現在の中條埴志那神社の場所に昔、寺尾氏の館があった。江戸時代に入る前後で館は廃止されて、今の神社がお引っ越ししてきたのだろうと思う。
【信濃国埴科郡檞原庄中条宮弁財天由来記】にはやけに具体的な地名・人名が登場したことが非常に気になり。これもしかして場所特定できるんじゃね? と色々考えてしまった。
文書中では中條の地は7~8町ほどの藪だとあった。中條のヒントとして「小鮒沢・鰐沢という二つの川に挟まれる」があった。鰐沢はぐぐったところ、「関屋川」と呼ばれた川が昔は鰐沢という名前だったようだ。
現在の関屋川↓
川筋を付け替えて流れを変えられてしまった。今は一部残された(松代町内の泉水路の維持の為らしい)ものの、川としては死んでしまっている。上流の方で藤沢川という川と合流させられてしまった。グーグルマップを航空写真で眺めたところ、皆神山の麓にある某日帰り温泉施設の辺りで流路が切り替えられていた。関屋川(鰐沢)跡地は現在は道を作っている。
道は途中で、工事はまだまだ何年もかかるらしい。松代という場所は湿地帯だか沼地だかで、とにかく地盤が緩いそうだ。特にこの道の先は水が溜まりやすい場所だとかで中々進めることが出来ないとか聞いた。
道筋=本来の関屋川の川筋。関屋川がどこへ向かっていたのかというと。
中條埴志那神社付近である。この辺りが蛭川との合流地点だったようだ。地区によっては関屋川を蛭川とも呼ぶそうだが、基本は藤沢川と関屋川が合流してから蛭川と名前を変えるらしい。
関屋川跡地にはお移りになったばかり? の石碑達が。
養蚕の神様。
道祖神。
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↑この石碑の裏は「文化7年3月」という文字に寄進者らしき人々の苗字が彫られていた。何の石碑なのやら? 文化7年=1810年。
もう一つの川「小鮒沢」はわりと簡単に見つかった。現在も小鮒川という名前だったからだ。
↑小鮒川
これも「関屋川」とも呼んでいたらしい。
このしょぼい川に材木流すとか大変そう。
この辺りで電話の実験をしていたらしいよ!
この小鮒川もたまに悪さをしたらしく、何十年か前に荒ぶったとかで治水対策され、現在は暗渠となってしまった。しかも、地下に大きな排水溝みたいなのを埋め込んでおり、鉄砲水とか出ても地上の家々を壊さない仕組みがあるそうだ。東京・渋谷の地下貯留槽や放水路みたいなのが埋まってるのかねー?(当然、松代町の方がずっと規模が小さいだろうが)。
現在地↑から小鮒川を追いかけてみた。
↑この辺りから、小鮒川は道を離れて、家と家の間を縫うように進んでいくらしい。追いかけられなかったよ。グーグルマップでそれらしい川筋を追いかけていくと、長野IC辺りで蛭川と合流しているみたい。蛭川はその先で千曲川にぶつかる。
なので、「中條」という場所は松代町の東エリアだと思われる。
左の青線:小鮒沢 右の青線:鰐沢
江戸時代以前のものはなさそうだったが、古い地図はこんな感じだった↑
(実は伊勢社もあったけど、祭神からしてあり得ないので描いていない)
梅観音は神社というよりこの当時から史跡の扱いをされていたらしく、神社の記号すら描かれていなかった。
地図を眺めていて、その間にある神社を探す。怪しいのがいたよ、祝神社だ。
祝神社は慶長3(1598)年、海津城の二の丸に祀られていた健御名方神・八坂斗売神の2神と、松代町東条の古い神社(創建年不明、祝神社であるということになっているが、式内社の「祝神社」は現在の須須岐水神社であるともされ、いつもよく分からなくなってくる)から生魂命を勧請し、創建。現在地に祝神社?の里宮があったとも言われる。当初は諏訪大明神と呼んでいた(今もお諏訪さんと呼ばれている)が、宝暦元(1751)年に祝神社と改称。
中条宮弁財天由来記は慶長4(1598)年に作成されている。祝神社の創建と関係あるのかしら?
祝神社はこんな感じだった↓
左:諏訪社(本殿) 右:宗形社(弁財天)
中条宮弁財天由来記の御祭神と一緒である。一緒に祀られている神様も多々いらっしゃるが、池の中に造営されているのはこれだけ。あと、主祭神のはずの生魂命がいなくなっている。どこ行った!?
諏訪の神様と弁天様は池の中にあり、他のお社は境内に散らばっている。
拝殿は文化9~12(1812~1815)年に再建されており、弁天社の覆屋は比較的新しいものらしい。
弁天社だけが何故池の中にあるのか聞いたが、さぁ?と返されてしまい、色々探したけど理由は分からなかった。弁天様は水の神様だから?
この池は錦鯉も泳ぐ立派なものだった。
本殿と宗形社の並び的に、弁天様はこの神社でかなり重要な地位の神様じゃないかと思うのだが…境内の案内看板でもサラッと紹介されているだけで、何か残念よ。
この神社が出来た当時は例の文書の内容も偉い人みんな知っていただろうし、霊験豊かな神様を城下に招いて(この場所に元からいたかもだけど)守護神になってもらいたいよねえ?
地図上の、諏訪大明神と同じ敷地内の「練光寺」というお寺さんは慶長13(1608)年、祝神社の別当寺(神社に付属して建てられた寺院)となり松代町東条より移築された。
→慶長13(1598)年移築、このときお寺の名前を練光寺に変える
→明治24(1891)年火事で焼失(廃寺)
→蓮光寺跡地に建てられた等覚院が練光寺の色々を継ぎ、等覚院から東光寺に改名
→現在
という流れらしい。
東光寺は蓮光寺~練光寺時代の文書や仏像を受け継いでおり、中には長野市の指定文化財になっているものもある。そして、このお寺さんには「中条宮 弁財天坐像」という仏像が伝わっている。
この仏像は文化財の指定を受けていないものの、大変古いものらしい。室町時代に遡る佳品で、東光寺への伝来は不明と紹介されていた。底には上田別所などと書かれているそうな。
ちょっと! 名前がまんまじゃないの。
ますます、祝神社が文書のありがたい弁財天様がいらっしゃる(いらっしゃった?)神社じゃないかと疑惑を深めたが。
残念なことに、古地図上にいた。
2つの川の間といえば、間よね…。
↑このあたりが 「中條 諏訪大明神」と地図上に描かれていた場所で、今は何も無かった。お墓があった(中には神道式のようなお墓も)が、そのお墓は文書を書いた宮司?と同じ苗字が彫られていた。
地蔵峠に向かう旧道っぽい。
ちなみに、文中で弁財天が現れたという「多田山」がよく分からなかったのだが、松代町には多田越えという場所があり、現在の象山配水池あたりを言うらしい。離山か象山を「多田山」と呼んでいたのだろうか。ちょっと探せなかったわ。象山には清野氏配下の西条氏のお城がある。
やっぱり個人的には中條宮=祝神社だと思うわ。誰か教えて下さい。
<祝神社>
創建年 慶長3(1598)年
御祭神 生魂命
八坂斗売神