なんとなくドライブしていたら、辿り着いた。観音像があるらしい。
階段は嫌だったので坂道を上がっていくと、何かの施設があった。
最初神社かと思ったんだけどー。建物の周りには古そうな石碑群。何が書いてあるのか分からない。読む気もしないねー。場所柄、俳句とか和歌の石碑なんじゃないかと思うわ。
この建物から更に高台へ上がっていくと、またもや石碑群に出くわした。
大きな碑は「招魂碑」とあった。ほぼ字が薄れかけていて読みにくいが、更級郡出身の小河原小五郎さんの来歴、徴兵に応じて従軍したものの上陸した先で風土病に罹り死亡、彼の友人達が招魂碑を造りたいと願い建立されたものらしい。明治30年代に建てられたもののようだ。石碑の記述によると明治29年12月に徴兵されたようだ。一番近い戦争だと義和団の乱? 戦争に征き異国の地で亡くなった為にこういう碑を建てて供養するの、昔流行ったのかな。長閑な田舎に行くとけっこう残っていたりする。
もう少し先があるらしい。この上は坂の下で見かけた「姨捨孝子観音」というのがあると思う。
登り切ると。
御嶽神社の石碑。
で、これ↓が姨捨孝子観音らしい。
この観音像は比較的最近出来た物らしい。来歴が彫られた石碑があった。タイトルは「姨捨孝子観音由来之碑」。
昔冠着山の地元を領有したる郷士あり 或時此領主の若殿が怪我を受け姥の責任なりとして殿の怒に触れ 姥を冠着山に放逐せしむべく 姥の倅に厳命下され 倅に一応深山に背負い行きたれど捨て切れず 窃かに我家に連れ戻り孝養を尽し居たりき 此の時付近に地辷り起こり食糧飢饉に至り難民○出せる為 殿様は隣郷の領主に食糧を求めたり 領主は答えて二つの難問題を出し之を解くならば食糧を送るべしと返答せり 殿様は之を解けず我領地内に解くものあらば過分の褒美を取らす可く布令を出したり 姥は之を聞き直に解き倅に教えければ倅は殿に言上効せり致せり 殿は非常に喜び過分の褒美を与え尚姥の罪をも許されしと言ふ 孝子美談の伝説なり 依て姥捨山と称えらろふに至れり 世に言ふ非道の伝説は誤にして之を是正せんが為め姨捨孝子観音を樹立して孝子の誉を永く残さんとする所以なり
昭和36年4月
内容にある物語は聞いたことあるよー。日本昔話的な奴で。ただ、若殿に怪我させた罪で山に捨てるという感じじゃなかったような? 老人全部捨ててこい! だったような?
調べると、姥捨山の話は2パターンあり。
- 70歳以上の老人は国を追い出されるという掟のある国の住人で大層親思いの息子がいた、規則通り70過ぎの親を国の外に捨てることが出来ずこっそり匿う。そして難しい問題を出された殿様が云々
- 実の親を早くに亡くした男は自分を育ててくれた姨を大事にしていた。しかし男の嫁は姨を憎み山に捨ててくるよう男に命じた。男は姨を背負い山に登り一旦は捨てて来たが、後悔してまた山から連れ戻した
上しか知らないわ。「長野県の昔話」みたいな本に老人を憎む殿様が命じて国中の老人を捨てさせたが…という内容があり、多分私これ読んだんだわー。一番有名なのは捨てたはずの老人が密かに連れ戻され、難題を解いて息子に教えるパターン。これは昔から有名なものらしく、今昔物語集・打聞集などに見られるらしい。出題されるクイズがいくつかあり、収録された書物や地元伝承で内容のバリエーションも豊富という。元ネタは雑宝蔵経という仏教の経典(説話集)の中にあるそうで、つまり外国が舞台の話だったようだ。
下のパターンは大和物語に収録されている話らしい。信濃という具体的な地名が出てくる棄老の話はコレが初のようだ。信濃の姥捨という地名の由来を記したものらしい。
下と上と「老人を捨てようとした」以外共通点がない、下は物語としては面白みに欠ける(嫁姑問題など争いごとの話は大好きですがね)し、普通の人ならクイズを年の功で解いちゃう方がスカッとするかなー? どちらも「世に言ふ非道の伝説」ではなさそう。婆連れ帰ってるしさ。
どうやら昭和30年に「楢山節考」という小説がベストセラーになり、映画化もされたせいで姥捨山とその周辺に関わりある人達が風評被害に遭ったらしい(小説の設定は信州だが、モデルは他の県だと作者が書き残していた)。東京に出て行った更科出身者達が「親不孝の里から出て来た」みたいなことを言われて怒り、この石碑を建立してマイナスイメージを払拭しようとしたらしい。
そのせいか、石碑のタイトルは旧皇族の東久邇稔彦、撰文は貴族院勅選議員・日大名誉総長等の多く肩書きを持つ山岡万之助、筆は日新流という華道の家元の新井日新、と立派な人達にお願いしているみたい。さすがに東久邇宮だけは私も知ってる。結局これでマイナスイメージは消えたのかしら?
この他には祠↓
観音像建立にあたり寄付をした人達↓
近衛篤麿さんお手植え?↓
公爵近衛篤麿(1863~1904)さんが植えたにしては貧弱な木よね。2代目の木かしら?
ボロボロで何かよく分からない碑↓
大田定治さんの慰霊碑らしい。
来歴が書いてある。彼は明治6年4月5日生まれで性格は温厚、明治26年に徴兵され陸軍近衛師団第2連隊に所属、輜重輸卒として兵站を担当した。そして台湾に渡り、その地で没した。享年23歳。ということらしい。内容的に、日清戦争後の日本統治時代のようだ。明治27年に近衛師団第2連隊は日清戦争に従軍、明治28年台湾を平定したとかwikiに書いてあったわ。最初見た小河原小五郎さんの碑より古い。当然、観音像よりも古い。オンボロ具合から移設してきたとも考えられず。
探すと、ここは姨捨孝子観音の建立のため整備された広場ではなく、元々は冠着山山頂の冠着神社の遙拝殿とお月見するための観月殿(さっき見た奴)が置かれていたようだ。
★★☆☆☆
境内には土俵があり、子供はその中で「相撲だよー」と言いながらひとり四股を踏んでいた
<姨捨孝子観音>
建立日 昭和36(1961)年
随分前に姨捨駅が改修終わったらしいので、近くなのでついでに見に行ってみた。
ここは全国でも珍しいスイッチバックという施設があるそうで。↑この看板にもスイッチバックを示しているのかな? という感じの変な描き方してるわ。
小学校の遠足でも電車に乗る練習ついでに、これを見に来た覚えがある。電車が変な動きするんだよねー。
棚田も見えた。
↑私この建物の内部が見たかったんだけど、かなり厳重にブラインドが下ろされて覗くことが出来なかった。残念。1泊2日、この施設を使用するJR主催の鉄道旅のコースは32万~で、その高額さにマジで顎が外れかけたわ。私の憧れ船旅だと、1泊2日クルーズの一番安いプランでにっぽん丸、飛鳥Ⅱ共にそれより1桁程少ない料金で行ける。2日間の旅行で30万以上払わされたらさ、少しでも不満を感じたら自分の負けみたいな貧乏根性出しそう、意地でも旅行内容を褒めちぎりそうだわ私。