ここのところ全く、山の中をうろつけない。里山の獣道を辿り、尾根沿いの景色の良い開けた場所まで登って、遠くの方から聞こえてくる車とかの音を聞きながら、私は独りぼっち。としんみりしたい。常に誰かいる環境、人間がギャーギャー騒いでいる生活していると苛々する。ぼっち生活に戻りたくて仕方ないわ。
以前登った寺尾城の主・寺尾氏の館跡をスルーしちゃったので、行ってみた。中條埴志那神社という神社の辺りがそうらしい。寺尾氏館というのか寺尾屋敷というのか、館をどういう名称で呼んでいたか知らないが、館の名残として「屋敷」「北堀」「金堀」という地名で残っているとのこと。
実際、寺尾氏なんてマイナーな豪族の館跡(城跡なら趣味の人もいるだろうけど)に関心を持ちにくいと思う。なので、寺尾城跡には案内看板もあったのに、館跡付近には一切ない。
中條埴志那神社に関しても、特に由緒や御祭神について書かれた看板もなく。家でぐぐったりしてみたけど、どんな神様をお祀りしているのかさっぱり。
ただ、「続群書類従」という江戸時代の国学者の塙保己一という人が企画(途中で本人が亡くなったため、弟子達が志を継ぎ刊行)した古文書の資料集みたいな奴に、
【信濃国埴科郡檞原庄中条宮弁財天由来記】中条埴志那神社の末社弁財天社の由来書
というものが収録されているようだ。
群書類従は塙保己一が集めた古文書を元に編纂、41年かけて世に送り出した666冊のシリーズ本。続群書類従は続と銘打っていながら、群書類従の倍ほどあるボリュームだった。この続編は1885冊。塙保己一の生きている間には版木が出来上がらず、明治35(1902)年からやっと出版され、完結したのは昭和47(1972)年。wikiの記述だと、色々あって大変だったらしいよ! シリーズの続きとして「続々群書類従(1969~1978)」「群書解題(1960~1988)」がある。
国立国会図書館のデータベースに続群書類従の写本が公開されていた(しかし該当の記事が載っている巻は収蔵されていないようだ)。塙保己一は和学講談所という学問所を設立しており、彼の死後も学問所は存続、明治元(1868)年まで75年間続いたというので、その学問所で学んだ人達が写本を作り、事業を受け継いでいったんだろうなー。合計で何冊あるのか知らんが、手書きで全部写すとか…うわああああああってなりそう。
続群書類従自体がマニアックなので大きめの図書館にしかなさそう。だがラッキーなことに、出先の近くの図書館に収蔵されているのを発見し、コピってきたよ。平日昼間の図書館はお爺さんばかりだった。
家に帰って内容を読んだよ。ちょっとした伝奇物語だった。
- 信濃国川中島海津の南、中條宮弁財天女の勧請由来を申し上げる。
- 寛正(1461~1466)文明(1469~1486)の頃より、信濃国は押領使(治安維持のお仕事)のお役目だった大豪族から小豪族まで、それぞれ好き勝手やっており国中が乱れていた。
- そんな中、千曲川の東にある寺尾郷の領主「寺尾前豊後守業升」は神仏を敬い善政を施し立派に領土を守っていた。彼は智力と武勇に優れた人格者であった。その家来に坂井、田中、富岡という武芸に優れた者達がおり、寺尾氏に忠義を尽くしていた。領内は豊かで人々の暮らしぶりも良かったので、遠国から商人などが多く訪れた。近隣の領主達とも親しく交流し、争い事はなかった。
- しかし、鞍骨山の城主「清野氏」とは以前から諍いがあり、ちょっとしたことでも戦いに発展した。寺尾氏の家来達はこれを嫌がった。特に富岡は神仏を敬い民を大事にする者だったので、清野氏との諍いを深く嘆いていた。寺尾郷の産土神である諏訪大明神に参拝し、清野氏との抗争が終わり平和になるよう祈願していた。
- ある夜、富岡はお告げの夢を見た。白髪の老人が「あなたもあなたの主も、至誠心(神を信じる真心)があり、領地の治め方も民への接し方にも真心があることは神様もご存じである」「これより南に行くと、2つの川がある。西の方は小鮒沢、東の方は鰐沢という名前で、その二つの川に挟まれた中條という場所がある。ここに茅屋(あばら家)があり、1人の女性と大勢の童子が居る。彼女に戦の吉凶を問うてみなさい、勝利をたちどころに得よう」と言う
- 主君の寺尾氏と同輩の坂井・田中両名と相談し、お告げの通り中條に行ってみた。7~8町(約764m~約873m)の距離をうろついてみたが、肝心の茅屋が見つからない。とりわけ大きな木があったのでよく見れば、藤や葛の陰に神殿の柱のようなものが見えた。梁などが朽ちかけ、薄や萩が屋根代わりに上に載っていた。これこそお告げの夢に出てきた茅屋だろうと思い、一心に祈った。
- 城主の武威が更に増しますように、領地内がますます繁栄しますように、敵が退散しますように、この願いが叶いますように、とにかく祈る。
- そして赤塚山(寺尾城山)に戻り、数百の兵を出し清野氏を攻めた。清野氏も、笠井、近藤、倉島といった老練の兵から若い勇士を集めて防戦をした。
