お城めぐり

ちびっこ同伴で気軽に行けるお城(+神社仏閣、古い遺跡)の記録。ちびっこ連れでの個人的な感想と難易度を★であらわしてみました。

南向塚古墳

南向塚古墳は、ある幹線道路沿いに残る古墳。その幹線道路というのが常に混雑しているウンコ道路で私は苦手。

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開けた場所にあるので、目敏い人ならすぐ分かっちゃう。

wikiによれば、

  • 長野盆地唯一の、平野部にある古墳(長野市内の古墳、大多数は山頂・山麓にあるらしい)
  • 2017年現在、付近の芋井神社(写真の右側に見える神社)が所有
  • 長野市の史跡

であるという。周りは住宅地・商業施設が多いのに、よく壊されずに残っていたよなぁというのが私の感想。何やら伝承があるらしく、wikiにごちゃごちゃと書いてあった。

  1. 孝元天皇の皇子・少名日子建猪心がこの地を開拓に来たが斃れ、葬られた場所(王塚と呼ばれ、社殿も建てられた)
  2. 上杉景虎川中島の合戦時において築いた砦
  3. 上杉景虎が弘治元(1555)年の第2次川中島合戦で戦勝祈願をし、金を寄付して社殿など綺麗に直した
  4. 川中島合戦の首塚
  5. 天正壬午の乱上杉景勝が勝利を祈願し、願いが叶ったので甲冑を奉納

古墳を壊さない方が良さそうな内容が多い。

1に関しては、そもそも孝元天皇が欠史8代の一人で実在が怪しく、その子供の少名日子建猪心という人も業績が残されず怪しいとのこと。しかし、「少名日子建猪心=卑弥呼」説を唱える書籍を発見し、少し興奮した。卑弥呼は長野で死んでるかも!

2と3は、三国一のイケメン上杉景虎関連の遺跡ということでウキウキする。しかし三郎君が上杉謙信の養子になり「上杉景虎」という名前を貰ったのは元亀元(1570)年ということで、弘治元年の第2次川中島合戦には従軍していなさそう。川中島の戦いも永禄7(1564)年の第5次以降起きておらず、上杉景虎氏は「川中島合戦」のどれにも参加していないし、この地に砦を築く必要もなかった御様子。これは個人的に残念です。

4は平成8(1996)年の長野市史編纂事業のために発掘調査した結果、古墳とするのが妥当と結論づけられたので、首塚説はほぼ否定されている。

5については、考えることを放棄した。

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見た感じ、桜の木で埋め尽くされている。この付近では桜の名所としても有名らしい。入り口が分からない。頂上に社が見えるのでどこかからか登れるはず。

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古墳の周りをぐるっと回ってみた。

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この周りは原っぱ(しかも手入れされている)、古墳を中心として公園整備される予定があるようだ。古墳の周りは以前水田だったらしい。

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道が見えてきた。この古墳、少し変な形をしている。最初に見たときはちょうど真後ろだったせいか、円墳かと思った。歩いてみれば細長い?

長野市が行った測量では

  • 全長46m
  • 後円部
    • 直径33m
    • 高さ4.8m
  • 前方部
    • 長さ13m
    • 幅8m

とのこと。前方後円墳としているようだ。ただし、前方部のサイズ感がだいぶおかしいと疑っているみたいで、「未発達な前方後円墳」・「帆立貝形古墳」・「造出付き円墳」の3つで少し迷っているらしい。

 

帆立貝形古墳は、「円墳に方形の造り出しがあるもの」「前方後円墳の前方部が短小化したもの」の2種類に分類されるという。「造出付き円墳」=「円墳に方形の造り出しがあるもの」なんじゃないかと思うが、別物なのかね。専門家には明確な基準があるんだろうな。

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小道が芋井神社から続いているようだ。芋井神社に関しては、

  • 創建年代不明
  • 正和年間(1312~1317)には南向塚古墳の頂上と若宮にあった2社を、天文年間(1532~1555)戦火で失われたために1社にまとめ現在地に建立
  • 産土神
  • 元は諏訪社と呼ばれていた
  • 祭神は「南方止売命(女神)」「南方刀美命(男神)」
  • 明治13(1880)年、芋井神社に改称

元は諏訪社だったという位だから健御名方神夫妻を祀っているんだろうなと思うが、奥様の方が主祭神になっていた。芋井というと長野市の山奥の地区を思い出すけど、古代は現在の芋井地区、安茂里や善光寺や三輪、この辺りまで「芋井郷」という一つの地区だったらしい。ひろーい。

 

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現在の南向塚古墳には観音堂が建てられている。芋井神社ができた後の元禄10(1697)年に建てられたようだ。納められている観音像は享保4(1719)年の銘がある石像、明治時代の木造の二体らしい。馬頭観音だそうな。

宝暦9(1759)年に描かれた南向塚古墳の図が見つかり、それによれば現在の古墳の形と一緒であるようだ(1759年以降改変されていない)。

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長野市が史跡を示す色々な看板を立てていた。その中には「保存樹木」の看板もあった。内容は桜の木が40本ある、保存している、大事にしろ。だった。こんな狭い古墳内に40本もあるのか、密集してるけど全員元気なのか。桜の木の下には死体が云々という話は本当で、死体から養分を吸い取っているから元気なのかも。

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内部構造は不明で、副葬品も今まで残っているものが瑪瑙の勾玉1点。明治期に編纂された地域史には「出土品があった」ようなことが書かれているらしいが、どうやら現代までモノは残されていない感じ。昔から知られている古墳だというなら未盗掘の可能性は低いかなー?

古墳の築造年代は6世紀前半と推定されている。

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帰り道、基礎っぽい石を見つける。

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鳥居の残骸かしら?

 

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★★★★☆

「南向公園」平成31年度完成予定→今年5月ついに本格始動?

 

 

 

 

<南向塚古墳>

築造年代 六世紀前半