今年五月一日は「令和」と書いてあるお菓子を買い、皆で記念撮影をしてみた。
以前、高速飛ばしてたときにナビが教えてくれたお城跡。通りかかったので、寄ってみた。
富士見城跡というらしい。
現在は飯縄山公園というものになっているらしく、人間がウロウロしている。
↓公園の入り口はこんな感じだった。
登ってみた。
なだらかな山だった。尾根伝いに道が続いている。
まず旗塚という盛り土があった。
点々と続いていた。旗を立てた土台らしい。敵に「たくさんの兵が詰めているよ」と欺くために軍事機密というヤツだな。ただ、私はなんとなく、その辺のお店の入り口にあるような、「本日ポイント10倍デー」とか書かれた幟が延々と並んでいるのをイメージしてしまったわ。
↑旗塚は5,6基くらいあった。
↑城郭跡なのか分からないが、美術館があった。
↑この山を高速道路が突き抜けている。しかし騒音は気にならず。うるさくない。
↑北側集落の様子。南側に位置する集落からは150mの急斜面を登らなければならないが、北側集落からは30m程度で登れるらしい。見た感じはそれなりの急な斜面だし、段郭も見えたぞ。簡単には登れないんじゃないのかなー?
↓北側の斜面。桜が植えられていた。桜、まだ若そう。
↓南側斜面。人の手が入っていなさそうな藪。
↓石垣のようなものが、遠くから見えた。
↓5の郭。城の東限とあった。さっきの美術館の敷地はお城関係ないらしい。
5の郭はあまり広くなさそう。説明書によれば、木戸が設けられていた場所と思われるとある。玄関だったって言いたいのかね。
4の郭と5の郭の間にはしょぼい堀切?があった。説明書には「現在残っている部分から、ここにも堀切があったと考えられる」と書かれていた。
遠目で見えていた石垣はこんな感じだった↓
この富士見城がある飯縄山は岩石で出来た岩山で、石が豊富だそう。そのせいなのか、郭の区画は石積みで区切られているという。しかも飯縄溶岩という名前の、市内ではこの山でしか採取できない特殊な石がゴロゴロしており、それを使っているとあった。時代考証的にはおかしいらしく(当時は石垣組める技術が低かったらしい)、どこまでがお城の石垣として作られたものか城域を特定するのが困難な状況です。なんて書いてあったよ。
まあ、築城当時の石垣かどうかは分からないが、この石垣も古そうだぞ。
4の郭、5の郭と書かれたプレートがある辺りも、よく見たら石垣っぽい。
↓4の郭と5の郭の間の、推定堀切
↓4の郭の中
↓東西に土塁があった
4の郭の次は主郭のようだ。
橋が渡してあるぞ。
富士見城最大の堀切があったよ。
こんなところにも石積みが。
主郭到着後、振り返って堀切を見たよ↓
主郭をぐるっと取り囲むように、石積みが並んでいる。
主郭からの見晴らし。非常に良い。
とにかく主郭を一回りしたよ。
1周では飽き足らず、更に周回。
それほど広くはないけれど、斜面が急だった。南側は石積みがある分、落ちたら頭を岩にガコンガコンぶつけて最悪死ぬんじゃないの? という感じ。骨の1,2本はやっちまいそうだ。北側は段郭らしきものが続き、落ちたところで軽い怪我だけでなんとか済みそう。
↑この階段下も主郭らしい。説明書きには「東側の一段高い郭と西側に続く長方形の郭
が本城の中心です」とあった。
堀切4に到達。相当浅い。ここで主郭が終わる。
またもや石積みが。大雑把な感じする。大きな岩で、持ち上げて積んだだけで満足しそう。これでも凄い技術だったのかもしれないけどさ。
2の郭↓
2の郭と3の郭の間には危ないモノがあった。
石塁だってー。1m程と書いてあったけど、だいぶ崩れている。これも適当に積んだだけ感がある。
この石塁の向こう側が3の郭になるようだ。
富士見城の中で一番広いらしく、この郭を取り囲むように3m程の石垣があるそうだ。上からはもちろん見えないと思う。
富士見城という名前でも想像つくけど、ここから富士山が見えるらしいぞ。いい天気なので見えるかしらねー?
いたよー!