- 数日後、敵味方の境にあった多田山の嶺に1人の女性が現れた。女性は空の彼方からたくさんの童子と共にやってきて、清野軍と対峙した。そして、清野軍に対し雨のように石つぶてを降らせた。この石の雨により清野軍は総崩れとなり、詰めの城に立て籠もってしまった。
- 女神と童子達は中條の森に降り立ち、「宗像宮弁財天女と15の童子を祀り、城主の寺尾氏を始め、富岡、田中、坂井その他の兵士に至るまで我々を深く信奉しろ。神は人の信心が深ければ霊威を増し、人は神の加護により輝き運命を好転させるのだ」と告げた。
- 後に清野氏と和睦し、人質を取り交わし昔の確執を忘れて今の平和を誓い、親しく付き合うことになった。
- 富岡は老齢に達し、家督を子供に譲った。思うところがあって中條に社を建立し、諏訪大明神と田心比女を勧請した。修行し、この社で神に仕えることにした。田心比女は天孫降臨の太古より地上にいた33の神様の1柱で水の神様でもある。
- とにかく信奉すべきは慈悲深い弁財天女だ。この天宮を信仰することで「武運長久」「七福即生七難即滅(7つの幸福がやってきて7つの不幸が消えてなくなる)」といった神のご加護が得られる。
- 諏訪大明神は当国(信濃国)の一の宮であり、昔から寺尾郷の産土神でもあるため主祭神とした。弁天天女と諏訪大明神が不可思議な霊力で人々を守る。不思議で奇妙な由来でした。
- 慶長4年 辛丑 閏月 乙丑の日 中條宮 富岡駿河
神主の富岡さん、さりげなく自分の出自や神主になった経緯も書いていた。これが誰に当てた文書なのかまでは分からない。単に子孫に中條宮についての覚え書きを伝えたかったのかもしれない。
この物語で分かったことが、
ということ。
寺尾氏は諏訪氏の一族だそうで、最終的には上杉氏に帰属して慶長3(1598)年に信濃から会津に引っ越したようだ。清野氏(信濃源氏村上氏の支流)と争ったと語られていたが、当の清野氏と一緒に早い段階で武田氏に仕えたり、武田滅亡後は両家とも上杉氏に帰属して、仲良く会津に引っ越していった。
ちなみに清野氏の詰めの城である鞍骨城の築城年代は不明となっているが、この文書によれば1400年代後半には存在していたことになる。永正年間(1504~1521)に清野勝照が築城と書いてあるものもあったけど。もしかしたらそれより古いのかも?
あと、文書では弁財天女=田心比女(タキリビメ、宗像三女神の一柱)のようだが、本地垂迹ではイチキシマヒメ(宗像三女神の一柱)が弁財天になっている。これはちょっと間違えて勧請してしまった感があるわ。
その弁天社というのがこれ↑なのかしら?
末社らしいが、それっぽいのがコレのみなのよね。お社のお隣の石碑は道祖神。あの文書の霊験あらたかな神がこれとは…。
祠がやけに高い台座の上にあるのは、このすぐそばに川があるからだ。
この神社に限らず、松代町内にある祠の台座はヒステリックな感じを受けるほど高い。
寺尾氏が館を構える場所として、目の前は川・背後は山(詰めの城)という理想的な立地条件。安土桃山時代までここに屋敷があったはずなので、「中條埴志那神社」がここお移りとなったのは江戸時代に入ってからかなー?
文書では中條の地は7~8町ほどの藪だとあったが、現在でいうとどの辺りなんだろう? 中條のヒントとして「小鮒沢・鰐沢という二つの川に挟まれる」があったけど、この二つの川は松代町西条にあるようだ。
額の揮毫は真田家12代の真田幸治さん。重要な神社なのかもしれない。
寺尾城の周りには、他にも祠があった。なんの祠なのかは知らないよ。
↑グーグルマップに「供養塔」とあったので、探したらコレだった。
川中島合戦の戦死者を弔う供養塔らしい。しかそも、何故か道しるべでもある。
と書いてある。
川田駅道というのが、あの鳥打峠に向かう道だ。
先日鳥坂峠に行ったときの案内看板に「鳥は死者の魂を云々」と書いてあった。鳥=死者の魂を打つという不吉な名前。鳥打峠は慶長16(1611)年に海津城代の花井吉成という人が開いたと伝えられる。それ以前は可候峠という峠道を使っていたが、この峠は曲がりくねっている難所だったらしい。鳥打峠が出来たらこちらが主要道となってしまい、可候峠は廃道化。
鳥打峠の途中には慶長7(1602)年に600人を磔にしたという記録が残っている中世からの処刑場がある。その処刑場に関連して、鳥打峠なんて名前を付けたのだろうかね?
ついでだから鳥打峠辺りまで行ってみた。上の写真の雰囲気みたいな、陰鬱な峠道から急に砂利道だけど広い道路に変わる箇所がある。砂利道は途中で終わるし処刑場付近まで行けないよ、とグーグルマップは語ったが。航空写真にすると行き止まりはなく、どこまでも続いている様子。
これは行くしか無いか!? と砂利道を走らせようとしたところ。作業服姿のおじさんが駆る軽自動車がやってきて、不審そうにこちらをチラ見し、砂利道の奥へ消えていった。盆休みでも仕事してるのか…。奥は採石場があるらしい。怖い物見たさでいつか行ってみたいな処刑場。
★★★★☆
神社としては広い、由来記が面白くて満足した
<寺尾氏館>
築城年 不明
築城主 寺尾氏