懐古園に来た。お目当ては流しアジ。
ここもお城で、城内に動物園があり。そこのペンギン達が流れてくるアジを食べる、それを眺める、というイベントのようだ。イベントタイトルから全く想像できなかった。ジャケ買いしたCDをこれから聴くみたいな心境で、ドキドキしながらペンギン舎の前で2時間前から待っていた。
しかしすぐに飽きた。頑張って子供免許証の列に並ぶとか、他の獣舎を見るとかしたけど難しいわ。そもそも自分が大人しく順番待ちするなんて嫌いだしな。
この動物園自体は小さく、細長い。ペンギン舎から離れるとイベント開始直前には人だかりが出来ているだろうし、戻れなくなりそう。このままじっとしていたい。
我々は忍耐というものを学ばないといけないね、などと言いつつ。結局徘徊した。
動物園は細長い郭?の上にあるらしい。両脇は崖。
以前も(多分)来たことがあるはずだけど、動物園自体の印象は薄い。ライオンとかいた。オリジナルの萌えキャラもいるらしく、そこら中にかわいらしいイラスト看板が立っていた。
流しアジの用意をし始めたので、慌てて戻り、なんとか前列を確保したぞ。
アジとアヒル隊長をランダムに樋に流し、ペンギンたちがアジとアヒル隊長を見分ける様を眺めていたよ。
途中、おうちに帰るペンギン(生まれたての雛がいて気になったらしい)や樋以外からアジを掠め取るペンギンもいて、自由にやっていた。
ここの動物園は大正15(1926)年開園で、長野県最古の動物園らしい。日本国内でもどうやら7番目に出来た動物園みたい。敷地の関係で多分リニューアル難しそうだし、開園したときの姿に近いままで現在までやってそう。旭山動物園みたいなイマドキ感ない、私が子供の頃の動物園はこんな感じだった。
動物園と懐古園は繋がっていて、同じ入場料で行き来し放題。せっかくなのでお城も見るよー、と子供に言ったら、嫌な顔をされた。
小諸城の前身は長享元(1487)年、大井光忠という人が築城したらしい。その後、東信の支配拠点として武田信玄が改修、安土桃山~江戸にかけて仙石秀久という人がきて近代的なお城に改築したようだ。仙石秀久は最近よくマンガの主人公になってる人という印象しかない(名前ぐらいしか知らない、大体よそ様のサクセスストーリーに関心が無いよ)。
なんか、イケメン?らしい。経歴は、
- 豊臣家の出世頭
- 九州で大失敗をして敵から臆病者と罵られ、領地没収され失脚
- その後小田原攻めで功績を挙げたので、小諸領をもらい大名に復帰
- 関ヶ原の戦いやその後もそつなくこなして、江戸時代には願譜代(譜代大名格)
- 小諸城に石垣や天守閣を建て近代的に改修しつつ、領内の開拓事業を開始するが、その費用捻出のため重い年貢を取り立てたところ農民がかなり逃げた
- 豊臣家臣だったのに徳川家にも重用された
どうやら相当優秀な人のようだ。もし自分の身近にいたら(最期くらい不幸にならんかなー)ぐらいは思いそう。
小諸城、石垣があっても大体がこんな感じ↑の断崖絶壁で成り立っている印象を持っていた。日本で唯一、一般人が住む市街地より下にあり別名「穴城」というそうな。変な城だけど武田信玄がわざわざここを拠点にしたぐらいだから、かなり攻めにくいのかもしれない。
動物園側から入ったので、動物園の奥へ進む。ちなみに懐古園の内訳は本丸・二の丸で、大手門(正門、現存)と三の丸(今は小諸宿本陣だった建物の一部が移築され公園化しているらしい)は敷地外。多分、三の門もギリ敷地外。動物園もお城の一部なのだろうけど元はなんだったのやら…見つけた小諸城の古地図の文字が達筆すぎて読めない。御城の米蔵かなー?
動物園内のしだれ桜は満開だった。
動物園と本丸は「白鶴橋」という雅な名前のコンクリ橋で結ばれている。下は谷で天然の空堀の役目をしていた。
本丸側も桜の木がたくさん。桜の花はほぼ咲いていない。まだ花見には少し早い。公園内の爺さん達はそんなこと気にせず、楽しげだった。よく見えないが、どうせ酒盛りでもしてるんじゃないのかね。
ここは昔、馬場だったらしい。
今も馬いるし。
本丸の石垣。上には大和守安定さん、加州清光さんと思われる方々がいた。
この先は本丸になる。天守閣のあった天守台は反対側で、もうなんかいいやという感じで行かなかった(子供に嫌がられた)。天守台石垣は約7.5mということで、ここの石垣高さはそれよりも低いのかな?
