千曲市の観光サイトで、智識寺の紫陽花が見頃です! などとあったので。通称「あじさい寺」と呼ばれるほど、このお寺さんは有名だったらしい。
私は自然の美しさ・雄大さに関心が低く、花とか景色を目当てに出かけることは皆無。その辺の里山に獣道を辿って登り、遠くから時折聞こえてくる車の音を聞きながらぼーっとする、病んでる行動はたまにする。しかし「国立公園の○○渓谷の水芭蕉を見に行く」とか「滅多に人が来ない山奥の渓流で川遊び」とか、多分やらない。とにかく人工物がない場所は嫌い。
紫陽花には興味が無い。紫陽花は口実で、このお寺さんは「構え屋敷」という館の跡地だというから来たのだ。残念ながら、うちの家族はこの事実に全く気付かず。
智識寺自体は凄いお寺さんらしい。仁王門が茅葺き。デカい草鞋が置いてある。そして立派な「国宝 大御堂 文部省」という石碑。明治40年8月28日に国宝指定と石碑が言っている。現在は重要文化財となっている。格下げされたのではなく、昭和4年まで国宝だったモノ=現「国の重要文化財」。現「国宝」は一旦、重文指定された後、新たに国宝として格上げしたという経緯だそうな。ややこしい。
仁王門を抜けるとこういう感じ↓
雨が降っているので、より良い感じに。木も太くて生命力に満ちあふれて参道のコンクリを壊そうとしている。
紫陽花↓
旧国宝指定の大御堂↑
紫陽花よりも気になったのがこれ↓
やたら東京都内の地名が出てくる。
大御堂は現在、国の重要文化財に指定されているようだ。御本尊の十一面観音像も昭和12年に重文指定を受けていた。
智識寺大御堂は
- 真言宗智山派に属する
- 正式名「清源山智識寺」
- 本尊は十一面観音
- 本堂は桁行4間・梁間3間、寄棟造り、茅葺き
- 前の1間を外陣、後ろを内陣とした禅宗様式の仏堂
- 室町時代末期の天文10(1541)年に再建
- 慶長14(1609)年修理したという棟札があり、この棟札も昭和30年に追加指定された
木造十一面観音立像(御本尊)は
- 大御堂の本尊
- 高さ3m
- 一部別材を薄く矧ぎ付けているが、基本は欅1本から彫りだしている
- 内刳りなし
- かなり荒く彫られていて、あちこちにノミ跡がある
- 木像の特徴から、平安時代後半の作品と考えられる
この他、千曲市指定の文化財の仏像2体と仁王門・金剛力士像、史跡(古墳)の釜屋一号墳(釜屋二号墳もあったようだが、破壊されたらしい)、天然記念物の木が120本もあるそうだ。
茅葺きもやけに綺麗だなと思ったら、平成29年に葺き替えられたばかり。仁王門の茅葺きは苔むしていたけれども、大御堂の茅葺きはまだ苔が一つも無いっぽい。
そして、青銅の香炉にも「東京 上山講」とあった。微かに良い匂い漂わせている。
ぐぐってみたら東京には「上山講教団」という施設があったけど、ここのお寺さんの「上山講」と何か関係あるんかね?
お寺さんの敷地は広い。紫陽花はまだまだたくさん植えられていた。
構造が若干複雑で、ちょっと迷子になる。一旦、仁王門をくぐり外へ。改めて別の入り口から入ると、公園が↓
智識の杜公園というらしく、こちらもお寺の境内のようだ。
道があったので進む。
広いところに出た。ここも少しづつ紫陽花の苗木を植え増やしているようで。最終的には紫陽花で埋め尽くす計画なのかもしれない。
智識寺は天平12(740)年、聖武天皇の勅願により創建と言われ、大同2(807)年には坂上田村麻呂が堂宇を改修したと伝えられている。元は別の場所(冠着山の麓)にあったようで、現在地に移転したのは慶長14(1609)年らしい。以前は「構え屋敷」または「釜屋のタテ(館)」というものがあったと言われている。誰の屋敷かは不明。
このお寺は四十八曲峠という奈良時代からの古い道沿いにあり、館置きたくなるような交通の要衝にある。「構え」という名前を与えられているから、街道の監視小屋だったんじゃないかと思う。「釜屋のタテ」の釜屋が謎で、カマエ(構え)が訛ってカマヤ(釜屋)なのかね。智識寺境内の古墳の名称も、ここから来てるのかも?
お寺自体の歴史がとても煌めいており、屋敷の話はほぼ出てこない。
- 天平12年、聖武天皇の勅願寺
- 大同2年、坂上田村麻呂が堂宇改修
- 本尊の十一面観音像は平安時代後期の作品、(伝)行基作
- 建久9(1198)年、源頼朝が七堂伽藍を建立する、仁王門・仁王像も寄進?(寺号が智識寺と定められた?)
- 室町時代には、村上氏歴代の庇護を受ける
- 室町時代末期、大御堂を創建
- 天正11(1583)年、法華寺に代わり別当寺(周辺の寺社を配下に置き管理する寺)となる
- 慶長14(1609)年、現在地に移転
- 江戸時代を通じて、松代藩主真田氏の庇護を受ける
- 文政年間(1818~1830)、大御堂の大改修
そういや、大御堂のところ真田氏の家紋あったわ。
もう一つは五三の桐だった。勅願寺ということになってるから?
ものによっては、「現在地に源頼朝が七堂伽藍・仁王門を建立」とあったりして、移転時期がよく分からなかったりする。仁王門も仁王像も室町時代初期~中期と推定されているので、頼朝関係なさそうだわ。慶長14年移転だけど、現在の場所に別のお寺があったのか? 智識寺の本堂は冠着山の麓にあったが智識寺の僧侶の生活の場が現在地だったのか? こんがらがってきたよ。
てか、鎌倉時代初期に伽藍を建立したなら、構え屋敷はもっと前に存在していたのかな? 古代から道があるので、あってもおかしくないけどな。古墳もあるから集落あったかも。大昔の豪族の館を改造→伽藍とした、なんて流れなのかねー? 豪族の館の中に僧侶用の伽藍を作っちゃった可能性もあるんだろうか。
子供が虫ごときでギャーギャー騒ぐため先へ進めず、戻った。
また境内の外へ。
昭和50年とか書かれている、やっぱり東京の地名だ。「講」は信者集団のことだと思う、数十年前まであちこちに信者を抱えていたようだ。全国規模で信者がいたらしく、特に関東(東京)方面には智識寺詣での講が多数あったよう。この玉垣の寄進者名からなんとなく分かった。
また新しい入り口を見つけた。国宝観音参道入り口。
歩いて行くと、大御堂の裏に出た。
お寺さんの凄さは分かったんだけど、館跡っぽい部分は全く気付かなかった。古代豪族の館跡だとしたら面白いけど、発掘でもしない限り確定出来ないだろうなー。
★★★☆☆
紫陽花が綺麗だった、楽しかったと子供は言っていた
<構え屋敷>
築城年 不明
築城主 不明