家に物凄く大きな蜘蛛が出て、家族中がパニックに陥った。大きさは30cm近い。生まれて初めてあんなデカい蜘蛛に出くわした。絶対やばい生物(毒持ってる・噛む)だと思ったけど、後で調べたら毒など持っておらず、むしろゴキブリを食べ尽くしてくれる益虫として人気がある蜘蛛だったようだ…駆除してごめんなさい。
天気が良い日に出かけた。かなり目立つ大きなお寺があり、ちょうど近くまで来たので寄ってみた。康楽寺という寺号らしい。
ぱっと見、地域のお寺さんの雰囲気。けれど、敷地が異様に広い。
↑山門
↑本堂
この本堂の屋根が周りの家々より突出して高い。存在感がある。京都の市街地外れの山にある由緒正しいお寺さんみたいな堂々たる感じ。
この寺怪しい。
山門に「康楽寺略縁起」という説明板が立っていた。それによると、
- 開基は木曽大夫房覚明円通院浄寛西仏坊
- 創立は建暦2(1212)年
- 開基の西仏坊は海野幸親の子の幸長(通広)
- 天養元(1144)年海野庄(上田市)生まれ
- 南都(奈良)で勉学に励み、興福寺勧学院の文章博士になる
- 上手い文章を書く人で有名だった
- 源平盛衰記、吾妻鏡、徒然草にも登場した
- 若い頃は軍師、右筆として木曽義仲に仕えた
- 義仲滅亡後に出家し、比叡山で修行し親鸞と知り合う
- 建仁元(1201)年、親鸞と一緒に法然の弟子になった
- 承元元(1207)年、承元の法難で親鸞と一緒に越後国へ赴く
- その後、赦免された親鸞と共に布教活動をし始めたが、その途中で法然が入滅した事を知る
- 地元の海野庄に親鸞一行と行き、同地に庵を結び報恩の経を上げ、この庵を親鸞が「報恩院」と名付けた(建暦2(1212)年、これをもって創建とする)
- その後、塩崎長谷に寺を移転
- また弘治年間(1555~1558)に現在地へ移転(移転後も地籍は塩崎長谷)
- 信越、東国、北陸の真宗布教の中枢となり、江戸期には門徒戸数3600人あまり、信州門跡と尊ばれた
つまり浄土真宗草創期からの拠点だったらしい。
西仏というお坊さんの経歴がやけに激しすぎる。法然の弟子になった年齢も書かれていた、57歳の時だという。なんか元気だね。
木曽義仲は久寿元(1154)年生まれで西仏の10コ下だったみたい。死んだのが寿永3(1184)年で、西仏は41歳になるのかなー? で、16年ほど修行して法然の弟子? 承元の法難の時には63歳。親鸞は34歳だったらしい。34歳の男に同行して越後国へ行き、5年後許されて68歳時点で布教の旅に出る、ということになる。越後国→信濃国だけなんだけど、これが事実なら死期を迎えそうだから地元に帰っただけとも取れるわ。
木曽義仲の軍師だった時代にはすでに出家していて(説明板では木曽義仲滅亡後出家とあるが、wikiとか色々見ると覚明は治承4(1180)年以前で仏門に入っているみたい)覚明と名乗っていたらしいけど、何故か子供もいて長野市内にある別の真宗のお寺さんの開基になってるー。承元の法難で僧籍剥奪?→一般人になる→結婚して子をもうける、なのかなー? 説明板通りなら当時63歳だよ、元気だねー。
説明板には書いていなかったけれど、西仏=平家物語作者説があるらしい。そもそも木曽義仲軍師の覚明という僧も謎の人物で、出自が分からないらしい。藤原氏の菩提寺である興福寺で学んだとあるため、藤原一族の誰かということになっているらしい。
平家物語の作者は「信濃前司行長」なる人物とされ、本命は「藤原行長」になっていた。ただし、この人は信濃守になったことがない。生年月日が分からないけど、藤原行長のパパの人生は大治5(1130)年~文治3(1187)年で、藤原行長は海野幸長とは同世代だと思われる。
藤原行長の父親が仕えていた九条兼実という人は、法然に帰依していたらしい。承元の法難でも法然を匿ったりしている。承元の法難の原因は上皇お留守の御所に無断で法然の弟子達がお泊まりし、そこの女官達と戯れてしまい、上皇を怒らせたことらしい。法難=宗教弾圧とのことだけれども。最高権力者の屋敷に入り込んで女達と遊んじゃったせいとか宗教関係ないし。そして実家浄土宗なんだよ、なんかショックだわ。
説明板に出てくる「海野幸長」は、平家物語にも本人が出ているらしい。なんか、お父様の海野幸親が木曽義仲の侍大将やっており、そのご子息として名前が登場するそうな。海野幸親は木曽義仲と一緒に討ち死にしたらしい。海野幸長説は、藤原一族ではないために興福寺で勉強出来ないから違うと否定されている。
浄土宗と平家物語は関係が深いみたい。全体的に浄土思想が色濃く反映されているとかで、それに詳しい人が書いたのではないかと言われているようだ。中学時代の国語の教科書に載っていた「敦盛の最期」は当時どうとも思わなかったのに、最近ETVで内容を見てしまい恥ずかしながら少し泣きそうになったと家族に話したら、肩をぽんと叩かれ「年取ったんだなぁ」と馬鹿にされる悔しい経験をした。その敦盛を討ったおじさんは後年、法然の高弟になっていた。じゃあ、そのおじさんが書いたんじゃないのか(当事者だし浄土思想にも詳しそう)と思ったけど、おじさん(建永2(1207)年死去)は無関係らしい。平家物語は建暦2(1212)年以降に成立したことは確実だそうな。
西仏について、ちょっと詳しい解説を見つけた。それによれば、
- 西仏(1157~1241)、僧
- 興福寺では信救と名乗る
- 以仁王の挙兵の際、三井寺から来た回覧板に平清盛批判の返事を書いた
- それで平清盛を怒らせ、北国へ逃亡
- 覚明と名乗りを変え、源義仲の右筆に
- 晩年は法然・親鸞に師事
- 故郷信濃国に浄土真宗報恩院(のち康楽寺)を建てた
- 85歳で死去
- 俗名は「海野通広」
康楽寺の説明板の海野道広の生年とは多少ズレがあり、この記事だと義仲より年下になってしまった。まぁ有名人のことでも「アレこの人、年上だと思ってたけど年下だった???」と混乱する時があるから、昔の人の生年なんかもっと緩い感じになっちゃってそうよねー。
とりあえず色々と深い寺だった。
★★☆☆☆
信州門跡、確かに門跡寺院っぽい雰囲気だったわ。
<康楽寺>
創建年 建暦2(1212)年