

 

城山公園は近代的公園を全面に打ち出している感じで、公園内にはたくさんの歌碑が散らばっているらしい。

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公園散策の他には山登りも出来るらしい↑

 

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駐車場から公園内に侵入。お城っぽいものは今のところこの辺り↑かな? よく分からないけど何か急斜面になっている。

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だいたいがこんな感じ↑のよくある公園風景で桜の木が多数見える。桜の名所でもあるらしい。

再び急斜面を覗くも。何かイマイチ気分。暑いせいか。

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ちなみにこれの説明はなく、自然に出来たものなのかもしれないとも思える。藪だしねー。

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この急斜面を横目で見ながら更に道を進む。

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入り口発見↑ 先ほどの急斜面のすぐそばなので、やはり何かしら人の手が入った崖だったのかも? そして、案内板もあったよ。

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犬甘=いぬかい なのか。読めないわ、そして何で犬が甘いと書くんだろうか。まさか食べたのかね犬を。味は甘いのか。

悲しいことに犬甘城の説明は本当にサラッとした様子で、やっぱり公園の話を多めに説明している。

 

松本城と同じく、この犬甘城も小笠原氏の居城・林城の支城の一つであったようだ。犬甘氏は小笠原氏の家臣で、大伴氏の子孫にあたる豪族だったらしい。戦国期の小笠原氏は武田氏に惨敗し勢力を低下させたが、犬甘氏と平瀬氏というふたつのおうちは小笠原氏に忠誠を尽くしたようで。小笠原氏のお城はどんどこ落とされてしまったけど、犬甘城と平瀬城は徹底抗戦。wikiに犬甘城の落城顛末が載っていた。

  • 犬甘城のすぐ近くの深志城(現・松本城)の城代・馬場信春(武田氏の家来)が物見で犬甘城の近くにやってきた
  • 犬甘城主は村上氏からの援軍が来たと勘違いし、出迎えるために家臣数名と一緒に馬場信春に近寄る
  • 敵に包囲される
  • とりあえず頑張って城主は逃げた(二木さんという仲間を頼ったらしい)
  • 城主不在になったので、犬甘城を攻めたら呆気なく落城

残念エピソードねー。一応、主君の小笠原氏の松本復帰に伴い犬甘氏も旧領復帰しており良かったね、という結末にはなっているようだが。

とにかく、この階段の先に本郭があるはずなので、登ってみた。

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何かあるぞ。

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歌碑だった。それと、歌碑の説明板。この歌は吉江孤雁という人が作ったらしい。誰だか分からないし興味もなく、チラ見して先に進む。

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↑これも郭っぽい。最初の公園案内図だと3ノ郭になっていた。f:id:henrilesidaner:20190414085731j:plain

↑見えてきた本郭。

本郭内、やはりお城跡だよって看板なし。

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暑すぎるし誰も居ない。子供もキレ始める。さっさと降りた。

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端っこはこんな感じだった↑ 藪が濃すぎてもう分からん。

 

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この先にもまだ郭が存在しており、展望台や神社もあるようだが。ごねられたので目的地に行くことにした(この後は松本城四柱神社→某ショッピングモールの順)。

 

こちらから松本城に向かう途中、目を引くものがあり子供を説得し、ちょっとだけ時間をもらった。

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義民塚だってー。

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案内板には

  • 貞享義民塚
  • 貞享3(1686)年、松本で起こった百姓一揆=貞享騒動
  • 昭和25(1950)年、中学校建設時に人骨が出てきた
  • 調査の結果、貞享騒動の首謀者で当地で処刑された多田加助等のものと判明
  • 義民塚として祭ることにした
  • 多田加助を指導者とし、松本藩領内から1万人近い農民を動員した大きな百姓一揆であった

とあった。

なんか昔ハマったラノベでこの話を読んだわ。私の教養は「テレビで見た」「ゲームで見た」「マンガorラノベで読んだ」で構成されている気がするわ。どうしようもない感じだわねー。

このすぐお隣には中学校があったけど、この中学校が出来るまで処刑場の存在が忘れられていたんだろうか。地元の松代藩処刑場は場所もしっかり知られているし、アクセスが悪い山の中にあるようだがね。現在では一般人や冷やかしが行くにはしんどい峠の道。

なので不思議に思い、ちょっと探してみたところ。ここは「瀬高刑場」と呼ばれた臨時の処刑場だったらしい。案内板にもあるように一揆参加者約1万人なので処刑する人数が多すぎて常設処刑場(出川刑場)だけでは足りず、臨時の処刑場を設けて刑を執行したらしい。出身地によって使う刑場を分けていたようだ。安曇郡の人間は瀬高刑場、筑摩郡の人間は出川刑場で。死罪28名(磔8名、獄門20名)で、瀬高刑場は首謀者の多田加助以下17名の刑が執行されたらしい。ちなみに人骨は18体見つかっており、埋葬方法が違うという理由で1体は貞享騒動の処刑者にカウントされていない。その1人がなんなのか気になる。

松本藩の常設処刑場「出川刑場」の現在を探してみた。郊外の住宅地の中にあるようだ。ストリートビューで見ると、その場所のみぽっかりと空き地になっている。禁足地っていうのかな? その様子だけで不気味だわ。

 

 

★★★★☆

他の郭も見てくれば良かった。

 

 

<犬甘城>

築城年 不明

築城主 犬甘氏

構造 山城