石垣の上に登れるらしいが、コスプレ撮影中なので気まずいし止める。
現在本丸には懐古神社があった。ここの氏子さんになる資格が(藩主が牧野氏だった時の)小諸藩士の御子孫かつ小諸市内在住者のみというのが珍しいらしい。御祭神も牧野氏の歴代藩主の御霊とお城の鎮守神だった天満宮・火魂社(火之迦具土命)だそうで、一般人が氏子になれないのは仕方なくね? と思う。
↑元は小諸領の境界に置かれていた石柱。この他にもう1本あり、それぞれ軽井沢町(追分の原)・立科町(笠取峠)に置かれていたそうだ。
懐古神社の鳥居=本丸入り口っぽいな。
鳥居の外には↓お駕籠台という場所が合ったので。ここからお殿様とか偉い人が駕籠乗り降りしてたんかね。
懐古神社についての説明板があった。
- 明治4(1871)年の廃藩置県の後、明治13(1880)年に荒れ果てた小諸城跡を「懐古園」として整備することになった
- その際、本丸東北に城の鎮守神として祀られていた「天満宮」「火魂(荒神)社」、藩主牧野公歴代の合祀した懐古神社を創建
- 「天満宮」=菅原道真公(学問の神様)、天満宮は天正12,3年頃に当時の城主・松平康国が城内の空堀を改修していたところ、地中から光る天神様の木像を発見し、以前からあった「火魂社」の隣に安置した
- 「火魂(荒神)社」=火之迦具土命(竈の神様)、小諸城を最初に築いた大井氏が城の鎮守として紅葉ヶ丘に祀っていた
紅葉ヶ丘というのは、本丸と北谷の間にあるようだ。馬場跡は桜の木がたくさん植えられているが、本丸の北側は紅葉の木が多いらしい。
その他として、神社境内には以下のようなものがある
- 天守台、寛永6(1629)年落雷により焼失
- 神代桜、天然記念物、樹齢350年、松平憲長(松平憲良?)公お手植え
- 鏡石、小諸城を縄張り(設計)した山本勘助愛用のもの
- 懐古園の碑、題額は勝海舟の書
- 牧野康満公の句碑、牧野氏第五代藩主
- 左甚五郎作 喜内様・阿福様の像、将軍家から下賜された喜内(徳川家光)様と阿福(春日局)様の木像、以前は神社内に安置されていたが現在は徴古館にある
説明板には松平憲長公と書かれていたが、「松平憲良」という名前が正しいらしい。寛永元(1624)年から正保4(1647)年の間に神代桜というのを植えたらしい。現在だと、樹齢400年弱ぐらい? 品種はなんだか分からないや。徳川家康の異父弟の松平康元の嫡孫に当たる人物だが、若くして亡くなっており、この人の代で無嗣断絶となってしまった。残念。
左甚五郎作の木像2点、将軍家から下賜とあったが、もらった人は松平憲良さんじゃなかろうかね? 時代的に。将軍家にも近い家だったせいか、後に再興されていた。
小諸藩は、仙石氏→廃藩(甲府藩所領)→久松松平氏→廃藩(天領、管理は松本藩)→青山氏→酒井氏→西尾氏→石川松平氏→牧野氏→廃藩置県 という変遷を辿っており、元禄15(1702)年からの牧野氏時代になるまで、小諸領内が安定しなかったらしい。約100年で8回も領主が変わるとか。初代の牧野康重さんは元々1万石の零細藩主だったが、桂昌院の義理の甥に当たる(綱吉の義理の従兄弟)というコネで、特に何か良い仕事をした訳でもないのに栄転してきたらしい。小諸藩の格式は5万石並だったのに、人様からの妬み嫉みを受けないよう、小諸藩の表向きの石高を1万5千石としたようで(実質3万石以上だったみたい)、低い格式だから諸々の諸経費は安くあげられることになった。また、領地経営にも代々熱心で、最終的に石高を9千上乗せすることに成功。小諸藩士は下級武士も一軒家を持てたとか、廃藩置県の時だかの精算で黒字だったとか、裕福な藩だったそうな。旧藩士達が藩主の牧野公を崇め奉って神社も作っちゃうのも分かる気がするわ。
この日の午前中は富士見城にいたので、近代的なお城・石垣に驚いている。富士見城の素朴な石垣とは全然違うよ。
黒門跡。別名・一の門。
黒門と本丸の間、虎口の北側が紅葉ヶ丘という場所らしい。お城の鎮守神はこんな場所にいたのか。ちなみに堀は紅葉谷という名前を付けられているっぽい。
一番攻められそうな箇所のようで、堀がものっすごく深い。小諸城はこの場所が一番狭い感じで。この場所を起点に奥へ三角形の形で広がる感じ。ココさえ守ればなんとかなりそうなお城でもある気がする。
堀にかかる橋、昔は可動橋で取り外し可だったようだ。
黒門跡から歩いて行くと、南の丸・北の丸が向かい合わせで出てきた。
南の丸は石垣の上にあり、桜の木が植えてあるらしい。北の丸は弓道場になっていた。
鶯石という石が、藩主の通行の際などに鳴いたそうだ。どういう仕組みか分からない。
中仕切り門跡。その名の通り、一の門と二の門の間を仕切る門? 小さな門だったようだ。
↑御城の番所跡。いくつか石碑が建っているけど、皇族が来た記念碑のようだ。
更に行くと、二の丸跡。ここは上田の真田氏と戦った時、徳川氏が本陣を置いた場所らしい。天正13(1585)年・慶長5(1600)年の両方ともココ。ここから上田城まで攻めに行ったのかよ遠いじゃん! と思いました。
例によって階段は上らず。
二の門跡到着。
ここの角を曲がれば。
三の門がちらっと見える。
↑三の門側から二の門をのぞむ。
先がどうなっているか分からない感じに、ちゃんとなってるー。
二の門と三の門の間、水櫓跡というものがあった。水車があり、下の川から水をくみ上げる給水所跡だそうだ。
三の門到達。ここから線路をくぐり、大手門へ向かう通路があった。
そんなところへはもう行かないよ!
三の門の近くのお土産屋さんなどのお店群を抜けていくと。北谷と呼ばれる、深い天然空堀を越え駐車場に至る。とにかく谷(空堀)が凄い。ほぼ浅間山の作った天然地形のままじゃないかな? 火山ヤバイ。
★★★★★
意外とお城の近代化改修に無理矢理感なくて良い
<小諸城>
築城年 長享元(1487)年?
築城主 大井光忠?