先の台風では、まぁまぁ厄介な目に遭った。結果論でいえば、避難指示が出ようとも家にいるのが一番安全だった。が、将来同じ状況に遭ったとしても、家にいるという選択肢はないと思う…かといって、冷静に考えれば絶対確実な避難先なんてない。近くの避難所数カ所はどこか壊されたし、山のそばも川のそばも危険。だいたい自分の命だけ助かっても家も車もない状態になったら、生き続けないかも。なら、平時のうちに死んどいた方がいいのか、いっそ生まれてこない方が一番安全なのかもしれない、という気がする。とはいえ、あんなに間近でチヌーク飛んでいるの初めて見たから、やっぱりちょっと嬉しかった(第4通信大隊と書いたトラックも数台見かけた、遠い福岡から有り難いことだ)。
ちなみに決壊箇所はココで、リンク先の画像はもう…。お空きれい状態だよ。
中俣城に行ってみた。
ここは住宅地で、お城の雰囲気0だった。
名残として、看板があるだけ。その内容は
- 朝日将軍・木曽義仲(1154~1184)が生きた時代、築城されたと伝わる
- 応永31(1424)年に井上氏が築城した平城(天守閣や石垣はない)
- 砦として使われており、代々井上氏が住んでいた
- 現在、この場所には城山稲荷明神社が鎮座している
- ここは本丸の辰巳(南東)の位置にあたる
- 築城主の井上氏をはじめ、応永年間(1394~1428)の井上左馬之助光頼の舎弟・遠江守、弘治永禄年間(1555~1570)の武田氏家臣・保科氏、井上氏、栗田氏など、天正年間(1573~1592)の織田氏家臣・森長可の舎弟・森忠政、上杉氏家臣の本多安房守等が崇拝していた
- 上杉氏の会津移封に伴い、廃城
- しかし霊験あらたかだったため、お参りにくる者が絶えない
- 大正13(1924)年、社殿再建
- 昭和5(1930)年、社殿再々建
築城時期が
①木曽義仲が生きていた頃
②応永31年
の2つ書かれている。二つの時期は250年程の開きがある。城主だった井上氏は木曽義仲方として源平の合戦に参加しているので、①井上氏が木曽義仲と共に戦う為に簡単な砦を用意した→②大塔合戦後の混乱で砦を改めて整備した、というのもあるかもしれない。
資料によると、お城の規模と郭の位置関係は以下の通り。
主郭 東西32間ほど(約58m)、南北33間ほど(約60m)
二の郭 主郭の東
東西27間ほど(約50m)、南北55間ほど(約100m)
三の郭 北西
東西38間ほど(約70m)、南北33間ほど(約60m)
主郭の周りの堀は既に埋め立てられている。主郭は周囲より30センチほど高いままを維持しているので見つけやすいとのこと。
中俣氏という氏族も存在しており、この一族は応永7(1400)年の大塔合戦に井上光頼とその弟・遠江守(名前は伝わらない)に従い出陣しているとも言われている。
記述からすると城山稲荷明神はお城の守護神だったようだ。
本丸内なんだろうけど、目の前の道路と高さが変わらない。強いて言えば↓
稲荷社のお隣の家の方が、地面が高い?
歴代の城主もさりげなく書かれており、
井上氏
→武田氏統治時代は保科氏・井上氏・栗田氏
→織田氏統治時代は森長可の弟・忠政(後に松代藩主として戻ってくる)
→上杉氏統治時代は本多政重(この人は徳川家康の重臣の本多正信という人の息子さんで、直江兼続の養嗣子だったために上杉家の家臣と書かれているみたい)
→廃城(井上氏も会津へ)
という歴史を歩んでいるらしい。
★☆☆☆☆
何もないよー。
<中俣城>
築城年 応永31(1424)年?
築城主 井上氏