本当に見えるもんなんだな、と感心した。「富士見」と名のつく場所で富士山見たの初めてかもしれない。
本郭と2の郭と、崖が見えた。石垣多いねー。
一番広い郭ということだが、ベンチが申し訳程度に置いてある程度で何もなかった。3の郭の下から遊歩道があり、お城の入り口まで続いているようだ。この遊歩道を辿って帰ろうと思う。
3の郭を取り囲むという、高さ3m近い石垣というのがコレ↑なのかな? この角度から見ると立派だわ。3の郭から下は段郭が半円状にたくさん連なっているようだ。
遊歩道は3の郭から主郭に沿った段郭を利用したものらしい。お城見学用ではなくバードウォッチング用とか景色見るための歩道のような名称だった(看板があったけど、詳しくは覚えていない)。
遊歩道から見上げればゴツい石垣群が。
こういう山の中のお城では珍しいわね、確かに。説明書きでも「本当にすべてお城築いた時に造られたものなのか怪しい」とあったが、じゃあ後年ココは何に使われてたんだろう? と調べたところ。小諸市が平成8年にここを発掘調査したときの調査報告書を見つけた。
どうやら、畑になってたらしい。調査報告書では「遊歩道から見える石垣はお城と関係が無い、耕作用の畦石垣と土砂崩れ防止用の石垣だった」と結論づけられていた。江戸時代には畑になっていたようで、大豆・麦などの雑穀や桑が栽培され、明治以降は主に桑畑と化していたようだ。調査報告書はほぼ石垣の件ばかり語られていた。というか、調査箇所が石垣のみだった。
石垣もお城に関係ないとはいえ、こういう雰囲気は格好いいよねー。ちなみに、遊歩道回り以外の石垣(郭を囲む石垣や石塁)は調査していないようだ。
説明書きには、
- 戦国時代の終わり頃には存在していたと考えられる
- 当時は城(戦闘用)と館(生活用)と別れており、この富士見城も常時人が生活していたものではないと思われる
- 天文年間(1532~1554)、武田氏が佐久地方統括の拠点とした小諸鍋蓋城(小諸城の前身)の支城として整備され、ある程度の石垣はこの時期に積まれたと考えられる
- 天正壬午の乱では徳川方の武将・柴田康忠が布陣したと言われる
と書いてあった。
一方、調査報告書のお城概要では、
- 佐久地方の城塞の大半が応仁・文明の乱以降であることから、富士見城も15世紀後半に築かれたと考えられる
- 築城者は当時の佐久地方の支配者、大井氏の誰か
- 西方からの脅威(村上氏)に対する備えとして、小諸城の大遠見城(監視用の城)として築かれたようだ。
- 築城から約100年後の天正壬午の乱で、徳川氏の将・柴田七九郎康忠が一時居城したという地元の伝承がある
- 柴田七九郎は天正11(1583)年に徳川家康の命を受け、大井行吉攻めを行った依田信蕃の軍監(家康から派遣された監視役)を務め、天正13(1585)年の第1次徳川・真田合戦でも出陣した
と説明されていた。多分、調査報告書の方が信用できるかなと思う。
柴田七九郎康忠さん
依田信蕃さん
- お父さんの芦田信守の時代に武田氏家臣となる(元々は大井氏の家臣だったが、幼少の信守が生け捕られた挙げ句、脅されて武田氏家臣になったようだ)
- 芦田信守は二俣城の城代となり、子の依田信蕃も一緒に入城
- 長篠の戦い直後の二俣城攻防戦で籠城(籠城中に病気療養中の芦田信守が亡くなる)し、ついに城を落とせなかった徳川家康から城兵すべての安全な退却を約束させた上で開城、依田信蕃以下武田軍は撤退
- その後は田中城の城代になる
- 天正10(1582)年、織田信長が甲州討伐を開始、田中城も家康に攻められるが、またしても籠城
- 武田勝頼の自害の連絡を受けて、ようやく開城
- 織田の武田氏残党狩りを警戒して、家康が依田信蕃を自領に匿う(家来になった?)
- 本能寺の変が起こると、織田の重臣・滝川一益の逃亡に手を貸す
- その後信濃国に攻めてきた北条家と戦う(主にゲリラ戦)
- 徳川の援軍を得、その後徳川氏が有利な条件で北条氏との講和が成立しその功績で小諸城代になる
- 元々の主君筋・大井氏が邪魔をするので、攻めることになった
- 簡単に落とせると思ったのに苦戦し、結局戦死した(享年36)
大井行吉さん
- お父さんの代から武田氏に仕える
- 長年、武田氏の元で活躍する
- 武田氏滅亡~本能寺の変の間には(多分)埼玉県内にいたらしい
- 本能寺の変のあとに北条家に下り、地元に帰してもらった
- 岩尾城に戻り、討伐にやってきた柴田・依田軍と戦う
- 依田信蕃を討ち、柴田康忠の説得に応じて開城し、群馬の保渡田村に行く
- その地で没する(享年43)
最初の駐車場に戻った。
★★★★★
整備されていて歩きやすいし、何より(後年のものとはいえ)石垣が良かった
<富士見城>
築城主 大井氏
築城年 不明